――ピンポーン。

 ここ数日で、三度目のお宅訪問。
 これだけ数をこなすと、いくら陰キャの僕でも少し慣れてくる。
 今回は、さほどの緊張感もなくインターホンを押すことができた。
 もっと、相手が上地美子という気やすい相手からかもしれないが。

 上地の家は、僕と陽菜と別の新興住宅地にあるのは知っていたが、訪れたのは初めて。
 僕たちの家と違うクッキーの型で造られた家だけど、橘の趣ある家より、よほど落ち着く。

 ドアがわずかに開き、上地本人が出てくる。
 先日会った時と同じ、真っ黒なパーカーにワイドパンツ。
 変わらないのはファッションセンスだけでなく、大きな眼鏡の奥の、すべてを見透かすような切れ長の目。

「……ナメ久慈。お前、私のストーカーにでもなったのか? 家まで押しかけてくるなんて、さすがにひくわ」

 開口一番、これだ。
 相変わらず、容赦ない。

「んなわけあるか。ちょっと、頼みたいことがあるんだ」
「はあ? 私は忙しいんだ。面倒くさい話は却下。さっさと帰れ」

 上地は蚊を追っ払うように手を振り、ドアを閉めようとする。
 僕は上地を引き留めるため、魔法の呪文――彼女の親友の名を出す。

「そ。あー残念。陽菜のためになることだったんだけどな」
「……そういうことは、最初に言え」

 上地はイラついたように眉をひそめながらも、ドアを大きく開いた。

「立ち話もなんだし、まあ、入れよ」
「え……いいのかよ? 家族だっているんじゃ……」

 陽菜以外の女子の家に入るなんて初めてのこと。
 僕がためらっているのを察したのか、上地は笑った。

「安心しろ。うちの両親は遅くまで仕事だから、家には私しかいねーよ。こんな魅力的な女子と二人きりだなんて、嬉しいだろ?」
「……その変な言い方、マジで止めてくれ」

 僕は軽口をたたきながら、内心ホッとしていた。
 上地の部屋の印象は、想像していた通りだった。

「本当、上地らしい部屋だな」
「久慈、それバカにしてんだろ?」
 
 壁という壁は、最新のアニメから懐かしのゲームまで、あらゆるポスターで埋め尽くされている。
 天井まであるスチール棚には、限定版のフィギュアや設定資料集が隙間なく並んでいた。
 パソコンデスクの上には、モニタが三枚も並び、青白く光っている。
 フィクションの世界に出てくるハッカーのようにも思えたが、モニタに映っているのはアニメやゲームの映像ばかりだった。
 何だか『オタクのユートピア』みたいな部屋。
 けど、不思議とゴチャゴチャした感じはない。
 彼女なりのルールで完璧に整理されているように思えた。
 無秩序に段ボールを積み上げた、今の僕の部屋とは大違いだ。

 僕は床に直接あぐらをかくと、上地はゲーミングチェアに腰掛けた。
 くるりとこちらを向いた彼女は、ふんぞり返っている。
 なんだか、取り調べを受けている気分だ。

「で? 陽菜のためになる頼みごとって、何なんだよ」
「えっとだな……」

 僕は少し言い淀みながら、話を切り出す。
 陽菜と仲直りできたこと。
 その時、陽菜から橘に恋をしていると打ち明けられたこと。
 そして、僕が陽菜の恋を全力でサポートすると決めたこと。
 そのために計画したのが、僕たち四人のダブルデート。
 名目は、あくまで『高校最後の思い出作り』だ。

 僕の話を聞き終えると、上地はふーんと鼻を鳴らした。
 感情の読めない、いつものポーカーフェイス。
 けど、眼鏡の奥の瞳が、何かを探るように僕の心をスキャンしている気がした。

「あと、僕が上地に陽菜の気持ちを話したことは、絶対に――」
「分かってるって。秘密にしておく。陽菜はそういうの、周りに知られたくないタイプだからな」

 親友の性格は、百も承知ということか。
 上地は、ゲーミングチェアの背もたれを思い切り倒した。

「にしても、ダブルデートねえ。よくそんな話に、橘が乗って来たな。お前ら、何の接点もねえじゃん。なんか弱みでも握ってんのか?」
「人聞きの悪いこというな。ダメ元で話してみたら、なんかえらく乗り気でさ」

 さすが上地。
 僕と橘という違和感のある組み合わせに、何かを察しているようだ。

「……もしかすると、橘も陽菜のこと、好きなのかもしれない」
「へえ。まあ……なくはないか。あいつら、結構距離近かったし」

 上地はクラスの人間関係に興味がなさそうな顔をしているくせに、妙に鋭い。

「久慈はそれでいいのか?」
「いいって何が……」
「とぼけんな。お前、陽菜のこと、好きなんだろ」

 心臓が、一瞬止まったかと思った。
 なんで、こいつはこうも簡単に……。
 すぐ様反論しなければならないのに、僕の脳内回路はショートし、言葉が出てこない。

「図星か。ほんっと、分かりやすいヤツだな、お前って」

 上地は意地悪そうな笑みを浮かべた。
 その笑顔には、可愛いさなんてものはまったくなく、悪魔的だった。

「な、なんで……分かるんだよ……」
「は? バレてないと思ってる方がヤバいだろ。見てりゃ分かる。まあ、陽菜本人は気づいてねえだろう。アイツ、恋愛の偏差値はゼロだからな」

 あっさりと、僕が一番隠しておきたかった事実を言い当てられた。
 上地には、心を読めるスキルが覚醒しているとしか思えない。

「大喧嘩して仲直り。特殊イベント連発で、少しは関係が進展したと思ったら、まさかライバルの応援に奔走しているとはねえ。いい人を通り越して、ただのバカだろ?」
「うるさい」

 言葉のナイフが、的確に僕の心に刺さっていく。
 僕は声を荒げることでしか反撃できなかった。
 
「僕だって分かってる。けど……陽菜がいつも笑ってくれるなら……それでいいんだ」

 僕は声を震わせながら、何とか言葉を絞り出した。
 それはあまりに綺麗な言葉すぎて、現実のものとは思えなかった。

「へえ。それ、本音か?」
「もちろん、百パーセント」

 僕は心の中でも『もちろん』と何度も言い聞かせた。
 上地の、心の奥底をえぐるような視線が痛い。
 僕はその視線をまっすぐ受け止めている。
 数秒にらみ合った後、上地がふっと目をそらした。
  
「ふーん。まあ、お前がそれでいいなら、私は何も言わねえけど」

 上地の追及が止まった。
 けど、彼女の言葉は、僕の心にチクリと刺さったままだった。
 先ほどの言葉は、本当に僕の本音だったのだろうか。
 自信が持てず、僕は目を伏せる。

 重くなった空気を変えるように、上地はパソコンのモニタに目を向けた。
 一つのモニタに、彼女が神と崇める、二次元イケメンアイドルの配信動画が流れていた。
 仮想空間上の煌びやかなステージで、アイドルが舞い、歌っている。

「ちっ、たまにラグるんだよな。運営の野郎、もっとバンバン衛星を打ち上げ、帯域を増やせってんだ。せっかく私がスポンサーになってやってんのによ」

 上地は、動画の微妙な遅延にイラ立っていた。
 彼女はリアルだろうがネットだろうが、自分の感情を隠さない。
 裏垢でしか本音を言えなかった僕とは、根本的に違う。

 ――私だったら陽菜の正論を、鼻で笑って終わりだな。

 この前、上地はそう言った。
 そんな彼女に、ふと疑問が沸いた。
 
「上地はさ、ネットとリアルの違いって何だと思う?」
「何だよ急に。哲学的な話か?」
「いや、なんか、分かんなくなってさ」

 僕は自分の考えを整理するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「僕にとってさ、ネットは心のモヤモヤを吐き出せる現実逃避の場所だったんだよ。言うなれば、異世界みたいなもんかな。だから、裏垢で好き勝手つぶやいてたんだけど……」

 僕が言い淀むと、上地はモニタから目を離し、再び僕に向き直った。

「私にとっては、ネットとリアルに違いなんてねえよ。リア友との交流も、SNS上でしか知らないヤツとの交流も、全部、私にとっては現実だ。だって、その先にいるのは同じ血の通った人間なんだぜ? お前みたいに、分けて考える方が不思議だ」
「そう……かもしれない」
「お前が裏垢で何をつぶやいていたのかしんねえけど、きっとロクでもない内容なんだろうよ。匿名だから、顔が見えないからって、何をやっても良いわけじゃない。お前のポストを見て、『これってもしかして自分のこと?』って傷ついたヤツがいたかもしんねえ。そういう想像力が足りないヤツは、ネットで何かを発言する資格はねえよ」

 上地の言葉が、僕の胸に深く突き刺さる。
 ネットもリアル。
 そのシンプルな言葉が、僕の中で曖昧だった価値観の輪郭を、はっきりとさせていくような気がした。
 顔が見えなくても、声が聞こえなくても、そこにいるのは感情を持った人間。
 そして、それは僕も同じだ。

「そっか……。裏垢の僕も、僕の一部なんだよな」

 アカウントを表から裏に切り替えたとしても、別の人間になれるわけじゃない。
 教室の隅っこで、息を殺して過ごしていた僕も。
 ネットの片隅で、心ない言葉を垂れ流していた僕も。
 全部、紛れもない『久慈翔太』なんだ。

「ようやく分かったか。久慈、翔太」
「ああ。ネットが復活したらさ、きっと僕はもう少し、うまくネットに向き合えると思う」

 上地がゲーミングチェアを僕の正面に向け、まっすぐに向き合った。
 その瞳には、いつもの冷たさとは違う、真剣な色が宿っていた。

「じゃあ、自分の汚い部分も受け入れた『新・久慈翔太』に問う。お前は、どうしたいんだ?」
「そんなの決まってる」

 僕はオーケストラの指揮者のように、両手を大きく広げた。

「橘と陽菜をくっつけてたまるものか。橘のヤツの悪評を、流しまくってやる。陽菜がドン引きするレベルのヤツをな」
「おお、言うねえ」

 上地は口の片方だけを吊り上げる、不思議な笑みを浮かべる。
 
「けどさ。困ったことに、そんなダサいことをするヤツ、陽菜は大嫌いだろうよ。たとえ陽菜が僕に振り向くことはなかったとしても、ただの幼馴染と思われたとしても……陽菜にとって、僕はずっと『イイヤツ』でいたいんだよ」
「うん。それで?」

 上地は僕の背中をそっと押すような、優しい声で言った。
 僕は上地に向かって手を差し出した。
 手の平を上に向けて。

「だから、上地も力を貸してくれないか? 陽菜がいつも笑っていられる未来のために」

 僕の決意表明。
 すると上地はニッと笑い、僕の手の平を思い切り叩く。

「――任せろ」

 パチンと乾いた音が、部屋の中に響いた。

 もうこれ以上話すことはない。
 そう言わんばかりに、上地は僕に背を向け、大きなヘッドホンを装着した。
 彼女が自分の世界に入り込むと、僕は背景の一部となった。

 その瞬間、僕の瞳から涙がとめどなく溢れ出してきた。
 止めようと思っても、止められない。
 情けない嗚咽が、のどから漏れ出してくる。
 かっこ悪い……本当、ダサすぎる。
 上地は僕を慰める言葉なんて、一つもかけてくれなかった。
 けど、一度も僕を振り返ることはなかった。

 やっぱり上地は、優しいヤツだ。