陽菜に謝るという、僕にとっては難関大学合格より困難なクエストをクリアし、僕はエネルギー切れを起こしかけていた。
 仲直り直後の、何とも言えない気恥ずかしさも、僕の体力をじわじわと奪っていく。
 とはいえ、せっかく準備してくれた紅茶とクッキーが残っているのに、そそくさと退散するわけにもいかない。
 何か、話題を探さなくては。
 けど、一体何を?
 部屋を見渡していると、ふと棚の下段に並ぶ、懐かしい背表紙が目に入った。

「うわ、懐かしい。『マギア・ファタンジア』、まだ持ってたんだ」

 思わず声が弾む。
 小学生の頃、陽菜から借りて夢中で読んだ、異世界の冒険ファンタジー小説だ。

「うん、たまに読み返したくなるから。翔太、最終巻でボロ泣きしてたよね」
「うっ……それ言うなよ。けど、あれは泣くだろ普通。闇堕ちした主人公が、ヒロインや仲間たちに支えられて、自分の本当の心を取り戻す……あのシーンは神」

 僕が熱っぽく語り始めると、さっきまでの気まずい空気が嘘のように霧散していく。
 陽菜も目をキラキラさせながら、身振り手振りを交えて話す。
 好きなキャラの推しポイントを熱弁する姿は、子供の頃と全然変わっていなかった。

「陽菜って、今でもこういう話でテンション上がるんだな。てっきり、服とか恋バナばかりしてると思ったよ」

 教室で陽菜のグループが普段話している内容は、僕には縁遠い話題ばかり。
 それは、異世界の物語のようだった。
 
「あー、また勝手に決めつけてる!」
「わ、悪い……」
「なーんてね。あながち間違いじゃないかな。美子と話す時は、こっち系が多いけど」
「……合ってんじゃねーか」

 僕が大げさにため息をつくと、陽菜は口に手を当てて笑った。
 その笑顔は太陽みたいで、部屋の空気が明るくなる。
 けど――。

「私も……正直、みんなの話についていけない時あるけどね」

 陽菜がふと寂しそうな目をし、窓の外に視線を向ける。
 ほんの少しだが、陽菜の曇った心が表に顔を出した。
 僕は努めて明るい声を出す。

「元気だせって。陽菜の服のセンスは、そこまで絶望的じゃない」
「おい。そっちの話じゃないって」

『あの子、実は隣のクラスに好きな人がいるんだって』
『聞いた? 学祭で仲良くなったあの二人、ようやく付き合い始めたらしいよ』

 クラスの中心のグループ内で飛び交う恋の噂。
 そういえば、陽菜がそういう話を積極的にしていた記憶はない。

 陽菜の視線が、部屋の中を行ったり来たりする。
 ブランコに乗り、飛び降りるタイミングを計っているみたいに。
 僕は急かさず、黙って彼女の言葉を待った。
 沈黙が少しずつ重さを増し、部屋の中に積み重なっていく。

「……中学の時ね。私、初めてちゃんと人を好きになったんだ」

 陽菜の声が、いつもの明るいソプラノから、少し低いアルトに変わる。
 僕は息をのんで、彼女の言葉の続きを待った。
 初めて聞く、彼女の恋の話。

「ほら、サッカー部のエースだった先輩、覚えてる?」
「ああ……女子たちはよく練習見に行ってたよな。キラキラネームのイケメン」
「そうそう。運動も勉強もできて、誰にでも優しくて、みんながの憧れの王子様。そんな人が、たまたま廊下で私の落とし物を拾ってくれてさ。たったそれだけなのに、気づいたら眼で追うようになっちゃった」

 陽菜は目を少し細め、天井を見上げた。
 その横顔は甘酸っぱいような、でも少しだけ苦いような、複雑な色が浮かんでいる。

「毎日目で追っちゃうし、話しかけられただけで心臓が止まりそうになったなあ。友達に協力してもらって、なんとか連絡先交換して……バレンタインには震えながら手作りチョコを渡したんだよ」

 王道の少女漫画みたいな展開だ。
 けど、きっと結末は――。
 僕はわざと軽い口調で尋ねる。

「で、結果は?」
「……まあ、想像つくでしょ? あっさり、玉砕」

 陽菜は、自嘲するように小さく笑った。
 まるで、自分で自分に言い聞かせるみたいに。

「『ごめん、他に好きな子がいるんだ』って。しかもね。その相手は、私が先輩と仲良くなるように手伝ってくれた友達でさ。あれは……うん、結構、心にきたなあ」
「……そっか」

 ――分かるよ。

 僕は心の中で静かに同意した。
 好きな人が自分以外の誰かを選んでしまう、現実の残酷さ。

「でもね。本当にキツかったのは、そのあと」

 陽菜の声が、さらに一段、沈んだ。

「フラれた後も、バカみたいに目で追っちゃってたんだよね。そしたら……見ちゃったんだ。偶然」

 糸のような細く震えた声。

「彼が、他の子たちの前で、私があげたチョコのこと、笑いながら話してるのを。『あいつ、ちょっと優しくしただけで本気にしてやんの。マジウケる』って」

 僕は言葉を失った。
 喉の奥が詰まり、急に息ができなくなる。
 僕がショックを受けたのを察してか、陽菜は無理に笑顔を作って話を続ける。

「その瞬間、頭の中でプツンって音がしたんだ。好きだった気持ちも、一気に冷めちゃった。それからかな……誰かを本気で好きになるのが、ちょっと怖くなったっていうか。表ではどんなに優しそうでも、裏では違う顔をもっているかもしれないって」

 表情は笑っている。
 けど、陽菜は膝の上で手をぎゅっと握りしめていた。
 昔から、悲しい時や苦しい時に見せる彼女の癖だ。
 彼女が普段見せない、月の裏側のような暗い部分があらわになる。
 明るい笑顔の裏に隠された、傷ついた心。

 僕は何て声をかければいいのか、分からなかった。
 安っぽい慰めの言葉はいくらでも思いつく。
 けど、陽菜はそんなモノを求めてはいないだろう。
 ただ、彼女の痛みにそっと寄り添うことができたら――そう思った。

「……頑張ったな、陽菜」

 僕はぽつりとつぶやいた。
 陽菜は一瞬きょとんとした後、肩の力が抜けたように、くすりと笑った。
 
「何で、翔太がそんなに上から目線なの」

 無理に明るく振る舞おうとする陽菜。
 僕は気づいた。
 どうして、僕にこんな話を打ち明けたのかを。
 言いたいけど言えない、そのギリギリのラインで陽菜の心は揺れていた。
 僕は言葉を使い、陽菜の背中をそっと押してみる。

「……それで? ようやく、また好きだと思える人ができたってわけか」

 陽菜が息をのむ音が聞こえた。
 しばらくの沈黙の後、陽菜は絞り出すような声で答える。
 
「どうして、分かるの……?」
「ここ最近、僕のコミュ力がミジンコレベルから、少し進化したからな。そもそも、どれだけ長い間、一緒に過ごしてきたと思ってたんだ」

 陽菜は小さく息を吐き、また天井を見上げた。
 あきらめたような、少しだけホッとしたような、複雑な表情。
 
「あーあ、さっきから翔太に、心の中を見透かされてばかりだ」
「……で、相手は僕も知ってるヤツ?」
「えっと、よく知ってる……かも」

 陽菜が顔を苺のように赤らめながら、大きな瞳で僕をまっすぐに見つめた。

「え」

 その瞬間、世界から音が消えた。
 陽菜の潤んだ瞳は、どこか熱を帯びているように見えた。
 もしかして。
 万が一、億が一。
 あまりにも都合のいい期待が、僕の頭の中を駆け巡る。
 いや、ありえなくはない。
 僕がよく知ってる男子なんて、指で数えられるほどしかいない。
 ガチャでレアキャラを引くより、何倍も可能性がある。

「実は……私……」

 頭が沸騰しそうだ。
 僕の顔は、前髪では隠しきれないほど赤くなっているだろう。
 期待と緊張が入り交じり、呼吸が浅くなる。
 陽菜の次の言葉を、息を止めて待った。

「……タチバナくんのことが、好きなんだ」

 タチバナ?
 その言葉が、何を意味するか分からなかった。
 僕は落ち着いて、何度も繰り返してみる。
 タチバナ……橘……橘悠斗。
 ああ、そういうことか。
 全身の力が、すとんと抜けていくような感覚。
 陽菜が好きなのは――僕じゃなかった。

「橘くんって、ほら、カッコいいし、頭もいいし、スポーツもできるし……なんか、完璧じゃん? 同じクラスになってから、ずっと、すごいなーって思ってたんだ」

 陽菜は少し照れたように、はにかんだ。
 そんな表情もできるのか。
 橘を語る言葉の一つ一つが、冷たい氷のトゲとなり、僕に突き刺さっていく。
 じわじわと胸に広がる、鈍い痛み。

「橘くんって、意外と優しいところもあるんだよ。今年の体育祭、私が実行委員をやったでしょ? 生徒会に提出する大切な資料をうっかり失くしちゃったことがあって……パニックになってたら、一生懸命探してくれたんだ。それから目で追ってるとさ、誰かが困ってると、さりげなくフォローしてくれるんだよね。そういう姿を見ていると……なんか、キュンとしちゃって」

 少し前の僕なら、こう言っただろう。

 陽菜、君の男子を見る目はまったくもって節穴だ。
 あいつの本性を知らないのか?
 僕に『ナメ久慈』なんてあだ名をつけ、あざ笑うようないけ好かない男だぞ。

 けど、昨日、僕は知ってしまった。
 彼が、そんなに悪くないヤツだって。
 陽菜の好きになったのは、きっと完璧を演じようと苦しんでいた橘。
 それは本当の彼じゃない。
 けど、その仮面の下にある、不器用で後悔を知っている彼が、陽菜を傷つけるとは思えなかった。

 そもそも、僕が陽菜の恋路にとやかく言う資格なんてない。
 家が目と鼻の先で。
 小中高と同じ学校で。
 親同士の仲が良くて。
 僕と陽菜の関係なんて、ただそれだけのことなんだから。

「……そっか、橘か。あいつ、いいヤツだよな」
「本当? 翔太もそう思う?」
「もちろん。実は最近、僕もアイツに助けてもらったことが――」

 彼女の瞳が、キラキラと木漏れ日のように光っている。
 なあ、僕は自然に笑えてるかな?
 声、震えてないか?
 いや、そんな心配は必要ないか。
 陽菜の目は僕に向けられているけど、そこに映っているのは橘なんだから。
 
「――で? 告白はしないのか?」

 僕は、平静を装って聞いた。
 自分の心臓の音が、やけに大きく耳障りだった。

「ええっ!?  無理無理無理、絶対無理だって!  私なんかが告白したって、フラれるに決まってる!」

 陽菜は、顔をトマトみたいに真っ赤にして、両手を大げさに横に振った。
 その慌てっぷりが、なんだか可愛らしくて、でもどうしようもなく切なくて、胸のトゲがさらに深く食い込んでくる。

「そんなの、やってみなきゃ分かんないだろ?」
「で、でも……」
「仕方ないな。僕が、手伝ってやるよ」
「……え?」

 陽菜が、満月みたいに目を丸くして僕を見た。
 僕も自分が口にした言葉に、少しだけ驚いていた。

「だから、陽菜の告白を僕が全力でサポートするって言ってんの」

 僕はできる限り明るい声を装った。
 胸の奥でうずく痛みに、気づかないフリをして。

「……本当にいいの? 翔太」
「おう。任せとけって。なんたって、僕たちは……」

 僕は、一瞬言葉に詰まった。

「……幼馴染、なんだから」

 そう言って精一杯の笑顔を作ると、陽菜は一瞬、きょとんとした顔をした。
 そして次の瞬間、満開の桜のように、ぱあっと顔を輝かせた。

「……うん。ありがとう、翔太!」

 その太陽みたいな笑顔は、僕がずっと守りたいと思っていたものだ。
 たとえ、この胸の痛みが、卒業し大人になり、ずっと消えなかったとしても。
 僕は、陽菜の恋を応援する。
 それが、僕が見つけ出した、精一杯の『本音』だった。