彼はなんだか浮かない顔つきでぼんやりと教室の隅を見つめている。彼が何を考えているのか全くわからない。
「あのもしかて……気分を害してしまいましたか?」
私が体を傾け、顔を覗き込むとさっきの表情とは打って変わってやわらかい笑顔を浮かべている彼。なんだか気を使わせてしまい、私の中で罪悪感が募っていく。
「違うよ、大丈夫だから」
私の頭に乗せられたその手のぬくもりから、体全体に熱が廻っていく感覚におぼれていく。
「あ、ごめんっ……そんなに嫌だったか?」
頬に流れた涙を手で拭う。ああ、今度は誤解させてしまった。
「安心してしまっただけなので、すみません誤解させてしまって。授業始めてください」
まだどこか気にしているのか、ちらちら私のことを見てやっと教卓に歩き始めた。その間に私は手の甲を軽く目元に添えた。
「じゃあ気を取り直して、今から二限目を始めます。今日話し合う悩みは……どうしようもなく彼に会いたくなる、か」
プリントを見つめたまま沈黙が流れる。それを真っ先に破ったのは彼だった。
「新しい恋を始める、それがいいんじゃないか」
「あんな恋をしてしまったら、もう無理ですよ。もしできたとしても彼と比べちゃうだろうし」
アドバイスに対する否定を最後に、また沈黙に包まれた。今度はバトンを受け継いだように私がその沈黙を破る。
「それに最初で最初の恋は、彼がいいんです。彼じゃなきゃダメなんですよ」
この誰にも言えなかった思いを、こうして誰かに言うことができた。だけどわがままを言ってしまえばこの言葉は、本人に伝えたかった。でもこのことは誰に言うかは関係なしに、胸を張って声を上げることができるの。
「そうか、困るくらいに愛しているんだな」
「そういうことになりますね」
少し場の空気が和んで、彼の顔にも自然な笑みが広がっている。そんな事実に私は安堵のため息をこぼす。
「会えないことの方が多いんだ、だからこれに関しては少しでも忘れることだと俺は思う。忘れるって言っても存在とか記憶が消えるわけじゃない。ただ少しでも感傷的になってしまう時間を減らすため、これはきっと自分のためでもあるし相手のためでもあるんじゃないか?」
私の質問に同情も、否定も肯定もせず真剣に向き合ってくれるおかげで私が思い込んでいたマイナスな結び目が解けてゆく。
「そうわかっているんだけど……どうしても、会いたくなるのよ」
「まあそうだな。気持ちの切り替えはそんなに簡単じゃないから」
少し意外だ。私の日ごろから思っている感情をあっという間に彼は口にしている。
彼もきっと、心に傷がつくような痛みを経験してるのかもしれない。
「だったら忘れないでやって欲しい。もしかしたら……そっちに振り切った方がいいのかもしれないので」
私からは出てこないような言葉が会話の中で飛び交う。この夢も私にとっての大きな経験になるかもしれない、そんな希望を抱くことができた。
「なんだか、篠木さんの眼差しが優しくなりましたね。やっぱりそっちの方があなたには似合ってます」
褒められ慣れていないせいか、体温が一気に上昇して爆発してしまいそうだ。恥ずかしいってきっとこうゆうことをいうのね。
「会話をすることがこんなに楽しいだなんて。凄くいい気分だ」
一瞬、私の心を読み上げられたように勘違いしてしまった。その事実に、嬉しさとさっきと同様恥ずかしさを感じて頬が熱を持つ。
ああ、もういっそのことこの夢に閉じこもってしまいたい。
「この夢は、三限で終わってしまうんですか?」
少しの間を保った後彼は優しく微笑んでくれたから、それに私はまた希望を抱いてしまう。
「そうゆう決まりになんです。だからこればっかりは変更できない」
そうよね、わかってた。
夢の中の決まり事など、破ってしまえばいい。そう思ったけれどなんだか駄目だと忠告されている気がした。だから私はその言葉を必死に飲み込んで腹の底に沈める。
「それにしても、人生なかなか思うようにいきませんよね……まあだからこそ無理だけはしないでください。自分のことは、自分が一番守れるんだから。しっかり守ってやらなきゃ」
どこか虚ろなその目。
少しの唇の隙間から強く歯を食いしばっている様子が見える。
この人も、やっぱり人の痛みを知っている。そうでなきゃこんな顔、できないもの。
二限目終了のチャイムが鳴ると、彼は気持ちを切り替えきれていない表情で号令をかける。
「それでは、これで二限目の授業を終了します。次が最後の授業なので、なるべく早めに来てくれると助かります」
「はい、ありがとうございました」
時計を確認すると、やっぱり一限目より終了が早まっていた。
——目を開けてカーテンに手を伸ばす。
今日はあまり目覚めがいいとは言えない朝を迎える。
「今夜が最後……」
まだ少しの時間は残っているはずなのに、どこか物寂しさを覚えた。
あの夢の中で彼ともっと話したい、そんな気持ちが私の心を少しずつ支配して、侵してゆく。
「早く夜にならないかな」
そんなことを考えながら今日も私は、彼の仏壇の前に今日も正座をする。
「こんばんは。思っていたよりも早く来てくれて嬉しいよ]
いつも通りの笑顔で出迎えてくれた彼の声が、なぜか少し震えていた。今更緊張する必要もないのに、なんて私が言えたものじゃないけれど。
「早速で悪いんだが……座ってくれないか」
いつもと違う、そう察して緊張を高めながら指示に従う。私が席に着くや否、彼は一枚の紙を破り捨てて私に一歩、また一歩と近づいてきた。
「……俺にも大切な人がいた」
急な語りに困惑していると、私の気を引くために大きく息をする彼。私はその語り出しと呼吸音にまんまと気を引かれた。
「その人はとてもやさしくて、自分に厳しくて。誰とも関わろうとしなかった俺に仲良くなろうって伝えてくれたんだ。俺も返事をしたかったけどできなくて……それでも彼女は待ち続けてくれた」
言葉に詰まりながらも、しっかり伝える。震えた声が彼の感情を露わにしていた。
「俺は、彼女と出会う前から喋れなかった」
「——え?」
聞かなきゃいけない。そんな感情が先走る。
「人見知りだったから、喋れなかったんですか」
様子を伺うと、彼はゆっくり首を横に振った。
私の心がざわめき始める。
「俺は心因性失声症だったから」
失声症、その聞きなれたワードに私は何も言うことができなかった。
「……声が出なかったってことですか?」
なんの動作もしようとしない彼を見れば、答えははっきりとわかる。
「奇遇ですね。私の彼もそう、だったんです」
だって彼も心因性失声症だった。
でもそんなわけない。これは夢の中で、本当に彼だとしても容姿も声違うのに。なのに。
私は覚悟を決めて、口を開く。
「瞬」
あの心地よさも、なぜか感じる懐かしさも私にくれたあの言葉も。あの時感じた違和感も、もしそうならすべて辻褄が合ってしまう。その瞬間から私が吐き出すことのできなかった思いがだんだんと湧き上がってきて溢れだしてきた。
「陽菜、ほんとにごめん」
それが何に対してなのか、私には痛いほどわかった。でも今その言葉は絶対に違う。
「私はそんな言葉なんて欲しくない」
「じゃあなんていえば」
「なんでわからないの。私はただ…ただ会いに来たよって、元気にしてた?って。俺以外のやつと浮気してないよなって。そんな今まで通りの会話がしたかったの」
「謝罪なんかほしくなかった。そっちは何にも悪くないのに……ほんとなんでこんなに気が利かないのよ、ばか!」
言葉にすればするほど、呼吸を忘れてしまうくらいに剝きだしてしまう感情。こんな私の言葉、きっと彼だって欲しくない。
深呼吸をして跳ねる心臓をなだめた。こんなんじゃだめだ、もう私も切り替えなければいけない。
「瞬、久しぶり!あなたが私のことを見てないうちに私はたくさん成長したの。自慢してやろう、って思ってたけど……あなたも立派に成長してたわね」
少し自暴自棄に声のトーンのギアを上げて、彼の澄んだ瞳を見つめた。
ああ、瞬はこんな声をしてたんだ。
大人になったらこんなに身長の差ができちゃうんだ。
瞬ってこんなにスーツが似合うんだ、驚いちゃった。
やっぱり、あきれるほどやさしい所は変わってないのね。
もし生きていたら、きっと。
「なんで先にいっちゃったのよ……」
立派な教師になっていたんだろうな。
「ごめんな、陽菜。でもさ、俺のことなんて忘れてくれてよかったんだぞ」
止まることを知らない涙が、私の頭を真っ白にしてしまう。今はただ歪んだ床を見つめることしかできなかった。
「忘れるなんてできない……私は、あなたのことを追いかけたいくらい愛してるの。だから無理なの…」
あなたの温かい手が背中に触れると、私の今までの嫌な記憶が消え去ってしまう気がする。まるで何か特別な魔法みたいに、蟠りが解けてゆく。
「私はずっと瞬のこと愛してるから」
私の体が、大きな腕に包み込まれる。ああ、こうやって触れてもらったのはいつぶりだろう。
「俺も、愛してる。伝えきれないくらい好きだ、ほんとに大好きなんだ……」
体温を共有しながら、思いを伝え合う。彼が生きているときは当たり前だと思っていたけど本当は脆くて、いつか壊れてしまうことが当たり前なんだと知った。
私はそれに気づくのが遅かったな。
「ごめんね、瞬が生きてるときに私は何もしてあげられなくて」
今の自分の声はか細くて、凄く情けない。でも彼は、私のそんな声もしっかりと聞き取ってくれた。
「俺は十分貰ってた。それはもう抱えきれないくらいだったよ。ありのままの俺を見つけてくれて、ともに時間を過ごしてくれて。もうそれだけで軽く千パーセントくらい超えてるかもしれないぞ」
「……千は少ないかも」
「そうだなー、確かに少ないな。俺はもっともらってるよ」
やっと顔を見れたと思ったら、今度はあなたが泣いていた。今まで見てきた泣き方とは違ってただ静かに、でもどこか開放されたような。
「今までずっと、謝りたかったの?」
「ああ、凄く」
私の片手が自然と彼に伸びて頬に触れ、涙を拭った。私の手が触れたとき、彼は私の手に寄りかかるように体重をかける。
その姿を見てすごく愛おしくなった。
それと同時に、彼が幸せならいいなと強く思った。
「ねえ、そっちでは幸せ?」
「まあ普通だ。でもこうやって一度でも教師になれたし、お前に会えたし幸せだよ。それに……こうやって声で気持ちを伝えられるからな」
喉ぼとけを優しくなでて、チラッと八重歯が見えた。
ずっとこの笑顔を見守り続けたい。そんな叶わない願望で胸が張り裂けそうなくらい苦しい。
「そろそろ離れなきゃ、俺も戻りたくなくなっちゃうな」
その背中にまだ触れていたい。もし離れてしまったら、この時間は終わってしまう。
「絶対に幸せになること。それが全部終わったら、俺に報告しに来てくれ」
「……え」
「先生からの宿題。これは俺のためでもあるし、お前のためでもあるから」
差し伸べられたられた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。私が誘導された席に座ると、繋いだ手が離れた。
「じゃあ、これにて三限すべての授業を終了します」
「ありがとう陽菜、愛してるよ」
「わ、私も!瞬のこと……負けないくらいに愛してるから!ほんとに、」
ほんとにありがとう——
目を開けてみても、もう彼はいなかった。あるのはいつもと同じ、彼のいない日常。
私の頬を伝う一筋の涙。まだ残っている彼の声、温もり。
「神様からの贈り物……」
そんな言葉が、相応しかった。
体をひねってカーテンに手を伸ばす。
今日は、私には眩しすぎるくらいの快晴。
彼に伝えきれなかった感謝を伝えるために、仏壇に向かう
「え……」
私は子供のようにその場で泣きじゃくる。私が見たのは、置いていたメモに彼の字で書かれた“愛してる”という四文字だった。
「私も、愛してる」
あの夢はもう絶対に消えない。だってあなたの愛が声が全てが、私の心に鮮明に刻まれたから。
「瞬、私に会いに来てくれてほんとにありがとう」
私は瞬の写真の笑顔につられて、思わず微笑んだ。
fin.