スクールバスが、学校のロータリーに到着する直前。
 校門からの並木道が、今朝も大賑わいなのがわかった。

 あぁ、またあの通りを通過しないといけないのか……。そう思うと、正直気が向かない。
 僕は、ややうつむき加減にバスを降りる。
 ちょうどそのとき、よく響く明るい声が背後から聞こえて。それからやわらかい手が、皆が進むのとは逆の方向へと。迷うことなく、僕の腕を引っ張った。

海原(うなはら)(すばる)、確保!」
 聞き慣れてきた声に顔を上げると、都木(とき)美也(みや)が満面の笑みで僕を見ている。
「と、都木先輩……。お、おはようございます」
「おっ。ちゃんと名前を覚えてくれたんだね、ありがとう!」
 都木先輩は、そういうと。もう一度笑顔になる。
「昨日のきょうでしょ、だから裏道で玄関まで案内してあげるね!」

 ……どうして都木先輩は、僕に親切にしてくれるのだろう?
 あ、それよりも。
「き、昨日はおかげさまで。一年生の誤解はだいぶ解けた気がします」
 僕は、わざわざ教室まで『護衛』してくれた、長岡(ながおか)(じん)への感謝を伝えたつもりなのだけれど。
 しかし都木先輩はそのことに対して、特になんの反応も見せなかった。

「う〜ん。新入生は色々忙しいだろうけどねぇ……」
 少し、考えるそぶりを見せてから。
「ただ月子(つきこ)ちゃん、それに陽子(ようこ)も。二年生だけじゃなくて三年生にも人気あるからねー。年寄りたちはそう簡単には忘れられないもんだよー」
 ゲッ……。
 その明るい声からは、冗談とも本気ともつかないけれど。なんだか恐ろしそうな話だ……。

「でも、それなら都木先輩が一番人気なんじゃないですか?」
 あ……。つい口に出してしまった。
「それはない」
 失礼な僕の質問に対して、都木先輩はいきなり立ち止まると。真面目な顔で僕を見つめてきて。
「……わたしなんかより、あのふたりのほうが、もっと光を浴びるべきなの」
 そういって。
「これは大切なことだから。よく覚えておいてね」
 そう念押ししてくる。

 どうして都木先輩は、少し悲しげな表情であのふたりのことを話すのだろう? 昨日と同じこの感覚はいったい、どこからやってくるのだろう?
 都木先輩どうやら、僕の微妙な変化に気付いたらしく、今度は笑顔で僕を見ると。
「だからね、海原君には期待してるんだ!」
 そういって、再び歩き出した、


 ……裏道では、誰とも会うことはなく。結局玄関まで、互いに特に口を開かなかった。
 僕は、ここでいくつもの疑問符を繰り出すのは申し訳ないと思ったし。おそらく都木先輩も、これ以上自分の感情を表に出すのを望まなかった気がする。

「ほら、平和なままで玄関に到着できたでしょ?」
 透明な笑顔で、都木先輩がいう。
「確かに。平和な一日を始められそうです」
 僕が、そう答えると。
「なんで……」
 都木先輩は、少し声のトーンを下げて。
「なんで海原君なんだろうって思ったけど、ちょっとわたしもわかったかも……」
 そんなことを、口にした。

 対して、僕がどのような返事をすればよいのか、考えあぐねていると。
「あ、でも気にしないで! じゃ、わたしは勧誘の手伝いに戻るね!」
 いうが早いか、都木先輩は並木道へと駆け出してしまう。
 でも、僕のありがとうございました、の声だけは届いたようで。背中を向けたまま左手が大きく振られると、やがて人混みに紛れていって。
 ついに、見えなくなった……。



 ……学校に到着した、同じスクールバスの前のほうで。
「ありがとうございました」
 海原くんがそういって、律儀に運転手にあいさつをしながら降りているのが遠目に見えた。

 なんだか、少しうつむき加減だった気もするけれど。それを確認する前に、他の生徒の陰に隠れてしまった。
 いや、むしろ。
 わたしは彼が見えなくなったので、少し安心したのかもしれない。
 今朝の列車の中でのやり取りから、わたしは思いのほか、色々な人を困らせている気がして。たとえ、この場所で彼と目が合ったとしても。それは、気まずいものになったかもしれない。

 ……やはりわたしは、高校生活も静かに過ごしたほうがいい気がしてきた。
 たぶん昨日のわたしは、幻だったのだ。

「サッカー部に入りませんか〜?」
「吹奏楽部のデモ演奏をはじめまーす」
 ……このままにぎやかな並木道を進むのは、億劫だ。
 今朝は、海原くんたちも乗るいつもの列車にしたけれど。やはりこの部活勧誘期間は昨日のように早く学校に来ればよかったなと、わたしはひとり後悔する。
 やや音程の外れたミュージカルソングが始まり、周囲がひときわにぎやかになったのに背を向けて。
 わたしはひとり、裏道へと歩みを進める。

 バスロータリーからの階段を登り終えると、この裏道は、並木道を見下ろす形になる。
 落葉する時期までは、あちらからこちら側を見ることは出来ないけれど。
 下から聞こえるさまざまな声や音、なによりこの期間特有の雰囲気が。わたしには無縁の、高校生活の華やかさを醸し出しているのがわかる。

 喧騒とは無縁な道をひとりで歩き、もう少しで玄関に到着するというそのとき。
「あの……。三藤(みふじ)さん?」

 ……わたしの名前を呼ぶ、嫌な声が耳に入ってきた。


 ……それは、いつまでも慣れることのない。
 赤の他人でしかない、どこかの男子の声だ。
 わたしは、わたしをわざわざ呼び止めたこの人が誰なのか知らない。
 同じ学校の制服を着た、異性なのはわかる。だがそれ以上のこと、例えば学年だろうが、苗字だろうが。そんなことに、わたしにはなにひとつ興味はない。

「少し、時間いいかな?」
 あぁ、これまでに幾度となく訪れた大嫌いな時間が始まる……。
 一方的に、好きだと告げられ。なにひとつ悪くもないわたしが、ただ申し訳なさそうに謝るだけの。なんの生産性のない、三分間。
 そんな無意味な時間が、いま再び始まるらしい。

 ……いつもなら、顔さえ見る気がしない。
 基本なにを口にしているかさえ、興味もない。

 でも今回だけは、少し違った。


「……いま、なんといいましたか?」
 思わず、声が出てしまい。
 前評判と違って、わたしが口を開いたためなのか。
 目の前の男子がなにを思ったのか距離を一歩詰めてきたので。
 わたしは即座に、二歩後退する。

「い、いや。昨日の『あの一年』なんかより俺のほうがって……」

 ……実にくだらない。
 ほんと、聞いて損した。
 でもそれ以上に、『彼』について言及されたのが、許せなかった。

「あなたのようなかたに、口を出される覚えはありません。失礼します」
 怒りという感情を押し殺しながら、伝えたつもりだ。今回ばかりは、お付き合い出来なくてごめんなさい、そう謝る気にさえなれない。


「ちょっと待てよ、おい! 三年に対してその態度はなんだよ!」
 あぁ、情けない。これが、本性なのね……。
 声の大きさに反して弱々しい動きの腕が、わたしの前に伸びてきたけれど。距離を取っていたのが幸いし、虚しく空をかすめる。

「だから、なんなんだよ!」
 もう一段大きな声を、相手が出してくる。
 慌てて逃げるのはよくない、慎重にやらないと。
 そんなふうに、自分でも驚くほど冷静に分析できたのは。
 ……きっとわたしの中で、恐れより別の感情のほうがはるかに大きかったからだろう。


 そのとき、突然。

 目の前に壁が、『ふたつ』現れた。

「……なぁお前、もうその辺でやめとけよ」
 相手の前に立ち警告を伝えている大きいほうの壁は、バレーボール部のユニフォームを着た長岡先輩で。

 そして、もうひとつの壁は……。
 もっとわたしの近くに現れたと思ったら、すっと相手との距離を遠ざけて。
 無言でわたしの前に、立ってくれた。


「月子ちゃ〜ん、大丈夫〜?」
 周囲に声を響かせながら走ってくる都木先輩の声が、聞こえてきて。
 それから……。
「一年生のほうが、紳士ってどうなんですかぁ〜?」
 どうして、春香(はるか)陽子(ようこ)までここにいるの?


 ……種明かしは、こうだ。
 少し寝坊した陽子が、わたしよりあとのバスの中から偶然、わたしの姿を見かけて。そのあと、以前陽子が告白をバッサリ断った三年生が、階段を登っていくのを見た。
 嫌な予感がした陽子が、部員の勧誘中の都木先輩に声をかけると。
「長岡くん、急いで!」
 すぐにそういって、走らせた。

「ここまでは、わたしのファインプレーでしょ?」
 陽子が、あえて明るくわたしにいう。
「でも、そこからがねぇ〜」
 都木先輩が、イタズラっぽく笑う。
「海原は、やっぱバレー部で決まりだな!」

 ……そう、もうひとつ『壁』は。
「いえ。ただ、なにかが気になって……。そうしたら走ってくる長岡先輩と目が合ったので……。あとは先輩の真似をしただけですよ……」
「なに? 俺の真似だと! いいこというなぁお前!」
 豪快に長岡先輩が笑いながら。『彼』の肩を、遠慮なくバシバシ叩いている。


「……月子の人選、ちょっとは、納得かも」
 陽子が、いかにも仕方なさそうにわたしにいう。
「あら、わたしは陽子より早く見抜いてたけれど?」
 都木先輩はなんだか、得意げだ。
「おい、いったいなんの話だ?」
 長岡先輩が、わけがわからないという顔をして皆を交互に見る。

「海原昴君は、バレー部ではない部活に行っちゃうんだって」
 都木先輩がさらりというと、長岡先輩はガックリと肩を落として先に帰ってしまう。

「美也ちゃんは、たまに容赦ないんだよねぇ〜」
「そう? 陽子も、ちょっと意地悪してたりしない?」
「そんなことないよ。じゃぁ証拠にと〜ってもやさしい陽子様が、月子の願いをひとつかなえてあげる!」

 きょとんとするわたしと、その横の『彼』を交互に見つめると。
 陽子が、とびきりの笑顔になって。


「ねぇ海原君。わたしたちの部活に、入りませんか?」

 ……この笑顔を断れるか、みたいな顔で迫っていた。


 先程からの、緊張の糸が切れたのか。
 それともみんなが、あたたかかったからなのか。
 あるいは、他の気持ちが少しこぼれたからなのか。

 このときわたしの右目からは……。
 涙がほんの少しだけ、流れ出た。