その瞬間、三藤(みふじ)月子(つきこ)が僕から数メートル向こうまで飛び跳ねる。
 大袈裟だが、まさにそのような出来事だった。

「もう一度いいますけど! 校内でいちゃつくのやめてもらえないかなぁ?」
 威圧感たっぷりの声が、三藤先輩と僕に重たく被される。

「そこの新入生君、名前は!」
「う、海原(うなはら)(すばる)です……」
「思い出した! 確かふたりとも、今朝も並木道で騒ぎを起こしていただろう!」

 目の前にいるのは藤峰(ふじみね)佳織(かおり)。そう、僕の英語の先生だ。

 初回の授業の際はフレンドリーだったけれど、実際はこんなに厳しいとは……。
 三藤先輩もうつむいたままだし、やっぱりきょうはついていない日なのか。あぁ、これで一年間、ずっとマークされるだろうし。やっぱり高校生活、最悪だ……。そう再度絶望しかけた、のだけれど。


「……ふざけていません?」

 へ?
 まさかいまのは、三藤先輩?
 この先輩、もしかして誰にでも喧嘩売るタイプとか?
 もしかして、僕はとんでもない人と、一緒にいるんですか?

「はぁ?」
 藤峰先生が、売られた喧嘩を買ってやる、みたいな声で返して。
 あぁ、次はなんと怒られるのかと。恐る恐る藤峰先生の顔を見ようとした、そのとき。
 ……先生は、弾けたように笑いだした。


「見破られちゃったかー! さすが月子ちゃん、残念だな〜」
「……それはいいとして。海原くんの前で遊ばないでください」
 極めて冷静な三藤先輩だが、どうやら目は怒っていないようだ。
 え、もしかしてこのふたりって?
「海原くん、一応紹介します。とりあえずわたしの担任の、藤峰先生です」
「ミスター・ウナハラ。君のイングリッシュのクラスも担当しているから、これで会うのは二度目だね〜」
 藤峰先生はそういうと、右目で無駄に僕にウインクをしてみせる。

 ……どうやら僕たちは、この先生にからかわれていたようだ。
「いや〜でもさぁ。こんなところで密会しながら青春をエンジョイしていたから、からかってみたくなったのよ〜」
 教室棟から特別教室や職員室などを結ぶ中央廊下を、三人で並んで歩きながら。屈託ない笑顔で、藤峰先生が話している。
「で、なになに。『昼休み、機器室で』って、相変わらず達筆だねぇ月子ちゃんは」
「へっ?」
 先生が手に持っているカードに気づいて、慌てて僕が声を上げる。
「海原くん! なんで藤峰先生に渡しているのよ!」
「いえ、いつのまにか盗られていたんですけど!」
 僕たちのやり取りを、まったく意に介せず。
「しっかし、まるで古風なラブレターみたいだなぁ、これ〜」
 藤峰先生はカードをヒラヒラさせて、うれしそうにしている。すでに三藤先輩は、それを奪い返す気力を失っている、というか……。むしろ、悟りの境地なのだろう。
「いったい、先生は三藤先輩をこれまでどれくらいからかってきたんですか……」
 僕が思わず口に出してしまったところ、楽しそうに先生が答える。
「う〜ん、数えたことなんてないわよ。でもまぁ、深い仲だよねぇわたしたち。ね、月子ちゃん?」
「先生。いまは、いわないで下さい」
「え〜、なんでよぉ?」
「答える必要も、ありません」
「ひどいなぁ。担任だよ、わたし?」
 思わず、ふたりのやり取りに笑いそうになった僕を目ざとく見つけた三藤先輩が。笑おうとかしていないわよね、といいたげな顔で僕を見る。

 ……すると、藤峰先生は。満足したのか僕たちの前に出て、体をクルリと一回転させると。
「月子ちゃん、なかなかグッドアイディアだと思うわよ!」
 それから、間髪入れず。 
「あと、ミスター・ウナハラ!」
「はい!」
 ま、まずい。……ついのせられて、返事をしてしまった。
「ぜひ君も、よき先輩と、素晴らしい教師に出会えたことに感謝して。この先の高校生活をエンジョイしなさい!」
 自称・素晴らしい教師はそういうと。顔を近づけてきて、再度右目で無駄にウインクする。

「あと、ふたりとも! なにか進展あったら、必ずわたしにレポートしてよ!」
 僕の隣で、三藤先輩が大袈裟にため息をつく。
 なるほど、三藤先輩は決して喋らない訳ではない。
 ただ他の人より、自分がコミュニケーションを取る相手をとことんまで選んでいるのだろうと、僕はなんとなく理解した。
「あ、あと早く『機器室』を卒業できるといいな、と先生は思いましたよ〜!」
 どこから見ても、ご機嫌な感じで職員室に向かって歩き始めた藤峰先生が、わざわざ振り返っていう。
 僕には、まだなんのことかわからなかったけれど。
 三藤先輩がもう一度大袈裟にため息をついたのが、なんだか妙に、おかしかった。

「……ねぇ海原くん。藤峰先生の別名、知っているかしら?」
「モンスターとかですか?」
「それもありよね。でも、いまの所は『女王』と呼ばれているわ。あと先生と関わるとわたし……」
 続きが気になる、ゴクリと唾を飲む展開ですよね、これ。
「魂が抜かれる気がするの……」
 あぁ、わかります、それ。



「……月子、もしかして『女王』に会った?」
 職員室や実験室、家庭科室などが入る特別棟二階の、一番奥。
 部屋の名前を記すプレートの上に、手書きのシールで『機器室』と上書きしてある部屋に入った瞬間。春香(はるか)陽子(ようこ)が三藤先輩に声をかける。
 心配とか、愛情とか、三藤先輩を気にかけているのことがよくわかる響きだ。

「本当に、連れてきたんだね」
 春香先輩はうしろから続いてやってきた僕を一瞥すると、今度はやや警戒したような声で続ける。
 もしかして僕は、春香先輩には歓迎されていないのかもしれないと少し感じてしまう。

「はじめまして、一年一組の海原昴です」
「二年一組の春香陽子です。今朝は言葉足らずでごめんなさい」
 春香先輩が次に発した言葉には、割と申し訳ないという感情がこもっていた。
「あのあとね、美也(みや)ちゃんにちょっと怒られたから……」
 都木(とき)先輩が、なにか口添えしてくれたのだろうか? ややバツが悪そうに、春香先輩がそう付け加える。
「もうその話しは気にしていません」
 つとめて明るく返したつもりだが、あまり上手くは出来なかったかもしれない。
 その証拠に春香先輩は、もう一度僕を正面から見つめると。だといいんだけどねぇ……とでもいいたそうな顔をしている。

「陽子、海原くんにもう少しやさしくしてあげてもらえないかしら?」
 三藤先輩が言葉を添えると、春香先輩はややひきつり気味の笑顔を浮かべると。
「そうだね、ひさしぶりのお客さんだもんね」
 頑張って答えていたけれど。
「そういうことよ」
 三藤先輩がやわらかな笑顔を添えて答えたので。今度は春香先輩の顔が、少しこわばった気がした。


「海原くん、こちらへどうぞ」
 そんなことは気にならいないのか、おだやかな声の三藤先輩のうながされて座った席には。いつのまにかご丁寧にも、緑茶が用意されていた。
「熱いのは苦手だと思うので、ぬるめにしておいたのだけれど……」
 三藤先輩が今度は、小さな声で。やや不安げ声で僕に告げる。
 耳にかかった長く艶のある黒髪を、落ち着きなく指で退ける仕草をしながら、三藤先輩は。
「どうかしら?」
 お茶を飲めと、うながしている。
「あ、失礼しました。いただきます」
 一般的にはぬるいのだろうけれど、僕にとってそのいただいた緑茶は適温で。わかりやすくいうと、とても飲みやすかった。
「おいしいです」
「よかったわ」
 そのセリフは、ホッとした気持ちでいっぱいだと感じさせる響きがしたのだけれど。
 ただ僕は同時に。どうして三藤先輩は、僕が猫舌なのを知っているのだろうかと不思議に思う。

 三藤先輩がお茶を淹れ直してくれているあいだに、僕は『機器室』の中をぐるりと見渡す。この部屋は確かに、僕の想像した通りの機器であふれている。だからこそ一般的には、この部屋を『機器室』とは呼ばないだろう。
「あのー、この部屋って……」
「ここは、『機器室』と呼んでいます」
 三藤先輩が、今度はピシャリといい切る。それを見てようやく春香先輩がやさしい笑顔で、僕を見てくれた。


「では、遅くなってしまったけれど、お昼にしましょう」
「そうだね。あ、月子のこれもらっていい?」
 そういえば僕はそもそも、弁当を食べる場所を探すために廊下を歩いていたのだったと、いまさらながら思い出す。
 今朝のメッセージカードも、要するにこの部屋にお昼ご飯を食べに来てくれ、というもので。
 単なる偶然といえばそれまでだけれど、もし僕があのまま教室で弁当を食べていたら、いったい三藤先輩はどうするつもりだったんだろう?
 あぁ、また大騒ぎにならなくてよかった……。

 そうして一息つくと。もっと根本的な疑問が湧いてくる。
 むしろなぜ、いままで考えなかったのかが不思議なくらいだ。

「……あの、どうして僕はここにいるんですか?」
 三藤先輩から玉子焼きをわけてもらって天使の笑顔だった春香先輩が、思わずそれを落としそうになって慌てたけれど。当の三藤先輩は、表情を変えることなく自分の分の玉子焼きを口に運んでいる。
 しばしの沈黙を破ったのは、春香先輩のほうだった。
「海原くん、知らないの?」
「へ?」
 三藤先輩は澄ました顔で、今度はプチトマトを口に運んでいる。
「月子から聞いてないの?」
「いえ、なにも……」
 春香先輩は大袈裟にため息をつき、頬を少し膨らませながら三藤先輩をじっと見る。
「そういうのは、自分でちゃんと伝えてよね」
「それは、そうかもしれないけれど……」
 三藤先輩がなぜか口ごもりながら、助けを求めるように春香先輩のほうを向く。
 なんだか、ふたりだけの世界が繰り広げられている。とっても甘く、ある意味では絵になる光景だ。


「……要するにね、君は誘われているんだよ」
 春香先輩が本当はわたしじゃないのに、といった雰囲気満載で、未練たらたらに口を開く。
 ただ、飲み込みの悪い僕にはイマイチわからない。
「だからね、ここだよここ! 『機器部』に、入らないかってことなの!」
 そうなのか、これは部活の勧誘だったのか! でも、なぜ僕がここに?
 ついでにそもそも、『機器部』ってなんですか?

 春香先輩が、もうこれ以上は意地でもいわないから、みたいな目で三藤先輩を見て。観念したのか三藤先輩が、戸惑いながら口を開く。
「少し訂正もあるから説明するわ」
 は、はい……。できれば、わかりやすくお願いします……。


「海原くん。あの茶色い髪の毛の女の子とふたりで、『機器部』に入部してもらえないかしら?」

 ……ダメだ、正直。
 ちょっと僕には、わけがわからない。


 僕の表情と、追加の三藤先輩の説明を聞いて。春香先輩が、思わず天を仰ぐ。
 すると、まるで待ち構えていたかのように。

 昼休みの終了を告げるのチャイムが、鳴り始めた。