中間テストが近づいて、部活中断期間がやってきた。
「昼休みはさておき、放課後は集まらないように」
ふらりと現れた、顧問の藤峰佳織に告げられて。
一同が顔を見合わせて、思わず固まる。
「え、なになに? どうしたのみんな?」
すると、なぜか春香先輩が僕を見て。
「はい部長、ひとこと」
代表してコメントしろとうながしてくる。
「えっと……いや……。藤峰先生が、極めて真っ当な話をしたので、思わず驚いてしまって……」
「えっ?」
ところが僕の答えは、春香先輩の意図したものではなかったようで……。
「ちょっと海原、それじゃないからさぁ……」
高嶺が心底あきれたという声で、僕の話しをさえぎる。
「あのね、海原君……」
「海原くん、ちょっといいかしら?」
都木先輩と三藤先輩が同時に声を上げて、互いの顔を見合わせる。
「月子ちゃん、『よかったら』どうぞ……」
「都木先輩こそ、『一応』お先に……」
なんなんだ、この微妙な譲り合いは?
いままでにあまり見なかった光景に驚いて、僕はふたりを見るのだけれど。
なぜか視線が、合うことがない。
「あのさぁ海原君。わたしは君に、部長としてのコメントを求めたんだよ」
「えっ? 春香先輩……?」
「ほんとにもぅ! しっかりしてよね!」
今度は、先生を含めて皆がギョッとする。
ほ、本当にいまの? 春香先輩の発言なの?
「なんかきょうの先輩たち、みんなちょっと変だったよね〜」
……廊下を歩きながら、何気なく口に出したあとで。
しまった! アイツだけじゃなかったんだ、とわたしは焦る。
「なになにー、由衣ちゃんもそう思っちゃった〜?」
藤峰先生が興味津々の顔で、わたしを覗き込む。
うわぁ……、話す相手を間違えた……。
「でもねぇ、わたしはなんか、ちょっと安心したかもなぁ〜」
あれ?
珍しく真面目系なやつなの、先生?
「あの子たち、いつも自分で作った殻の中に閉じこもってきたからね」
藤峰先生は、少し遠くを眺めるような顔をして。
「なんかね、ふたりがきてくれたおかげで。あの子たちが生き生きしてきた気がするの」
先生の言葉に、嘘や偽りはひとつもなくて。
「ありがとね『由衣ちゃん』!」
思わずわたしは、こんな笑顔ができる大人になりたい。
……そんなことを考えた。
「あ!」
「えっ、なんですか藤峰先生?」
「なんかわたしたちも! 距離とか、縮まった気しない?」
さっきわたしを名前呼びしてたじゃん、先生。
もう距離なんて、とっくになくなってるよ……。
「だからね、由衣ちゃんだって……」
でも、だからこそ。
いまはその続きを聞きたくなかった。
「よ、用事思い出しました!」
わたしは先生の話を遮ると。挨拶だけして、急いでその場から離れる。
廊下を、走れるだけ早く。
その声が追いかけてこられないように、走り続けた。
「……あら、いっちゃった」
逃げ出してしまった、高嶺由衣の背中を眺めながら。
「で、『陽子ちゃん』。どこから聞いてたの?」
わたしはうしろで気配を消していた春香陽子に、声をかける。
「えっと……、藤峰先生。な、なにも、聞こえていませんから!」
あらら……。
もうひとり、走らせちゃった。
……ふと。
少し、不安になった。
こんなわたしは、いつか誰かが傷ついたとき、『その子たち』に。
きちんと、寄り添うことができるだろうか?
「海原君さぁ?」
「はい」
「わたし、まだまだだよねぇ……」
さっきから隣で黙っているこの彼は、本当に不思議な子。
そんなことないですとか、どうしたんですかとか、ありきたりのことはひとつもいわない。
「藤峰先生、ですからね」
そう、そうやってわたしがどうなるかはわたし次第だと。
熟慮した上で、それでいいんだと伝えてくる。
まぁ、本人がその自覚があるかどうかは謎だけどね。
頼りにはしてるよ!
……きょうから部活ができないのを、玲香ちゃんに伝え忘れていた。
僕は授業が終わってから、ようやくその事実を思い出す。
「おい、高嶺?」
スマホで連絡してもらおうと、隣に声をかけたけれど。
「あれ?」
いつのまにかアイツは消えていた。
……仕方ない。
とりあえず時間を潰そうかと、『機器室』に向かう。
いつもなら、絶対に三藤先輩が開けてくれているはずだけれど。
「中断期間なんだからそんなことないか」
そう思いながら扉に手をかけ、軽く力を入れる。
「あれ?」
するとなぜか扉は、スッと開いて。
……いつもの席には。
三藤月子が、座っていた。
黒く長い髪を、左手で耳にかけるその仕草で。
僕の入室が、許可される。
静かに扉を閉めると、三藤先輩の斜め前の『指定席』に腰掛ける。
「もう少しで、解き終わるわ」
……だから待っていて。
もう、最後までいわれなくても。
もちろん僕は、理解していますよ。
少しだけ開いた窓からは、やさしい風が入ってきて。
結局、もう少しではない。やや長めの時間が、過ぎるまで。
三藤先輩と僕は、そのまま試験勉強を続けていた。
……英単語を練習していた僕の目の前に。
突然青みがかった淡い紫色のカードが一枚、目の前に着地する。
僕の大好きな、藤色のカードだ。
「いま読んでも、いいんですか?」
三藤先輩はなにも答えない。
これが先輩の承諾のしるしなのも、もう僕はよく知っている。
「この部活のルール」
書きかけではない。
それだけが書かれた、カードだった。
僕は顔を上げて、思わず三藤先輩を見るけれど。
先輩は顔を下に向けたまま、僕からは片側しか見えないのだけれど。
その両耳が、赤くなっているのだと。
なんとなく、わかってしまった。
「わたしが代表して伝えているの。部長、守ってね」
……海原くんはやさしいから。
それ以上わたしに、聞かないでいてくれた。
本当は、嘘。
わたしは、代表なんかじゃない。
誰とも、相談なんかしていない。
ただ、ただそうしないといけないと思ったから、勝手にやってしまっただけだ。
海原くんのことを、誰がどう思っているかなんて。
いまは知りたくない。
考えたくもない。
加えてわたしは、わたしの自身の気持ちさえ、よくわからないけれど。
ただ、『勝手に』進んではいけないのだと、思ったの。
「えっと……。まだ、時間がありますね」
突然彼にそういわれて、思わず顔を上げてしまった。
「三藤先輩、いきたいところがあるんですけど、いかがですか?」
一瞬でどこか、わかってしまった。
そうね、いい提案ね。
そしてこれは。ただの、『息抜き』なのよね?
……とっても近いのに、ぎこちないくらいの距離感で。
きょうのわたしたちは、校舎棟の非常階段を静かにのぼる。
三階を越えて、その先にある踊り場へ。
黒くて重たい扉の前に着くと、わたしの秘密の鍵を、海原くんに渡す。
「右手の……」
そういいかけた彼を止めて、自分から口にだす。
「小指を出すわ」
「包むのは、三本までですね」
そう、そう答えてくれる、君のことが……。
……太陽のまぶしさに慣れると。
屋上にはきょうもどこまでも青い空が、変わらず大きく広がっていた。
「あの時以来だね」
もう、この場所にはひとりではこないと、心に決めていた。
だから、君とまたここにこられたのが。
わたしはとってもうれしい。
「いいですよね、この屋上」
「そうね」
「見えているなにもかもが、美しいです」
見えている、なにもかも、か。
ねぇ、海原くん。
……その中にわたしは、入っていますか?
突然、少し強めの風が吹いてきて。
海原くんが、慌ててわたしを見る。
でも大丈夫、あいているほうの手で、スカートは押さえられるから。
……わたしは指を、離さない。
ところが、風の神様は。
別のイタズラをわたしたちに、仕掛けてきた。
わたしの耳の横を通り過ぎた、風の矢が。
まるで狙い撃ちしたかのように、彼のシャツの胸ポケットに当たる。
すると藤色のカードが、わたしたちの頭上に舞い上がって……。
慌てて取り戻そうとして、思わず『わたしが』。
彼の指を離してしまう。
カードは、さらに空に近づこうとして。
海原くんがジャンプして伸ばした手が、かろうじてそれを取り戻す。
……わたしは、自分の小指を恨めしそうに見ることしかできない。
「あぁよかった。で、三藤先輩? 指がどうかした……」
わたしは、海原くんがいい終わるより先に。
「もう! 胸ポケットにはものを入れないで!」
そういって、話しをさえぎった。
すると海原くんは、驚いたような顔をしたあとで。
今度は、顔をくしゃくしゃにして笑い出した。
「え、なんで? どうして笑うの?」
「だって先輩……。思いっきりほっぺた、膨らんでましたよ!」
「ちょっと、ひどいっ!」
……あぁ、風の神様のイタズラは。
また、心の距離を縮めてしまった。
……わたしたちだけの世界へつながる扉を、静かに閉める。
「この小指を、どうしたい?」
わたしは少し、意地悪な質問をする。
すると、海原くんは。
「きょうのところは、ここでせーの、で離しませんか?」
思いがけず、はっきりと提案してきた。
意外そうだという気持ちを、察したのか。
彼が一瞬息を飲み込んでから、ゆっくりと話しはじめる。
「先輩と僕は、副部長と部長なので。ですから……」
「ちょっと、その先はいわないで!」
思わず焦って、口にすると。
海原くんが本気で驚いたような顔をして、わたしを見る。
もしかして、きついいいかたに聞こえてしまったの?
「い、いや……。色々考えたいなと思いました……って、伝えたかったんです」
「あら……。そ、そうだったのね……」
あぁ。
きっとまた、わたしの両耳は……。
「あ……」
海原くんの声に頭を上げ、同じ空の向きを見る。
すると、先ほどまでふたりでいた屋上のさらに上を。
つがいの鳥が、気持ちよさそうに風にのっているのが見えて。
……そのとき。
意図せず、自分の口から出た言葉に。
わたしが一番、驚いた。
「海原くん。部長のあなたが、決めさない」
なにそれ……・
これって、ほとんど……。
「あ、あのね!」
「えっ? なにかいいましたか?」
……まさか聞こえて、なかったの?
ところが、そのとき。
中庭のほうから聞き覚えのある声が、風に乗ってやってきた。
「海原ぁ〜」
「月子〜」
「ふたりとも〜」
大き過ぎる声と、やわらかな声と、よく通る声が、わたしたちを呼んでいる。
ここにいることはわからなくても、校内のどこかにいることは知っているのだろう。
「やっぱりそうだ」
「えっ?」
「なにも、中庭で何度も叫ばなくてもいいのに……」
海原くん……。
あなた本当にわたしのセリフ、聞こえなかったのよね……?
「海原くん」
わたしは、彼がわたしの顔を見て少し『ひるむ』まで、ジッと待ってから。
「わたしの声より、誰の声が先に聞こえたのかしら?」
少し、意地悪なことを聞いてみた。
「えっ……」
……そう。
その、ちょっと動揺した海原くんの表情が。
わたしはそんなに、嫌いじゃないわ。
……結局、部活中断中も放課後の『機器室』は。
少しだけ遠慮がちにではあるけれど、にぎやかだった。
「や〜っと、部内で勉強するようになったのねぇ〜」
藤峰先生は、一度だけわたしたちに涼しい顔でそういうと。
それからはなぜか、部室に入り浸るようになっていた。
「五人どころか、六人になったわね……」
海原くんにつぶやいたつもりが、みんなに聞こえていた。
「当たり前でしょ〜」
「月子、なにいってんの?」
「当然ですよ」
「まぁそうなるよね〜」
こうして、六人の物語が。
これからもまだまだ進む、はず。
……わたしは、少なくともこのときは。
そんなふうに、考えていた。


