「やっと連休だよ、連休!」
 放課後、部室へいく途中で。
 高嶺(たかね)由衣(ゆい)がきょうだけでどんだけ繰り返すんだ、と連休を連呼している。

「まだ入学して一ヶ月も経ってないのに、色々あったよねぇ〜」
 お、やっと違うことをいうのか?
「ねぇ、そういえば。三藤(みふじ)先輩となにかあった?」
 い、いきなり今度は……。
 話題変わり過ぎじゃないのか?
「なんでもいいじゃんそんなの。で、なんなわけ?」
「別になにも、ない。……と、思っている」
「ふ〜ん」
 高嶺は納得してはいないけれど、それ以上は聞いても仕方ないとばかりに。
 左手で自分の栗色の髪の毛の先を、くるくると巻きはじめる。

 三藤先輩は、変わらないけれど。
 ここ数日、少しだけ距離ができた気がしなくもない。
 とはいえ少なくとも、怒らせるようなことをした覚えはない、はずなんだよなぁ……。


「……じゃ、いってくるねー!」
 春香(はるか)先輩が、都木(とき)先輩と高嶺を連れて講堂の機器室へ機械の調整に向かうあいだ。
 僕はきょうも、三藤先輩とふたりで部室で書類のまとめに入る。
 ……はずなのだけれど。
 先輩は僕に背を向けて。
 肩幅の分だけ開けた窓枠に、両腕を乗せると。
 頬杖をつきながら、中庭を眺めている。

 先輩にしては、珍しい仕草だと思いつつ。
「もしかして変わったものでも、見えるんですか?」
 つとめて明るく聞いてみたつもりだけれど、返事がない。

 校庭で練習している運動部の声が、校舎に幾重にも反射して。
 機器室の中に、かろうじて『音』を届けてくれる。
 先輩は少し首を傾けながら、右の指先に自分の髪の毛の先端を絡ませながら。
 引き続き、所在無げに窓の外を眺めている。

「あの……。三藤先輩……」
 正直、物憂げなその姿は、美しいのだけれど。
 いまは眺めるのではなく、声に出して聞いてみるべきだ。
「最近なにか変わったことでも、ありましたか?」
 ちょうどそのとき、やや強めの風が吹き込んで。
 先輩の長く黒い髪が、大きく舞い上がる。

 そのとき見えた先輩の横顔は、きょうも僕の知っているままで。
 ただ少し……。
 なにかの距離を、感じるだけだ。


「……ごめんなさい、書類が飛んでしまったわね」
 三藤先輩は、素っ気なく口にすると。
「そろそろ窓を、閉めるわね」
 そういって、窓枠に手をかける。
 思わず僕は、先輩が伸ばした左手より上の窓枠に腕を伸ばして。
 先輩が閉めかけていた窓を、止めた。
 三藤先輩が、少し驚いた顔をしたのはわかったけれど。
「すいません。このまま窓が閉まると……。先輩の心まで、閉じてしまいそうな気がしたんです」
 僕は思い切って、そう告げた。


「そうなのね……」
 先輩は視線を下に落としたまま、相変わらず僕を見ようとはしないけれど。
 どうやら話しは、聞いてくれているらしい。
 ならば、もう一度だけ。
「あの……。いったいなにを、ここから見ていたんですか?」

 僕の質問に、今度は。
 極めて控え目ながら、目線で中庭のほうを指してくれる。
「……あ、なるほど。藤棚に、少し花が咲いたんですね」
 先輩は短くうなずいて。
「もういいかな……」
 とても小さな声で、つぶやいた。
 どうか、このまま心を閉じないで欲しい。だから、話し続けないと。
「あの……。藤の花が、好きなんですか?」
 先輩が遠慮がちに、わずかに首を横に振ってから。
「それは少し違う……」
 本当に微かな声で、教えてくれた。

 このとき僕は、先輩を怖がらせてしまったのかと思って。
 だったらなにもしないで、ただ窓が閉まるのを待てばよかったと後悔した。
 それから僕たちはふたりで、無言で散らばった書類を拾う。

 先輩が、ごめんといった気がしたけれど。
 それは定かではなくて、代わりに。
「……ちょっと出てくるわ」
 その言葉だけは、はっきりと耳に残った。 



 ……ひとしきり必要な書類などに目を通しても、先輩はまだ戻らない。
 僕はひとり窓際にいくと、もう一度。
 藤棚を眺めながら、先輩について考える。
 いったい三藤先輩は、どうしてしまったのだろう?


 先ほど窓から見えていた飛行機雲が、ついに青空に馴染んで、空が元どおりになったころ。
 ようやく、静かなノックの音がした。

 続いて、おだやかに扉が開く。
 よかった。少なくとも先輩は、部室に戻ってきてくれた。
 お帰りなさいと、小さく言葉で発しつつ。
 またなにか先輩に失礼をしないかと思うと。
 僕は窓の外を向いたままで、振り向くことができない。

 窓から中庭を覗いたままでもう一度、僕は頑張って言葉をかける。
「まだ少ししか咲いていないけれど、藤の花って、やさしい色ですよね」
 ……悪いほうの予想どおり、返事はなくて。

 カチ、カチ、カチ……。
 この部屋の音のしない時計の秒針が、僕の心をさらにえぐっていく。



「……ことん、ことん、コトン」
 ふと、机の上になにか固いものが三つ置かれる音がした。

 ふたつは、木のテーブルに馴染む音で。
 最後のひとつは、少し固いものだろうか?


「プシュッ!」
 今度はそんな、やや大きな音がして。
「シュワ〜ッ」
 あれ? この音って、もしかして?

「トクトクトクトク」
 そこから続く音も、僕には子供の頃から聞き馴染みのあるものだ。
 これは……。
 もう間違いようがない。
 でも、いったいなぜ。三藤先輩がこんなことを?


「……最近は少し、暑くなってきわたわね」
 あぁ……。
 僕の大好きな声が、帰ってきた。
海原(うなはら)くん。土曜日ではないけれど、一緒にどうかしら?」
 僕はうれしくて。
 それでも慌てないよう、ゆっくりと振り返ると。
 テーブルの上には、淡く青みがかった紫色のグラスが。

 ……仲良くふたつ、並んでいた。


 きっと中には、炭酸の入った甘い飲みものが入っているはずだ。

 両耳を少し赤くした三藤(みふじ)月子(つきこ)が、目の前で立ったまま。
 伏目がちに僕を見て。
 少しだけいいにくそうに、言葉をつなぐ。
「海原くんの好きなものかは微妙だけれど。冷えていたのが、これしかなかったの……」
「えっ……? もしかして、それを探すのに時間がかかっていたんですか?」
「……うん」
 校内で飲み物を買える自動販売機は、離れた場所に二か所あるけれど。
 わざわざその両方にいって、探してくれたんだ。


「……間違いたく、なかったの」
 三藤先輩の、言葉を聞きながら。
 僕の頭の中で。
 透明な記憶の、小さな泡がはじけ始めた。


「藤色という呼びかたを、あのときのわたしは知らなくてね」
 僕の家にも、その色のグラスがあった。
「それから、藤棚の花を見たときにね。やっと探していた色を見つけたと思ったの」
 藤の花が好きなのとは、『少し違う』。
 先輩は先ほど、そう教えてくれた。
「本棚の百科辞典で調べたら、その漢字がわたしの苗字の一部でね。だからそれからは、絶対忘れないようにしようって思ってきた」
 目の前のふたつの瞳が、まっすぐに僕を見つめてくれている。
「あとはね、いつかあのときの『彼』と。その色をもう一度、一緒に見られたらいいなって思って過ごしてきたの」

 ……ずっと昔の出来事を思い出すには。
 なにかきっかけが必要かもしれない。
 しかし、ひとたび思い出し始めたら。
 記憶がまるで炭酸のように、一気に湧き出る。

 カチ、カチ、カチ。
 数秒の沈黙のあとに。
 僕は『あのとき』の女の子を想いながら、言葉を紡ぎだす。


「……先輩って、桜の花が好きですか?」
「うん」
 女の子は、うつむき加減に答えてくれて。

「……先輩って、小さいころ道に迷ったりしたことがありますか?」
「うん」
 そういって女の子は、少しだけ顔を上げてくれる。

 それから最後に、もうひとつ。
「三藤先輩って、和菓子と洋菓子、どっちが好きですか?」
「……」
 あれ?
 あのときの女の子が、答えてくれなくなった。

 だが代わりに、やや物憂げでほんのり潤みがちで。
 それでいてどこまでも澄んだ藤色のふたつの瞳で、まっすぐに僕を見つめると。

「知らないの?」
 ……逆に僕に、質問してきた。


「おまんじゅうだから……」
 いいかけた僕を、三藤先輩は祈るような表情で見て。
「……和菓子ですね」
 僕の『正解』を、聞き終えると。


「やっと、やっと見つけてくれた!」


 そう声を上げてから、胸の前で両腕をギュッと小さくまとめて。
 思いっきり、僕に飛び込んできた。


「えっ……」
「動かないで!」
 驚く僕に、そう短く告げて。
 続けて僕のブレザーの下襟を、両手でしっかりと掴むと。

 あのときの女の子は、それからしばらくのあいだ。
 顔をうずめたまま、遠慮なく泣き続けた。




 ……子供のときに、イメージしていたやりとりはこうだ。

 探してくれて、ありがとう
 思い出してくれて、ありがとう。

 諦めないでいてくれて、ありがとう。
 見つけてくれて、ありがとう。

 それからふたりは……。


 ただ現実は、そんなやりとりにはならなかった。
 わたしの、感情が。
 わたしの気持ちが、あふれすぎたから。

 海原昴を掴んで、わたしは思いっきり泣いた。
 だっていいでしょ?
 やっと、やっと。見つけてもらえたんだから。

 あのとき、海原くんがそのままわたしを、力強く抱きしめてくれていたら。
 この物語はそのまま、ハッピーエンドで終わったのだろう。


 ……でもね、そうならなかったのが、ややこしい話しの始まり。



 ……わたしが落ち着くまで、海原くんは律儀に『動かないで』いてくれていた。

 すると、タイミングをじっと待ち続けていたかのように。
 少し変わった場所に植えてある木が見える窓のほうから、まっすぐな風が部室の中に流れてきて。
 わたしの髪の毛が、ふわりと舞い上がった。

 えっと。
 いまのは海原くんが、やさしく頭を撫でてくれた。
 ……とかではなくて。
 風のイタズラ、か。
 ……って、え?
 えっ?
 か、風? も、もしかして?


「……ま! 窓開いていたの?」
 思わずわたしは、大きな声になる。

「あれ? 閉めたつもりだったんですけど……」
「つもりじゃないわよ! 聞こえてたらどうするの!」

 わ、わたしを好きなだけ泣かせてくれたのには、感謝だけれど……。
 窓が、開いていたなんて。
 あと、ごめんなさい、海原くん。
「お、驚きすぎて、鼻水が出たわ……」

「ええっ……」
 やめてよ……。
 いいところじゃなかったの、いま?


「先輩、顔とか髪の毛に、鼻水ついちゃいますよ……」
 自分が汚れることよりも、わたしの心配をしてくれるやさしさはいいけれど……。

 おかげでわたしも、冷静に。
 海原くんの『制服』を汚している自分に、気がついてしまった。


「……顔、洗ってくるわね」
「は、はい……」
「あと、ブレザーは取り急ぎ拭きましょう。それと、シャツは洗ってきてあげる」
「えっ?」
「ネクタイは……。連休中にクリーニングに出させて」
 あぁ、どうしよう。
「やっぱりブレザーもそうしましょう。平気よ、二日で仕上がるわよ」
 自分で口にしておきながら、このどうしようもない現実感に……。
 さっきまでの感動が、一気に流されていく。

 おまけに……。
「だ、大丈夫です! 自分で対処します」
 海原くんのいい分はもっともだったけれど。
 だからつい、『告白』してしまった。

「ダメよ!」
「いや、でも……」
「わたし、『制服好き』だから!」
「へっ?」

 ……そう、わたしは制服が大好き。
 読書以外で唯一みたいな、わたしの『趣味』なの……。


 あぁ。
 ようやく、出会えた。
 やっと、見つけてもらえた。

 なのに、なのに!


 ……こうして。
 ずっと夢に見てきた再会は、なんというか。

 酸っぱくて甘い、よく本で読んだ感じの青春の思い出の一ページとは。
 あまりにも違う展開を迎えてしまった……。