「ねぇねぇ、昨日なにかあったの?」
 いつものごとく、全員集合した次の日の昼休み。
 部室の扉を開けた瞬間。
 微妙な雰囲気を察した都木(とき)先輩が、開口一番問いかける。

「わたしも知りたいんだけど……。朝から月子(つきこ)が黙ったままで、教えてくれないんだよね……」
 困り果てたようすで、春香(はるか)陽子(ようこ)が答える。
 三藤(みふじ)先輩は、隣で黙々と皆の分のお茶を注ぐだけだ。
「ん、ん、ん」
 高嶺(たかね)由衣(ゆい)がテーブルの下で、僕の膝に自分の膝をガンガン当ててくるけれど。
 一応高校生になったのに、お前はまだその『ノリ』でいいのか?
 だんだんとアイツの当てかたが強くなり、早くしろとせかしてくる。
 はいはい、わかった、わかったからさぁ……。

「ちょっと、なにそれ!」
 都木先輩が、目を見開きながら大きな声を出してから。 
「月子ちゃん、よくやった!」
 三藤先輩に握手を求めている。
「なんなのそれ。なんか土曜日の帰りも、雰囲気嫌だったんだよね!」
 どうやら春香先輩も、きょうは結構お怒りらしいので。僕はふたりが少しでも安心できるようにと、話を続ける。
「でもきっと大丈夫です」
「どうして?」
玲香(れいか)ちゃん、家まで送らなくても大丈夫だっていってましたし。最後のほうはこう、ニコニコ手を振ってくれましたよ」
 よし、よかった。都木先輩はそう聞いて、少し落ち着いたようだ。
 じゃなくて……。

 ま、また両手で口を押さえてません?
 先ほどまで、ぷんぷん怒っていた春香先輩も……。
 え、なんですかその冷めたような微笑、いつもと違いません?

 ふと、別のオーラを感じて慌てて周囲を見る。
 すると僕の隣の席からは白い炎、そのまた向かいの席からは紫の炎が上がっていて。
 ……や、やってしまった。

「ふーん、家まで送る、ねぇ〜」
「節度を保つよう、伝えたはずよね?」
 ご、ごめんなさい!
 ……何発か高嶺の拳を喰らったあとで。
 ようやく、春香先輩が苦笑する。
 今回のそれは、もう知らないよ〜、ですよね……。


 それから放課後の部活も、スクールバスの中も。
 皆がソワソワして、落ち着かない時間を過ごしながら。
「じゃぁまた明日ね」
 駅で二手に別れ、僕たち三人は乗り換え駅への列車に乗り込む。

「……都木先輩、返信まだ受け取ってないって」
 スマホの画面を見続けながら、高嶺がいつになく元気のない声でつぶやく。
「大丈夫よ」
 三藤先輩が、カバンの上で両手の親指の爪を当て合いながら。
 自分自身を勇気づけるように、声に出す。
 列車が、乗り換え駅へと減速を始める。
 一番前の車両に乗っていれば、ほんのわずかでも早く結果を知れたのに。
 昨日は、プラットフォームに玲香ちゃんがいたこと自体が驚きだったのに。
 きょうは、居なかったらどうしようと不安になってくる。

 あと列車一両分だけ進むと、扉が開くというとき。高嶺が、気落ちした声を出す。
「やっぱり、こないのかな……」
 いや。
 まだ、まだ諦めちゃだめだぞ。
 僕がそういいかけた、そのとき。
「……高嶺さん、よく見なさい」
 三藤先輩が、まるで勝ち誇ったようにいうと。
「あの子、元気に走ってるじゃない!」
 玲香ちゃんの姿を見つけて、少しだけ声をうわずらせる。

 まるで柵から放たれた小鹿のように、階段を段飛ばしに跳ねて走りながら。
 玲香ちゃんが笑顔で、大きく手を振っている。
「よかったぁ……」
 アイツは、心底うれしかったようで。
 列車の扉が開くと、一目散に飛び出して玲香ちゃんに抱きついた。
「ちょっと……。うげ〜。く、苦しい……」
 ふたりのようすを、周囲の乗客が思わず苦笑いしながら通り過ぎる。
 熱いというより、きつい、きつい抱擁だ。
「高嶺さんの感情表現って、どんどん暑苦しくなってないかしら?」
 三藤先輩が、僕につぶやくけれど。
 ただその声色は、心なしか。いつもよりやさしいものだった。


「よかった……。ギ、ギリギリまにあった……。へ、返信してる時間がなくて、ご、ごめん……」
 玲香ちゃんが、息も絶え絶えに声に出す。
 よほど急いできたのだろう、まだ苦しそうだ。
「『玲香先輩』、ご、ごめんなさい」
 高嶺がようやく、自分がとどめを刺しかけたことに気がついたようだ。
 やさしい玲香ちゃんは、なんとか息を整えると、笑顔を作りながら答える。
「だ、大丈夫。でも『由衣ちゃん』、でも次はもうちょっとだけ……。手加減してね……」
「危うく殺人事件になりかけるところだったわね。ただ仮にそうなってもわたしは目撃者なんてごめんだから、海原(うなはら)くんが事情聴取を受けてきてね」
「ひとりだけ刑務所とか嫌ですからね。絶対三藤先輩も共犯だって、いい張ります」
 まったく……。
 すぐに脱線するんだよな、このふたり。
 僕は少し大袈裟に、もうお手上げです、といわんばかりの表情で玲香ちゃんのほうを見るけれど。
 彼女は、僕を見つめ返すと。

(すばる)君、わたしいまね! 最高に楽しい!」
 そういって、とびきりの笑顔を見せてくれた。



「ヨ〜イショ!」
 ……ローカル線の車内に入ると、玲香先輩が楽しそうに、即席の四人掛けを完成させる。
 ただの椅子の背を持ち上げ、方向を変えるだけの動作だけれど。
 その姿に、迷いがない。
 なんとなくなにか、吹っ切れたようなその顔を見て。
 わたしは思わず、アイツと顔を見合わせる。

 それからしばらくして、列車が動き出すと。

「あのね。きょうね、部活辞めてきた!」
 玲香先輩が、駅から出るのを待ち構えていたかのように、明るい声で。
 いきなりとんでもないことを宣言した。


 話の中身と声色のギャップに、思わずアイツとわたしがフリーズする。
「由衣ちゃーん? 大丈夫?」
 玲香先輩が、わたしに呼びかける中。
 三藤先輩は特に表情を変えることなく、窓の外を眺めている。
 いや、それだけじゃなくて。
「案外と、早い決断だったわね」
 ……なんなの? そのあっさりとした反応?

「うん! スッキリした」
 ニコリと、照れ笑いを浮かべている玲香先輩に。
「い、いきなりだけど、それでよかったの?」
 アイツが慌てたようすで、聞いている。
「え〜、昨日もちゃんと昴君に匂わせたつもりだったけどなぁ?』
 そうなの?
 アンタ、ちゃんと聞いときなよ!
「……それに、前から考えてはいたしね。みんなが助けてくれたおかげで、吹っ切れたから大丈夫!」
 まったく……。事前情報があれば、驚かずに済んだのに。
 でもこれって、本当におめでとうとかいっていいのかな?

「ちなみにね、響子(きょうこ)先生も喜んでくれたよ」
「え? そうなんですか?」
 高尾(たかお)先生の話しが出たので、わたしは少し正気を取り戻す。
 まぁあの先生なら……、そんなことをいいそうだし、いいのかな?

「でね、響子先生。これでわたしも……って。ごめん! いまのはナシ!」
「え、なになに? 気になるそれー」
「ちょっと、高嶺さん」
 横からいきなり、三藤先輩が。
 高尾先生の話しなのだから本人から聞けと、あまりにも正論をいってくる。
 いや、確かに正しいけどさ。
 いい出したの、わたしじゃないんですけどぉ!


「由衣ちゃん、ごめんね……。響子先生もたぶん、まだいえないけれど、やりたいことがあるんだと思う」
 うん、そうだね。
 三藤先輩の話しじゃないから、素直に聞いておこう。
「だから、えっとわかりにくいかもだけど、もうちょっと待っててもらっていいかな……。自分からいっちゃったのに、ごめんね。『由衣ちゃん』!」
 わかったよ、玲香先輩!
 先輩のいうことだから、聞くね。だって、だって……。

「……どうした? なんかお前、涙ぐんでないか?」
 あぁ、鈍いヤツが絡んでくる。
 さっきプラットフォームでギュッってしたときから、聞き間違えかと思ったけどさぁ……。

「あのさ。『玲香先輩』が、わたしのこと名前呼びしてくれたの、気づいてないのアンタ?」
「いや、それって泣くようなことなのか……って、グエッ!」
 あぁもう!
 少しは黙れ、バカ!

「……だって昨日、わたしのことも名前で呼んでくれたでしょ? だからこれからは、『由衣ちゃん』でいいかな?」
「もちろんですーーーーぅ。『玲香先輩』大好きーーー!」
 ちょっと周囲が驚くボリュームで答えちゃったかも。
 でも、どうよ!
 わたしたち、一気に仲良くなったから!



 ……なぜだか高嶺が、妙に玲香ちゃんになついたようだ。
 うれしそうに、アイツの頭を撫でてあげている玲香ちゃんを前に。
 三藤先輩は、ただ窓の外を眺めたままだ。
 だがふと、僕の左肩に。
 髪先と、それをとかしたあとの右手の小指が少し当たった感覚がした。

「なんだか、面倒なことが増えただけの気がするわ。ね、海原くん?」
 最後に小さく僕の名前を加えた、三藤先輩の意図はいったいなんだったのだろう?
 目の前で甘くいちゃついている、玲香ちゃんと高嶺を交互に見ながら。
 僕は、そんなことを考えたけれど。
 当然先輩は、答えてなどくれなかった。

 高嶺の降りた駅を、列車がゆっくりと発車して。
 プラットフォームで、ご機嫌に手を振るアイツの姿が、見えなくなる。
「あのね……」
 玲香ちゃんが、急に真面目な声になると。
 三藤先輩と僕を、じっと見ながら聞いてきた。
「月子ちゃん。あなたの予感は当たるかも知れないけど、それでもいい?」
「仮定の話に答えても仕方がないわ。そうなってから対処するから、安心して」


 ……なんの話しか、まったく僕には想像がつかないが。
 僕もまぁ『そうなったら』、わかるのだろう。

 玲香ちゃんと目が合うと、彼女はふっと笑って。
「昴君。月子ちゃんって、相当ややこしいよね?」
 そう口にすると同時に、玲香ちゃんが僕の腕を引き寄せかけて。

「ちょっと!その腕を離しなさい」
 即座にふたりの腕のあいだに手を伸ばして。
 三藤先輩が迎撃にかかったけれど、その瞬間。
「ゴトン!」
 やや大きな音と共に、急に列車が横に大きく揺れて。意図せず三藤先輩の後頭部が、僕の顔面にぶつかった。

「ご、ごめんなさい海原くん!」
「い、いえ。平気ですから」
 いや、平気ではない。
 正直、痛みなんかよりも。
 僕はこのとき、これままで一番、先輩の体温を感じて。
 それどころか、三藤先輩の髪の毛のやわらかさと、その甘い香りまでをも……。

 これまでにないほど、両耳を真っ赤にしながら先輩は。
「と、とにかくごめんなさい」
 そういいながら、僕も何度も顔を下げて謝っていて。
 僕はその返事に、忙しくて。
 だから玲香ちゃんが、なにかつぶやいたのだけれど聞きそびれてしまった。

「……わたしだって、負けないから」
 もし、あのとき。
 玲香ちゃんのいったことが、きちんと聞こえていたら。
 僕たちの未来は、変わっていたのかも知れない。

 だがもう一度いうけれど。
 三藤先輩も僕も、自分たちのことで精一杯で。
 玲香ちゃんの言葉を、聞きそびれていた。


 列車が減速を始めて、やがて僕たちの降りる駅に到着する。
 ふたりで、前の扉から降りたあとは。
 三藤先輩の助言というか命令に従い、『適度な』距離を取り、出発する列車を見送った。
 窓際から僕たちを見ていた三藤先輩は、やや複雑そうな表情をしたまま。
 お愛想程度に、手を振り返してくれた。


「……ねぇ昴君。わたし、色々頑張るから」
 あとから思えば。
 玲香ちゃんは、あのとき。
 列車が見えなくなるまで、待ってくれていたのかもしれない。

「玲香ちゃんはもうずっと頑張ってる。そらくらい、僕にもわかるよ」
 僕としては、素直な感想をいったつもりだったけれど。
 どうやら、彼女を驚かせてしまったようで。

「えっ?」

 そういって、玲香ちゃんは。
 歩き始めたはずのプラットフォームで、突然立ち止まった。



 ……ふと、我にかえると。
 昴君とわたしの影が重なっているのに、気がついた。

 夕暮れに向かって、ゆっくりと進んでいる太陽のおかげで。
 わたしたちの影は、実際の身長よりも長く伸びている。
 わたしは自分の影を離してから、もう一度まっすぐに昴君を見て問いかける。

「ねぇ、昴君はいつもそそうなの?」
「へ?」
「月子ちゃんや由衣ちゃんにも、そうやって言葉をかけているの?」
 昴君は、質問の意味がよくわからないみたいで、首をかしげたままだ。
 わたしは、肩から力を抜くことにして、それから。
「まぁいいや。そのうち、自分で確かめるから」
 そういってから、そっとほほえんで。
 それから、もう一度。
 引き続き不思議そうな顔をしている、昴君を見る。

「ちょっとそのまま、動かないでくれる?」
 わたしは彼に告げると、ゆっくりと自分の影を移動させる。
「なにしてるの?」
「いいから、そのままにして」
 わたしの頭の影が、彼の肩の影に近づいていく。
 一瞬、動きを止めてから。
 そっと、やさしく、慎重に。

 そうやってふたつの影を、重ね合わせるのに成功したら……。



 ……玲香ちゃんが、とても小さな声でなにか口にしたので、僕はその顔を見ようとしたけれど。
「動いたらダメだよ。ずれちゃう!」
 玲香ちゃんが、前を向いたままで話せと僕にいう。
「えっと、ごめん。さっきなんていったの?」
「聞いてなかったの?」
「いや、聞こえなくて……」

 顔は見えなくても、玲香ちゃんが笑ったのがわかった。
「仕方ないなぁ、特別にもう一度教えてあげる。その代わり……」
 聞いたあとはなにも答えずにきょうは帰ってね、僕はそうお願いされた。


「これなら、昴君の肩を濡らさなくて済むね!」


 そんな声が、聞こえたと同時に。
 玲香ちゃんの影が、小さく、素早く手を振って。

 玲香ちゃんはそのまま、駆け出していく。


 するとなぜだか、不思議なことに。
 玲香ちゃんが実際は触れていなかったはずの、僕の右肩が。

 ……少しだけ、熱を帯びている気がした。