玄関ホールからのんびりと歩き始めた僕を。一瞬誰かが、呼んだ気がして。
「海原昴君!」
今度は、はっきりとフルネームで呼ばれて。驚いて、声のしたほうを向く。
そこには三年生を示す色のリボンをつけた女生徒が、ニコニコしながら大きく右手を振っていて。
隣の長身の男の先輩も、軽く左手をあげてから、敵意のない目で僕を見ている。
「驚かせてごめんね!」
あぁ、今朝も聞こえたのは、この声だ。
「わたしは、三年一組の都木美也。よろしくね! あとはこっちは同じクラスの、長岡仁くん」
「おう海原、よろしくな!」
明るい声と、力強い声のそれぞれに挨拶までは返せたけれど。
いったいこのふたりは、どうして僕を呼び止めたのだろう?
「ちょっとこっちに来て」
とてもきれいな先輩と、バレーボール部のユニフォームの男子に呼ばれて。僕は自分が向かうべき教室棟とは、反対側のほうへと誘導される。
「もうこの辺なら大丈夫かな。いやー、びっくりしたよねー。わたしだって驚いたよー」
周囲の人けが減ると、都木先輩は明るく笑う。
「えっと、海原君が最初に会った子は、三藤月子ちゃん。で、あとからきたのがわたしの幼馴染で、春香陽子」
なるほど、さっきのふたりのことか。
ただ、あえて訂正するのなら……。
僕が『最初』に会ったのは。
……都木先輩、あなたですよ。
「でね、月子ちゃんって。校内では陽子以外とは誰とも話さないって、有名なのよ〜」
都木先輩に僕の心の声が聞こえるはずもなく。先輩は、どんどん話しを進めていく。
「なのに今朝はわざわざ人の集まる所に出てきた上に、いきなり海原くんに話し出したもんだから……。周りからしたら、あり得ないことだらけで、ほんと大事件、ってわけ!」
都木先輩が、大真面目な顔で教えてくれるんだけれど。
でも、その表情がどこか……。
「あと、それに陽子が……」
続けてなにか話そうとした都木先輩が、ここで一瞬止まって。
しばらくすると、吹き出した。
「ご、ごめん……! 陽子があんなこというから、つい……」
僕も、自分自身であの瞬間をリプレイしてみる。
「ちょっと無理!ごめんねー!」
確かに……。
あれでは周囲が色々誤解しても仕方のないセリフだと、改めて僕も思った。
「あれじゃ、最悪の返しだよね〜。ほんと陽子が、ゴメン!」
都木先輩がまだ笑っている。
この先輩は、ひょっとして幼馴染のために。僕に代わりに謝ってくれているのだろうか?
都木先輩と春香先輩は、とても仲がいいのだろう。
そして、その春香先輩は、三藤先輩と仲がいい。
なんだか、急に最悪から害悪がすべて取り除かれて。
僕は自分の身に起こったことが、単なる笑い話しに思えてきた。
……それに。
まぶしい笑顔とは、まさしくこのことをいうのだろう。
都木先輩を見るとつられて、思わず僕も笑顔になってくる。
「お、意外とタフなんだね、海原くん。よかったぁ」
都木先輩はそういうと。
今度は心から安心したような顔で、もう一度笑顔になる。
「まぁ仲良しのふたりのしたことだから……、とにかくごめんなさい」
ただ、このときだけは。
都木先輩が一瞬、悲しげな表情を浮かべた気がする。
長い髪の毛が、床と垂直になるほど、まっすぐに伸びて。
都木先輩が僕に頭を下げる。
「い、いえ。別に都木先輩がなにかした訳でもありませんし!」
怒ってもいないし、そこまで謝らないで欲しい。僕は慌てて先輩にそう告げる。
「でもね、陽子はわたしの幼馴染だし、月子ちゃんだっていい子なの!」
な、なんてまっすぐな先輩なんだ……。いきなり、見ず知らずの一年生のために、そこまで謝れるなんて。
なんだか都木先輩って……。
「素晴らしい女性だぞ!」
突然割り込んだ長岡先輩が、豪快に笑いながら、自慢げに口にする。
一方の都木先輩は、やれやれという顔をしてから。
「男子って単純だからねぇ……」
そんなことを口にするのだけれど。
ただ、その表情は照れ隠しとかではなくて。なにかやはり、悲しいというか寂しげな印象がした。
都木先輩その表情の奥には、いったいなにが隠されているのだろう?
残念ながら。
……まだ出会ったばかりのこのときの僕には、ちっともわからなかった。
それからまた、都木先輩が一瞬なにかいいたげな顔をして。仕方ない、と取り下げた気がする。
僕は少し気にはなったけれど。この先輩にはまた会う機会が近々やってくる、なぜだかそんな予感がした。
「しかし美也、きょうはやけにしゃべるよな?」
「えっ?」
長岡先輩の不思議そうな表情に、都木先輩が驚いた顔をする。
「そ、そんなことないよ。いつもと変わらない!」
「そうか? なんか機嫌よさそうだけどな?」
「もぅ、長岡くん。そんなことはいいからさ。海原くんを教室まで送ってあげてよ!」
「えっ?」
このまま会話がもう少し続いて、じゃぁ失礼します、みたいな展開だと思っていたのに?
「……お、おう! まぁこれでも、少しは人望はあるつもりだ」
「い、いえでも……」
「心配すんな。俺と教室まで行く。そしたら少しは周囲の誤解も解けるだろ!」
あ、ありがとうございます……。
一応ここは、感謝なんだろう。ちょっと、嫌な予感もするのだけれど……。
そんな僕に、長岡先輩がニヤリと笑うと。
「よぉし」
「へ?」
「感謝のついでに、バレー部入部しないか? お前身長もそこそこ高いしな」
「え……」
「ちょっと、長岡くん! 変な恩を売っちゃダメでしょ!」
そうやって僕を救ってくれた、都木先輩に感謝のお辞儀をしたのを見届けると。
「よし、行くぞ!」
長岡先輩は威勢よく、僕の教室へと進み出した。
……教室棟一階の一番奥にある一年一組の教室に通い始めて、一週間になる。
七クラス分続く、長い廊下を歩くあいだ。
僕は『肌感覚』という言葉の意味を、かみしめる。
並木道での出来事を直接見た新入生は、そう多くはないだろう。ましてやまだ入学して一週間だ、そもそも顔と名前が一致していなくてもおかしくない。
だが、そんな僕の目論見は甘かったようで……。
いやむしろ、周囲がそれを許さなかったのかもしれない。
サービス精神旺盛な長岡先輩が、僕を連れて一年生の廊下を行脚する。
長身で、いわゆるイケメンの範疇に入るだけでも目立つのに。よりによって、ユニフォームのまま歩くものだから……。
女子が気にするし、男子はなにごとかといぶかる。
そこから呼応するように、先程の並木道での出来事が。間違いばかりの伝言ゲームとして広まっていくのが、嫌でも僕たちの耳に聞こえてくる。
「あ、あの長岡先輩。非常にいいにくいんですけど……」
「お、おう」
「こ、これってなんか逆効果になってませんか?」
「そうだな、俺もちょっと失敗したかと思い始めた。すまん……」
まったく、素直というか、まっすぐというか……。
残念ながら、不器用な男ふたりでは。
この妙な空気を、どうしても吹き飛ばせそうもないらしい。
残念ながら、僕のクラスへの道のりはまだ三クラス分も残っている。
だがそのとき、真空砲、ではなくて。
高嶺由衣のまっすぐな声が、一組のほうから一直線に飛んできた。
「ちょっと海原! アンタ日直だよ。今度はなにしてんの!」
「す、すいません!」
練習で、顧問に怒られたときの反応なのか。
反射的に僕ではなく、隣の長岡先輩が返事をしてしまう。
「え、なに? ……って、先輩じゃん!」
さすが高嶺だ。長岡先輩を前にしても、態度が大きい。
「お、おう……。まぁ気にするな」
その気配に押されてか。逆に長岡先輩がアイツに謝られるよりも先に、許してしまった……。
「はじめまして。海原の『保護者』の、高嶺由衣です」
なんか、後半余分じゃないのか? まぁそれはさておき。
よそ行きモードのスイッチが入ったアイツは。
肩を少し越えた長さで、先端にややウェーブのかかった栗色の髪の毛に、右手の人差し指を絡ませて。
少し首を斜めに傾けながら、その大きな目を精一杯細めて笑顔になる。
「お前さぁ、その笑顔、わざとらしいっていってるだろ……」
「ちょっと! 一応先輩の前だから愛想振っただけで、アンタにやったんじゃないから黙っててよ!」
「おいそれ、先輩本人の前でいったら意味ないだろう……」
「うるさい! ならそもそもいわせないでよ!」
そんなやりとりを、思わず口を開けて眺めていた長岡先輩は。突然、野太い声で豪快に笑いだしてから。
「なんだ海原、もう大丈夫だな! よし。じゃ、またな!」
いうが早いか、向きを変えるとダッシュで消えていく。
高嶺は、そのコミュニケーション能力をいかんなく発揮して。
「ありがとうございました〜」
笑顔で手を振って、見送っている。
……そう、救世主はまたしても高嶺だった。
なんだかわからないけれど。
このやり取りを見ていた周囲の生徒たちが、なにかを勘違いしたようで。並木道での出来事に関する一年生たちの誤解や噂話は、見かけ上ではほぼ吹き飛んだ。
実際、他の新入生たちだって忙しいのだ。新しい学校、友人関係、部活動、勉強やらなんだかんだと。やることは、山ほどある。
それに上級生たちのことも、まだそれほど知らないし、わかっていない。
だから大抵の一年生は、今朝もいまの出来事も。既に仲良くなった、先輩後輩の関係を見ただけだと理解して。自分たちも、早くそんな流れに乗らなければと焦ったようだ。
……こうして僕は、暗黒の高校デビューを逃れることが出来た。
「高嶺、ありがとう!」
僕の明るい声に驚き、アイツが訝しげな表情を僕に向ける。
「ね、ねぇアンタさぁ……。なんか変なこととか、企んでないよね?」
「なんだよそれ? 別にないぞ」
「じゃ、じゃぁいいんだけど……」
……大切なことだから、念のためくりかそう。
僕はなにも、企んではいなかった。
そう、このときはまだ。


