どうにも止められない気持ちという存在を、確かに実感した。
……わたしは、気がつくと海原昴の手を引いて。
非常階段を駆け足でのぼっていた。
いまだけは、なにが起こっても途中で絶対に止まりたくない。
一年一組の教室を、勢いよく飛び出したあと。
無我夢中で三年生の教室のある二階へ、続いて二年生の過ごす三階へと一気に駆け上がる。
三階を越え、非常階段の最後の踊り場も走り抜けた先で。
黒くてみるからに重そうな扉の前に、ふたりで立つ。
「絶対、誰にも内緒よ……」
わたしは彼を、まっすぐに見つめて同じことをもう一度繰り返す。
海原くんが、約束を破ることなどないと信じていた。少なくともこのときは。
「これが、わたしの宝物」
秘密の鍵を取り出すと、目の前の重たい扉の鍵をゆっくりと開ける。
続いて大きな音がしないように、そっと、そっと扉を動かし。
海原くんと中に入ると、慎重に扉を閉める。
真っ暗な空間に、わたしたちはふたりきりになる。
「手を離さないで、ゆっくりのぼれば平気。段差は、さっきまでと同じ高さよ」
わたしを握る彼の手が、少しだけ強くなる。いや、わたしが彼の手を強く握ったのが先だった。
手が少し汗ばみ、呼吸が荒くなる。
無理もない、一気にふたりで、一階から駆け上がったのだから。
「いい? もうひとつ扉を開くわ。少し目がくらむから、気をつけて」
返事の代わりに、海原くんはわたしを握った手から力を少し抜いてくれる。
その瞬間、わたしの心臓が再び大きく波打ったのがわかる。
は、早く扉を開けよう。
この手を離さなければまずい、そうしないと……。
……扉の先は目がくらむ。
三藤月子の言葉は、本当だった。
その場所は、たっぷり七クラス分とその廊下、階段やその踊り場ふたつと同じ面積を持った平らな場所で。
くわえて『天井』には。
空までなにも、遮るものがなかった。
「教室棟の屋上は、ほかの棟より高いところにあるの」
自信満々に三藤先輩がいう。
確かに、丘の傾斜を利用して並ぶ校舎のほかの建物は、すべて斜め下に広がっている。
「……海原くん。ここがね、わたしのお気に入りの場所」
そういって、気持ちよさそうに空から息を吸った三藤先輩の横顔は。
僕にとって、太陽よりもまぶしかった。
「……言葉が、出ません」
ようやく、口から出た僕の言葉に。
「ちゃんと、出てるじゃない……」
とびきりの笑顔で、三藤先輩が答える。
僕は三藤先輩と目が合ってようやく、すっかり忘れていた『重大な事実』を思い出す。
「す、すみません! まだ先輩と、手を繋いだままでした」
僕は慌てて手を離そうとしたが、なぜか手が抜けない。
「べ、別に。わたしも忘れていたから構わないわ……」
三藤先輩は、遠くの空を見ながらそう答える。
「えっ?」
その答えに驚いて、抜けない手のほうを見てみると……。
そうか、手が抜けないのではなくて。先輩が、放そうとしていなかったのか……。
……恥ずかしくて、海原くんの顔を見られない。
だからわたしは心の中でだけ、海原くんに向けてつぶやく。
さっき扉を開ける前は、そろそろ手を離さなければと思っていたのに……。
ごめん、いまは離したくないの。
だから、だから……。
「……あと少し、離すのはあとにしましょう」
僕の、不謹慎な提案に。
先輩が少し安心したようなほほえみで、同意してくれた。
「えっ、いいんですか? ほんとに?」
「なによそれ? 自分でいったくせに。そ、そんなに驚かなくてもいいでしょ……」
「す、すいません……」
「いいわ、それなら」
先輩は、控えめに空気を吸ってから。
「次に強い風が吹くまで、待ってあげる」
そういって、もう一度ほほえんだ。
三藤先輩の許可を得た僕は、そのとき。
確かきょうは、風の弱い日だったと。
今朝みたはずの天気予報を、必死に思い出していた。
……やさしい風の吹く屋上を、見回せる余裕が少しだけうまれた。
「あ、あまりそっちにいくと、別の棟から見えるかもしれないわ」
そういうと先輩は、僕を逆向きの、住宅地との緩衝帯となっている雑木林のほうへとゆっくり誘導してくれる。
「上から眺めると、なんだか歩いて渡れそうな気がしない?」
「危ないから、実際にはしないでくださいよ」
笑顔で返しながら、僕は改めて先輩の顔を見る。
太陽に照らされたその表情が、心の底から楽しんでいるのを教えてくれて。
……三藤先輩が握る手の力が、先ほどより少し、やさしくなった。
ふと油断した、その瞬間。
思いがけず強めの風が吹いて。
先輩が反射的にスカートを抑えようとしたため、僕は慌てて手を離す。
おかげでスカートは無事で、代わりに黒く長い先輩の髪が。
一気に青い空に、舞い上がる。
「……手、離しちゃったね」
三藤先輩が小さな声でつぶやいて。
「スカートの中を見たら怒られそうですから、致しかたないですよ」
「ふ〜ん。海原くんは、紳士なんだね」
「お天道様が、見てますからね」
「なによ、それ」
先輩は楽しそうに、声を上げて笑った。
「……またきたいですね、この場所に」
時間になる前に戻ろうと、扉の前に立った先輩に僕は声をかける。
「うーん、どうしようかな? ただ、その前にひとつお願い……」
そういうと、三藤先輩は。
左手で僕の手を掴むと、軽く握った白くて細い右手からそっとに小指だけを出し、僕に握らせる。
「もう一度暗いところを通るので、手を繋ぐのだけれど……」
それから少し、声が小さくなって。
「よく考えたらちょっと恥ずかしいから……。帰りは小指だけでもいい?」
僕は返事の代わりに、小指を三本の指で包みこんで。
あとに続く言葉を待ちながら、無言で扉と扉を繋ぐ真っ暗な空間を通過する。
現実の階に戻ると。
先輩が左手で扉の鍵をかけようとするが、上手くいかないらしい。
だから僕は、先輩の右手の小指を。
僕の手から、そっと離した。
なんだか先輩が、一瞬戸惑ったような顔をしたかもしれないけれど。
残念ながら太陽の光で、よく見えなかった。
三藤先輩が、鍵を右手に持ち替えると。
今度はすんなりと、乾いた音を立てて鍵がかかる。
ふたりで先ほど駆け上がった非常階段を、並びながら無言でゆっくりと降りていく。
結局。皆が戻り、にぎやかになりつつある教室の入り口まで。
先輩は、話しの続きをしなかった。
最後に教室に入る直前。
三藤先輩は突然イタズラっぽい笑顔を浮かべると、僕をその両目でじっと見つめてくる。
「……あのね、海原くん」
「はい」
「ひとつだけ、約束してくれるかな?」
……僕はもちろん、返事をしたのだけれど。
結局、続きは内緒だといわれてしまった。
……校内探検も無事に終わり、二年一組への帰り道。
「ねぇ月子、一年生って元気だよねー。ほんと、若いっていいよねー。特に高嶺さんなんかさぁ〜」
陽子、隣で色々話してくれているのに、ごめん。
いま、わたしは。
最後に飲み込んだセリフを、心の中で何度も唱え続けるのに必死なの……。
「今度は、わたしの手を離さないでね」
……ねぇ海原くん。
わかっている?
きょうね、二回ともわたしの手を『先に』離したのは。
……君のほうだったんだよ。


