風が、あたたかくなってきた。
今朝もいつもの時間の、いつもの列車のいつもの扉から。
いつもの座席に座りに行く。
ローカル線の空席の多い車内で、僕が座る席はいつも同じだ。
次の駅からは隣に、中学入学以来の腐れ縁も四年目になる。
高嶺由衣が座りにくる。
……はずだったのだけれど。
「海原くん、おはよう」
僕が返事をするまもなく、三藤月子が僕の『隣席』に腰かける。
先輩のふわりとやわらかな香りを楽しむ以上に、僕は突然起こった出来事に思わず体が硬直する。
「な、なにもそんなに固まることないじゃない。同じ部活なんだし、わたしが前の駅から乗るのも、もう知ってるわよね?」
こちらを見るでもなく、なぜか前を向いたまま。
ほんのり耳を赤くした先輩が、棒読みで話す。
なにか返事をしなければと思うと同時に。
次の駅で、当然アイツがやってくるであろうことを想定すると……。
一刻も早くこの事態を収拾する必要がある。
しかし、あまりの展開に焦るだけの僕は……。
「せ、先輩も。お、同じ電車に乗っているんですね……」
なにをいっているんだ、僕は! だからこそ、この状況じゃないか。
なぜか先輩は聞こえない振りをして、ただまっすぐと前の座席のカバーを直視中で。無情にも隣の駅までは距離が短く、すでに列車は減速し始める……。
「……今朝は、この辺までにしておくわ」
そっ気なくつぶやくつぶやいた先輩は、結局僕を一度も見ないまま前の席へと移動する。
よく見れば先輩は……。
鞄を持たずに、手ぶらで僕の隣に座っていたじゃないか!
やられた……。
三藤先輩に、完全にからかわれたらしい……。
プラットフォームで機嫌よく手を振りかけていた高嶺が、顔をあからさまにこわばらせる。
どうやら目ざとく、前の席に先輩がいるのに気づいたらしい。
「おはよう、海原」
「……お、おはよう」
あ、朝から、機嫌が悪くりましたね……。
「それと前の席の先輩も」
「あら、おはよう」
お願いだから……。も、もめないで!
晴れているから窓際に座るだろうと、席を譲るために移動中だった僕に。
「きょうは窓際譲ってあげる。このままでいい」
アイツはこちらを見ようともせず、手でストップをかける。
ブスッとした表情で口を尖らせたアイツが、真新しい鞄の角をわざと僕の膝にぶつけながら、ドスンと腰かける。
「なに、あれ」
「へ?」
「あれ!」
あぁ、窓際に行かない理由は、これか……。
三藤先輩が、その長い髪の毛をわざとらしく窓際に持ち上げて。
髪のあいだからその白い人差し指と中指を、あえて後席の僕たちに見えるように突き出している。
み、三藤先輩って、意外と攻めるんだ……。
高嶺に口にすることは避けたけれど。
このとき、僕は少しだけ新鮮な気持ちになった。
こうして同じ部活の三人が、同じ列車で学校に向かうこととなったのだけれど。
実はこのやり取りを、車内でもうひとり楽しそうに観察していた人がいたことまでは……。
僕たち三人は、まだ気がついていなかった。
「あ〜もう! なんなの朝から!」
一年一組の教室で再会した高嶺が、いまにも飛び掛かりそうな勢いで僕を睨みつける。
結局あのあと、電車では高嶺はひとことも話さず、乗り換え駅で別になった。
「先輩はお前より、ふたつ手前の駅が最寄りらしい」
「そんなの知ってる! いつも同じ列車なのも聞いた。でもさぁ!」
は、はい……。
「わざわざ前の席に座ってるなんて、聞いてない!」
ここで、僕は話しを終わればよかったのに……。
「いや、あれでもお前がくる前に戻って行ってさ……」
「は? なにそれ! もしかしてそれまでアンタ、隣同士だったってこと?」
まずい……。
僕の余分なひとことが、高嶺の怒りの炎をパワーアップしてしまった……。
「あ。で、でもな……」
なんとか、ふたりがもめないように。
え、えっととりあえず。三藤先輩のフォローをしよう。
「でも先輩は、さ……」
「なによ?」
「驚かせすぎたかしらって、次の列車ではちょっと気にしてたよ」
「え……」
し、しまった。ま、間違った……。
高嶺の大きな目が、さらに広がって……。あ、あぁ……。
「はぁ? 乗り換えてからも、あの女と一緒にずっといちゃついてたってわけ?」
近くで聞き耳を立てていた山川俊が、巻き添えを避けるべく廊下に逃げ出して。
クラス中の男子も全員、それに続く。
その点、女子って意外と冷静で。
このあとの展開を、なにかの処刑ショーが始まるね、みたいな感じで眺めている子たちと。
「海原君……」
「ちょ、ちょっと海原君……」
僕をどう料理しようか考え中の高嶺に気づかれないように、静かに呼んでくれる子たちがいる。
ありがとう。僕を助けようとしてくている、やさしい女子たち。
「あのね……」
「えっ?」
遠慮がちな小さな声なのに、つい普通の大きさで聞き直したのが失敗だった……。
女子の誰かが、聞こえないなら仕方がない。あとでどうなっても知らないよ、みたいな顔をしてから。
「かわいい先輩が、廊下で呼んでるよ!」
もう地獄行き確定だね、みたいなことを僕に告げる。
……隣の大魔神・高嶺が無言で動き出す。
慌てて追いかける僕より先に、大股で廊下へ進み出る。
あぁ、万事休す……、と思いきや……。
「キャ〜!」
次の瞬間、文字で表すと悲鳴に見えるけれど。
同じ字面の、高嶺の弾んだ声が聞こえてきた。
廊下にいたのは、確かに『かわいい先輩』で、平和の使者。
春香陽子だった。
「先輩、どうしたんですか〜?」
僕からすれば、わざとらしすぎるその声色。
「うんうん。今朝も、高嶺さんはかわいいねぇ〜」
「そんな〜、先輩にはとてもかないませんよ〜」
アイツは器用なことに、春香先輩に見えないようにスカートで巧妙にガードした手を使い。
僕に、あっちに行けと追い払う合図を送ってくる。
先ほどまでのことを忘れたのか、廊下に逃げたはずの男子たちが。
脳天気に『かわいい』ふたりを眺めて、ニヤニヤしている。
あぁ、男子というのは……。
こんなにも、見た目に騙されやすい生きものなのか……。
「……まるで、天使と悪魔みたいね」
別の声に驚いて振り返ると、そこにはいつのまにか三藤先輩が立っていて。
ほぼ同時に、アイツも『天敵』の存在に気がつき、一瞬固まる。
「どうやら高嶺さんに『あの女』扱いされたみたいだけれど。わたしは気にしていないから」
三藤先輩が、無表情でつぶやくこの迫力……。
僕が凍りつきそうになる直前、今度はまた別の声がして。
「もしかして、またもめようとしてる?」
「え……」
都木美也が、右手で僕たちに手を振りながらニコリと登場する。
となると、残るはやはり……。
「まーったく朝から一年の教室前に集合しているなんて。ほんと、後輩思いだねぇ〜」
出たーっ!
僕たちの英語教師かつ我らが顧問、藤峰佳織女王の登場だ。
え、でも……。確か。
「一限目って、英語じゃないですよね?」
「ちょっとさぁ。そんな迷惑そうにいわないでよ。きょうは朝礼から一年一組のヘルプを頼まれて、こうしてわざわざきてあげたんだから感謝してよね〜」
藤峰先生、解説ありがとう。
でも、なんで他の先輩たちまで?
「あの。そもそも藤峰先生がここに集合しろとおっしゃられたのでは?」
へ?
三藤先輩、なにかいわれました?
「……そうっスよね。三年一組からも派遣しろってことで」
おぉ、懐かしい。いつのまにか都木先輩に振られてしまった、長岡仁先輩まで揃うとは。
……って、いったいこれは。
どういうことですか?


