「おはよう! 海原君」
「お、おはよう……」
せっかく近くの席の女子が声をかけてくれたのに、その先の会話が続かない。
「やっぱ、高嶺さんしか見てないよねぇ……」
いつもであれば、その少し落胆なのか冷やかしなのか微妙な声にも気づくはずなのに。
僕の意識はそのとき、高嶺の席に置いかれたカバンにしか、向いていなかった。
「おはよう」
朝礼ギリギリに戻ってきた高嶺に声をかけるけれど、返事はない。
「えっと、今朝は……。早い列車だった?」
恐る恐る聞いてみても、反応がなくて。
「そ、そうだよな……」
僕はひとりで話しを終えるしかない。
そのあとも、僕は高嶺に徹底的に無視されたままだったけれど。
「……行くよ」
お昼休みに入った瞬間。アイツが突然口を開いた。
怒りなのかなんなのか、やや頬を赤らめて、中央廊下を無言でズイズイと突き進む高嶺のあとを。僕は急いで追いかける。
「お、お先にどうぞ……」
部室に到着し、ノックして扉を開け、高嶺を通す。
「ありがと」
ぶっきらぼうだけれど、たまにめちゃくちゃ律儀なのが……。アイツっぽくて少し安心した。
……『機器室』ではすでに、三藤先輩が真剣な表情でお茶を淹れていて。春香先輩が愛おしそうに、そのようすを眺めている。
「失礼します」 高嶺はそういいながら、机を挟んで春香先輩の向かいに迷わず座る。
アイツは相変わらず、三藤先輩とは目を合わせないのだけれど。でもなんだか、あからさまに無視しているわけではなくて。
「あれ?」
ふたりのあいだに、なんらかの変化があった気がする。
お茶が四人に行き渡ると、春香先輩が。
「あ、あのね月子……」
そういいかけて。
「まだ『足りない』のよね。ちなみにお茶は『足りている』わ」
三藤先輩がなんだか謎かけみたいに、返事をしている。
「あ、ありがとう……」
春香先輩がほっとした表情を見せているけれど。どういうことなのだろう?
それ以上四人の会話が進まなくなり、部屋の中を沈黙が覆い始める。
でもそのおかげで。
廊下でこの部屋に向かって進んでくる足音が、僕の耳には聞こえていた。
ノックのあと、静かに部室の扉が開く。
「えっとね、とりあえず入れてもらえるかな?」
「では都木先輩、『とりあえず』どうぞ」
三藤先輩はそう答えながらすでに急須を手に持ち、お茶を淹れ始めている。
なるほど、三藤先輩は都木先輩がやってくるとわかっていて。だからお茶が『足りる』ようにしておいたのか。
……カチ、カチ、カチ。
秒針が鳴らない部室の時計の針が。再度の沈黙は、ここまでにしないかと告げたのかも知れない。
「まだ部長ですので。致しかたありませんが、わたしが始めます」
三藤先輩が仰々しく、宣言すると。
「よろしくお願いします」
誰からともなく、声が出て。
僕は意外と声が揃うもんなんだと、少し驚いた。
「では、高嶺由衣さんと海原昴君。『機器部』に入部しますか?」
「はい」
これまた自分でも驚くくらい、スムーズに返事をして。
おまけに、それが高嶺と同時だったので思わず、僕たちは顔を見合わせる。
実際は、ちっとも長い期間ではなかったけれど……。
アイツはそのとき、ひさしぶりに。
僕にいつもの笑顔を、照れくさそうに少しだけ見せてくれた。
「ようこそ『機器部』へ。歓迎します」
三藤先輩は、特に表情を変えることなくそう告げる。
「わたしも、歓迎するよ!」
それを見て、春香先輩が慌てて笑顔で付け加えてくれる。
だが三藤先輩は、春香先輩をさえぎるようにして。
「それで、都木美也先輩は。いったいなにをしにいらしたのですか?」
もうひとりのゲストに向かって、切り込んだ。
「長岡仁と別れました。再入部を希望します」
ガタン、と思わず大きな音を出したのは、春香先輩のほうだ。三藤先輩の表情は変わらない。
「ちょ、ちょっと待って美也ちゃん! 部室にくるとは聞いたけど、いきなりなにいってるの?」
そう、いきなり過ぎでしょう……。
「だって陽子にもいま、いったからね〜」
都木先輩は、あっさりいうと。
「ただ月子ちゃんは、もうわかっていたみたいだけどね」
なんだか意味深なことを、付け加える。
「……わたしは、都木先輩の個人的な事情には、興味ありません」
そ、そうなんだ……。
「ですが、お付き合いしていて別れたのが真実なのかは、微妙だと思っています」
「三藤先輩! 失恋したのに、なんかそれひどくないですか!」
あぁ、高嶺いま口挟むなよ……。またもめるだろ……。
「いや、失恋してないよわたし」
え? と、都木先輩?
「あ! じゃあ別れは、都木先輩からなんですね!」
お、おい高嶺……。妙に明るい声だけど、さ。
もうそれ以上深堀りは無用だ。そっとしておこうよ……。
……仕方ない。
高嶺よ、よく聞け。
僕がお前に、知恵を授けてやろう。名言らしいから、よく聞くんだぞ。
「『どっちから口にしても、失恋は失恋さ』」
……どうだ?
よくわからんが、ちょっとだけ、格好つけたつもりだ。
「え……? どうしたの、海原君?」
「は? アンタ、なんかいった?」
「いま、なんて……? 本当に、海原君だよね……?」
春香先輩、高嶺、都木先輩が驚いて僕を見る。
ち、違うの? これって……、『名言』じゃないの?
「海原くん……」
低い声が、僕を刺すように飛んでくる。
「は、はい……。三藤先輩……」
「とりあえず、黙っておいてもらえるかしら?」
「は、ハイっ……」
「……うわっ、ダサっ!」
「ちょ、ちょっと高嶺さん……。たぶん男子の漫画とかで読んだんだよ、そっとしてあげようよ?」
「そうですね、春香先輩!」
……ちょ、ちょっと違う。
いや、全然違う。
このセリフは、三藤先輩の家で聞いた話しだ。
はっきりいって、まったく意味がわからなかったけれど。
「『恋の名言』があってね……」
僕じゃなくて、三藤先輩の本にあったやつだ!
「う、海原くん……」
「は、はい……。三藤先輩……」
今度の呼びかけには、なんだかこう、すっごく背筋の凍るものが含まれている気がして……。
「聞こえなかったの? 黙っておいてもらえるかしら?」
「ハイっ……」
きっと墓場まで持っていく秘密なんだと、理解した。
……三藤先輩が、ちょっと変わった咳払いをしてから。
「とにかく、再入部をご希望なのですね?」
都木先輩に再確認する。
「ど、どうかな……?」
「副部長の陽子、どう思う?」
「どうって……。月子は?」
「部長としては、断る理由はないと思っているわ」
三藤先輩は、続けて。
「あとは、陽子次第で構わないと思う。わたしからいまさら、都木先輩にとやかくいうつもりは特にないの」
……いったいこの三人の、ものすごーく違和感のある会話の裏には、なにがあるのだろう?
そして都木先輩って、やっぱり同じ部活だったのか?
まぁどんな因縁があろうとも、三人が納得したならいいんだよな……。
なんか、僕はこの場にいないほうが良かったのかな。
……と思ったそのとき、なぜか高嶺が挙手をする。
「あの! 再入部と彼氏と別れることって、関係あるんですか?」
え〜、またそれ?
突っ込むところがそれなのかとは、思ったけれど。
あれ? どうやらアイツは真剣に考えて、質問しているようだ。
でもわからん。そんなに大事なことなのか?
「だってこの部活のルールで、恋愛は禁止されているからね」
さらりと、都木先輩がいってのける。
「……でもそれってさぁ。いつから始まったかさえわからない謎ルールじゃないかなぁ〜?」
予想しない声が、扉のほうから聞こえて。
え? いったい、いつのまに入ってきたんだ? まるで忍者のように、藤峰佳織女王が登場した。
藤峰先生は、もちろん僕の動揺などまったく気にせず。
「とりあえず座るわね」
唯一空いていた、三藤先輩と僕のあいだにあたる『議長席』の椅子に腰かける。
「謎ルールかどうかは関係ないんです。先輩から伝えられてきたことですから」
「あら〜月子部長、それであなたは納得なのかしら?」
「……コメントは控えます」
「じゃぁ、高嶺さんは?」
「えっと、い、いまは……話題が逸れてしまいます」
なぜか、オロオロする高嶺。
でも、お前がわざわざ持ち出した話題じゃなかったのか?
藤峰先生は両肘をついて例の悪戯っぽいスマイルを浮かべると、全員の顔をひととおり見つめてから。
「ま、そのうち変わるか……」
ボソリとつぶやいた。
……で、肝心の都木先輩の件は、どうするんだろう?
ひと呼吸おいて、
春香先輩が、都木先輩にスッと手を差し出した。
「おかえり」
「た、ただいま……」
ふたりが笑顔で、手を握る。
「よろしくお願いします!」
高嶺が、そういって強引にふたりの握手に混ざり。
そして三藤先輩が立ち上がる。
「都木先輩……」
三藤先輩が、右腕をやさしく伸ばして。
「月子ちゃん……」
よかった。ついに、みんなが一緒に……。
……って、えっ?
「再入部届の、提出をお願いします」
入部届の上に、やたらと達筆で『再』と朱書きされた用紙を。三藤先輩は優雅にその右手で、机の上にスッと置く。
「あとのふたりも、入部届を書いてもらえるかしら?」
続けて高嶺と僕の前には、朱書きのないただの入部届がススッと出てきて……。
「さすが、月子部長だねぇ〜」
藤峰先生が、心の底から楽しそうにいって、笑いだす。
「もう、月子。少しくらいやさしくしてよねぇ〜」
「めんどくさっ。でも、三藤先輩の人となりがよくわかりました!」
「月子ちゃんの気が変わらないうちに、いますぐ書くね!」
みんなが、好き勝手いいながら。
あっというまに、三人分の署名が書き上がる。
なんともいえない……。
これが、この瞬間が。
この部活のメンバーが五人になった、記念すべきときだった。
……しかし、感傷に浸るその前に。もうひとつの疑問を、解決せねばなるまい。
そう決めた僕は、やや控え目に挙手をする。
「……どうしたの? 海原くん」
「ぶ、部長すいません。横にご本人がおられるのになんですが……。いったい藤峰先生って……」
「あーらミスター・ウナハラ、さすが恋を語る男子! まだわからないなんて、ニブすぎっ!」
えっ……。
この先生、いつからいたの? まさか聞いてたとか……。
藤峰先生は、僕に右目で無駄にウインクをすると。
「ミスター・ウナハラ。わたしはねぇ……。『機器部』じゃないけど、ここの顧問なの!」
またえげつないことを、口にした……。
「……海原くん、いきなり辞めたりしないでよ」
三藤先輩が、これはどうしようもないことなのよ、という顔で僕を見る。
「新入部員のふたりには、まだまだわからないこととか、理解できていないことがたくさんあると思うわ」
……はい、おっしゃる通りです。
「だけれど、それはもう終わったことにしたいの。だから、必要があればお伝えするけれど、それまでは深く聞いたりしないで貰えないかしら?」
静かに語る三藤先輩を前に、異論を挟める余地などない。
まったく……。
並木道でのスタートからして、不思議なことばかりなんだけど……。
もう、覚悟を決めていくしかないようだ。
「……それでは『機器部』はきょうから部員五名。顧問は藤峰佳織先生で活動を開始します」
三藤先輩が、改めて宣言したところでちょうど。
昼休みの終わりを告げる、チャイムが鳴った。
「……それじゃぁ、また放課後ね!」
「放課後に、『機器室』で待っているわ」
「ふたりとも、お疲れさま〜」
中央廊下で都木美也、三藤月子、春香陽子の三人に手を振ると、一年生の教室へと階段をおりる。
新しい始まりを迎えるにあたって、僕にはどうしても気になることがあった。
「なぁ高嶺……」
「なに? どした?」
思いのほか、やわらかい声がして。
でも、それだけで終わらせてはいけないと僕は思った。
「……お前も同じ部活で、本当によかったんだよな?」
アイツは、一瞬唇に右手の人差し指を当てると。
いきなりその指を、僕の目の前に突き出してくる。
「な、なんだよ! 顔に当たるだろ!」
「あのさ……」
僕の反応など眼中にないのか、アイツが僕に一歩近づいてくる。
「わかんないこととか、説明出来ないことって、いっぱいあるでしょ?」
「う、うん……」
「それを一緒に見つけていくのが、きっと青春なんだよ」
……僕はこのとき、どのくらい正しく。
アイツの伝えたかったことを、理解できたのだろう?
そして、アイツは。
「海原昴! ありがとう。おかげで、前に進んで行けるから」
そんなことをいい終えると。
……肩を少し越えた長さの、先端にややウェーブのかかった栗色の髪の毛に、右手の人差し指を絡ませながら。
少し首を斜めに傾けると、その大きな目を精一杯細めて笑顔になった。
あぁなんとも、わざとらしい笑顔だ。
もう、いいかげん見飽きた笑顔だ。
でも、このときの笑顔は紛れもなく。
高校生になった高嶺由衣史上。
……間違いなく、最高のものだった。


