藤峰先生に渡された地図は、あまりに単純なものだったけれど。
「ここかぁ……」
三藤月子の家を探すのは、簡単だった。
先輩の家の最寄り駅から、ほぼ一直線に続く桜並木があって。
そのまま先輩の家を越えそのまま進むと、途中で銀杏並木に変わり、それから我が家を通ると。僕がいつも乗り降りする駅へとつながっていく。
「意外と近所だったんだな」
そんなことをつぶやいて。
僕は『三藤』と書かれた表札のある家の前に立ち、しばし動きを止める。
いや、動きが止まる。
……僕は、どういって先輩のご家族に挨拶するんだ?
「ご体調はいかがですか?」
いや、そもそも風邪でお休みなのか?
あるいは若干宙ぶらりんな状態だけれど、部活の先輩なんだ。
「今後共、よろしくお願いします」
それならなにか、手土産でも持ってくるべきだったのでは?
「な、なにも、考えてなかった……」
インターフォンを前にあれこれ考えていると、予告なく僕の背後から。
「あら、思ったよりも早くご到着されたのね。どうぞお入りください」
三藤先輩とよく似ているが、より落ち着いた声がして。
振り返るとそこには先輩のお母さんと……。
「ほら月子、むしろあなたが先にご挨拶しなきゃ」
よく見れば母親のうしろに、まるで隠れるように。両耳を赤くした三藤先輩が、制服姿で立っていた。
三藤先輩の家は立派な日本家屋で。僕は玄関から、広縁をとおり和室へと通される。
ふたりがお茶を用意してくれているあいだ、座布団を勧められたが、来客とはいえ後輩だし……。
失礼かも知れないとは思いつつも……。僕は広縁に戻り、中庭を眺めている。
「お待たせしました」
そんな、やっと落ち着いたいつもの先輩の声がしたと思ったら。
「よかったら、縁側で仲良く隣同士で座るのなんてどうかしら?」
三藤母の声がかかって、先輩が思わずお盆を傾けそうになる。
「ご挨拶もまだですが、まずは若いおふたりでごゆっくりどうぞ」
しまった。あまりの展開に、自己紹介をし損ねていた!
「た、大変失礼しました! 海原昴、三藤月子さんのひとつ下の一年生です。本日は先輩の担任の……」
慌ててしゃべる僕を、三藤母はやさしく静止する。
「いいのよ、お噂はかねがね。まずは先ほど申し上げましたとおり、おふたりでどうぞ。それとも月子、隣で控えていて差し上げましょうか?」
「お、お母さんはお部屋に戻っていてください!」
三藤母はにこやかに、やさしく手を振りながらまたのちほど、と下がっていく。
ふとみれば先輩が隣で、お盆を持って直立不動のまま固まっている。
「三藤先輩。風もよいですし、お勧めどおり、縁側で頂いてもいいですか?」
ふと我に帰った先輩は、小さくもちろんよ、と答えながら。少しホッとした表情を浮かべて腰をおろす。
……続きをどう切り出したものかと思い、ふと出た疑問を口に出してみる。
「きょうは、学校に行くつもりだったんですか?」
「え! ど、どうして?」
あぁ、質問を間違えた。
確かに一週間近く学校に来ていなかったのに、なんとデリカシーのない質問だ……。
「あ、そういう意味ではなくて……。ただ、その。先輩が制服を着ていたので……」
今度は先輩は耳だけでなく、顔まで真っ赤に染まってしまう……。
カチ、カチ、カチ……。
床の間に置かれた、舶来時計の針の音が聞こえてくる。
「こ、これはね。海原くんが来てくれると聞いたから……。で、い、いったい、なにを着て会ったらいいのかわからなくって……。せ、せ、制服でごめんなさい!」
所々詰まりながら返答する先輩。
自分の家で着るものって、確かに急な来客時には悩むかもしれないな。
僕はなんとなくそう考えると、普段一段上にいるはずの先輩になんだか、親近感のようなものを感じてきて。
「確かに。先輩はほんとに、制服似合っていますもんね」
まずい! 思ったことを、また口に出してしまった。
微妙な、数秒の沈黙……。
あぁ……失敗した! そう一瞬焦ったけれど。どうやらなにかが、先輩の中の流れを変えたらしい。
「えっと、ありがとう、ちょっとうれしいかもしれない……」
やさしい春の風が、中庭の奥に見える木々をそっと揺らす。
僕たちはしばらくのあいだ、きんとんとつぶあんでこしらえた、すみれ草の上生菓子を愛しむように頂戴する。
「美味しいですね」
「うん」
「三藤先輩って、和菓子がお好きなんですか?」
「えっ……」
何気ない会話をしたつもりだったのに、驚かれてしまい。
僕がどうしたのだろうと先輩のほうを向くと、意図せず互いの両目が結ばれて。
もう一度風が吹くと。
木々が一瞬、ざあっと揺れた。
……いま思えば、あのときはほんの少しだけ。
時間が止まったのかも知れない。
「……ほ、埃が目に入ったみたいなので、し、失礼するわ。あと、お、お菓子もお代わりあるから持ってきます」
三藤先輩は、慌てて立ち上がると、急いで奥へと消えて行った。
……ちなみにそのときの僕は。
先輩の目に入った『埃』の真実などには、まったく心当たりがなかった。


