その瞬間。
ヒトの作り出す音がすべて止まると。
校門から校舎へと続く並木道は、一気に静寂に包まれた。
風だけがとても遠慮がちに、枝の先をかすかに揺らしてくれて。
僕はその先にある青い空の中の、ひとすじの飛行機雲に気がついた。
それから、ゆっくりと視線を目の前に戻すと。
やや物憂げでほんのり潤みがちで、それでいてどこまでも澄んだ紺色のふたつの瞳が。
……まっすぐに、僕を見つめていた。
「おはよう、海原昴くん」
控え目ながらも、透き通った声の主はそう告げると。
青みがかった淡い紫色のカードを、律儀に両手を添えて差し出してくる。
「あとで、読んでもらえるかしら?」
目的地を見つけたそれは。
思わずつられて差し出した僕の手のひらの上に、ふわりとやさしく着陸する。
声の主は、僕の返事を待つことなく優雅に反転すると。そのまま校舎へと戻り始める。
そのうしろ姿を呆然と見つめながら立ち尽くす僕の前に、突然別の声の主が現れて。
「ちょ、ちょっと月子!」
よく通る声でそういうと、僕を見て一瞬なにかを考えるような表情をしたあと。そのまま自らが月子と呼んだ人を、慌てて追いかけはじめる。
なんというか、その……。
最悪の言葉を残したまま……。
「……バレー部、よろしくね!」
スクールバスを降りた瞬間、底抜けに明るい女生徒の声が聞こえてきて。僕は慌てて、足元から視線をあげる。
「いつでも歓迎するぞ」
あれ?
あっという間に、声の主は消えていて。目の前は、長身のユニフォーム姿の男子生徒に変わっている。
高校に入学して一週間。
校門から続く並木道は、今朝から始まった部活動勧誘週間のため。前に進むのも一苦労するような賑わいをみせている。
「ぜひ、柔道部へ!」
「いや、時代は剣道部だ!」
「あの……。よかったら、文芸部です……」
僕は、一歩進むごとにまた別のチラシを押し付けられながら。押し寄せる上級生たちの波の中を、なんとか前進する。
半分ほど進むと、少しだけ人混みが緩和されて。僕は左手を持ち上げ、渡されたチラシをぼんやりと眺め出す。
「読まずに捨てるのは、失礼だろうしなぁ……」
別に、誰に聞いて欲しいわけでもなくて。
……まぁ僕は、そんな性格だ。
「バレー部、よろしくね!」
先ほど聞こえた明るい声が、もう一度近くでしたかと思うと。
「二回目だね!」
目の前に白い手が現れ、チラシが上に一枚追加される。
「え……? あっ……」
ポンと置かれたそれを落としそうになり、慌ててつかんで。
それから僕は、振り向いたのだけれど。
その声の主はもう、人混みに紛れてわからなくなっていた。
続いて校舎のほうが、一瞬ざわめいたあと。なぜか急速に、静まりかえる。
遠くのほうに、長い黒髪の女生徒の姿が見えて。どうやら彼女の進む道だけが、なぜか一直線に開いていくらしく。そして、すべての音が止まっていく。
規則正しく歩幅が刻まれ、じわじわと僕との距離が迫ってくるのがわかって。
あぁ、どうやらこの高校には、まっすぐに突き進む飛行機雲みたいな人がいるんだな。そんなことをぼんやりと考えていた、そのとき。
近過ぎないが、遠くもない絶妙な距離で。
その女生徒が、僕の目の前に立ち止まる。
僕たちの年度から新しい制服が導入されたので、どうやら目の前のこの人は先輩らしい。
「……おはよう、海原昴くん」
だが、どうしてこの先輩は僕の名前を知っているのだろう?
「……あとで、読んでもらえるかしら?」
加えて、思わず受け取ったこのカードは……。いったい、なんなのだろう?
おまけに……。
少し遅れてやってきたもうひとりの先輩は、どうして僕に謝ったのだろう?
「……ちょっと無理! ごめんねー!」
ふたりの先輩が、校舎に戻って行くにつれ。開いていた道がやや戸惑いながらも、静かに閉じて。
ついに、ふたりの姿が見えなくなる。
……そして、ふと。
いや、そこでようやく。僕は気がついた。
先程までと違って、なぜか自分の周りだけが、ぽっかりと空いている。周囲の生徒たちが、僕から絶妙の距離を保ったまま。ぐるりと円を作って、取り囲んでいる。
まるで敵地に、ただひとり取り残された者みたいで。
加えて悲劇の始まりの鐘が。乾いた音で、一度だけ鳴った気がした。
「……うわぁ、なにあれ?」
「あの新入生、速攻振られたの?」
えっ……?
「しかも陽子にも、『ごめんね』っていわれてたよね……」
「ウソー! ふたり同時に振られたの?」
「いや、三藤さんが怒ってなかった?」
「でも、なにか渡されてなかった?」
「えっ? 返されたの間違いじゃない?」
い、いったい。ど、どういうことなんだ……。
「どっちにしても、この子さぁ……」
「なんか……。めちゃくちゃイタイよね……」
耳の中に届く言葉の数々に、僕の理解はついていけない。ただひとつ、はっきりと。
「新入生なのに……。高校生活終わったね……」
そのセリフが、僕の心に深く刺さった。
ようやく、この絶望的な状況に気づいた僕は。慌てて周りを見回すと。
同情というか、あきれというか……。哀れみの目や、冷たい目の上級生たちが山ほどいる。
おまけに、将来の友人候補であるはずの新入生たちが……。さらに遠巻きに、このようすをうかがっている。
そう、僕はにぎやかさを忘れてしまった並木道の真ん中で。
たったひとりで、茫然と立ち尽くしていた……。
……カチ、カチ、カチ。
規則正しいカウントが、虚しく僕の頭の中に響いた、そのとき。背中に硬くて、容赦のない衝撃を受けた。
要するに、も、ものすごく……。痛い……。
間違いない、これは新品の制カバンの固い角だ。
この世の中で、そんなものを僕に遠慮なくぶち当ててくる。そんな奴はアイツしかいない。
対象を特定した僕が声を上げる前に、聞き慣れた声が覆い被さるようにやってくる。
「海原! 道の真ん中で、ボケっと突っ立ってないでよ!」
そいつは、肩を少し越えた長さの、先端にややウェーブのかかった栗色の髪の毛に、右手の人差し指を絡ませながら。少しイライラしたようすで、その大きなふたつの目を僕に向けている。
「……って、お前なんでここに?」
「教室行くんだから当たり前でしょ。アンタこそなにしてるの! ほら、早く行くよ!」
高嶺由衣は、周囲によく響く大きな声でそういうと。
強引に僕のブレザーの袖を引っ張り、再度呆気に取られている人々の前から、僕を引き離す。それどころかあえて並木道の中央を。
わざわざ突っ切るようにして、前に進み出した。
「あの新入生の女の子、なんだかカッコいい」
……誰かが、誰かにささやいているのが聞こえるけれど。
違う、わたしはそんなんじゃない! そんなんじゃないの。
わたしは心の中で、そう何度も繰り返す。
わたしはただ、アイツに対する、無遠慮な好奇の視線が許せなかっただけだ。
さすがに遠すぎて。なにがあったのかまでは、よく見えなかったけれど。わたしの知っているアイツは、入学早々。皆の見せ物になるような奴ではない。
だからわたしは『友人』として。
海原昴。アンタを放っておけなかっただけだから!
「……さぁみんな! いつまでも止まってないで。勧誘できる時間まだあるよー!」
先程まで、アイツが取り囲まれていた場所では。
三年生を示す色のリボンをつけた先輩が、皆に野次馬をやめて勧誘に戻ろうと声をかけている。
ああいう人も、ちゃんといるんだ。
いまは誰だか知らないけれど、ただなんとなく。あの先輩とは、将来仲良くなれる気がした。
並木道が表向き活気を取り戻したのを確認した、その三年生の女生徒は。
ひとり心の中で小さくため息をつきながら、先ほどの出来事を振り返る。
……まったくもう。
月子ちゃんも陽子も、やることが滅茶苦茶だよね……。
でも、『あの』月子ちゃんがこんな大胆なことをするなんて……。いったい、どうしちゃったんだろう?
あと、あの新入生の男の子はいったい何者なの?
よくわかならいけれど。このときわたしは、少しだけ。その彼のことが気になった。
それに、わざわざ乱入してきた新入生の女の子は……。ちょっと面白そう!
「なんだかこの先、色々と楽しくなりそうだよねぇ」
わたしは、あの四人が消えていった校舎のほうを眺めながら。
「そうなるといいな……」
小さくつぶやいてから、校門に向かって歩き出した。
……そんな『事件』の一部始終を。
並木道を見渡せる校舎の三階の、大きく開け放った窓でやわらかな風を浴びながら。のんびりと眺めていた人物が、もうひとり。
「うーん。なかなか、エキサイティングな一年がはじるねぇ〜」
楽しそうな声で、満足げにうなずいたその人は。
それから青空に向かって、大きく背伸びをすると。軽やかな足取りで階段を降りて、教室へと向かい始めた。
……このときの僕は、もちろん。
この先どんな未来が待ち受けているのかなど、当然知る由もなかった。
手放せなかった想いや、まっすぐな気持ち。
正直に打ち明けられなかった秘密や、伝えきれなかった感情。
どうしても手に入れたくなった、自分の居場所。
過ごしたかった、あのときと。
過ごしていきたい、この先を。
いつまでも忘れられない出来事の数々を、拾い続ける毎日は。
すべてここから始まった。


