高校二年生に進級した新学期初日、私は心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いた。
 視線の先にあるのは、生徒玄関と外を隔てるガラス窓に張られたクラス分けの名簿表。
 これから一年間、一緒に過ごすことになる新しいクラスのメンバーを確認して一喜一憂する生徒たちの傍らで、私は射竦められたように固まっていた。
 信じられなかった。
 だって、そこにあったのは中学一年生まで仲良くしていて、突如として転校してしまった幼馴染の名前だったから。

篠山(しのやま)(りょう)……」

 耐え切れずに、その名前が私の口から零れる。
 いったい、どうして? 高一の時からいたっけ? いやもしかして、今年度から編入してきた? でもそうなら、どうして何も連絡してくれないの?
 疑問が、後から後から湧いて出てくる。
 しかし、それに答える人はもちろんいない。混乱の渦中にある私の傍を、数人の男子生徒が通り過ぎていった。

「よっしゃ! 遼、今年も同じクラスだな!」

 その時だった。
 後方から聞こえた声に、私は反射的に振り返った。

「あ、あ……!」

 視線の先、三人の男子生徒が並んでいる真ん中に、彼がいた。
 最後に会った時よりも少し大人びて、男らしくなっているけど間違いない。短い黒髪に大きくて済んだ瞳はもちろん、笑うと頬にできるえくぼもまるで変わっていない。

「遼くん!」

 私は叫んだ。
 その声は自分でもびっくりするほどに大きく、近くにいた数人の生徒がぎょっとして身を引いたほどだ。
 そしてもちろん、私の視界に映っている三人の男子生徒も一斉に振り返った。

「遼くん! 私! 菅浦(すがうら)彩月(さつき)!」

 必死に自分が誰であるかをアピールする。
 さっき聞こえた声では、「今年も同じクラス」と言っていた。つまり、遼くんは高校一年生の時から私と同じ高校にいたことになる。

「遼くん! 久しぶりだね! ほら、覚えてるかな?」

 どうして、会いに来てくれなかったの? ……ううん、気づいていなかった、だけだよね?
 そんな心の奥底に生まれた気持ちの正しさを確かめるように、私は遼くんの前に躍り出る。
 遼くんはぼんやりと、私のことを見ていた。しどろもどろになりながら話しかける私に対して、遼くんは何も言わない。まるで、気づいていないみたいに。

「え、だれ? 遼、知ってんの?」

 代わりに声を発したのは、遼くんの隣にいた男子生徒だ。その声からして、先ほど遼くんに話しかけていた人だろう。じろじろと私のことを見てから、その男子は遼くんに視線を移す。

「うん、知ってる。昔よく遊んでた、幼馴染」

 遼くんがぼそりと言った言葉に、私はホッと胸を撫で下ろす。良かった。覚えててくれた……

「でも、ただそれだけ。行こうぜ」
「え?」

 けれど。その先に続いた遼くんの平坦な声に、私の心に浮かんだ安堵は一瞬にして消え去った。

「え、なに……それ……遼くん? どういう、こと……?」

 遼くんを見つけた時のドキドキは、今や動悸にも近いバクバクとした脈動に変わっていた。
 私の口から零れ落ちた力ない声は聞こえるはずもなく、遼くんたちは訝し気に私を見やってから校舎の中に入っていった。

 これが、私の新学期の始まりだった。
 *

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 新学期恒例となる初回のホームルームで、新しい担任の先生が自己紹介やら今後のスケジュールやらを話している最中、私はぼんやりと昔のことを思い出していた。
 遼くんとは、小学校一年生の時に同じクラスになり、意気投合して一気に仲良くなった。学校終わりには近くの公園でブランコや鉄棒をして遊んだり、時にはベンチに並んで座って二人とも好きだった児童文庫を読んで感想を言い合ったりしていた。ほかにも、二人で練習して乗れるようになった自転車で少し遠出したり、隣町にあった高台の芝生で日向ぼっこをしたり、図書館でお互いに好きそうな本を選んで読み合ったり、どちらかの家でテレビゲームをしたりと、とにかく私たちはいつも一緒だった。
 そうして仲良くなってから二年後の小三の終わり頃に、彼は私に「好きだ」と言ってくれた。
 まだ言葉に何の責任も持たない、幼子の告白ではあった。けれどそれは、私が今もお守りみたいに大事にしてきた言葉だった。

 ――わたしも、リョウくんのこと大好きだよ。

 遼くんがくれた言葉に、その時の私も最大限の素直さでそう返した。
 指切りをした。彼は、大人になったら私をお嫁さんにしてくれると言った。
 桜が舞っていた。花吹雪が乱れ降る歩道で、私たちは向き合っていた。
 青空の下で、これからもずっと仲良しでいようねと約束した。
 その約束通り、それからも私たちはずっと仲良くしていた。小学校高学年になっても、中学に上がってからも、私たちは腐れ縁のごとく一緒にいた。
 登下校をともにして、お互いの家や図書館で勉強して、近くのショッピングモールへ買い物しに行った。
 喧嘩なんて、ただの一度もしなかった。
 あえて何か、心のしこりみたいなのを挙げるとするならば、あの小三の時の告白はどこまで本気だったのかとか、今は私のことをどう思っているのかとか、そんな淡い青春にありがちな悩みくらいのものだった。どこかではっきりさせないとな、なんて思いつつも、今の心地良い関係を壊したくなくて、距離は近くも付かず離れずの関係を楽しんでいた。

 ――悪い、彩月。実は俺、来週引っ越すんだ。

 そんな充実した日々が突然終わりを告げたのは、桜がまだ咲き始める前の三月のことだった。中学二年生への進級を目前にして、遼くんは下校途中にいきなりそう言ってきた。
 当然、私は狼狽えた。
 どうしてもっと早く言ってくれなかったの。遼くんと離れたくない。そんなわがままや不満を散々に言った気がする。今にして思えば、あれが最初で最後の喧嘩みたいなものだった。
 その時の遼くんは既に整理がついていたのかいやに大人で、寂しくなるから言えなかっただとか、また電話とかSNSで連絡するからだとか、私を安心させることをたくさん言ってくれた。だから私も、遼くんが引っ越す当日には涙を流しつつも、心はどうにか落ち着けていられた。それに、遼くんの家は父子家庭だったこともあり、遼くんのお父さんの転勤に伴って引っ越すのはどうしようもなかった。
 そうして、彼は私の日常からいなくなった。
 最初はあれこれと頻繁に連絡を取り合っていたものの、お約束というべきかテストやらイベント事やらで忙しくなった時を境に次第にその頻度は少なくなっていき、やがて自然消滅してしまった。時おり変わる彼のアイコンを眺めるばかりの状態になり、結局私は遼くんの気持ちを確かめなかったことを後悔したまま中学を卒業し、そして高校生になった。
 高校一年生は、何事もなく過ぎた。一学年四百人いる私の高校はそこそこに大きく、人並みの社交性や知名度しかない私は数人のクラスの友達とグループを作ってそれなりに楽しい毎日を過ごしていた。だから、私が高校内で遼くんを見かけることはなかった。
 いや、というか、そもそも想像すらしていなかった。
 遼くんがかつて話してくれた引っ越し先は遥か遠くにある都会で、彼が私と同じ高校に進学していることなんて考えもしていなかった。私の中では、遼くんは今も遠く離れた場所で、私の知らない生活を楽しんでいる……はずだった。

「……どうして」

 右斜め前の席に座り、真面目に先生の話を聞いている幼馴染に目を向ける。よりにもよって出席番号順に並ぶ前期の前半は、私と遼くんの席はどうしても近くなる。もしグループ活動なんかで一緒になれば、気まずいことこの上ない。
 なにより、このまま疎遠になるというのはどうしても納得がいかなかった。
 遼くんが冷たく当たってくる真意を、私は知りたい。
 また昔のように、遼くんの気持ちを確かめないで後悔することだけはしたくなかった。
 一限目のホームルームが終わると、新学期初日はそのまま始業式に移り、新しい教科書や一年の復習テスト用の課題プリントを配られて放課後になった。
 本格的に高校二年生としての授業が始まると、課題やら部活やら新しい友達との交流やらとまた忙しくなる。それにこのままズルズルと時間が過ぎてしまえば、中学の時の二の舞になってしまいかねない。だから私は、行動に移した。

「ねえ、遼くん。ちょっとだけ、いいかな」

 朝一緒にいた男子たちと歓談している遼くんに話しかける。緊張のあまり、私の小さな心臓ははち切れそうなくらいに高鳴っていた。男子たちからは再び好奇の視線を向けられ、当の遼くんはまた無感情な眼で私を見てきた。

「ごめん。俺、今日は部活あるから」

 素っ気ない言葉を投げつけられ、挫けそうになる。けれど、私は耐えた。耐えて、真っ直ぐに遼くんを見つめて言う。

「部活行く前に、少しだけでいいから」
「って言ってもな」
「どうしても、ダメかな? お願い」

 なおも私が粘っていると、ヒューヒューと囃し立てる声が大きくなった。「これは、もしかしてのもしかして!」「ほらほらクールな遼くんよー、可愛い幼馴染の頼みだろ。行ってやれよ~」なんて掛け声が教室に響き、周囲の視線が背中に刺さる。
 そんな声に観念したのか、遼くんは気だるげに頭を掻くと「わかったよ」とだけ言って席を立った。
 私たちはそのまま、この高校で人気のない場所、屋上へと向かった。道中、私たちの間には一言も会話はなかった。

「んで、なに? 手短に頼む」

 春のうららかな日差しとは対照的な、冷ややかな声が私を貫く。
 他の人がいなくなっても変わらない態度に、ただからかわれたくなかったからという理由も消えた。となると、遼くんは本当に私のことなんてもうどうでもいいと思っているのだろうか。そればかりか、私は知らないうちに彼に嫌われてしまったんだろうか。

「どうして、そんなに冷たくするの?」

 泣きそうになるのをどうにか堪えて、私は尋ねた。遼くんはしばらく考えるようにした後、淡々と答える。

「べつに、普通だよ。幼馴染って言っても昔のことだろ。今も仲良いわけじゃない」
「でも、私は昔みたいに仲良くしたい」
「俺はしたくないんだよ。男子は男子、女子は女子同士で楽しくやっていればいいだろ」

 それだけ言うと、遼くんはさっさと踵を返して階段室へと戻っていく。
 なんで、そんなこと言うの?
 すっかり背の伸びた後ろ姿を睨みつける。胸の辺りがじくじくと痛む。遼くんが引っ越す時に感じた痛みとはまた違う性質の痛み。あの時よりもよっぽど辛くて、しんどい。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 また声が蘇る。
 私は堪らずに、彼の手を掴んだ。

「遼くん! そんなこと……言わないでよっ! 私は、私はずっと、今も、遼くんのことが――」

 大好きなのに。

 引っ越しの時にも言えなかった言葉が、今まさに口をついて出ようとしたところで、唐突に口を塞がれた。
 彼の手だった。
 小学生の時とは違う、大きくてがっしりとした手が、私の口元にあてがわれていた。

「やめろ。もう、それ以上は」
「っ、どうして!」

 私はすぐに彼の手から逃れて、キッと睨む。その拍子に、我慢していた涙が一滴、頬を伝い落ちた。
 沈黙が流れる。
 一陣の風が私と遼くんの間を吹き抜け、涙をさらっていった。

「……忘れたくないんだ、彩月のこと」

 やがて、遼くんはぽつりとこぼした。

「俺、病気でさ。ちょっと特殊な、解離性健忘ってのを患ってるんだ。誰かから告白されると、忘れちまうんだよ……その人のことを」

 世界の音が、止まった気がした。
 *

 解離性健忘症。
 それは、主にストレスや心的外傷という精神への過剰な負荷により発症する記憶障害らしい。
 解離性健忘症の原因となった出来事そのものに関する記憶に障害が見られる場合もあれば、出来事には直接的には関係ない自分自身に関する記憶や、家族、友達といった身の回りの人についての記憶に障害が見られる場合など症状は多岐にわたるのだが、こと遼くんの場合については少々特殊なようだった。

「普通はそこまで頻繁に起きるものじゃないんだけど、俺の場合はそうじゃないんだ。他人から好意を向けられると、それをきっかけに頭が痛くなってきて……気がついたら、その人に関する記憶がすっぽり抜け落ちているんだ。まるで、最初からなかったみたいに」

 遼くんは悲し気な表情を浮かべつつも、丁寧に説明してくれた。
 頻発性と誘発性の異常さ。すなわち、頻繁に起こるはずのない記憶障害が、「他人から好意を向けられる」という出来事をきっかけに何度も発生してしまうのだ。しかも決まってそれは、好意を向けてくれた人に関する記憶に障害が生じてしまうとのことだった。そして基本的に、告白してくれた人の名前から一緒に過ごした思い出に至るまで、その全てを忘れてしまうらしい。

「いったい、いつからなの?」
「具体的にいつからなってるのかはわからないんだけど……明確に診断されたのは、中一の終わり頃なんだ」
「え、それって……」
「ごめん。いきなり引っ越したのは、親父の転勤もそうなんだけど、その転勤先の近くに良い病院があって、そこでの治療のためっていうのもあったんだ。そのおかげか少し良くなってきて、親父の転勤が終わって戻ってきたんだ。その、ずっと言い出せなくて、ごめん」

 中でも一番驚いたのは、遼くんが引っ越す前、すなわち私と一緒にいた間も記憶障害を患っていた可能性があることだった。
 全く気づかなかった。
 遼くんはモテたし、告白されることもしばしばあった。けれどそのどれもを断っていたようで、遼くんに告白していた女の子たちはそれを機に疎遠になっていったから、遼くんの記憶がなくなっているという違和感に気づけなかった。
 それになにより、私自身が遼くんの恋バナという話題に触れないようにしていたから。

「ううん。私こそ、気づけなくてごめん。ずっと一緒にいた幼馴染なのに……」
「いや、俺だってわからなかったんだし仕方ないよ。むしろ、彩月がいてくれて良かった。あっちじゃ独りで、まあなんつーか、寂しかったし」

 それでも、遼くんは私のことを気遣ってくれるばかりか、そんな優しい言葉をかけてくれた。私は照れて、顔を背けるので精一杯だった。こういうことをサラッとやってのけるから、遼くんはモテるんだと思う。
 ただ、そこまで聞いてもやはりわからなかった。
 私の知る限り、遼くんが記憶障害を患うほどの大怪我を負ったりだとか、精神的ショックを受ける事件に巻き込まれただとか、そういうのは聞いたことがない。至って普通の、ありふれた平和な日々が続いていたはずだ。

「でもほんとに、どうしてそんなことが」
「それなんだよな。原因は不明だってさ。ただ記憶障害は自己防衛の一種として起こることもあるから、もしかしたら過去に『好意を伝えられること』に関して何か精神に過剰な負担がかかったことがあって、それが根本的な原因かもしれないとは言われた」
「『好意を伝えられること』に関しての、過剰な負担……」
「意味わかんないよな。俺も結構考えて、いろんな治療法を試したり過去を思い返したりしてみたけど、さっぱりでさ。なんかこう、意外とありがちな、フラれたとかなのかな? つーか、もしそれで傷つきまくって記憶障害が発症したなら、俺ってばどんだけ豆腐メンタルだよって話だよな」

 ひと息に言ってから、自嘲気味に遼くんが笑う。
 確かに、真っ先に思い浮かぶのはそうした身近な出来事だ。身近で誰でも経験することだけに、それが原因とは考えたくないかもしれない。けれど、好意を伝えてこっぴどくフラれたとか、人格が否定されるほどに拒絶されたとか、その人にしかわからないほど深い、精神的な傷を負うことだってある。そうなったら、記憶を消したいと強く願ってしまうかもしれない。

「遼くん……無理しないで」

 私はそっと遼くんの背中を撫でた。彼はびくりと身体を震わせる。

「わ、わり。その、びっくりして」
「ううん、大丈夫。その、辛かったよね」

 なるべくゆっくり、何度も、私は彼の背中を撫でた。大きな背中が、やけに小さく見えた。
 本当に、辛いと思った。怖いと思った。
 もし、好意を向けてくれるほどに親しくなった相手のことを、忘れてしまったとしたら。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 もし、あの言葉をくれた遼くんのことを、忘れてしまうとしたら。
 遼くんと公園で遊んだ思い出も、一緒に歩いた登下校での会話も、並んで乗ったブランコの楽しさも、二人で寝転んだ芝生の心地良さも。
 遼くんの声も、仕草も、笑い方も。
 私の中で確かな時間を積み重ねて育んできた、好きって感情も全て、忘れてしまうのだとしたら……。
 それほど怖いことは、きっとこの世にない。
 それなのに私は、昔気づけなかったばかりか、今朝は遼くんのことを信じないで、遼くんの態度が変なことに悪い想像ばかりしていた。

「ごめんね、遼くん。私、今も昔も自分のことばっかりで。ほんとに、ごめん」
「ううん。謝らないで、彩月。俺の方こそ、冷たくしてごめん」

 遼くんは顔を伏せた。私は彼を見ずに、ずっとその大きな背中を撫で続けた。
 しばらく、私たちはそうしていた。
 時間にしてみれば、実に穏やかだった。
 やがて午後の日差しが一際に眩しくなった頃、遼くんはおもむろに私の方を振り返った。

「だいぶ落ち着いたよ。ありがとうな、彩月」
「ううん、全然だよ」

 私は努めて明るく笑いかける。すると、遼くんもぎこちないながら小さく笑ってくれた。
 けれどそれは、何かを迷っているようでもあった。
 だから私は、先に口を開く。

「ねえ、遼くん。私ね、それでも離れないからね」
「え?」

 私の言葉に遼くんは目を見張った。私は無意識にその言葉を言わないよう、気をつけながら続ける。

「遼くんはきっと、過去に私の知らないところで、記憶障害になるほど辛い経験をしてるんだよね。私には、想像はできても本当の意味で遼くんの辛さをわかってはあげられないと思う。でもね、やっぱり私は幼馴染だから。だから、遼くんがどんなふうになっても、そばで……そう(・・)したいって思うんだ」
「彩月……」
「だからね、遼くんがもし病気の原因を探しに行くなら、私も協力する。仲間外れなんて、嫌だからね」

 また私は笑う。
 そういえば、小学生の頃は私ばかりが笑っていたっけ、と不意に思う。引っ込み思案だった遼くんを、私があちこちに連れ回していた。呆れつつもついてきてくれることが嬉しくて、私はずっと笑っていた気がする。
 遼くんは呆然としていた。
 呆気にとられたその表情は、なんだか少し面白かった。
 優しい遼くんのことだ。きっと、病気を理由にまた私を遠ざけようとするんだろう。そんなのは絶対に嫌で、だから先手を打つ。どうだ、みたか。
 私の言葉を聞いてか、笑ってばかりの表情を見てかはわからないけれど、遼くんの表情が少しばかり緩んだ。

「いいのか? 多分、めっちゃ気を遣わせるぞ?」
「そのくらいヘーキヘーキ。ていうか、昔は私の方が遼くんに気を遣わせてたでしょ」
「だとしても、だ。それに、そんな理由があるから俺からもそういうことは言えない。それでも、いいのか?」
「いいよ。その言葉だけで気持ちは伝わるよ。すごく嬉しい。それに、私の気持ちはもう知ってるでしょ」
「まあ、それは……な。でも、きっとしんどいぞ? それでも、治るまでそういうことは言わないって約束できるか?」
「約束する。ほら、指切り」

 指切りげんまん、うそついたら相手の言うことなんでも聞くよ約束ね、指切った。
 幼い頃にアレンジした、私たちなりの指切りの歌を歌いながら小指を絡ませる。思えば、あの日もこんな青空だった。
 
 ――わたしも、リョウくんのこと大好きだよ。
 ――じゃあ、大人になったらお嫁さんにしてあげる。
 ――ほんとっ? えへへっ、うれしい!

 昔伝えた気持ちは、今も色褪せることなく変わっていない。むしろ、強くなっている気さえする。
 温かくて、ふわふわしていて、ドキドキする。
 かけがえのない大切な感情を噛み締めながら、私は遼くんを見据えた。

「一緒に頑張って治そう。そしたら、ちゃんと最後まで私の言葉を聞いてよね!」
「ははっ、わかった」

 また、私たちは顔を見合わせて笑った。
 *

「んで? なんで最初に行く場所がここなんだ?」

 屋上で衝撃の真実を知ったあと、私と距離を置くために部活があるという嘘をついた遼くんを引き連れて、隣町の海浜公園に来ていた。

「だって、記憶喪失の原因には『好意を伝えられること』に関する出来事が絡んでるかもなんでしょ。だったら、やっぱり私的にはここなんじゃないかなって」

 吹き荒ぶ潮風に目を細める。春も本格的に深まってはいるけれど、さすがにまだこの時期は少し肌寒い。
 対して、少しも寒そうな素振りを見せない遼くんは考えるようにして首を傾げた。

「ええ、なんかあったっけ?」
「わ、思い出せないってことは、まさかほんとにここが原因?」
「え、なに。マジでなにあったっけ?」
「そりゃあもちろん、小一の遼くんが遠足の終わり際に担任の山坂先生に告白した場所じゃん」

 忘れもしない。
 小学校一年生の時の遠足で訪れたこの海浜公園の浜辺で、遼くんはずっと好きだと言っていた担任の山坂先生に貝殻で作ったネックレスをプレゼントして告白したのだ。手をもじもじとさせながら、俯きがちにネックレスを手渡す遼くんを遠目に見ていたけれど、それはもうとにかく可愛かった。

「それでね、山坂先生ったらもうすごく嬉しそうにしてたんだけど、『先生はね、実は来月結婚するのよ』って言われてすごくショック受けてたんだよ。ずーっと下を向いて歩く遼くんが危なっかしくて、帰りは私が手を引いていったんだからね。あの時の遼くんったらもう」
「ストップストップ、ストーップ!」

 私が懇切丁寧に詳細を話そうとしたところで、遼くんは顔を真っ赤して遮ってきた。

「えーこれからがいいところなのに」
「やめろ、思い出したよ。だからこそそれ以上は聞きたくない。記憶障害とか関係なく今すぐ忘れたい」
「ええ、とーっても可愛かったのになあ」

 ニシシとなるべく悪戯っぽく見えるように口角を上げて、遼くんの顔をのぞきこむ。すると、遼くんは赤くなった顔を隠しながら、ポンと私の頭に手を置いてきた。

「ったく彩月、絶対違うってわかってて言っただろ。変な気遣うな」
「えーなんのことー?」
「いやバレバレだから。幼馴染なめんな」

 耳まで赤く染めつつも、遼くんは真っ直ぐに私を見返してきた。さすがに、これ以上は無理そうだ。

「ちぇ、バレちゃったかー」
「丸わかりだよ。なに、リラックスしてると改善しやすいって言ったから?」

 遼くんの問いに、私はこくりと頷く。
 学校から出て帰ろうとしていた道中で、遼くんに記憶障害の改善方法をいろいろと聞いた。それには、原因となっているトラウマや過去の出来事に対して気持ちの整理をつけるといった方法から、逆に距離を置いて全く別の視点から自分の人生を前向きに捉えていく方法など様々あった。そしてその中に、ストレスがなるべくないリラックスした状態を意識して作るという方法があり、忘れているかもしれない過去に向き合いたいという遼くんの意思も考慮した結果、私はこの場所に来ることを思いついたのだ。まあ、さすがにないだろうとは思ってたけど、やっぱりなかったらしい。

「ったく、マジで勘弁してくれ。恥ずかしくて悶えるっていう別のストレスが生まれそう」
「あはは、ごめんごめん。でも、肩の力は抜けたでしょ?」
「まあ、確かにな。気張ってたけど、一気に緩んだわ」

 顔を見合わせて小さく笑う。なんだか、この感覚懐かしいな。

「それで、やっぱりここは関係ないよね?」
「残念ながらなのか幸いにもなのかわかんないけど、まあそうだな。あーでも、ひとつ思い出したことはあった」
「え、なに?」
「記憶をなくす時、頭が痛くなるって言っただろ。その時、なんかフラッシュバックつーか、どこかの公園のイメージが目の前に浮かぶんだよ。チカチカって。それで、フラフラと家帰って寝て起きたら、記憶がなくなってるんだよ」
「へえ、公園かあ」

 空を見上げる。昼下がりの青空が視界に広がり、真っ白な積雲が横切っていく。
 公園、とひと口にいっても、私たちが住んできたこの町の付近には意外と公園は多い。今いる海浜公園もそうだし、一緒に日向ぼっこをした高台のある丘陵公園、四つ葉のクローバーなんかを探した森林公園、夏には水遊びをした渓流のある河川公園、小学校高学年の時に陸上の大会に出場した遼くんの応援に行った競技場がある緑地公園など、ざっと思いつくだけでも十近くはある。

「あとはそうだな、桜みたいな花びらが舞っていた気もするから、春とかに関係あるかも」
「春……ちょうど今時分の季節にあったことなのかな」

 目を閉じて考える。
 春となると、海浜公園や河川公園は可能性として少ないか。それに「好意を伝えること」にも関係あるんだろうし、その辺りも考慮していかないといけない。中学に上がってすぐの頃とか、なんかあったかなあ。うーん、難しいな……。

「しわ、寄りすぎ」
「え?」

 そこで、何かが眉間の辺りに触れた。
 ハッとして目を開けると、すぐそこに遼くんの手があった。人差し指と中指の腹で、私の額をさすっている。

「そんなに考え込んでくれて嬉しいけど、くれぐれも無理はしないでくれよ。彩月が難しい顔してると、俺まで難しい顔になっちゃいそうだから」
「へ?」
「まあ、だから、その、なんだ。彩月は、もっとこう適当に、笑っていてほしいってこと」

 言葉を選ぶように視線を彷徨わせながら遼くんは言った。その頬はまた赤くなっている。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 本当に、あの時と全然変わってない。
 頬を赤らめて、視線を右に左に忙しなくやって、それでもちゃんと嬉しい言葉をかけてくれる。

 好き、だな。

 そう、言いたくなる。でも、ダメだ。

「もう、ほんとに遼くんは相変わらずだね」

 小さく頭を振ってから、私は肩をすくめてみせた。
 それから私たちは、ひとまず今日は海浜公園内を歩くことした。もしかしたら、小一の遠足の時とは違った理由でこの公園が関係あるかもしれないから。
 あるいは、広大な海を横目に散歩していれば、悩みとか悲しさとかそういうものが全部ちっぽけなものに思えてきて、心が晴れやかにリラックスできて、記憶障害が改善してくれるかもしれない。

「ねえ、ここの屋台で美味しいもの売ってるみたいだよ! 食べてかない?」
「さっき昼食べなかったのか?」
「朝、遼くんが冷たくしてきてショックだったから、あんまり食べてないんだよね」
「大変申し訳ございませんでした。ここはワタクシめが奢らせていただきます」
「うむ。苦しゅうない」
「でも、なるべくお財布に優しいものでお願いいたします」
「……やっぱり、苦しゅうある」
「え? あ、待て待て待て! そんなにたくさんはやめて!」

 一縷の望みを胸に抱いて、私たちはなるべく楽しく笑いながら過ごした。
 新学期初日の午後は、あっという間に終わった。
 *

 それから、私たちはひとまず中学校近くにある公園で、告白に関係ありそうなところから順番に回っていった。
 解離性健忘症を患った具体的な時期はわからないが、遼くんのお父さんが心配して病院に連れて行ってくれるようになったのは中学校に上がってしばらくしてかららしい。そして何度か病院に通う中で、遼くんの記憶から何人かの女子生徒に関することがすっぽりなくなっているのに気づいたようだ。

「遼くんって中学上がってからほんとモテたもんねー」
「身長が一気に伸びたからかな。あとはその頃から美容院に行くようになったからかも……って、痛い痛い。脇腹、どつくのやめて」

 ほんとに、幼馴染の私から見ても遼くんは中学に上がった辺りから一際カッコよくなった。放課後に私と教室で話している最中に呼び出されることも何度かあったし、休日には女子を交えて遊びに行くことも増えていた。今にして思えば、そのほとんどが告白だったり告白に向けた下準備だったりしたのかもしれない。
 ……って、今は嫉妬してる場合じゃなかった。

「で、ここが遼くんと紗千香(さちか)ちゃんを見かけた公園だよ。中一の秋くらいに、ひとりで学校から家に帰ってる途中で見たの。そこにあるベンチで、二人が並んで仲良さそうに話してたんだけど、覚えてない?」
「い、いや、まったく」
「ふーん。そっか」
「彩月。顔、怖いんだけど」

 私は遼くんの指摘を無視して、公園内のベンチに腰を下ろした。しばらくして、遼くんも隣に座る。
 ひとつ息を細く長く吐いて心を落ち着かせてから、口を開く。

「じゃあまあ、ここでもなさそうだね。私が知ってる中だと、ここが最後なんだよね」

 新学期初日に、遼くんが解離性健忘症であることを知ってから一週間。遼くんの部活が休みの日に、三つほど心当たりのある公園を回ってみたが、結局収穫は皆無だった。
 先週末に行ったのは、競技場のある緑地公園。中一になったばかりの春先に、遼くんが小学生の時に所属していたクラブチームの後輩の女子から告白されていた。私は陸上部に所属していた遼くんを一目見ようとこっそり訪れたのだが、偶然にもその一場面を見てしまい、慌てて逃げ帰ったのを覚えている。
 一昨日に行ったのは中学近くのバス停前にある小さな公園。雨避けになる東屋があり、雨の日にはよくバス待ちで使われていた。中一の夏休みに入ったばかりの某日も雨が降っていて、私は買い物帰りに遼くんが知らない女子と楽し気に雨宿りしていたのを見かけた。もちろん私は見つからないようにそそくさと道を変えて帰宅した。
 そして、日曜日の午後である今日。中一の時のクラスメイトである美園(みその)紗千香ちゃんと遼くんが話していたこの公園が、心当たりのある最後の場所だった。

「んーやっぱり、どれも記憶にないんだよな」

 でも、私が見たどの場面も遼くんの中ではまったく覚えがないらしかった。そればかりか、クラブチームの後輩の女の子のことも、雨宿りがてらお喋りしていた女子のこともほとんど記憶がないらしい。
 あんなに、楽しそうに話していたのに……。
 思い出す当初は嫉妬の気持ちも大きかったが、改めて考えてみると怖くて寂しいと思った。楽しく親し気に話せるほど仲の良い人との記憶が、思い出が、こうも簡単になくなることが。

「その、紗千香ちゃんとかとのこともそうだけど、他にはどう? 記憶をなくす前に見るフラッシュバックの公園のこととかは?」
「いや、なんか、どこも違う気がする」
「そっか……」

 どうやら、今日も進展はないらしい。まだ一週間程度しか経っていないから仕方ないとはいえ、ここまで何も手掛かりがないと落胆もしてくる。
 本当に、早く治ってほしいな。
 心からそう思った。
 遼くんの不安や恐怖がなくなってほしいという気持ちもさることながら、昔のように学校でも関われるようになると、私の中にある想いも日に日に強くなってきていた。

 ――わたしも、リョウくんのこと大好きだよ。

 あの時と同じ言葉を、今度はしっかりと責任を持って言いたい。そのためにも、今は私がしっかり遼くんを支えないと。
 どこか弱気になりかけていた自分を奮い立たせようと、私は軽く頬を叩く。

「なにしてんの?」
「ん、気合入れようかなって」
「ええ、なんで彩月が。気合入れるならむしろ俺の方でしょ」

 可笑しそうに遼くんは目を細める。
 柔らかくて、優しい瞳だった。
 ああ好きだな、と思ってしまって、私はまた頬を叩く。さっきよりも、いくぶんか熱い気がした。

「それで、次はどうしようか?」
「んー、そうだな。一応、もうひとつ手掛かりになりそうなものはあるんだよ」

 頬ばかりを叩く私にひとしきり笑った遼くんは、おもむろに鞄から何かを取り出した。

「それは、ノート? なんか、ボロボロだけど」
「これはな、俺の昔の日記」

 言われて、思わず息を呑む。
 初耳だった。遼くん、日記をつけてたんだ。
 しかも遼くんは、あろうことかそれを私に差し出してきた。

「え、それ、私見ていいの?」
「むしろ、彩月に見てほしいんだ。もしかしたら、俺とずっと一緒にいた彩月ならなにかわかるかもしれないから」

 どういう意味だろうか。
 私は不思議に思いながらも、すっかり日焼けした薄緑の表紙を一枚めくった。

『一月一日。今日から日記を書いていこうとおもう。さつきに大すきって言えるようにがんばる』

 私は急いで日記から顔をあげた。遼くんが照れたように頭をかく。

『一月三日。今日は、さつきとはつもうでにいった。さつきは花がかいてあるきものをきていて、とてもかわいいと思った』

『一月七日。今日から学校だった。さつきとお昼にたくさんあそんで、学校がおわってからもたくさんあそんだ。楽しかった』

 拙い文字で綴られた日記は、こまめにはつけられていなかった。飛び飛びになっている日にちと、その後に簡潔に書かれている何気ない一言を、私はゆっくりと目で追う。

『二月十四日。さつきからチョコレートをもらった。ハートの形をしたチョコレートで、いっしょにテレビを見ながら、そのチョコレートを食べた。すごくあまくておいしかった。すごくすごくうれしかった。また、来年も食べたい』

『三月十四日。さつきにチョコレートのおかえしをした。お母さんに、手作りのほうがさつきはよろこぶって聞いたから、お母さんとがんばって作った。そのクッキーをあげたら、さつきはたくさんわらってくれた。ありがとうって言われて、おれもうれしかった』

『四月七日。今日から小学三年生になる。さつきと同じクラスになれて、すごくうれしい。もっと楽しい一年になるといいな』

「その日記さ、俺が小学二年生から四年生になるまで書いてあるんだ。筆不精だからすげー短いし、書くの忘れた日も多いんだけど、まあ、今の俺には言えないことがたくさん書いてある」
「……うん、そう、みたいだね」

 日記を読み進めていくと、連休に家族ぐるみでバーベキューをしたこととか、梅雨時期に雨の中びしょ濡れになりながら私が落としたお気に入りのハンカチを探したこととか、夏休みに真っ黒になるまで海で遊んだこととか、私もすっかり忘れていたいろいろな思い出が書かれていた。
 なぜか、涙が出てきそうになった。
 こんなことあったっけ、なんて思うようなこともあった。

『九月十三日。今日は運動会があった。さつきといっしょに50メートル走を走った。いっしょに走れてうれしかったけど、おれは転んでしまった。でも、さつきがおれのところまで来て、だいじょうぶってきいてくれた。それから、いっしょに手をつないでゴールした。なんか楽しかった』

「これさ、マジで今でも覚えててたまに夢に出るんだよな」
「ええ、ごめん。私まったくこれっぽっちも覚えてないや」
「おや? もしかして彩月も記憶喪失? それとももうボケた?」
「うるさいボケてない。あとその質問はいじりにくいからやめい」

 あとは、そこで初めて知ったこともあった。

『運動会は楽しかったけど、同じ組になれなかったのが悲しかった。さつきは赤組で、おれは白組だった。だから、運動会がおわった後にはちまきを交かんした。白色のはちまきをまいてわらうさつきがかわいくて、悲しかった気もちがなくなった』

「ええ!? 私、小学校の時ずっと白色じゃなかったの? 家に白いはちまき六本あるんだけど」
「多分、その六本のうち、どれかは俺のはちまき。あの時、彩月頭に巻いたまま家に帰ったから」
「うそだー、初耳すぎるんだけど」

 ベンチに並んで、途中で遼くんが買ってきてくれたジュースを飲みながら、夢中で日記を読み進めていった。
 そして、いよいよ小学三年生の年も明けた。
 日記の中の私たちは、もうすぐ小学四年生になる。それに伴って、ノートの残りのページ数も随分と少なくなっていった。

『三月十七日。今日から春休みだ。さつきと遊びに行くやくそくもしてるから、すっごく楽しみだ』

 この辺りから、私も覚えている。
 日付に目をやれば、ほとんど無意識にあの言葉が思い出される。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。

 小三の終わり。近所にある早咲きの桜並木が有名な公園の前で、遼くんは私にそう言ってくれたのだ。
 あの日のことは、遼くんは日記になんて書いてあるんだろうか。

「彩月に見てほしいのはさ、この後なんだ」
「え?」

 三月二十五日まで来た日記のページ。その次をめくろうとしたところで、不意に遼くんが言った。

「もし何か、覚えてることがあったら遠慮なく教えてくれ」

 その声は妙に強張っていた。まるで、無理に元気よく振る舞おうとするみたいに。
 嫌な予感がした。

 ――おれ、サツキのこと好きだ。
 ――わたしも、リョウくんのこと大好きだよ。

 あのやりとりは、確か、三月の最終日に……

「――え」

 ページをめくると、見開き左ページの一番上には、三月三十日と書かれていて……
 そのすぐ横には、破り取られたノートの紙片と、四月七日と書かれた右ページがあった。

「なんかわかんないけど、見つけた時からそうなってたんだよ。三十日の日記には、翌日に彩月と公園に遊びに行くって書いてあるから、もしかしたら彩月なら何あったかわかるかなって思ってさ。まあ、告白とは何の関係もない(・・・・・・・・・・・)とは思うんだけどさ」

 待って、それって、どういうこと?
 私たちは確かに、小学三年生の三月三十一日に、無邪気な告白をし合ったはずだよ?

「あ、と……え、と……」

 訊きたいのに、言葉が喉につかえて出てこない。
 急に耳鳴りがしてきて、胸の辺りが苦しくなる。

「彩月? どした?」

 視界の端に、心配そうにのぞき込んでくる遼くんの顔が映った。

「あの、ほ、ほんとに……覚えて、ないの?」
「え? そうだけど」

 声が震える。けれど、遼くんは本当に何も覚えていないようで、きょとん首を傾げている。
 先ほどの遼くんの言葉を思い出す。
 遼くんは、三十一日に私と公園で遊びに行ったという事実を知りながらも、それが告白とは何の関係もない、と思っている。
 私は必死に考える。
 ただ忘れているだけじゃないだろうか。所詮は小学三年生の時の話だ。私だって遼くんとの運動会の思い出とか忘れていたじゃんか。
 心の中で何度もそう言い聞かせてはみるものの、手元のノートにある破り取られた紙片がそれを無慈悲にも否定してくる。

「ねえ……遼くん。思い出して、よ」
「え?」

 心がダメだと訴えてくる。

「ほら、三月三十一日に、公園で、あったでしょ?」

 言ってはダメだと、それ以上訊いてはダメだと。

「ほら、ほらっ! 桜並木の下で! 遼くんが私に、言ってくれたでしょ!? 私も遼くんに言ったでしょ!」

 でも私は、認めたくなかった。
 ありありと眼前に突き付けられた事実を、可能性を、受け入れたくなかった。

 遼くんの解離性健忘症の根本的な原因が、私と交わした告白だったなんて――。

 だから、私は叫ぶしかなかった。

 ――好きだって! 言ってくれたでしょ!?

 そう、叫ぶつもりだった。
 でも、その先の言葉は続かなかった。
 いや、続けられなかった。

「くっ、うっ……」
「りょ、遼くんっ!?」

 遼くんは、頭を押さえてその場に倒れた。
 *

 私は、ひとり病院のエントランスにある長椅子に座っていた。
 時刻は、午後四時を少し過ぎた頃。日曜日ということもあってお見舞いの来院者以外はおらず、エントランスは閑散としていた。壁に設置されたテレビでは、キャスターが明日の天気予報を知らせている。
 遼くんは、病院に搬送された。
 生まれて初めて救急車を呼び、付き添った。遼くんはずっと、苦しそうに頭を抱えていた。病院に着くとすぐにストレッチャーに乗せられて、どこかへ運ばれてしまった。看護師さんと、後から来た遼くんのお父さんに言われて、私は病院のエントランスで待っていることになった。

「どうしよう……私のせいだ」

 膝に乗せた日記に目を落とし、ギュッと手を握り締める。
 私は動揺のあまり、言ってはいけない言葉を口にしてしまったかもしれない。
 明確に「好きだ」という言葉は使っていないまでも、あの時は余裕がなくて遼くんに「好意を伝えること」を無理やり想起させるようなことを言ってしまった。もしこれで、私のことを忘れてしまっていたら、私は、私は……

「お待たせしてしまったね、彩月ちゃん」

 落ち着いた声が聞こえた。ハッとして顔を上げると、困ったように笑う遼くんのお父さんが立っていた。
 私はほとんど反射的に立ち上がって駆け寄る。

「おじさん! 遼くんは、遼くんは大丈夫なの?」
「落ち着いて、彩月ちゃん。遼は意識が戻ったから。記憶もはっきりしてる。彩月ちゃんのことも、しっかり覚えてたよ」
「そ、そっか……良かった」

 遼くんのお父さんの言葉に、私は心の底から安堵した。けれど、それもすぐに掻き消される。
 遼くんが記憶障害になった原因……それは、私だった。
 私が宝物のように大切にしていたやりとりが、遼くんに何らかの精神的ショックを与えてしまっていた。あの破り取られた日記のページ、全く覚えていないらしい三月三十一日の記憶、そしてなにより、当時のことを話そうとして苦しみ倒れてしまった遼くんの様子を鑑みれば明らかだ。
 でも正直、心当たりはなかった。
 あの時、私たちはただ純粋に気持ちを伝え合っただけだ。それがどうして、こんな……

「彩月ちゃん、本当にごめんね」
「え?」

 そこへ、唐突に遼くんのお父さんが頭を下げた。驚きのあまり、私は目を見張る。

「遼から、倒れた時の状況を聞いたよ。その日記を見たんだね。本当にすまない。実を言うと僕は、なんとなくわかっていたんだ。遼が、どうして解離性健忘症になってしまったのか。遼の日記の、破り取られたページを見た時から」
「それ、って……」

 それはつまり、遼くんのお父さんは私が知らない何かを知っているということになる。
 私と遼くんが交わした告白に潜む、解離性健忘症を引き起こしてしまった理由を、知っていることになる。
 咄嗟に、私は遼くんのお父さんによろけるようにしてしがみついた。

「おじさん、教えて。私、わからなくて……。遼くんはどうして、どうして記憶障害に?」
「だが……」
「お願い、おじさん。私はどうしても、知りたいの」

 私はあの日、遼くんに告白された。
 私はあの日、遼くんに告白した。
 私の記憶の中では、本当にただそれだけだった。
 早咲きの桜が舞い散る並木道で、春の訪れを感じさせる清々しい青空の下、私たちは笑い合っていた。
 解離性健忘症になるような精神的負荷なんて、私の記憶にもなかった。

「私は、何を忘れてるの? あの日、何があったの?」

 知りたかった。
 忘れちゃいけない何かが、小学三年生の三月三十一日には、あったのだ。
 私が必死に縋り付いていると、根負けしたように遼くんのお父さんは一枚の紙片をポケットから取り出して、私に見せた。

「――――っ!」

 私の心に、衝撃が走った。
 遼くんのお父さんは、誤解が生じないよう丁寧に説明してくれた。
 あの日。
 桜舞う青空の下で、何があったのかを。