「し、死んでる……?」
ヒグラシも寝静まる八月の深夜零時、自宅マンションのベランダにて。
会社の出張から帰宅したばかりの俺の目に、暗闇の中で横たわる亡骸が飛び込んできた。
「紅里ぃ! どうしてこんな姿に……」
慌てて駆け寄り、力なくグッタリしている彼女を両手で抱き寄せる。着ているスーツが汚れようが、そんなことはどうだっていい。
「お願いだ、返事をしてくれ!」
都会の生活に憧れ、大学受験と共に田舎を飛び出して早十年。立派なアラサーの社畜となった俺は、実家へ帰りたいと毎日のように泣いていた。
そんな自分の癒しとなっていたのが、愛する妻(ベランダ菜園のミニトマト)だったというのに!
「俺たちの子供(果実)が大きくなったねって、昨日まで一緒に喜んでいたじゃないか……!」
それが出張を終えて帰宅してみれば、この惨状である。可哀想に、濃いグリーンの葉なんて、萎れて痛々しい姿になってしまった。だが俺を襲った悲劇はそれだけではなく――。
「そんなっ。紫苑、翠……!」
他の鉢植えにあったナスやピーマンまで萎びているだと!?
嘘だろ、愛称までつけて種から大切に育てていたのに……今年の夏は異常な暑さだと聞いていたが、まさかたった一日で枯れてしまうとは。くそっ、この世に神はいないのか!?
「うぅっ。俺が出張になんて行かなければ、こんなことには……」
そもそも製薬会社の営業マンって仕事がハード過ぎるのがいけない。
病院のドクターに薬を売り込むのが俺の仕事なんだが、頭のいい先生たちを納得させるためには当然、薬の知識が山ほど必要になるわけで。
元々文系で医学に疎かった俺は、入社してから六年経った今でも日々の学習に追われ続けている。今日だって、会社命令で地方の学会に参加してきたところだった。
本来なら出張先で一泊するところを、嫁(野菜)たちが心配という理由で、最終の新幹線で帰らせてもらったのだが……はぁ、間に合わなかったか。
「あー、もう鬱だ。こうなったらヤケ酒でも飲んで、ふて寝するしか……ん? なんだ?」
冷蔵庫にストックしてあるビールを取りにいこうとしたところで、ズボンのポケットに入れていたスマホが震え出した。
電話か?
表示は……田舎の実家?
「はい、もしもし。あぁ、母さんか。どうしたの?」
電話口から聞こえる実母の声で我に返った俺は、腕の中の紅里(ミニトマト)をそっと床に置いた。
「あー、来週? 悪いけど、今回も帰省は無理そうなんだよね」
用件はお盆休みの確認だったらしい。
こちらがやんわりと断ると、「またなの?」と呆れた声色へと変わった。
……この感じ、なんだか懐かしいな。
マシンガンのように続く有難いお叱りを聞き流しつつ、俺はベランダの手すりに背中を預けて空を見上げた。
建物という額縁に切り取られた都会の夜空は狭く、輝く星たちもいない。真っ黒な背景に孤独な月がひっそりと浮かぶ、物寂しいキャンバスがただあるだけだ。
「え? 恋人? 違うよ、仕事だって。今も出張から帰ってきたばっかりでさ。疲れたから、酒でも飲んで寝ようかと思っていたところ」
そんな愚痴をこぼすと、今度は心配そうな声が返ってくる。
「あ、いや……大丈夫、ちゃんと食べているよ」
もちろん、真っ赤な嘘だ。昼はだいたいカップ麵かおにぎりだし、夜はコンビニ弁当ばかり。栄養なんて考える余裕はない。
だけど声を聞いていたら、母さんの肉野菜炒めが急に食べたくなってきた。農家をやっているだけあって、これまた野菜が美味いんだよなぁ。
「仕事が落ち着いたら、こっちから連絡するからさ。親父にもよろしく言っておいてよ。……うん、うん。それじゃまた」
このままだといずれボロが出そうなので、適当に話を終わらせて電話を切ってしまった。
……はぁ。
なにが悲しくて、実の親にこんな嘘を吐かなきゃならんのか。
「そりゃあ俺だって、帰れるなら実家に帰りたいよ」
夕焼け色に染まる稲穂の絨毯に、忙しないセミの声。家に帰れば畳の部屋に寝転がって、婆ちゃんと一緒にテレビの大相撲を見ていたっけなぁ。
懐かしい記憶を振り返ると、無邪気だったあのころが一番幸せだったように思える。今じゃ仕事と勉強に追われ、プライベートな時間もまともにとれない日々だしね。
「それに、父さんのことも心配なんだよな……」
母さんいわく、このところ父は足を悪くして寝てばかりらしい。前に会ったときは、元気に畑を耕していたのに。
いやいや、何を弱気なことを考えているんだ。ここで俺が出戻ったところで、なんの解決にもならんだろう。
我が儘を言って農家を継がずに、都会へ出てきたんだし。今さら逃げ帰るわけにはいかない。ここで立派にやっていくことがなによりの恩返しだ。
「それに……瑚乃葉ちゃんとの約束もあるしな」
スマホの待ち受け画面に表示された、少女とのツーショット写真。
高校生ぐらいの彼女は制服の代わりに薄青色の病衣を纏っている。それでも暗い表情など一切せず、満面の笑みでピースをしながら、画面越しに俺を見つめている。
この子と出逢ったのは、俺がまだ新人だったころ。
当時の俺は、営業のノルマを達成することばっかり考えていて、売った薬がどんな人に届いているかなんて、まるで頭になかった。
そんなときに知り合ったのが、営業先の病院で入院していた瑚乃葉ちゃんだった。病気と闘う彼女を間近で見ているうちに、やがて俺は自分勝手な考えを改めた。
残念ながら、数年前に瑚乃葉ちゃんは亡くなってしまったけれど……この子と出逢えたおかげで、彼女みたいに病気で苦しむ患者さんのために、より良い薬を届けたいって思えるようになったんだ。
だからこうして今も俺は、どうにか社畜生活を頑張れているのだが……。
「きゃああ!」
なんだ? ベランダで物思いにふけっていると、右隣の部屋から唐突に悲鳴が上がった。
「俺という彼氏がいるのに! どうして他の男なんかと会うんだよ!」
「誰が彼氏ですか! ただのストーカーのくせに、私の部屋へ勝手に入ってきて……警察を呼びますからね!」
おいおい、カップルの喧嘩か? と思いきや、女性の言葉から察するにそうじゃなさそうだ。
気になった俺は、仕切りの壁から頭を出してみた。覗き見るのは犯罪だが、さすがに今は緊急事態だからしょうがない。
偶々なのかベランダの窓は開いており、隣室の様子が窺えたのだが――、
「そうやってお前も、俺を捨てるのか……?」
「ちょ、ちょっと!? なにをするつもり!?」
なんと黒パーカーの男が、刃が剥き出しの三徳包丁を肩掛け鞄から取り出すところだった。一方で隣人の女性は恐怖で腰を抜かしたのか、その場にへたり込んでしまう。
やべぇ、このままじゃ死人が出るぞ!?
「通報……ダメだ、それじゃ間に合わねぇ!」
そこからは完全に無意識の行動だった。気づけば俺は、手すりを乗り越えて隣のベランダへと向かっていた。そして床で完全に硬直している女性の隣を抜け、包丁を向けてこちらに走りくる男の前で両手を広げた。
「ってぇ……」
ドン、と重い衝撃を受けた直後、腹の中心に熱を感じた。
――いたい。
――くるしい。
だけど床を転がり、のたうち回ることしかできない。
すると俺を刺した犯人は溢れ出る血を見てビビったのか、「うわぁあ!」と喚きながら玄関の外へと逃げていった。
「だ、大丈夫ですか!?」
隣人さんはまだ立てないのか、床を這うようにして俺の元へやって来た。声は震えているし、可哀想に顔なんて涙でグチャグチャだ。
途中で救急車、と気づいたのか、彼女がスマホに手を伸ばしているが……もうダメだ。俺の意識はもう、どんどんと遠くなっていく。
「ごめん、母さん。親孝行、できなかった……」
寒い。自分の身体が急速に冷えていくのを感じる。頬を涙が伝い、硬質的なフローリングの床を濡らしていく。
これで俺の人生は終わりなのか……苦しい社畜生活も、煩わしい人間関係も、痛いのも苦しいのも、もうこりごりだ。
あぁ、もし来世があるのなら。
そのときは田舎で平和なスローライフをしたいなぁ――。


