千紗はシャーペンをカチカチと意味なく押してまた芯を戻し、押しては戻しを繰り返す。
「それ何回もすると壊れるよ」
休み時間に前の席にやってきた理子がお菓子の袋を開けてパクパク食べ始めた。
「なんかイライラしてない? 最近」
うん。う~~~ん。
「どっちやねん」
千紗は悩んでから、イライラの片方を言うことにした。
「ラインしたじゃん? お兄ちゃん何かおかしいって」
「あー、したね。まだおかしいの?」
「おかしい。ずーっとブツブツ言ってて、夜まで殆ど家から出ないで八時くらいから何も言わずに出て行くんだ。んで朝帰りするの」
「ふーん……大学生だったらそんなもんじゃないの?」
「でも大学は毎日普通に授業有るんだよ。もう三日もサボってて。ママが聞いても返事もしないし。具合が悪い訳でもなさそうで。お父さんの出勤前には帰って来てないし。土日が来たら修羅場だよ」
「千紗ん家のお父さん怖いもんね。手が出そう」
「お兄ちゃんも空手やってるから強いしね」
「どっち勝つか、かけよーぜ」
「ひとん家の不幸に!」
理子の提案にケタケタ笑い声は出たが、視界の端に独立国家エリアが見えて自然と止まった。
話には本当は続きがあった。兄の彼女である桃花から、千紗の携帯にラインが来たのだ。
兄と連絡が取れない。既読も付かない。そんなに具合が悪いのか?と。
兄にその画面を見せても、頷くだけで全く反応がなかった。
念の為確認したが、特に桃花と別れ話もしていない。謎は増え、夜に一体何をしているのだろうという話になり、まず桃花が言った。
『女だ、絶対厄介な女がいる!』
女が複数いるようなモテ兄には見えないけれど、水曜の夜に桃花と尾行することになった。それはもう、ちょっとした軽い探偵気分で。
兄は電車に乗り、D市駅に向かった。快速電車から各停に乗り換える、三十分離れた駅。友達やバイト先もないその駅に迷いなく降りて、のろのろと歩いて行く。住宅街しかない駅で『ほらやっぱり女の家だわ』と青くなる桃花と尾けて行くと、一帯が木々に覆われた公園のような場所で急に止まった。それから何もせず、じっとどこかを見つめている。
『待ち合わせ?』
『なんか見てる?』
辺りには外灯も少なくて、正面を覆う森林は真っ暗だ。遠くを見るような眼差しは誰かを待っているというソワソワした様子もない。
『お兄ちゃんて、天体好きだったっけ』
『ぜーんぜん』
どっかの女と待ち合わせしている風でもない上に、気が付けば同じように同じ方角を見ている人がいることに気が付いた。
『え? 何かみんな同じことしてない? え、これ何してるの?』
『気持ち悪~い!』
おばさんやおじさん、若い男の子……何人いるんだろうか。ひとクラスくらいはいるような気がする。だけど何も話したりせず、暗闇の中、真っ黒な木々をただ突っ立って見ているようにしか見えなかった。
『ねぇ、桃ちゃん、ウチらもう帰ろうよ、なんか怖いよ』
『……うん……』
その時、道路脇に隠れていた二人の目の前を一台の白いコンパクトカーがゆっくりと通り過ぎて行った。
『えっ』
『え?』
千紗は驚いて声が出た。車が小さくなるまで目で追う。
『知り合い?』
『……担任』
と、後部座席にいたのは多分、澄永透。
なんで辰巳がこんなとこ。てか、五点と何してるんだ!?!?
『ま、まさか彼女!?』
『知り合い、彼女いたの? ……って、きゃ、ちょ!』
慌てた桃花が大声を上げながら抱き着いて来る。
『野良……や、柴犬!?』
白と茶の二匹の柴犬が吠えながら牙をむき出してこちらに、どこか同じ方向を見る人々を次々に威嚇して体当たりしに行く。皆声を上げて蜘蛛の子を散らすように動き出した。正樹も目を見開いて『うぁ』と言いながらのたのたと走り出す。
千紗と桃花も驚いて恐怖に駆け出した。そのまま兄を置き、駅まで一直線に戻った。
◆◆◆◆
「今日は遠足のチーム決めと、見学先について話し合って決める所まで。後で渡す紙に見学先をルート順に番号書いて提出。チームは七、八人で男女混合…割合は適当で。十分以内に決まらなかったら全員、籤な」
辰巳の説明で、わくわくした空気の金曜午後のホームルームにえ~っと声が響く。
透は雨雲を眺め、誰にも気づかれない程度で長細い嘆息を吐く。
ガラスに雨粒がへばりつく。教室の中も外も、憂鬱だった。
始めから籤にしてくれたらいいのに。
友達は一人もいなかった。中学の時も高校一年も二年の頃も、友達がいたことはある。だけど相手はもう透が友達だったことを綺麗さっぱり忘れている。喧嘩別れしたとか、意地悪で無視されるようになったとかの類でなく、周囲を含む人々皆に最初から友達だった記憶がない。だって『おいつ様』が記憶を消したから。
椅子を動かす音、華やいだ男女が交わす声。
人数足りない!
じゃんけんする?
あみだにする?
グラウンドに面した午後三時半の大きな窓の外は薄暗くて、明るい教室が映画のスクリーンみたいに映し出される。出入口近くで腕組みをして、クラスの皆を何でもない顔で見回している担任の顔をした壱も見えた。時々、窓の中で目が合う。
『あっちこっちに友達作っておいたら、一人いなくなっても他のパイが残るでしょうに』
昔、晩御飯の席で、さも軽そうに言ってきた僕の科白を思い出す。未だに業腹である。
こっちはキラキラと眩しい女子を相手にすると、用事を伝えるだけでも精一杯なのだ。朝から小鉢一つのしぐれ煮でご飯を三杯もかきこむ奴に何がわかる。こちらの苦労も知らず極めつけに浅慮な男である。
透は自分からアプローチは出来ないが、一度親友になると永遠に大事にするタイプを自負している。どこかの壱みたいに八方美人に連絡先を交換する人間ではない。
自分が誰か運命の子と本当に本当の友達になったらまず夜通しお喋りをしてプロフィール交換をするだろう。それから友達の好きなドラマを見たり漫画を読んだり音楽を聴いたりする。友達が好きならきっと好きになるし、例え嫌いかもって思っても好きになるし、友達の推しは透の推しだし、と言うか友達が透の推しになる。好きって伝え合って『私たちって運命的なずっ友だよね』って言うのだ。
昔それを壱に言ったら『いやそれ、重た。透さん、だから友達出来ないんじゃないですか』と言われたので、その時は時間をかけて仕置きした。
同じ空気を吸うのは日常的に必要だが、加えて定期的におきよ様が浄化しないと身体の奥にある穢れがへばりついて黒い痣になるのが護番の仕様である。
二、三日なら平気だが、四日目から少しずつ身体が重たくなるらしい。そこから身体に黒い痣のようなものが浮かびあがり、いずれは真っ黒になる。一週間もすれば護番は主人を見ると涙目になる。
そうなれば全て透のターンである。
ただ、仕置き後のご褒美タイムの壱はちょっと面倒過ぎるのだが。
透は思い出しそうになって慌てて目を瞬かせる。
「澄永さん」
ポンと肩を叩かれた。
「……っ」
「あ、ごめんね、急に。あの、遠足良かったら一緒に回らない? まだ女子三人なの。残ってる男子の方も三人だからグループの人数余ってるんだ」
驚いて顔を上げると女の子三人がこちらを見ていた。
「どう?」
女子のうち二人は少し派手なタイプで、制服も着崩して薄っすらメイクもしている。だが声をかけてくれた田之倉結は好きで図書委員をしている真面目なタイプの子だった。結にも目立った友達がいない。まだ五月の後半なので、いなくても不思議はない時期だったが。
「あの、あの……ぉ願い、します」
がんばって結に答えると、よかった!と喜んでくれた。153センチの透と同じくらいの身長で、体格も似たような結は同じ目線でにっこり笑いかけてくれる。その後ろから派手な二人も近づいて来た。
「よろしく、澄永さん。林千紗ね、こっちは」
「香住理子でーす。じゃ、行先決めよ~」
理子が男子を呼んで、大人しそうな男子三人が気恥ずかしそうに寄って来る。
教室の隅っこから、辰巳が最後に出来上がったグループの様子を眺めた。クラスに友達のいない田之倉と透があぶれるのは想定内だったので、上々な仕上がりである。ただ、林と香住の派手なコンビと一緒になるとは想定外ではあったが。
どのグループも軽い合コンのような雰囲気を漂わせるのがこういった男女混合の顔合わせである。学生時代でも、教師という立場の今でも自己紹介を要する場は面倒くさい。
ゆっくりと教室を闊歩し、各グループの進捗を確認する。
行先は鎌倉である。大仏だの神社だのと行先の他にタブレットで調べて早速甘味屋を決める者もいる。
「おやつは後にしろ~。行ってもいいが、先にコースを決めてくれ」
「ねーねー、先生も行くよね?」
猫なで声の女子が聞く。
「行かんくていい?」
つい本音が零れる。
「え~! だめだめ! 先生どこ回るの!? 一緒に回ろうよ」
「先生たちは各ポイントをうろうろするんだよ。コースを逸脱する不良生徒をサングラスして追いかけ回す」
なにそれと笑う生徒もいるが、実際に職員室で聞いたひやりとした経験談もある。高校三年生は大人の殻を被った子供だった。
最後に出来上がったグループは大して意見のある者もおらず、田之倉が途方に暮れた顔で面子を見回していた。何でも意見が出来そうな林と香住コンビは途中から甘味屋探しに夢中になってしまっている。男子生徒は三人でばかり話をして、いずれにしてもイニシアチブが取れるようなタイプではない。
「行先は、決まらない?」
辰巳はトン、と白いままのコース表に指を落とし、机を囲む七人を見る。香住が嬉しそうな顔を上げた。
「タァ君、どこのポイントにいんの?」
「タァ君じゃないし、自分のクラスのルートが確定しないと決まらない」
理子の熱視線に肩を竦め、男子その一の駒田に向けて『駒田は歴史が好きなんだから大仏じゃないのか』と聞いてやる。駒田は太い眉毛をキュッと上げて辰巳を見返した。
「あ~……、あー、まぁ? 小学生の頃に行ったことあるけどな」
「案外大人になってからの方が感動したりするぞ。歴史の背景も頭に入ってるとまた違う」
「んじゃ、大仏さんにしよ~」
全員が頷いたので、拍子抜けするほどあっさりと高徳院になった。そこからもうひとつ候補を出して、計画表を作らせる。
透はチラともこちらを見ない。結に話しかけられて頬を染め、チラチラと駒田や中澤が見ていることにも気が付かず楽しそうだった。
「澄永さん、鎌倉行ったことある?」
「ううん、初めてで」
「本当? あのね、ここのお饅頭美味しいよ」
クラスメイトと用事以外で会話をする姿を見るのは久しぶりだった。気持ちの分だけ壱の目尻が下がるのは仕方ない。
そんな担任の様子を千紗が上目に観察していた。
班のリーダーは千紗になり、遠足先での目的を書いた班員それぞれの提出用紙を放課後までに回収する役割が与えられた。今時タブレットでの提出がデフォルトなのに、わざわざ現物なのは生徒間の交流を深める為である。それでも大体は適当に書いてホームルーム内に仕上げてくれた。残るはあと一枚。辰巳の見え透いた思惑に乗るようで癪だったが、千紗は終礼後に独立国家エリアへと足を踏み入れる。
「終わりそう?」
「あの、ごめんね。すぐ」
言いながら用紙を前に、書きあぐねている様子である。
「そんなん適当で良いんだよ」
「適当…」
千紗が放り投げた言葉に、透がオウム返しで顔を上げた。じっと千紗の目を見てくる。
「う……ん~、ほら、だって別に成績と関係ないし。情緒育ってっかの形だけの確認みたいなもんだから。十八にもなって目当てだの目的だの感想だの……辰巳だってソレ読んで『ふぅん』て思うだけなんだから」
「『ふぅん』……そっか、そう…だよね」
透の脳内で『ふぅん』と言う男がニヤついている。そのふぅんが嫌なのだ。だって知っている。隣の部屋の押し入れには自分がこれまで書いた作文や感想文がしまわれたファイルがあることを。
考えた末、後で文句を言われそうな定型文だらけの遠足の目的を書いて千紗に渡す。
「ありがと。澄永さんてさ、家、どこ?」
「え、家……はD市だよ」
「D市駅?」
「うん」
どうして?と透の丸くした目を受けて、やっぱり見間違いではなかったと千紗は確信する。後部座席にいたのはこの子だ。
「私、同じ沿線なんだ。駅まで一緒に帰ろうよ。一人で帰ったらダメだしね」
「えっ」
千紗が用紙を職員室まで持って行く間に、壱へ電車で帰る連絡をして、まるで初彼氏を待つ気合で靴箱に待機した。リップを塗って、髪の毛を整えて。
「おまたせ~」
二人は並んで駅までの坂道を歩く。
「澄永さんて放課後遊んでもなさそうだけど、バイトとかしてんの?」
「ううん、家に帰ったら動画観たり、犬と遊んでるくらい」
「マジ? 暇じゃない?」
千紗が『え~』と顔で言う。
実際は夜になればおきよ様は出て行かざるを得ない。長い夜も多く、放課後の数時間しかゆっくりできない日もある。国から報酬が支払われるのでアルバイトと言えなくも無いが、結局説明に困る。
「林さんは、アルバイトしてるの?」
「千紗でいーよ。私も透で良い?」
「……うん!」
林千紗とはクラスの中でも理子と揃って派手な女子である。正直、浮いているという意味では透と同等に他の女生徒と毛色が違った。スクールカーストさえ突き抜けて別ラベルと言って差し支えない。
「バイトは欲しいものがある時に短時間だけ。彼氏が大学生だから、あんま遊ぶお金には困らないんだー」
「へぇ、大学生、すごい…」
「彼氏いる?」
「ううん!」
透は手と首を振る。千紗は嘘を吐いていないかよく観察した。
「今までは?」
「全然、そんな」
「一人も? そんな可愛いのに、なんで? モテるよね?」
「へ」
ぼ、と透の顔が赤くなり、視線が彷徨った。女の子から可愛いなどと褒められるのは小学生以来だった。多江と七緒からはよく言ってもらえるのだが、これはちょっと違う。
予想外に親しみが持てる独立国家の表情に、千紗が思わず吹き出す。
「めっちゃ照れてるじゃん! あは」
「にひひ」
「え~、じゃあ好きな人とかはいる? 聞かれたくなかったら答えなくていいけど」
「……いる?」
「なんで疑問形。そっか、意外!そーんな可愛くても片想いってことか~! なんか勝手にもっとツンツンしてるかなーって。普通に、アレだね。かわいぃ……あのさぁ…入学前に健康診断あったの、覚えてる?」
「入学前って、高校の入学前の? 入学式の前日にした健康診断?」
「あーそう、それ。その時私と同じグループだったんだけど」
「え、そうなの?」
「だよね、覚えてないよね」
千紗だって、透以外覚えていない。
それから腹痛に関する記憶を話すと、透はぽかんとしていた。
「そんなのしたんだね? 私。全然覚えてないみたい」
「うん、そう。それで、その後学校始まってからお礼を言いたかったんだけど、クラス多いし全然わからんくて。見つけたの、一学期の終わりだったんだぁ。そしたらなんか、前のこと過ぎて、言いづらくなっちゃって」
「お礼なんて」
透は慌てる。
「んーん。入学前にやらかすトコだったから、助かったんだ。本当ありがと」
千紗が言った礼の言葉が透をくすぐって行く。
いつも澄ました様子の美少女が、ゆっくりとはにかんだ。
なんだ、全然普通で、めちゃくちゃ可愛い子じゃーないか? 思わず千紗の口角も上がる。
「ねー、シャンプーとトリートメント、何使ってんの?」
「それ何回もすると壊れるよ」
休み時間に前の席にやってきた理子がお菓子の袋を開けてパクパク食べ始めた。
「なんかイライラしてない? 最近」
うん。う~~~ん。
「どっちやねん」
千紗は悩んでから、イライラの片方を言うことにした。
「ラインしたじゃん? お兄ちゃん何かおかしいって」
「あー、したね。まだおかしいの?」
「おかしい。ずーっとブツブツ言ってて、夜まで殆ど家から出ないで八時くらいから何も言わずに出て行くんだ。んで朝帰りするの」
「ふーん……大学生だったらそんなもんじゃないの?」
「でも大学は毎日普通に授業有るんだよ。もう三日もサボってて。ママが聞いても返事もしないし。具合が悪い訳でもなさそうで。お父さんの出勤前には帰って来てないし。土日が来たら修羅場だよ」
「千紗ん家のお父さん怖いもんね。手が出そう」
「お兄ちゃんも空手やってるから強いしね」
「どっち勝つか、かけよーぜ」
「ひとん家の不幸に!」
理子の提案にケタケタ笑い声は出たが、視界の端に独立国家エリアが見えて自然と止まった。
話には本当は続きがあった。兄の彼女である桃花から、千紗の携帯にラインが来たのだ。
兄と連絡が取れない。既読も付かない。そんなに具合が悪いのか?と。
兄にその画面を見せても、頷くだけで全く反応がなかった。
念の為確認したが、特に桃花と別れ話もしていない。謎は増え、夜に一体何をしているのだろうという話になり、まず桃花が言った。
『女だ、絶対厄介な女がいる!』
女が複数いるようなモテ兄には見えないけれど、水曜の夜に桃花と尾行することになった。それはもう、ちょっとした軽い探偵気分で。
兄は電車に乗り、D市駅に向かった。快速電車から各停に乗り換える、三十分離れた駅。友達やバイト先もないその駅に迷いなく降りて、のろのろと歩いて行く。住宅街しかない駅で『ほらやっぱり女の家だわ』と青くなる桃花と尾けて行くと、一帯が木々に覆われた公園のような場所で急に止まった。それから何もせず、じっとどこかを見つめている。
『待ち合わせ?』
『なんか見てる?』
辺りには外灯も少なくて、正面を覆う森林は真っ暗だ。遠くを見るような眼差しは誰かを待っているというソワソワした様子もない。
『お兄ちゃんて、天体好きだったっけ』
『ぜーんぜん』
どっかの女と待ち合わせしている風でもない上に、気が付けば同じように同じ方角を見ている人がいることに気が付いた。
『え? 何かみんな同じことしてない? え、これ何してるの?』
『気持ち悪~い!』
おばさんやおじさん、若い男の子……何人いるんだろうか。ひとクラスくらいはいるような気がする。だけど何も話したりせず、暗闇の中、真っ黒な木々をただ突っ立って見ているようにしか見えなかった。
『ねぇ、桃ちゃん、ウチらもう帰ろうよ、なんか怖いよ』
『……うん……』
その時、道路脇に隠れていた二人の目の前を一台の白いコンパクトカーがゆっくりと通り過ぎて行った。
『えっ』
『え?』
千紗は驚いて声が出た。車が小さくなるまで目で追う。
『知り合い?』
『……担任』
と、後部座席にいたのは多分、澄永透。
なんで辰巳がこんなとこ。てか、五点と何してるんだ!?!?
『ま、まさか彼女!?』
『知り合い、彼女いたの? ……って、きゃ、ちょ!』
慌てた桃花が大声を上げながら抱き着いて来る。
『野良……や、柴犬!?』
白と茶の二匹の柴犬が吠えながら牙をむき出してこちらに、どこか同じ方向を見る人々を次々に威嚇して体当たりしに行く。皆声を上げて蜘蛛の子を散らすように動き出した。正樹も目を見開いて『うぁ』と言いながらのたのたと走り出す。
千紗と桃花も驚いて恐怖に駆け出した。そのまま兄を置き、駅まで一直線に戻った。
◆◆◆◆
「今日は遠足のチーム決めと、見学先について話し合って決める所まで。後で渡す紙に見学先をルート順に番号書いて提出。チームは七、八人で男女混合…割合は適当で。十分以内に決まらなかったら全員、籤な」
辰巳の説明で、わくわくした空気の金曜午後のホームルームにえ~っと声が響く。
透は雨雲を眺め、誰にも気づかれない程度で長細い嘆息を吐く。
ガラスに雨粒がへばりつく。教室の中も外も、憂鬱だった。
始めから籤にしてくれたらいいのに。
友達は一人もいなかった。中学の時も高校一年も二年の頃も、友達がいたことはある。だけど相手はもう透が友達だったことを綺麗さっぱり忘れている。喧嘩別れしたとか、意地悪で無視されるようになったとかの類でなく、周囲を含む人々皆に最初から友達だった記憶がない。だって『おいつ様』が記憶を消したから。
椅子を動かす音、華やいだ男女が交わす声。
人数足りない!
じゃんけんする?
あみだにする?
グラウンドに面した午後三時半の大きな窓の外は薄暗くて、明るい教室が映画のスクリーンみたいに映し出される。出入口近くで腕組みをして、クラスの皆を何でもない顔で見回している担任の顔をした壱も見えた。時々、窓の中で目が合う。
『あっちこっちに友達作っておいたら、一人いなくなっても他のパイが残るでしょうに』
昔、晩御飯の席で、さも軽そうに言ってきた僕の科白を思い出す。未だに業腹である。
こっちはキラキラと眩しい女子を相手にすると、用事を伝えるだけでも精一杯なのだ。朝から小鉢一つのしぐれ煮でご飯を三杯もかきこむ奴に何がわかる。こちらの苦労も知らず極めつけに浅慮な男である。
透は自分からアプローチは出来ないが、一度親友になると永遠に大事にするタイプを自負している。どこかの壱みたいに八方美人に連絡先を交換する人間ではない。
自分が誰か運命の子と本当に本当の友達になったらまず夜通しお喋りをしてプロフィール交換をするだろう。それから友達の好きなドラマを見たり漫画を読んだり音楽を聴いたりする。友達が好きならきっと好きになるし、例え嫌いかもって思っても好きになるし、友達の推しは透の推しだし、と言うか友達が透の推しになる。好きって伝え合って『私たちって運命的なずっ友だよね』って言うのだ。
昔それを壱に言ったら『いやそれ、重た。透さん、だから友達出来ないんじゃないですか』と言われたので、その時は時間をかけて仕置きした。
同じ空気を吸うのは日常的に必要だが、加えて定期的におきよ様が浄化しないと身体の奥にある穢れがへばりついて黒い痣になるのが護番の仕様である。
二、三日なら平気だが、四日目から少しずつ身体が重たくなるらしい。そこから身体に黒い痣のようなものが浮かびあがり、いずれは真っ黒になる。一週間もすれば護番は主人を見ると涙目になる。
そうなれば全て透のターンである。
ただ、仕置き後のご褒美タイムの壱はちょっと面倒過ぎるのだが。
透は思い出しそうになって慌てて目を瞬かせる。
「澄永さん」
ポンと肩を叩かれた。
「……っ」
「あ、ごめんね、急に。あの、遠足良かったら一緒に回らない? まだ女子三人なの。残ってる男子の方も三人だからグループの人数余ってるんだ」
驚いて顔を上げると女の子三人がこちらを見ていた。
「どう?」
女子のうち二人は少し派手なタイプで、制服も着崩して薄っすらメイクもしている。だが声をかけてくれた田之倉結は好きで図書委員をしている真面目なタイプの子だった。結にも目立った友達がいない。まだ五月の後半なので、いなくても不思議はない時期だったが。
「あの、あの……ぉ願い、します」
がんばって結に答えると、よかった!と喜んでくれた。153センチの透と同じくらいの身長で、体格も似たような結は同じ目線でにっこり笑いかけてくれる。その後ろから派手な二人も近づいて来た。
「よろしく、澄永さん。林千紗ね、こっちは」
「香住理子でーす。じゃ、行先決めよ~」
理子が男子を呼んで、大人しそうな男子三人が気恥ずかしそうに寄って来る。
教室の隅っこから、辰巳が最後に出来上がったグループの様子を眺めた。クラスに友達のいない田之倉と透があぶれるのは想定内だったので、上々な仕上がりである。ただ、林と香住の派手なコンビと一緒になるとは想定外ではあったが。
どのグループも軽い合コンのような雰囲気を漂わせるのがこういった男女混合の顔合わせである。学生時代でも、教師という立場の今でも自己紹介を要する場は面倒くさい。
ゆっくりと教室を闊歩し、各グループの進捗を確認する。
行先は鎌倉である。大仏だの神社だのと行先の他にタブレットで調べて早速甘味屋を決める者もいる。
「おやつは後にしろ~。行ってもいいが、先にコースを決めてくれ」
「ねーねー、先生も行くよね?」
猫なで声の女子が聞く。
「行かんくていい?」
つい本音が零れる。
「え~! だめだめ! 先生どこ回るの!? 一緒に回ろうよ」
「先生たちは各ポイントをうろうろするんだよ。コースを逸脱する不良生徒をサングラスして追いかけ回す」
なにそれと笑う生徒もいるが、実際に職員室で聞いたひやりとした経験談もある。高校三年生は大人の殻を被った子供だった。
最後に出来上がったグループは大して意見のある者もおらず、田之倉が途方に暮れた顔で面子を見回していた。何でも意見が出来そうな林と香住コンビは途中から甘味屋探しに夢中になってしまっている。男子生徒は三人でばかり話をして、いずれにしてもイニシアチブが取れるようなタイプではない。
「行先は、決まらない?」
辰巳はトン、と白いままのコース表に指を落とし、机を囲む七人を見る。香住が嬉しそうな顔を上げた。
「タァ君、どこのポイントにいんの?」
「タァ君じゃないし、自分のクラスのルートが確定しないと決まらない」
理子の熱視線に肩を竦め、男子その一の駒田に向けて『駒田は歴史が好きなんだから大仏じゃないのか』と聞いてやる。駒田は太い眉毛をキュッと上げて辰巳を見返した。
「あ~……、あー、まぁ? 小学生の頃に行ったことあるけどな」
「案外大人になってからの方が感動したりするぞ。歴史の背景も頭に入ってるとまた違う」
「んじゃ、大仏さんにしよ~」
全員が頷いたので、拍子抜けするほどあっさりと高徳院になった。そこからもうひとつ候補を出して、計画表を作らせる。
透はチラともこちらを見ない。結に話しかけられて頬を染め、チラチラと駒田や中澤が見ていることにも気が付かず楽しそうだった。
「澄永さん、鎌倉行ったことある?」
「ううん、初めてで」
「本当? あのね、ここのお饅頭美味しいよ」
クラスメイトと用事以外で会話をする姿を見るのは久しぶりだった。気持ちの分だけ壱の目尻が下がるのは仕方ない。
そんな担任の様子を千紗が上目に観察していた。
班のリーダーは千紗になり、遠足先での目的を書いた班員それぞれの提出用紙を放課後までに回収する役割が与えられた。今時タブレットでの提出がデフォルトなのに、わざわざ現物なのは生徒間の交流を深める為である。それでも大体は適当に書いてホームルーム内に仕上げてくれた。残るはあと一枚。辰巳の見え透いた思惑に乗るようで癪だったが、千紗は終礼後に独立国家エリアへと足を踏み入れる。
「終わりそう?」
「あの、ごめんね。すぐ」
言いながら用紙を前に、書きあぐねている様子である。
「そんなん適当で良いんだよ」
「適当…」
千紗が放り投げた言葉に、透がオウム返しで顔を上げた。じっと千紗の目を見てくる。
「う……ん~、ほら、だって別に成績と関係ないし。情緒育ってっかの形だけの確認みたいなもんだから。十八にもなって目当てだの目的だの感想だの……辰巳だってソレ読んで『ふぅん』て思うだけなんだから」
「『ふぅん』……そっか、そう…だよね」
透の脳内で『ふぅん』と言う男がニヤついている。そのふぅんが嫌なのだ。だって知っている。隣の部屋の押し入れには自分がこれまで書いた作文や感想文がしまわれたファイルがあることを。
考えた末、後で文句を言われそうな定型文だらけの遠足の目的を書いて千紗に渡す。
「ありがと。澄永さんてさ、家、どこ?」
「え、家……はD市だよ」
「D市駅?」
「うん」
どうして?と透の丸くした目を受けて、やっぱり見間違いではなかったと千紗は確信する。後部座席にいたのはこの子だ。
「私、同じ沿線なんだ。駅まで一緒に帰ろうよ。一人で帰ったらダメだしね」
「えっ」
千紗が用紙を職員室まで持って行く間に、壱へ電車で帰る連絡をして、まるで初彼氏を待つ気合で靴箱に待機した。リップを塗って、髪の毛を整えて。
「おまたせ~」
二人は並んで駅までの坂道を歩く。
「澄永さんて放課後遊んでもなさそうだけど、バイトとかしてんの?」
「ううん、家に帰ったら動画観たり、犬と遊んでるくらい」
「マジ? 暇じゃない?」
千紗が『え~』と顔で言う。
実際は夜になればおきよ様は出て行かざるを得ない。長い夜も多く、放課後の数時間しかゆっくりできない日もある。国から報酬が支払われるのでアルバイトと言えなくも無いが、結局説明に困る。
「林さんは、アルバイトしてるの?」
「千紗でいーよ。私も透で良い?」
「……うん!」
林千紗とはクラスの中でも理子と揃って派手な女子である。正直、浮いているという意味では透と同等に他の女生徒と毛色が違った。スクールカーストさえ突き抜けて別ラベルと言って差し支えない。
「バイトは欲しいものがある時に短時間だけ。彼氏が大学生だから、あんま遊ぶお金には困らないんだー」
「へぇ、大学生、すごい…」
「彼氏いる?」
「ううん!」
透は手と首を振る。千紗は嘘を吐いていないかよく観察した。
「今までは?」
「全然、そんな」
「一人も? そんな可愛いのに、なんで? モテるよね?」
「へ」
ぼ、と透の顔が赤くなり、視線が彷徨った。女の子から可愛いなどと褒められるのは小学生以来だった。多江と七緒からはよく言ってもらえるのだが、これはちょっと違う。
予想外に親しみが持てる独立国家の表情に、千紗が思わず吹き出す。
「めっちゃ照れてるじゃん! あは」
「にひひ」
「え~、じゃあ好きな人とかはいる? 聞かれたくなかったら答えなくていいけど」
「……いる?」
「なんで疑問形。そっか、意外!そーんな可愛くても片想いってことか~! なんか勝手にもっとツンツンしてるかなーって。普通に、アレだね。かわいぃ……あのさぁ…入学前に健康診断あったの、覚えてる?」
「入学前って、高校の入学前の? 入学式の前日にした健康診断?」
「あーそう、それ。その時私と同じグループだったんだけど」
「え、そうなの?」
「だよね、覚えてないよね」
千紗だって、透以外覚えていない。
それから腹痛に関する記憶を話すと、透はぽかんとしていた。
「そんなのしたんだね? 私。全然覚えてないみたい」
「うん、そう。それで、その後学校始まってからお礼を言いたかったんだけど、クラス多いし全然わからんくて。見つけたの、一学期の終わりだったんだぁ。そしたらなんか、前のこと過ぎて、言いづらくなっちゃって」
「お礼なんて」
透は慌てる。
「んーん。入学前にやらかすトコだったから、助かったんだ。本当ありがと」
千紗が言った礼の言葉が透をくすぐって行く。
いつも澄ました様子の美少女が、ゆっくりとはにかんだ。
なんだ、全然普通で、めちゃくちゃ可愛い子じゃーないか? 思わず千紗の口角も上がる。
「ねー、シャンプーとトリートメント、何使ってんの?」
