コンパクトカーは夜の道をまた現場まで戻る。十時半を過ぎ、現場には人影もない。
 「飲食店とかコンビニもないですしね。学習塾も十時で終わり。津田もこの時間なら大丈夫だろうって。一応、牧本君が応援に来てて周辺道路の車は規制してもらってます。殻無しだか殻憑きだかのことも言っておきましたし、津田の方でもほぼ普通の通り魔の線は消えました」
 「ぅん」
 後部座席では返事の二文字だけで頼りない響きを醸す。壱がちらりとバックミラーで俯く様子を見る。
 「さっきの男の人、また出ると思う? 殻憑きかな」
 「怖い? もっと遠いパーキングにしましょうか?」
 「……ううん」
 膝の上に乗せたハクが頻りに透の顎下を舐めてくる。ふわふわで温い塊を抱いて気を紛らわせた。
 「大丈夫ですよ、殻憑きでも。何かあったこともないし。ないでしょ? ゾンビゾンビ。基本的に憑かれて低能だし動きも鈍い」
 エンジンを切って明るくそう言う壱を睨み『わかった』と頷いておく。ゾンビとて怖かったが。

 車を降りて、伸びをする。
 壱は黒いウィンドブレーカーに、ダークグレーのジョガーパンツ。透は白い大きなパーカーに、細身のパンツという軽装である。特に決まりはないが、より浄化の気配が強くなる気がして、よく白を選んだ。蔵にある昔昔の装束も、みな白かったので倣っている。
 『縁起を担ぐ』行為は結構影響があるものだ、と静子もよく言った。
 隣で壱が上着のポケットから黒い犬のぬいぐるみを無造作に投げる。着地する頃にはハクより大きなサイズの黒柴になった。
 「あっ、サイちゃん!!」
 わぉん!
 急にテンションが上がった透が黒柴のサイにハグをする。ハクも尻尾を振り回し、嬉しそうにじゃれた。ハクもサイもオンナガミが遺した僕のひとつである。白は浄化能力者の(しもべ)、黒は護番の(しもべ)
 「もっと出してくれたらいいのに。サイちゃんだって外出たいよね? あんなきったない机とかじゃなくてさ」
 「毎回こいつらの足洗うの、面倒くさいんすよね」
 「なにその理由!」
 ぷんすかした透に歯を見せて、軽くストレッチしながら壱がじゃー行きましょうかと促す。
 透が頷き大きく深呼吸をした。歩幅の小さいペースに合わせて駐車場を出る。

 また五ブロック先までの道を、今度は淡く光る二匹が先導した。一本道には、誰もいない。

 三ブロック途中まで行って、はっきりと四ブロック目から向こうが暗闇で覆われて視えた。向こうの終わりは視えないが、六メーター幅の道路は百八十三センチある壱よりも上まですっぽり黒い。
 「結構、範囲が広そうですね」
 「夕方視た感じだと奥行きが二十五メートルくらいかな」
 「走ったら直ぐだ。泳いでも」
 「でも歩かなきゃ」
 透がほんのり紅いリップを塗った唇を尖らせる。
 おきよ様は一歩を丁寧に歩く。歩くしかないから、人々が残した穢れを踏みしめてお別れするのだ。

 壱の隣からとろりと眩しく澄んだ空気が溢れ出す。自然と目線が惹かれて左側の頭を見下ろすと、長い睫毛の奥で瞳が辺りを彷徨い、パーカーのポケットに手を入れたり出したりと忙しい。明らかに気が散っていた。
 男は手のひらを黒いジョガーパンツで拭き、軽く透を覗き込む。
 「ちょっと浄化が緩くないですか?」
 「……そう!? いや、気のせいでしょ」
 「サイいるけど、怖いかぁ……手、繋ぎましょうか?」
 この男の、こういうトコが嫌い。
 そう思いながら透はめちゃくちゃ睨みつつ、恐怖に負けて頷く。だっていつまた変な男が出てくるのかわからない。殻憑きや殻無しは神出鬼没なのだ。夕方みたいに瞬きの間に出たりしたら。

 靄が立ち込める中に足を踏み入れる。先導する二匹が何度も二人を振り返る。
 透は深呼吸を繰り返す。隣から男の視線を感じたが、繋いだ手以外の感覚を遮断して足元だけに意識を研ぎ澄ませた。

 それを視る者はいなかったが、おきよ様が歩いたコンクリートの地面から穢れが剥がれて次々に消えていく。音もなくぺりと剥がれたり、薄まったり、浮いて蒸発していった。そうして歩いた二人の後ろには、いつも通りの道が続く。

 おきよ様に成りたての十五の頃は、創大にも付いて来させて、反対側に壱を置き、白菜コンビを前後で固めてべそをかいて行脚した。怖くて泣き過ぎて二人に笑われた夜もあったが、こっちは真剣である。暗闇に突っ込んでいくのだ。こんなの怖くない方がおかしい。
 透はとにかくオカルト系がダメだ。人一倍、恐怖への耐性が低い。

 二十分ほど往復して歩いた。道路の三分の一ほどが浄化されて、一息つく。
 「ごめん、手汗が」
 タオルハンカチを出して、自分の手と壱の手を拭う。
 「夕方の、だいぶ怖かったですか?」
 「うん……もう出ないかな。なんで殻無しとか殻憑きとかいるんだろ」
 「穢れの余りもの? 成れの果て? 爪みたいなもんじゃないですか。あとは……透さん食べる為ですね」
 「真相いらん……そういうのじゃなくって、なんか存在意義みたいな?」

 穢れから生まれる、人を模した実体のないソレを殻無し。
 ある程度の穢れが寄り集まって、人に憑いてしまったソレを殻憑きと呼ぶ。

 殻無しは言わば穢れた空気の塊で、おきよ様が触れば浄化で消滅する。これを幽霊や悪霊と呼ぶ人もいる。大した力はないのだが、天敵である浄化能力者を穢れの中へ取り込んで食べようとする。大体近づいて来る前に、壱が黒刃で斬って吸収した。
 殻憑きは若干厄介だ。一時的に乗っ取られた人間なので、まさか刃物で斬る訳にもいかない。壱が斬らぬように黒刃に吸収させたり、気絶していれば透が浄化した。人を乗っ取るレベルなので、穢れが濃い場所にしか殻憑きはいない。そして実態がある分、行動力があった。通り魔に神隠し、暴力に犯罪、人に魔をさす事案はそこら中にあって意外に容易だ。

 だけど殻憑きは出ることが少ない。大体が殻無しだ。
 津田が以前、長年データを集めている統計から、殻憑きが生まれる程の穢れが少なくなってきたと言っていた。これからもっと減るだろう、とも。だからと言って犯罪や事件が減っている訳でもない。四家も国も減り続ける穢れが一体どこにいったのか首を捻っている。

 「まず殻憑きの存在意義を論じる前に小テストの存在意義を論じましょうか」
 また手を引かれて、一歩を踏み出す。
 「小テストは壱がムカつくからやっただけだよ。わかってんでしょ? しつこいなぁ……ねぇ、殻憑きって、普通に喋るの?」
 「何がムカつくんですか、こんな可愛い(しもべ)相手に。喋りますよ。ちょっと片言っぽく。昔、警察官の殻憑きに道案内してもらったこともあります」
 「!?」
 「案内先は殻憑きだらけの家でしたね」
 「今怖いこと言わないで!!!!」
 あっ、そうだったすいません、とわざとらしく謝ってくる質の悪い僕である。
 「えーっと、次、五十点取ってくれるなら楽しい話しましょうか」
 「ゴミ教師め」
 「殻憑きの生態が知りたいんでしたっけ」
 「もう黙って、百点取るから!」
 その時、わん!と二匹が鳴き、ピクリと反応した壱が瞬間で繋いだ左手を後ろに引き透の前に出る。半歩先、暗闇から突如男の白い顔が現われた。
 「ぎゃーーーーーーーーーーっ」
 出た!!!
 「殻無し!? それ殻無し!?」
 夕方の男と違うようだが、動きが緩慢で眼がギョロつき明らかに正常でない。身体全部が現われる。透は壱を盾にしてしがみつく。
 「壱壱壱壱壱壱壱壱壱」
 「はいはい」
 前触れなく現れたものの、驚かせるのはそれだけで動作は遅い。造作もなく壱が男の喉元に握った拳を打ち付ける。その手中には黒刃の柄があった。軽く打ったようで重たい衝撃に、焦点の合わない男が『は』とか『あ゛』の間で声を上げ崩れ落ちる。

 「殻憑きですね」
 殻無しなら柄に当たった瞬間に霧散して吸収されるが、こちらは普通に実体を伴って地面にのびている。
 「! 死んだ!?」
 「死にませんよ、これくらいで。犯罪者にする気か」
 「気を失ったの? どうすんの、この人」
 背にしがみついたまま、転がった殻憑きを足先でつつこうとする。
 「こらこら、蹴らない。牧本君に連絡します……んー、何人いるんだろ?」
 「夕方の人じゃないもんね、ってこれまたいっぱいいるの!?」
 「ア~…どうでしょう?」

 壱が透と行脚を始めるより前、つまり静子のおきよ様時代に遭遇したのは件の警官と、山小屋で一家揃って殻憑きになっていた時、小さなアパートの一室いっぱいに殻憑きが詰め込まれていた記憶があった。他も同様で、つまり透には言わないが、殻憑きが一人出るとほぼ百パーセントぞろぞろ出る。穢れが強かった場所は『ひと通りが多い』、あるいは『何か起こった』場所が多い。それも理の範疇と言えた。殻憑きがひとつ所に集まるのはそれもまた理由がある。
 だが自分の主人は怖がりなので、何もかも言えば大変なことになる。少し前までは壱が一人で片していた事案もあるくらいだ。
 つまりうるさいので壱は誤魔化した。

 「とにかく今日は続けましょう。放っておくにはあまりにも」
 壱が促す闇を透も視る。
 「……うん」
 「目瞑って歩いても良いですよ」
 また繋がれた大きな手が安心を売り込むように握りなおす。
 「大丈夫、とりあえず。ここ、人通りも多くないのに穢れが濃いね」
 たまにそういう場所は有った。人目が少ない故に、何かしらの小競り合いが起きやすい場所というのはまま有る。
 「喧嘩とか別れ話とか、人が立ち止まって話をしやすい場所なのかもしれませんね」
 「壱、別れ話こういうとこでするんだ」
 俺? と僕が目を丸くする。
 「しませんよ。そう言えば、課題は大丈夫ですか。地学のレポートですよね」
 「あー…三分の二くらいは埋まった…いや、半分? 途中から話が広がらなくなった」
 「火山? 地球温暖化対策?」
 「温暖化にした」
 「どんなの書きました? 言ってみ?」
 「えーっと……地球を四つに分けて、資料集に載ってた温度のデータをエリアごとに平均値だして……」

 結局、その後に殻憑きは出てこなかった。
 温暖化のレポートを考察まで話し合い、浄化諸々スッキリして牧本と落ち合う。
 「お疲れ様でした、透さん!」
 「ども」
 嬉しそうな牧本に、壱の後ろで透は小さく頭を下げる。
 お洒落なメンズパーマの牧本は今日もやけに恰好良いスーツである。警察らしいがノリの軽い彼は完全な陽キャで透には眩しい。
 「殻憑き、そこで寝てる人ね。もう綺麗だから、あと任せた」
 牧本が壱の指し示す男を見る。
 「オッケーです! 後で起こして家に届けます。それ、夕方の人と同じですか?」
 「いや、違う」
 「そうですか。結構いるかもですね? うじゃうじゃ出るそうですから、いつも!」
 「あ~、そうだったかなぁ?」
 透が白を切る壱をねめつける。
 「噓つき教師め」
 「牧本君のせいだぞ」
 「えっ、僕何か言いました!?」
 「うじゃうじゃって、どれくらいですか」
 黒のウィンドブレーカーからひょっこり顔を覗かせて尋ねる透に、牧本がだらしない口元になる。
 「え、えっと、津田さんに聞けば詳しくはっ」
 「要らんことは聞かんでいいです」
 上から降ってきた壱の手に長い髪がぐしゃぐしゃと揉みくちゃにされる。
 「ちょっと! 要らなくないし」
 「じゃあ、帰るわ」 
 「はい、ありがとうございました!」
 「あー…と、通り魔は殻憑きで良いと思う。多分最初から憑かれたのは皆この場所だろう。だいぶ穢れが溜まってたから」
 此処ですか、と牧本が不思議そうな顔で見渡す。取り立てて何もない場所にしか見えなかった。
 「駅からある程度近くて人の目から離れた場所は込み入った話が起きやすい。そういうのにスポッと嵌った場所なのかもしれない。コップの水が溢れたんだろう」
 「確かに喧嘩の通報とかありますね。痴漢とか。外灯増やした方が良いかな」
 「通り魔になった犯人は捕まえても証拠が出ないかもな。憑かれてた記憶が朧気だろうし、そもそも刃物で切ったのかも怪しい。足首とか一度に二人の背中とか」
 「そうなんですか? じゃあどうやって切ったんですか」
 「葉っぱに穢れを乗せて飛ばすとよく切れるとか、草花に仕込む、糸を張るとか。火に穢れをくべるとよく燃えるらしいし。俺の黒刃が白より斬れるのと同じだな。方法は色々ある」
 「な、なるほど。え、じゃあ事件が増えますか!? 通り魔以外の殻憑きが他にもいるんですよね?」
 「浄化出来なくても一、二週間程度で憑き物が落ちるだろうから……大丈夫。被害は長引かない。まぁちょっと妙だな、って感じがしたら直接呼んでくれていい」
 「了解っす」
 「透さんが気になるから念の為、明日二件目の現場を浄化しにいく。それで多分終わり。また津田に連絡するわ」
 「あ、じゃあ明日の交通規制も僕が担当します。大体把握してるの、僕なんで」
 「ありがとうございます」
 「いえっ!! そんな、透さんから御礼なんて」
 牧本がオタオタするも、壱が透の頭を肘でつついて押し戻し、じゃあなと別れた。


 ◆◆◆◆

 襖開けて寝ても良いよ、と隣り合った扉に入る前に言われて、壱が目を見開く。
 「え……どれくらい?」
 「これくらい。今日穢れ、吸ったでしょ?」
 肘の長さを示して言う。本当はおきよ様が触れば殻憑きだろうと浄化できるのだから、透とて申し訳ないと思っている。その分の(しもべ)の浄化は少しだとしても自分の仕事だった。
 「じゃあ、抱っこさせてくださいよ」
 壱が両手を広げて一歩近づいて来る。透は一歩後ずさる。
 「それが嫌だから襖を開けても良いと言ってやってるんだが!?」
 「三十分で回復します」
 「長いわ」

 しばらく無言で攻防を繰り広げるが、飄々とした僕には暖簾に腕押しで迫力の無い主人の圧など意味もない。壱の広げた腕は全く仕舞われずにそのままである。渋々透が口を開く。
 「じゃあ、一分だけなら良いよ」
 「いや、回復せんわ」
 ん~、と腕組みをした壱が折衷案を提案してやる。
 「その開け具合で飲みましょう」
 「なんで上から目線なの?」
 「その代わり、襖の側で寝てください」
 「……わかった」
 「じゃあ、俺風呂に入ってきます。ちょっと仕事してから寝るんで」
 「ん、おやすみ」
 「おやすみなさい」

 僕は案外素直に頷いた主人に驚いたが、おくびにも出さずさっさと男用の風呂に入ってパソコンを開いて仕事を片付け、津田にメールを送る。

 壱の部屋は畳の和室である。
 毎晩襖の側ぎりぎりに敷いてある布団の上で背中に熱を感じながら静かにパソコンを叩いた。

 呪いのかかった護番にとって、主人はとにかく温かい。
 それは、泣きたくなるような慈愛に満ちた温度だ。
 身体に冷たい穢れが落ちて溜まると、腹の底で氷を飼っているような感覚になる。別に外から吸収しなくたって呪いのせいで毎日穢れも体内に生成される。冷たくて寒くて、淋しい。

 出生時、呪いによる仮死状態という極寒の地獄から自分を掬い上げてくれたのは静子だった。静子の熱は強烈で、太陽のように強く、頼もしかった。また透の母である碧の熱は熱波のようで、息苦しいほどの茫漠とした包容力があった。

 壱が二十四の歳、十五の透が正しく襲名して後、壱にははっきりとわかったことがある。
 ああ、自分の主人は透なのだと。
 透の纏う熱は柔らかくて、居心地が良くて、陽だまりで頭を撫でられているみたいだった。永遠にこの熱にあてられていたい。自分はこれを護る為なら何でもするだろう。

 ノートパソコンを閉じて横になり、手元のリモコンで電気を消した。
 お腹の辺りで少し開いた襖から覗く向こう側の様子を窺うと、予想通りまだ寝ていない。多分夕方の殻憑きが尾を引いている。怖くて眠れないのだ。ずっと前にも同じようなことがあった。
 片肘をついて頭を支えたのと反対の手で静かに襖を全開にした。丸くなって狸寝入りする主人の寝顔を見る。
 少しだけ透の目が開いて、目が合った後、また閉じていく。
 「手、繋ぎましょうか?」
 「………」
 舌打ちは聞こえなかった。代わりに布団から小さな指が出てくる。
 壱の大きな手が熱を包んで、それから二人は眠りに落ちる。