「なぁ、なんだこの点数?」
 「………」
 「五点はないだろ、五点は。二十分何してた?」
 「………」
 辰巳の問いに、透は机に目を向けて無言を貫き通す。
 机の上には『5』の赤文字が書かれたほぼ真っ白の小テスト。
 校内の教師全員の机がある職員室の一画、担任のごちゃついた机の上には小さなぬいぐるみが置かれている。黒い柴犬のぬいぐるみ。
 「澄永、返事くらいしなさい」
 「………」
 「おかしいだろ? 小問の五つ目まではただの計算問題、しかも選択のサービス問題! そこ空欄で、なんで最後の大問五の(一)だけ正解?」
 記述式で正解している(一)をトントンと長い指でさして言う。
 「朝飯ちゃんと食って来てるか? 腹減ってるから頭働いてないんじゃないのか?」
 「ちっ」
 透がした舌打ちに辰巳が口を開ける。
 「おま」
 「辰巳先生、澄永さん、テストの時お腹でも痛かったんじゃないかしら」
 横から英語教師の加山が優しく透の肩を抱いて、横に立った。
 「……そうなのか?」
 辰巳が半目で透を見る。透は加山の方を向いて頷いた。
 「ほら先生、小テストですし……そういう時もありますよ。澄永さん、この間の英語の小テストは満点でしたから」
 「そう……なのか?」
 「………」
 何も答えない、無表情を通り越して無機質な女生徒に辰巳は嘆息して言った。
 「じゃあ今から数学準備室で、小問五つ目までが解けるようになるまで『ステップワーク』の最初の五ページまでやりなさい」
 「はぁ?」
 「は? って何だ、はぁ、って!」
 透が歪んだ顔になり、辰巳がムッと顔で返す。
 「何なら、ここでしてもいいぞ」
 通路脇にあるパイプ椅子に目を遣って辰巳が言う。担任教師の真横で小さくなりながら課題をするコースである。透は冗談ではないと顔に書いた。数学準備室の方がマシである。ツンと顔をそむけると、くるりと背を向けて出て行く。
 「後で見に行くからな~」

 「澄永さん、余程数学が苦手なんですね」
 「おちょくっとるんですわ」
 加山が辰巳の言葉に笑う。加山の方が四年上の先輩教師だ。艶々の抜かりない春色の口紅が弧を描き、声のトーンがやや上がる。
 「そうだ、辰巳先生、次の飲み会行かれます?」
 「あー。すいません僕、金曜はいつも予定があって」
 「そうでしたね! 社会人バスケでしたっけ。いつもどこで練習されてるんですか? 今度観に行っても良いですか、試合とか。私、バスケ大好きで」
 「あっ!? 準備室にワークを集めたままだった。澄永のも…すいません、ちょっと渡してきます!」
 辰巳が慌てて立ち上がり、風のように職員室を去って行った。



 人の多い職員室と違って静かな数学準備室、時計の針が六時二十分を指す。
 生徒の完全下校時刻は六時半だ。
 手元が隠れた教師エリアと、少し離れた生徒の学習スペース。通り魔のこともあり、そもそも部活動以外で残る生徒は殆どいない。生徒は透の一人だけだった。
 辰巳は首を伸ばして様子を見る。だけど片肘を着いて俯く少女の顔も、長い髪で隠れるノートの進捗もわからない。
 煮詰まった味の悪いコーヒーを飲んでぼんやりしていると、パソコンを閉じて立ち上がった一年の数学教師の名波と目が合う。
 「お先に失礼します、が……辰巳先生まだ仕事あるなら、澄永さん、もう遅いですし駅まで一緒に帰りましょうか?」
 「ああ、いや、俺もそろそろ帰りますから、大丈夫です。安井先生が帰って来られたら出ます。澄永ももう少ししたら終わりますし」
 「そうですか。じゃあ頑張って、澄永さん! でもそのテストで五点はないよ~」
 遠くから話しかけられた透が胡乱な目つきで名波を見る。
 「………」
 「辰巳先生が忙しかったら先生に聞いてくれても良いからね。次の小テスト、五十点までがんばろう!」

 ちっ

 小さく聞こえた舌打ちに、名波が目を丸くしている。
 「え、今、舌打ちした?」
 「あ~、名波先生、駅からバスじゃなかったですか? 時間大丈夫ですか」
 名波はハッとして時計を見、ぺこりと頭を下げると速足で準備室を出て行った。扉が閉まると辰巳が透の後ろに立つ。
 「舌打ちはやめろって」

 ちっ

 「こらこら」
 二人の他に誰もいなくなった準備室、辰巳が透のノートを覗き込む。
 「終わったのか? 見せて」
 「やるわけない」
 ノートには全く違う範囲の問題を解いてあった。それは小問よりも難しい応用問題。
 「なぁ、適当にやるなら真ん中くらいの点数取れよ! 五点は酷い。一人で平均下げ過ぎだろ。こういうのされたら安井先生から俺が後で言われるんだからな」
 ツーンとそっぽを向いた透の横に腰を落とし、辰巳が見上げた。声のトーンが下がる。
 「……なんか最近機嫌悪い?」
 「別に」
 「と」
 声をあげかけた時、がらりと戸が開いた。
 「あれ、辰巳先生! まだ帰ってなかったの」
 「お疲れ様でした。安井先生を待ってたんですよ」
 小さくて丸っこいベテラン教師の数学教科長がニコニコしながら入って来る。
 「えっ、ごめん、ごめん! なんだったっけ?」
 「来月の研修申込書出したくて。今日まででしたよね。遅くなってすいません」
 「あ~! そんなの机に置いといてくれれば良いのに……ごめんねぇ」
 「いえ、居残りもいましたから。ちょうど良かったんです」
 「そう? 澄永さんが居残り? ふふ……本当に?」
 聞こえた言葉に嫌そうな表情を見せながら透は帰り支度を始めた。
 「じゃあ、僕も帰ります。あ、澄永、待ちなさい! 一人は危ないって」
 さっさと出て行く透を追って、辰巳も準備室を出る。


 誰もいない廊下、追いかけた制服の襟をクイっと指先で引っ掻けて止める。透を止めて顔を覗き込んだ。小さい声で辰巳が早口に喋る。
 「わかってますよね? 一人で行かないで下さいよ」
 「なにが」
 「どうせ行くつもりなんでしょう、今日も。通り魔出たとこ」
 「………今日、も?」
 「ってゆうか、ただの愉快犯とか模倣犯とか変態だったらどうすんですか」
 「『も』って言った? こないだのついてきてたの? 変態でもまとめてキレイにするだけよ」
 「ん~…変態さんはキレイにならんと思うがぁ」
 「なんで」
 「性的嗜好が歪んでいるかどうかは時代次第。原始人は露出狂か、って話です」
 「あー、そっか。壱も変態だったもんね」
 「俺のは不可抗力!」
 「ストーカーはついて来ないで」
 「そらだって行くでしょうが。この間と違って暗いでしょ。はい、車あっちです」
 誰もいない廊下の角で、職員用駐車場出入口に向けて制服の袖口を引っ張る。透が明後日の方向を向いてしばらく考えた後、小さな声で伝えた。
 「………靴履き替えてくる」
 「透さんの靴、車にありますよ」
 「………」

 そのまま辰巳はずるずると透を乗せて学校を出た。


 ◆◆◆◆

 朝にニュースで報道していた通り魔現場から五ブロックほど離れたコインパーキングに車を停めた。ハンドルに長い腕を置き、涼し気な表情でフロントガラスの向こうを確認する。
 この整った顔立ちの男、辰巳壱は教師になって三年目を迎える二十七歳。
 後部座席で同じように外を眺めていた少女が鞄から携帯と白い柴犬のぬいぐるみを取り出し、昨日の通り魔事件の続報をチェックする。
 ぬいぐるみは膝の上で撫でている間にもこもこに膨らんで、小型サイズの柴犬になった。
 「ハークちゃん!」
 わん!
 白柴のハクが尻尾を振り、主人を舐める。

 「まだ犯人、捕まってない」
 スクロールした後、透が確認するように言う。
 「昨日の事件からして、普通の通り魔犯じゃなくて穢れのせいで決まりでしょうね」

 一つ目の事件は早朝五時。ランニング中の男性が足首を切られた。
 二つ目の事件は夜十時過ぎ。キスしていたカップルが二人とも同時に背中を切られた。
 三つ目の事件は真夜中。二件目の事件現場近くで警備員をしていた男が太腿を切られた。
 そして四つ目の事件が昨日起こる。夜十一時過ぎ、犬の散歩中に出くわした脹脛への切りつけ。
 「一件目は墨の入ったボクサー、二件目はバリバリの見るからに不良カップル、プロの警備員に甲斐犬連れ……普通の通り魔は狙わんでしょ」
 「赤ちゃん犬だったとかはないの?」
 「電話では違うと。成犬で、結構デカいらしいです。一切吠えなかったとも」
 「それ、津田さんから?」
 「はい。でも透さんもカップルの現場視て思ったでしょう? まーまー穢れてました。殻憑きか殻無しじゃないのかな」
 「まぁまぁ程度だったからわかんないよ。……ねぇ、壱も視たの? 学校からあの現場に付いてきてたってことだよね? 私、用事があるから一人で帰るって言ったよね? 後で会ったのも待ち伏せしてたの?」
 質問を無視して壱が振り返る。
 「出ます? 向こうの方、大分穢れてる気配がしますよ。視なくてもわかるんじゃ」
 「……出る。先に視ておきたい。手前までね。まだ夜じゃないし大丈夫、壱は車にいていいよ。どっかにウチの生徒いても困るし。ハクちゃん連れてく」
 『穢れ』が活発に動き始めるのは日没後である。昼日中でも穢れは見えたが、力ある者たちでも太陽の光に攪乱されることはままある。透と壱の主戦場は、夜からだ。
 「車にいるのは落ち着かないから、離れた所にいます」
 「大変だね、ストーカーは」

 ひらりとチェックのスカートが犬と共にコンパクトカーから降りる。
 大道路を一本外れた通りには学習塾と不動産屋、大型駐車場、レンタカー店。
 通り魔の現場は一本道の五百メートル先にある。ハクにリードを付け、透は深呼吸をして歩き出した。

 壱がブロックの陰からその後姿を目で追う。
 ローファーが一歩、二歩とアスファルトを踏んでいく。

 少女が歩くと、空気が澄む。
 歩いた場所から地面にこびりついた黒い穢れが消えていく。
 普通の人間にはわからない。だって穢れていることにも気が付かないから。
 特別なことなど何もしない。『おきよ様』は歩くだけ。だけどそれは圧倒的な力である。

 壱には透の力がわかる。そういう風に出来ている。今ほども強い浄化が押し寄せて、開いた手のひらから剥がれて浮いた淡い黒が宙に消えた所だった。
 壱は生まれた時から呪われている『護番』だ。護番は『おきよ様』に浄化してもらわねば、いずれ真っ黒になって呪い死ぬ。

 視線の先で、透とハクが二ブロック先まで進んだ。たまに車が通り過ぎ、家路につく人とすれ違う。
 暮れかけた空だが外灯や店舗の灯りもあって通りは明るい。だけど、四ブロックから先は靄がかかったようにもっとずっと黒かった。それも視えている透とハクはまだ止まらない。

 当代の『おきよ様』は二年前に祖母の静子から透へと引き継がれた。
 巽一族の分家筋の女が産んだ壱は、呪いによる穢れで真っ黒に生まれ落ちた。護番の証である黒い痣のようなもので覆われた呪われ子は代々のおきよ様に清めてもらいながら共に生きる運命である。始めは静子が、そして数年前からは透が壱の命を握っている。
 静子は高齢による足腰の痛みで土地浄化の行脚ができなくなり、自然と力も弱った。静子の護番の吾妻も死んだ。母の碧は透が十三の歳に穢れに飲み込まれてから行方がわからない。だから今、日本にいる浄化能力者は透だけだ。
 畢竟、壱は透の側でしか生きられない。

 三ブロックの途中で、くるりと引き返したのが見えた。
 「ん?」
 壱の視線の先、慌てたように駆けてくる。
 制服の後ろには気配が黒い男の姿。
 握っていた百円で清算すると車に走り、エンジンをかけてパーキングの出入口まで出す。ちょうど走ってきた透がハクと後部座席に飛び込んだ。

 「大丈夫ですか」
 「うん……はぁ……はぁ……こわかった! 急に出た」
 男はのろのろとこちらにやって来る。明らかに焦点が合わずに足を動かしている様子である。
 「殻無し? 殻憑き?」
 「わかんない、触ってないもん。怖い怖い怖い、早く出して、早く!!」
 透が壱を急がせる。アクセルが踏まれて、コンパクトカーは車道へと滑りだした。