今日も、新しい朝が始まる。
 中庭が広がる内廊下の分厚いガラスからは、陽光と爽風に揺れる青い桜の木が見える。

 五月第三火曜の朝、玄関から聞こえるのは、いつも通りの『行ってきます』の声。
 あれは巽の当主である辰巳創大の長男の声だ。大学に行くのだろう。行ってらっしゃいませの後に続く忙しそうな軽い足音は家政婦の多江だ。彼女は辰巳家で三十年以上働くベテランである。

 板張りの長い廊下をのろのろ進む。透は眠気の残る頭を擡げつつ『行ってらっしゃい』を唱えた。辰巳は朝と夜が忙しい家だ。
 まず創大の妻で大学教授の七緒が早朝発ち、次に甥で社会人の智成、長男の瑞貴、同一の私立高校に向かう壱と透、最後に次男の侑人が中学へ。多江に見送られて屋敷から順番に出発すると、今度は入れ替わりで創大の秘書数名が出勤してくる。ここ数年続く、平日朝の変わりない風景だ。

 チェックのスカートを揺らし、半分開いたままの障子扉から食事をとる部屋に入る。
 明るい二十畳の和室には一枚板の十人掛けダイニングテーブルと100インチテレビ。切り取られた円窓から造られた庭が見え、壁に沿って桐の和箪笥と間接照明が並ぶ。
 「おはよう、創ちゃん」
 「おはようございます、透さん」
 座っているのは二人の男。
 上座に座るのは当主の辰巳創大、上座から最も近い席を一つ空けて飯をかきこむ男が辰巳壱である。

 巨大なテレビに映るアナウンサーが海外の爆撃の模様を伝えている。

 透は箸の置かれた自分の席……二人の間にある椅子を引いて座った。
 壱が口の中に入れた米を咀嚼しながら座る制服にチラリと目を遣る。
 透の声を聞いた家政婦の多江が台所から顔を覗かせた。
 「おはようございます、透さん」
 「おはようございます、多江さん」
 「ご飯の量はどうします?」
 「小にします。お味噌汁も少なめで。お魚は要りません。壱、食べる?」
 「んん」
 「かしこまりましたよ」
 米を飲み込んだ壱が、隣に座った透を窺う。
 「味噌汁も少なめ? 具合でもわ」
 「普通に空いてないだけ。大体いつもそう」
 「昨日はパンケーキ胸焼けしそうなくらい食べてた気がするが」
 「パンケーキは別!」
 盆を持った多江が台所から出てくる。
 「ふふふ。ですが毎朝パンケーキもねぇ……お待たせしました、今朝は五穀米とお豆腐のお味噌汁です。小鉢は透さんがお好きななめ茸ですよ。壱さんに、はい、お魚です」
 白くて清潔な手が手際よく配膳してくれる。
 「あ、これ好きなやつ。ありがとうございます、いただきます」
 卓上に並んだ小鉢と米に合掌して食べ始めた。腕組みをしてニュースを観ていた創大が軽く頷く。

 おかわりの魚も三口で食べ終わった壱が隣で箸を置いた。
 「ごっそさました」
 「壱さん、足りました? 明日はお好きなしぐれ煮届きますからね。静子様が壱さんに、って」
 「や~った」
 喜びの声を上げながらワイシャツの捲った袖を元に戻し、湯気の立つ茶に手を伸ばす。
 テレビから流れる時事ニュースを観ながら、創大と壱は茶を飲み、透は食事をする。

 空になった湯のみを置いた壱が壁掛け時計と隣のお膳を見比べた。
 「二十分後に出ますけど。間に合いますか?」
 「んー。別に食べなくても良いくらいだし」
 ぼそぼそ食べる様子に、壱が顔を顰める。
 「しっかり食べてくださいよ。そんなんだから」
 「だからなに」
 「いや、やっぱり学校で言います。説教せんと」
 「ちっ」
 「舌打ちしない」
 「うるさいよ、変態教師の癖に」
 創大が二人の様子に声を出さず笑っている。
 「透さん、変態は可哀想ですよ。護番の性ですから」
 「………」
 ほれみろと言わんばかりに、透の嫌そうな表情を壱が澄ました目線で舐めてくる。
 「言っておきますが、俺が変態なのは俺のせいじゃないですからね。神様のせい。その上、全方向に変態な訳じゃない」
 「呪いのせいで一点集中型の変態ってことね。どっちみち私には大迷惑だけど。襖開けて侵入してくんなって何回言ったら済むわけ?」
 隣で飄々としている男を睨みながら、夜中に見た右足首を思い出す。何度閉めようが開く襖と隙間から飛び出てくる男の足首はまるでそれ自体が呪いだった。
 「侵入って大袈裟な。まだ足首までしか入ってないのに」
 「はぁ? 創ちゃん、今の聞いた!?」
 声を上げる透に四十二になる白髪交じりの男が頷く。
 「お前、まだやってんのか。空間は一緒にしてやってるんだから襖から入る必要ないだろう。先々代の護番(吾妻さん)より変態味がねちこいな」
 「吾妻のじぃさんと一緒にすんなよ。あの人は大分呪いも薄かったし、昭和昭和で男尊女卑も強かった。おきよ様に『お茶』って言うくらいなんだから」
 「でもその後、静子様にお茶ぶっかけられただろ」
 「壱、お茶」
 試しに透が言うと、苦笑いしながら急須から熱い茶を注いでくれる。
 「どうぞ……ふうふうしましょうか?」
 「絶対いや。とにかく襖開けないで」
 「考えときます。ふぅ~」
 「ちょっと!」

 「あ、またですよ」
 創大がテレビで流れる映像に声を上げる。
 それは四件目の通り魔事件の速報だった。


 ■■■■


 クラスメイトの澄永透はいつもぼっちだ。
 二限目後の休み時間、千紗は教室の窓から吹く風に揺れる透の髪を眺める。染めている訳でもないのに色素が薄くて、サラサラ流れる天使の輪。
 教室の至る所で出来ている小さな集まり、テンポのいいやり取りに上がる笑い声。だけど左から二列目、前から二番目の席は独立国家じみた静けさに満ちている。

 シャンプーとトリートメント、何使ってるんだろ。

 聞いてみたいけれど、なかなか勇気が出ない。
 高三進級による新しいクラスも落ち着いて来た五月中旬。そろそろ仲良しグループは固まりつつあるが、澄永透は未だどこにも属していない。他にも一人の子はいるが、それでも時折は誰かと話をする姿が見られたり、大抵他クラスに友達がいたりする。だけど聞いた話によれば、一年でも二年でも、透はずっと完璧にひとりだった。
 いつも机に座り、窓の外を眺めたり本を読んだり、タブレットを触ったり。

 たまに付けているヘアゴムやクリップは可愛かったし、ポーチやハンカチの小物類だってセンスが良い。授業中に面白いことがあれば自然に笑っている。綺麗な普通の子。存在感は薄いけど。

 高校入学前に受けた健康診断で、千紗は透と同じグループだった。丸二年以上前だし、振り分け人数も十人ずつだったから、向こうは覚えていないだろうが。
 集められた教室で一通り受診説明があり、千紗はその途中で腹痛に見舞われた。丸めたお腹を撫でて脂汗をかいていたが、トイレ休憩時間を過ぎたばかりで言い出しにくい。
 移動を言い渡されて皆が立ち上がる中、透がスッと脇に立つ女性事務員に千紗のことを伝えに行ってくれた。女性は直ぐに飛んで来てくれて、助かった。透はそのまま出て行ったグループの子の後を追いかけて行ったので、礼も言えず仕舞いだったのだ。
 三年になって同じクラスになって以来、千紗はその時のことをよく思い出すようになった。


 「どしたん、千紗」
 「あぁ、あ~……澄永さんの髪の毛、綺麗だな~て」
 友達の理子と動画の話をしていたところである。
 絶賛睫毛増量中の理子は千紗の言葉に首を伸ばし、独立国家エリアの後姿を見つけると『うわー、本当だぁ』とどうでも良さそうに言う。
 「どこのトリートメント使ってるんだろ」
 「さぁ」
 友は興味無さそうにして、いちごミルク味の飴を口に放り込んだ。
 「どうせ全部天然なんでしょ。どのトリートメント使ったってツヤツヤなんだって。爪の先までかわいーって。聞くのとか無理だし無駄じゃない? 話しかけにくいし」
 「んー。まぁ」
 普通、あのレベルで可愛いければ男女で取り巻きっぽい一人や二人いそうなものだけど、とにかく近寄りがたいが先に来た。何と言うか、独立国家はなぜか空気が冷える。その上、誰が話しかけてもジッと相手の瞳を見て、無駄な返しもしないし……隙がない。
 何でだろう、そりゃ綺麗なんだけど、他にも可愛い子やSNSでフォロワー一万人越えの友達だって結構いるのに。
 「話しかけるハードルがイケメン並みに高いわ」
 やっぱりトリートメントの名前を聞くのは諦めようと千紗は言葉を吐く。
 「え、それって私のタァ君のこと?」
 「違う、違う。辰巳のことじゃない。あいつは逆に全然フレンドリーじゃん」
 話を聞いていない理子は瞳をハートマークにして唇を突き出している。
 「今日もイケ散らかしてた! 四限の数学楽しみぃ!」
 辰巳壱はこの三年二組の担任だ。私立秀輝高校三年の数学教師で、生徒も教師も保護者まで、そこら中にファンがいる。非公式ファンクラブはこの春とうとう三百人を超えた。千紗ももちろん推しである。
 「でも辰巳の授業、顔良過ぎてマジで頭に入らない」
 「わかる! でも褒められたいから昨日の小テスト頑張っちゃった!」
 あ~それ、最早数学は推し活と二人は頷き合った。


 四限の冒頭、教卓で辰巳が口を開く。
 「ニュースで知っている人もいると思うけど、昨日の夜にまた通り魔事件があった」
 「知ってまーす。散歩してたやつ」
 バスケ部の谷野が声を上げる。
 「おー、それだ。犬の散歩中に襲われた事件な。飼い主の女性は脹脛(ふくらはぎ)を縫ったそうだ。通り魔が出た場所は学校から近い場所もある。今日から部活組は駅まで部ごとに帰る指示が出る。顧問の話をちゃんと聞いてな。帰宅組はまだ明るいけど、道に生徒や見回りの先生が立っている間に出るか、誰かと下校するように。いいね?」

 は~い。

 通り魔は学校の最寄り駅から三つ離れたエリアを中心に、これで四件続いていた。
 「怖いから先生の車で送って欲しい~」
 「えっ! あたしも」
 「はいはいはいはい、私も!!」
 「ほい、じゃあ、昨日の小テスト返すぞ」

 うえ~。

 「浅井………がんばった!……加藤ぉ………」
 辰巳が教壇からA4のテストを手に一枚ずつ返却を始める。
 「ちなみに、平均は七十二点な。みんな良かった」
 そうして捲った後で、やや低いトーンで『澄永』を呼んだ。ざわざわしたクラスの中で美少女がスッと立ち、教卓の前でテストを返される。
 「放課後テスト持って職員室まで来なさい」
 「………」
 無言の後で、サッと小テストを折りたたんで席に戻っていく。
 誰も気にしていなかったが、千紗は後ろの席からジッと見ていた。

 マジか、と思う。
 透の点数は五点だった。