やっと落ち着けたのか、また寂しくなったのか。どっちかわからない。予測していた事なのに、気持ちは追いついてこなかった。

 自室は勉強机とベッドを残しておいたまま、家の中は3人で暮らしていた時とほぼ変わっていなかった。でも……

 洗面所には女物の化粧品。取り残された誰かの忘れ物。
 それから……リビングの光景には離婚前に言い争う両親の記憶の声が重なった。

『―――結婚前から関係にあったって言うの!? 酷いわ! 私と葵は一体……』
『何度も離れようとした、でもどうにも彼女を放っておけなかったんだっ』

 俺の居場所が前と同じにあるわけではなくて……最も居心地の良かった真白の側が……恋しい気持ちが少しだけ溢れる。

 『困った時は連絡してほしい……』
 俺だけにくれた声を手繰り寄せ、その優しさに甘えたかった。

 スマホで送ったメッセージにすぐ既読がつく。「ははっ」電話したら出てくれそうだとコールして耳に当てた瞬間、もう真白の声がした。
 愛しくて、会いたくて……仕方がない。

「うん。……へぇ。……」

 目を閉じて彼女の声に聞き入る。側に居るような温かさが俺を包んだ。
 少し困ってどもる間も、時々悩む気の抜けた声色も、真白の喋り方が俺は好きだった。

 クリスマスに会える。電話でした約束は東京の寂しさと受験勉強に負けない力になった。けれど……25日のバイトは長引いてしまい高校にも行けず、母さんと暮らした家に戻り荷物を配送しただけ。すぐ東京に帰って翌朝からは予備校に通い詰め。

 次こそは真白に会いたい!
 早く年が明けて始業式が来るのを指折り数え始めて……すぐに止まった―――

「真白が入院した! 手を怪我したみたいだ!」

 なんだって!?
 純平がかけてきた電話に耳を疑う情報が続いた。

 誰も真白と連絡がつかない、友達や純平が真白の家や学校に状況確認をしてくれているけれど、年末もあり警察も介入してるとかあって錯綜している。

 そんな向こうの様子を聞いてただ待ってるだけなんて、おかしくなりそうだった。
 なんで俺、東京なんかにっ……。

 真白の手の怪我は軽いとか、でも検査が必要だとか、もう一日入院が長引くと。いろいろ話が純平から伝わってくるが、余計に不安を煽るばかりだった。

 そして、このアクシデントの詳細を全て把握できたのは、一報を受けてから2日後にかかってきた先輩からの電話で……

「ごめん! 葵くんごめん! 私が葵くんの話を彼氏にしたら高校に乗り込んじゃって! 真白ちゃんが居たから詰め寄ったみたいなの。それで私が駆けつけた時には真白ちゃんが倒れてて、手から血を流して、それでっ」

 そうゆう事か。
 ……全部、全部、俺のせいじゃんか―――。

 頭の中が青ざめる程の罪悪感が生まれ、凶器みたいに鋭く尖って、神経を伝って全身に下がってゆく。

 体中を切りつけ、傷ついた所から懺悔を吹き零していた。

 すげぇ……痛くて、苦しい。
 真白の、これが真白の、受けた痛みだよ……恐怖だよ!

 俺が守って、真白を守ってやんなくてどーすんだよ!!
 俺が、俺がきっかけ、作ったんだからさ……。

 はっ!?
 真白、絵……描けるようになる、よな―――?

 真白と話をしなきゃいけない。ちゃんと謝らないといけない。ちゃんと、絵が描けるか確認しなきゃいけない!

 俺の決意は遂げようとしても、どれも叶わなかった。
 真白は退院して家に戻っているはずだが、スマホに連絡がつかない。

 俺だけではなく未だに誰とも繋がっていないそうで……よっぽど真白を追い詰めた何かに苦しめられているのだろう、と胸を締めつけた。

 年が明けて純平から真白の様子を聞くことができた。親同士の電話に割って入ったらしい。先輩が言っていた内容とだいたい一致していた。

 美術室に侵入した先輩の彼氏に驚いて、美術道具の刃物で防御したが、転倒した際に手を切り気絶した。目眩があって念の為に検査入院していたと。先輩のDV被害から警察による調査を受け、真白の怪我は学校下の事故扱いになった……いろいろあって真白は静養している、と。

 心が……張り裂けそうだった。
 どんなに辛い思いをさせてしまったのか、なんで俺じゃなかったのか。どうして俺を責めないのか!

 居ても立ってもいられずに、純平に協力を依頼していた。真白の家に連れて行ってほしい、直接謝罪したい、真白はなんにも悪くない事を証明したかった―――。


「……おじさん、真白の父親ね、昔に遭った事故で足が不自由なんだ。おばさんは明るい人なんだけど、おじさんはあまりニコニコしないから、俺が話つけてみるよ。なんとか真白に会いたいもんな」
「純平、サンキュ……」

 真白の家まで純平が案内してくれる。「ここ、真白ん家」と教えた手で俺の肩をポンと叩いた。

 俺は制服のネクタイを締め上げて純平の後に続いた。停めてあった車には白の四葉マークの青いステッカー、身体障害者の標識が付いていた。

「突然押しかけてすみませんっ。神崎葵と申します」

 玄関で対応してくれたのは真白の父親だった。堅物そうな印象を受ける、が丁寧に言葉を繋いで真白に会わせてもらえないかと懇願したが……純平の援護を(もっ)てしても無理みたいだ。

 精一杯、謝罪だけはちゃんと伝えて……。
 なかなか起こせなかった頭を、純平が代わりに引っ張り上げた。
 そのとき―――ガタッ。

 玄関前の階段上から音が聞こえた気がした。……真白?

 なんでか、額が、初めて真白とぶつけた時のよう……そんなシンパシーを微かに残して、後悔に押し潰されそうな体を無理に玄関から外へ……。

 少しすると純平が戻ってきて、動けなかった俺の肩に腕を回し一緒に歩く。
 真白の家を後にしてなんの話をしてたかわかんない内に、バス停に着いて駅に向かうバスを待ってた。

 俺が「バスで帰りたい」って言ったんだ。

 すげぇ寒いのに純平はバスが来るまで居てくれて、「受験勉強大変だろうけど、俺の事も構ってくれよ?」そう言いバスに乗った俺に手を振った。

 生存確認するから無視すんな、俺のための偽りの裏に心配そうな顔を見た。

 数人の乗客を通り越してバスの後方へ。二人掛けのシートに座った。

 窓の外は薄い夕焼けと殺風景な真白の町が、前から後ろへ流れてゆく。

 去年の誕生日、山から真白と乗ったバスの同じ席で見た景色は……もっと燦いていた―――。

『え〜、純平、外出してんだって。じゃあ俺は駅まで直行だ。真白のバス停までどれくらい?』
『後45分くらいかな……』
『暇だぁ、ふぁ〜。……はい、片っぽイヤホン』
『私に? ありがと……』

 バスの揺れが気持ち良かったのか、山登りが疲れたのか、うっかり……俺が駅まで爆睡して真白がさっきのバス停で降りれなかったんだ。

「ふっ……」

 さっきも一瞬思い出した、真白と初めて話した時も俺、昼寝してたな。話すより前に頭突きし合うとか衝撃だった。

 あぁ、英語の授業でも居眠りしてたら、頭突きみたいな痛みで目が覚めた時もあった。あれもたぶん、真白が起こしたんだろう……。

 美術室でも仮眠してると真白がいつも起こしてくれて……俺、寝てばっかだった。
 風景に思い出ばかりが重なって流れる……。

 秘密の公園でも星空を見ながら並んで眠った……逃げ出した夜は……朝まで背中合わせで寝てくれた……。

 真白が側に居てくれるだけで、俺……。

 キャンバスに向ける姿、よく観察する大きな瞳、絵を描く真剣な顔つき。

 眉をしかめる変顔に、目を見開いた仰天顔も。

 口をぎゅっとして我慢しながら泣く顔……キラキラと溢れんばかりの笑顔……。

 俺の世界は、たくさんの真白でいっぱいだった――――――

「ふっ、う……」

 もう二度と、真白に会えないんだ―――。

「うぅっ……ひぐっ……っ」

 俺は、真白に会っちゃいけないんだ。
 ダメなんだ。俺と会ったら辛い事を思い出してしまうから、俺が真白を苦しめるから!

「ひっ、くっ、ん―――……」

 こんなに好きで、好きで。
 真白のこと大好きだったのに―――。

 傷つけたくないから、あきらめたのに―――。

 もっと酷い目に合わせるくらいなら、正直に、好きを宣言しとけばよかった。

 そしたら誰かの囮の彼氏になんて、考えも起きなかったろう……
 今さらなんだよ……遅いんだよ……

「うぅっ――――――」

 座席でちっさく小さく丸まって、止まらない涙に狼狽えて手で覆い隠す。喉元で引っ込めようとした嗚咽は抑えられず、自分の胸に吐き出した。

「ひっく、ひぐっ―――はっあ、くっ―――」

 真白の居ない世界が、俺にとって一番辛い世界だと……たったいま……知った。

 大切なものを取り戻せない、自分の無力さが……情けなくて悔しくて……。

 あまりに早く訪れた彼女との別れに、俺は泣き崩れたんだ。

 それから二度と、高校にも行かなかったし、彼女に電話もしていない―――。