大学受験の話を母さんに切り出した、それがキッカケなんだと思う。模試の判定を見てかなり気を落とし「Cランクの大学を志望してるのね……」と。「これから追い込み次第でBランクも検討するつもりだよ」俺の考えに返事はなく、安定していた感情が狂い出す。

 数日後、俺が帰宅するなり凄い剣幕で八つ当たりを始めた。「あなたのせいよ! どうしてくれるのよ!?」俺にはなんのことかさっぱりわからない。

「母さん! どうしたの!?」
「あなたが私達を裏切るから全部滅茶苦茶だわ!」
「母さん母さん! 俺だよ! わかる!?」
「……あ、葵?」
「そうだよ、大丈夫?」
「ごめんなさい……私、ごめんね……」

 錯乱したんだろうか、それとも志望大学に不満がある?
 昔から俺の成績を自分の責任に感じる節はあったと思う、けど、東京に住んでた頃とは違うんだ……俺の環境も、母さんも。

 錯乱は再び起きた。俺の顔を見るなり嫌悪感を剥き出しにして「裏切り者! 出て行って!」と半狂乱で俺を弱い力で追い払おうとする。「嫌い! あなたなんて大嫌いよ!」そう叫び必死で叩いてくる。

「ちょっ、母さ……わかった、わかった! 俺出てくからっ」

 また薬も効かなくなったんだ。効果があったと思えば新たな症状が出て結局期待外れ。母さんの言う通りにしないと落ち着きそうにない。

 俺はリュックを掴んでさっさと家を出た。いつもの公園に忍び込んで朝を待つ。
 スマホがあれば気分転換もできるし時間も溶ける……

「ん? 雨!? マジかよっ」

 夜空からポツポツ雨粒が落ちてきて、慌ててケットを畳んで展望台を下りる。トイレに駆け込んだ時には本降りになっていた。止みそうにない雨を恨めしく眺めて、なんの予測もつかない頭に苛立つ。

「あ"ぁーっ、もう!」

 髪をグシャグシャにしながら膝を折り曲げた。うなだれて途方に暮れる。ここで過ごすのも季節的に回避したい、冬が来たら凍死する。

 俺、大丈夫か……?
 いや、俺がなんとかしなきゃ。俺の問題だ。

 雨が降りしきる夜中じゅう、徹夜で解決策を考えた。明け方になると雨に濡れながら帰宅し風呂に入ってあったまる。だいたい母さんは朝が苦手だから起きて来れない。欠席して昼前に起きてきた母さんの様子を見ながら聞いてみた。

「母さん、昨日のこと覚えてる?」
「昨日……あまり覚えてないわ」
「覚えてないの? 俺、大嫌いって言われたんだけど」
「そんなはずな、っ」
「じゃあ誰かと勘違いしてるのかなぁ……」

 そのとき母さんは気まずい表情をしていたけれど、俺は記憶が無くなる症状の良し悪しを考えていた。
 母さんは辛い事を忘れられて良いかもしれない、けど……俺は無駄に傷つくだけで損な立場だよな。

 わだかまりを示すように俺の方が体調を崩して風邪を引いたみたい。

 11月に入り推薦受験の合否結果が耳に届いた。純平は農業専学に合格、美術専学を受験した真白はというと……不合格だったそうだ。なんか俺、偉そうに、真白の頭を撫でてやるしか励ませなくて。

 彼女は芯が強いから、失敗しても次の挑戦のためもう筆を握っていたのに、逆に俺の方が情けなかった。
 俺が彼女に施せた事は役に立たなくて、母さんの事だって結果を出せていない。

 俺の存在って……意味あんのかな……。

 自信を失くしそうだった。自分自身を見失わないよう努めていたが、母さんの一言でそれさえも崩壊する―――

 「葵といると辛いのよ」

 そう言って虚ろな目から涙を流す。俺が側に居たらこうなってしまうのだと証明するように……俺を拒絶しているのだと気づいた。

 また飯も食わずに泣き続けていた母さんに、なぜそんなに泣きたいのか……寄り添って尋ねた答えがそれだった。

 俺がどんどん父さんに似てきているから、俺を見ていると父さんの面影を感じ、父さんにされた仕打ちも思い出してしまう。それが母さんの理由らしい。

 俺を避けるような態度も錯乱したのも、父さんに対する嫌悪感から生まれたものだと理解できた。全然自分では父親似だと思ってもいなかったし、父さんと俺は親子であっても個性が違うって、普通は認識するものじゃないの?

 俺は戸惑い混乱して……何も、母さんに言えなくなってしまった。

 そんな出生から覆すような事……根本的な問題を解消できないんじゃ、俺が母さんのためにどんなに頑張っても無意味で、むしろもっと母さんを苦しめる。

 何も、できないじゃないか―――。

 俺の家族は修復する術がもうないのだろう。母さんにとって俺は邪魔なのかもしれない。
 自身を全否定された気分が拭えずに、将来の予測が全然考えられなくなって……無気力に過ごしていたんだと思う。

 いつからか……母さんの姿を見るのが、家に帰るのが、俺には苦痛だったんだ。

 だから、バイトから帰ってきて玄関のドアノブに手をかけた時―――「ガシャン」家の中から乱雑な音が響いてきて、その瞬間、体が動かなくなった。

「……くっ、ぅっ」

 俺、大丈夫……―――じゃねぇわ。

 拒否反応だった。どうしてもここから、ドアを開く気になれなかった。

 俺は玄関に背を向けて急ぎ足で離れる。
 自転車を走らせ何処か遠くへ行きたかったが、体がだるくてそうもいかなかった。結局いつもの避難場所へ駆け上がり、ケットにくるまって静かに縮こまる。

 ズキズキと鈍い音が頭の中で喚いて、胸の中にも響き渡った。痛くて暗い、寂しくて怖い、ツライ世界に閉じ込められた――――――「葵くん……」

 俺を呼ぶ、その声で光が射す。
 瞼を開けば……白い大きな瞳が……あぁ、真白だ。真白が俺を見つけてくれた。

 ふと、彼女を側に感じただけで、心が息をして安らいだ。安心して、泣きたくなって、弱音を吐いた。

 ずっと言えなかった「帰りたくない……」薄情な気持ちを零す。

 そんなの許されるわけ無い、俺が母さんを選んでおきながら投げ出すなんて……

 ただ誰かに聞いて欲しかった、情けない自分を(さら)け出して、強がっているだけだと知って欲しかった。

 いつまでもここへ、逃げたままでは居られない事もわかっていて、母さんのもとへ戻らなきゃいけないと……

 説得されるまでのちっぽけな抵抗だったのに―――「うん。私も帰したくない」

 彼女は全て受け取って、弱々しい俺を肯定する。
 その強い眼差しで俺の欠けたところを見抜き、ボロボロを埋める補修材料を残してゆく。

 燦めく幸せの世界を描くように、真白のチカラが俺を温かな色で染めて……暗がりに包まれる静寂から守っていた。

 真白が俺に被せた彼女のパーカーに首までくるまって、真心の優しさで胸がいっぱいになる。

 誠心誠意、正直になって……包み隠さず醜態を真白に話すと、その澄んだ目から大粒の涙の雫を幾つも光らせ……まるで山で見た光のように、俺の渇いた心を潤してくれた。

 彼女を早く温かな所へ帰してあげなきゃいけないのに、俺の側から離れようとしない。

 彼女が口を噤んで何かを我慢して……
 もし、それが、俺と同じ気持ちなら……
 そう、それは―――簡単に伝えたりしちゃいけない。

 真白を傷つけたくないから。母さんみたいに絶対させたくないんだ。

 俺は父さんと同じに浮気をするかもしれない。それに俺は一緒に居たいと、大事にしたいと思った母さんを、大切にできなかったから。

 俺に好意をもらう資格なんてないんだ。
 真白なら……わかってくれる、そう願った。

 俺達は助け合う仲間、そうしてふたりで乗り越えた夜は、俺に苦しくても前進する勇気をくれたんだ―――。


「……もしもし? 父さん、相談があるんだけど聞いてくれる?」

 俺は母さんの事を全て話し、頑なに拒んでいた父さんの援助を求める。ちっぽけなプライドは捨てた。まだ扶養される身である権利を行使したんだ。

「葵……頑張ったな。全部父さんが悪いんだ、葵に背負わせてしまって悪かった。後は任せて」

 無機質なスピーカーから届いた父さんの労いの言葉に、俺は涙した。

 本当は父さんを必要としていたんだ。子供から抜け出したかったけれど、大人と同じに肩を並べるなんて無理だった。

 そして、他にもやるべき事が……。
 バイトの先輩宅を訪問し、真白が借りたコートを返却する。以前も公園で過ごす時に先輩に協力を頼んだ。今回で二度も助けてくれたことになる。

「葵くん! 大丈夫だった!? 真白ちゃんは!?」
「先輩ありがとう。これ、真白が借りたコート……あれ? 手首どうしたの?」
「あっ……いいからいいから! それより真白ちゃん平気? 葵くんが倒れてるって血相変えてたから」
「あー、うん。真白のお陰で治った」

 先輩の手首が赤紫になっていて気になった。
 俺は家庭の事情を大まかに説明して、真白が心配して助けに来てくれたと話し、改めて動揺した傷の原因を尋ねる。

「先輩のそれは怪我したの?」
「うっ……うん、ちょっと彼氏とモメてね。少し乱暴な人だから別れたいんだけど、納得してくれなくて……」
「そっか……もし話し合いが上手くいかなかったら、俺のこと使っていいよ。バイトで親しくなったとか俺に好意を寄せられてるとか?」
「そんなの悪いよ! 真白ちゃんに悪いじゃん!」
「なんで真白っ!? 今回の御礼もしたいし、困ったら俺を利用して」
「なるべく自分で解決する。真白ちゃんにヨロシクね」

 俺と先輩はエールを送り合う。先輩の言ったようにひとつひとつ物事を解決して、次は母さんの精神科に診断書をもらいに行った。
 父さんの指示で俺の大学受験も考慮して、東京に俺達を戻す予定だと告げられた。

 またひとつ前進して、後は……俺が真白にしてあげられること―――。

 彼女のことを考えていた時、ふと目に入った駅ビルの店先で青色が燦いていた。雑貨屋の飾りコーナーにラピスラズリと書いてある。立ち寄ってみるとその中に一際輝いて見えた、青い星のヘアアクセサリー。

 一目惚れ、だった。きっと真白が好きなのだっていう直感と真白の髪に絶対似合うっていう期待。

 最後の選択授業の日、俺は胸ポケットに青い星を忍ばせて教室に向かう。

 廊下を歩いている時にもう、後ろ向きに座って見つめる真白の視線をキャッチして……

 その大きく澄んだ瞳で俺の心を観察しているのだろう、俺も目一杯見つめ真白の心を探ってた。

 泣かせてしまったけれど大丈夫そうだ。
 辛かった事も幸せに感じた事もふたりの思い出にして、それぞれの将来を見つめよう―――

 真白の涙は……俺だけの宝物にするから。

「―――忘れないよ」

 青い星を真白の髪につけてつぶやいた。直感と期待通りの後姿を目に焼き付けておく。

 俺、この席が気に入ってたんだ。
 よく眠れるし、落ち着くし、真白が側にいる安心感……これで終わりなんだな。

 細い首すじに耳の後ろをほんのり赤らめる、俺の視線への返事みたいで…………愛おしい。

 俺の胸をいっぱいにするこの気持ちは誰にもナイショだ―――。


 卒験が終わると父さんから連絡があった。精神科の手配が済んだそうで、俺の予備校も申込みしてあるらしい。

 俺と母さんは東京へ、俺は住んでいた家で父さんと暮らし、母さんは診察後に入院治療をする。

 母さんにこの話を理解してもらう、俺が説得しなければいけない。

「―――嫌よ! あの人の助けなんて要らないわ! 葵まで私を裏切るの?」

 今日も母さんは過去に囚われ取り乱す。
 でも俺は―――未来に進みたいんだ!

「……じゃあ聞くけど! 母さんはこれからもずっと俺の母さんで居てくれるの!? 俺は母さんの子に変わりないけど、母さんは俺と父さんの区別がつかない時があるじゃない? 今ちゃんと治療しないと、本当のこともわかんなくなっちゃうだろ? 今の母さんの中には辛い事ばかりが残っちゃってるけど、これまでに良かった事も嬉しかった事もあくさんあったはずだよ!? 全部悪かった事にしないで……母さんに俺はっ、幸せだった時も俺のことも……忘れて欲しくないんだっ」

 俺の吐露した本心に、母さんは口元を覆って驚愕していた。

「俺は父さんの子でもあって、父さんに似てるし父さんの血も流れてるけど、俺は俺だよっ!? 母さんを裏切ったりしたくない……でも俺の力じゃ、母さんを元に戻してあげれないんだ。早く自立できるよう俺も頑張るから、母さんも元気になるために、頑張ってみようよ……」

 母さんはクシャクシャの顔で泣き崩れ、子供のように泣き喚いていた。

 けれど、それで母さんは涙を枯らしたようで……約束の日に俺達は東京へ出発し、母さんは入院、俺は前の家に戻ったのだった―――。