その日は俺が彼女を初めて記憶した日だった―――。

 高3にギリギリ進級できたばかりの春。体育館で朝礼中、若干の遅刻を担任に見逃してもらった後のことだ。3年1組の列に俺は後方から滑り込む。

「おっそ、また遅刻? もう留年確定すっぞ」
「今日はセーフ。何これ? 部活紹介?」

 出席番号順で後ろの純平が声をかけてくる。壇上ではユニホームの男子に代わって、次は背の低い制服の女子がマイクの前に立った。

「美術部です。部員は私ひとりです……」

 そうマイクから聞こえて思わず吹き出してしまった。

「ぼっちの部活ってすげぇな、ははっ」
「2組だよ、知らない? あいつ同中、しかも名字一緒。近所なんだ」
「そうなの? じゃあ幼馴染ってやつか」
「ん、真白の絵は独学なんだけど、描いた絵が全部なんかの賞取ってくんの」

 「へぇ」と感心しながら彼女に興味が湧いた。前髪長めで顔はよく見えないし、細身で如何にも陰キャそうな……見た目とは違ってハキハキ話すし、お辞儀もしっかりする。
 独学でひとりで描き続ける、ちゃんと結果も出すっていう芯の強さを……感じて印象に残ったんだと思う。

 それから彼女に惹かれる事になるとは―――この時まだ予測できていなかった。


 4月も終わる頃。
 今朝は母さんと駅へ向かう。俺は自転車を押しながら母さんのペースに合わせて歩いていた。

「ねぇ、私の見送りなんてしてたら遅刻じゃないの?」
「大丈夫、大丈夫。それより今日は季節外れの暑さだって。母さんこそ診察長いんだから気をつけて」

 今日は月に一度の精神科を受診する日だ、母さんの。私鉄に乗りJRに乗り継いで家から片道1時間かかるし、医師の診察とカウンセリングも受ける。暑さも心配だが母さんの気分が持ち堪えるか、不安だ。

「わかったわ。私のせいで苦労をかけてごめんね……ちゃんと高校も大学受験もサポートしてあげなきゃいけないのにね……」
「そんなの気にしないでいいんだよ、俺は母さんが元気になってくれたら合格より嬉しい!」
「うん、頑張るわ。葵もちゃんと高校行くのよ?」
「もちろん! じゃあね、いってらっしゃい!」

 俺が元気に送り出すと母さんは伏し目がちに少しだけ口角を上げた。改札に向かってもう振り返らない母さんの後姿に俺は表情を曇らせる。

 また痩せたな……白髪も増えた……
 ごめんね、母さん。俺……今日学校行けないかも!

 自転車に乗ると俺は学校と反対方向の美容室を目指す。カラーモデルの約束をした日なんだ。いつもタダでカットしてもらってるし御礼になるならって引き受けた。校則に引っかかりそうだけど……。

 母さんに余計な心配させたくないからナイショ。でもってマジで進級もヤバかったことも言ってない。遅刻が多いのと単位が足りなくて補習に課題でなんとか3年になれた。

 俺、大丈夫か?
 こんなんで卒業できるかな……?

 可能性を予測してみる、が。
 予測不能に陥り別の原因が浮き彫りになる……母さん次第、だと。

 高1のとき両親が離婚した。不仲から母さんの精神はすでに不調をきたしてた。母さんは独りになるつもりで、俺を父さんと東京に残したがったけど、俺が母さんを選んだ。

 それで3学期に東川高校に転入した。母さんの故郷に似て自然の多い所がいいだろうとのことで、父さんの兄の所有するマンションを貸り、東京を離れて2人の生活が始まった。

 新しい家族の形……予測したよりすげぇ困難で。
 母さんは東京にいた時よりますます壊れていった。朝も夜中も構わず泣いていたり、俺が大事と綴っては避けるように独りにしてと荒れて……。

 そんなとき俺の避難場所になる、丘の上の公園下をちょうど走り過ぎる。
 2年になったら家事やって生活費稼いで母さんの病院さがして……高校は後回しにしてたら留年の危機だった。

 今日は外に出られただけでもまだマシな方だろう。母さんの病状を案じながら美容室に到着した。そして、モデル気分に浸り息抜きをして高校へ行くと、美術部のあの彼女と出会ったんだ―――。

 美術室で昼寝をしていて目を覚ますと、いきなり彼女の顔が逆さまにあってビビった。驚いた拍子に頭突きをくらって、見かけによらず石頭。

 話をしてみると……引っ込み思案な女子だったが感情が表に出やすいのか、ややオーバー気味なリアクションが面白かった。『おおいたわらまひろ』って名前だそう。
 そう、彼女の反応が楽しいから、つい近づきたくなったんだ。

 俺の気分は美術女子まひろ(・・・)のお陰で新鮮だったけれど、母さんは診察後にやはり疲労が出て塞ぎ込んでいた。翌朝も起きれずに俺が帰宅するまで飯も食えてなくて……

「母さんできたよ。一緒に食べよう?」
「ごめんね、学校行ってたのに夕飯まで……」

 制服も着替えないで洗濯をしながら、パスタを作ってテーブルに置いた。向かいに座る母さんは鬱状態から抜け出せていないのだろう。表情に変化がない。
 今日は進路面談の話を伝えようと思ったが無理そうだ。

「Never mind! 明日はちゃんとできるよ」
「葵……パパみたいに、言うのね……」
「え……」

 母さんが悲しそうに淡々と言い、小さな一口をゆっくり運び続ける。嫌だったのか、平気なのか、わからない……
 確かに俺の言葉は父さんの受け売りだった。そう俺は応援してもらって育ったから。母さんも励まそうとしただけなのに……。

 母さんの言葉は俺の心の中にも影を落とした。そして鬱は数日続くんだ、今回も……たぶん。
 その移った憂鬱のせいで俺はうっかり校長面談を忘れてしまっていた。

 翌日の放課後、校長室の入口でカラーの言い訳を考えていると、隣の応接室前に飾られた絵に吸い寄せられた。

 すげぇ綺麗な桜の絵で、見てるとパアッと心が晴れる感じ。輝く笑顔満開の桜みたいな。どうしたらこんな着色と構図思いつく……ん?

「大井田原真白、ましろ? まひろじゃないのか!? え……これ真白描いたの?」

 じっくりと鑑賞したのは初めてで、ネームプレートにも今気づいた。まさか真白の作品とは驚いた。純平が言っていたのを実感して、彼女に尊敬の念がプラスされる。

 繊細な感覚と芸術家の腕を持ってるんだろうな……俺の髪も黒く塗れたりして?
 と、名案が浮かんだ所で当の本人がコソコソしているのを背後に察知する。
 よし、声をかけてみよう!

 そして思惑通りに校長面談を乗り越えた。真白が髪を地毛っぽく塗ってくれた御礼に俺は美術部に入る。
 才能ある人の応援したいし、どんなふうに描くのか興味もあって、もっと真白の絵を見てみたかった。

 観察力に優れているのは予測できていたけど、目算の技持ってるなんてアビリティ高すぎで……どんどん真白のことを知りたくなり、それで彼女に構いたくなってる自分がいた。

 選択授業が真白と被って席順も前後になると、早速話しかけて新情報を得た。孤高の画伯は青色が一番好みらしい。それで姿勢が良くて授業中は寝ない。俺は無理だ〜!

 美術室という憩いの場を見つけ高校生活の楽しみは増えたが、家庭状況は悪化する一方だった。バイト後に帰宅するとリビングに物が散乱し、母さんはへたり込んで頭を抱えている。

 またか……
 真っ先に処方箋の袋をチェックすると、案の定、薬が減っていなかった。

 前も言ったのに……毎日飲まないと薬の効果が安定しないって。薬の副作用が辛くて飲まなかったり、そもそも飲む事もできない状態だったりでこうなる。

「母さん、薬はちゃんと飲まないとダメだよ」
「わかってるわ! 飲んでも飲まなくても変わらないのよ!」

 ヒステリックな返事……そっとしておくのが最適か。本人が落ち着かない限りどうにもできない。刺激しても逆効果だろうし、俺はテーブルに薬を置いて身支度をすると家を出た。
 自転車に乗り星の丘公園へ行って、展望台でキャンプ用のケットを敷き寝転がる。

 休むなら何処だって一緒だし、母さんが病気なのは理解してるけど、俺だって息が詰まるよ……守るべき事を自分でしなきゃ結果はでないのに。
 俺は溜息を夜空に向けて吐き出すと、少しすーっと暗い気持ちが晴れてゆく。

 たくさんの星の燦めきに見惚れ、計り知れない宇宙にちっぽけな悩みはのみ込まれた。
 深い青色に何光年先の輝きか……真白の絵みたい?
 青が好きで……星も、好き?

 俺は彼女に贈るためスマホのカメラを起動させ胸に乗せて夜空へ向けた……カシャ。部員らしく部長の応援か、寂しさを紛らわすためか。はっきりしていなかったが、流れ星に願うように心が唱えた。

 彼女の世界に繋がってみたい―――。

 そうして触れてみた真白の世界観が、くすみかけた俺の心を……爽やかな色に塗り替え、鮮やかな虹を架けて、希望の光を降らせてくれた。

 18歳の誕生日。真白と登った山から見えた雨上がりの景色。大きな虹にまるで星が降る、奇跡の光景に彼女が出会わせてくれたんだ。

 真白の才能は誰かのツライ世界をシアワセに変えてくれるチカラで、描く作品はまばゆいほどに燦めく光の世界。

 そのシアワセにするチカラは俺のツライキモチも救ってくれた。だから眩しい夏だというのに家の中がどんどん暗くなろうと……なんとか耐えられた―――。


「母さん! もう、薬飲んで落ち着こうか!」

 夏が来ると食欲が失せて一段と痩せ細った。栄養状態が悪いからか気分も最悪そうだ。これまでの不摂生からも不調が当たり前になっていた。医師に相談して悪化時用に強めの安定剤を処方してもらった。

 その悪化時が来たんだ。母さんはカーテンを切り刻む手を止めて、俺を鋭い目で睨みつけた。
 「っ……」まるで憎たらしいと言わんばかりの表情で、母親の面影をそこに見ることはできない。

 俺、そんなに悪いことしたかな……。母さんのためにって……俺、必要ない?

 暗く影った俺の世界を―――真白の描いた絵が明るく照らしてくれる。『幸せの証』というタイトルの虹の風景画と、誕プレに描いてもらった向日葵。宝箱を開けるようにスマホを開いて毎日眺めては、頑張ろうという気持ちを奮い立たせて。

 それから、文化祭で真白と挑戦するアートパフォーマンスに没頭する日々は、俺の中の虚しさを彩色で上塗りしてくれていた。

 真白の才能を最大限発揮させること、皆にもシアワセと感動を与えること、それで……俺の存在意義を、確認したかった―――。

 秋晴れの空の下、ふたりのパフォーマンスは大成功を収める。終演後に真白と高らかに祝ったハイファイブは、彼女の世界に繋がれた瞬間だった。

 初めて、真白の燦めく笑顔を見たんだ……それも俺の、幸せの証だった。

 ―――でも。シアワセな世界は、脆く崩れやすいことを知る。