手からするりと抜け落ちた四角い物体は、音も立てずに漆黒の水面に消えた。
橋の上から覗いて、泡すらもないことを確認する。深さはどれぐらいだろう。
私は三十センチぐらい幅がある石の欄干に手をついて、足を滑らせながらよじ登った。街灯の灯りが辛うじて届くが、足元はよく見えない。夜風が強く吹いていた。バランスを崩したら、下の川へ無様に落ちる。出来ることなら綺麗に飛びたい。
ゆっくりと両腕を広げ、息を胸一杯に吸う。
「天使?」
「え……、あ!」
突如闇に響いた声に驚いて、私はバランスを崩した。
「危ない!」
私は欄干の上でしゃがみ込み、誰かの手で川の方へ落ちないようにさえぎられる。一瞬のことに息をつく。
「……なに、しているの」
恐る恐る聞かれた。
飛ぶ真似をしていた私にちょっかいを出してきたのは、大学生ぐらいの青年だった。身長はそれほど大きくないので、欄干の上にいる私は見下ろす形になっている。
「そっちこそ、何をしているの」
欄干から歩道の方に降りながらそう返した。こんなてっぺんも超えた真夜中に、この橋を通りかかるのなんて、暴走族か酔っ払いを乗せたタクシーぐらいだ。
「自分は、散歩」
青年は顔をそらしながら答えた。そして、視線だけを向けて言う。
「女の子一人で危ないよ」
「……そう。それじゃ」
私は彼に背を向けて歩き出す。追ってくる気配はない。
「天使、か」
私は歩きながら一人こぼす。あの青年はよほど頭の中がお花畑のようだ。
天使なんかな訳がない。私は天国どころか、地獄に行くだろう。
「頭おかしいんじゃないの」
でも、きっとそれは自分のことだ。
朝。静かな朝。空から雨が落ちる音だけが聞こえる。
布団の中に頭を引っ込めて、しばらく音だけの世界に浸っていた。静かな私だけの世界。誰にも邪魔されない私一人の世界。
それもバタンという乱暴な音で終わる。誰かが下の階でトイレに入った音だ。仕方なく、私は身を起こす。黒い無地のTシャツとデニムに着替えて、階段を降りた。
「ああ、花緒。……早いのね」
まだパジャマ姿の母親は、私の顔を見ると目を逸らした。忙しない様子を装って、台所へと向かう。台所から声を投げかけてきた。
「今日で最後なんでしょ」
「まぁ」
私はそう言うしかなかった。そこにドタドタと階段を下りてくる音が聞こえてくる。
「母さん、今日体育なんだけど。体操服、……チッ」
目が合うとあからさまに舌打ちをされた。弟の真也だ。高校生で、真面目に学校に通っている。学校の話なんかしないから、たぶんだけど。
「真也。体操服なら昨日洗濯して、畳んで置いてあるから持って行きなさい。花緒も顔を洗ってらっしゃい」
「朝から嫌なものを見た」
真也は私だけに聞こえるように言う。一秒、私を睨んでから居間に向かった。
私も母親に言われた通り、洗面所に足を向ける。使い込まれた洗面台。白い水垢が残っている鏡。そして、鏡に写る幽霊みたいな私の顔。
「酷い顔」
朝から嫌なものを見た。真也じゃないけれど、そう思った。
元々色は白かったけれど、青白いと言った方がいいだろう。唇には血色がなく、ガサガサ。それに伸ばしっぱなしの髪の毛先半分は金髪、根本半分は黒かった。
「妖怪みたい」
かすれた声も相まって、なおさらこの世ならざる者のように見える。
蛇口をひねって、バシャバシャと乱暴に水を被る。洗面所に置いてあった適当な髪ゴムで髪を一つに束ねた。居間に戻ってくるとダイニングテーブルには父親が座っている。
わざわざ広げていた新聞を畳み、私を眼鏡越しにじっと見てきた。
「……なに」
「いや。早く食べなさい」
食卓には既にトーストや目玉焼きが並んでいた。私は椅子に座り、サラダを口に運んだ。隣に母親が座る。真也抜きのテーブルは終始無言だった。
十九歳の私は働いている。いや、働いていた。昨日まで。
私は昨日まで所属していた工場に青い傘を差し、歩いて出社した。お菓子を作る小さな昔ながらの工場だ。ラジオ体操の後に朝礼があり、その後、工場の片隅で工場長に呼ばれた。
「それでは木崎さん。ご苦労様でした。これは今月出勤分のお給料です」
今どき現金払いなんてここだけだろう。毎月渡されていた茶封筒が、目の前にさし出された。
私は無言で受け取り、軽く会釈をする。もうここには用はない。これでこの工場を訪れるのは最後だ。何の感慨もわかなかった。
工場内を歩いていると、前の日まで一緒に働いていた白い作業着を着たパートのおばさんたちとすれ違う。
「泥棒なんかにお給料上げなくてもいいのにね」
「そうよねぇ。鮎原さんの財布が戻ったって言ってもねぇ」
私に聞こえるようにわざと言っている。
鮎原さんの財布。同じ工場で働いている彼女の財布が、いつの間にか私のバッグの中に入っていたのはつい前の日のことだった。
バッグの中に見知らぬ財布が入っていた時、私はすぐに工場長に財布を渡した。知らない内に入っていたと言い添えて。工場長がパートの人たちに聞いて、すぐに鮎原さんのものだと分かる。
カードと現金は入っていた。それでも、疑いは晴れなかった。彼女たちは私が盗んだと言いがかりをつけてきたのだ。財布は返しても、中身は抜かれているかもしれない、と。気の弱い鮎原さんも中の金額まで覚えていないと言う。
あっという間に私は泥棒になり、トラブルの原因になるからとクビを言い渡された。それも言われたのは家に帰ってから。電話口でそう告げられたのだ。
「でも、よかった。死神なんて言われている人と、いつまでも一緒の職場なんて嫌だもの」
「ホント、そうよね」
思えば泥棒なんて軽いものだ。噂好きの彼女たちはよく知っている。彼女たちは、体よく死神を追い出すことに成功した。たった数か月の薄っぺらな付き合いだった。
パラパラと傘を叩く音がする。私はどこへ行くでもなく歩いた。
かなりの時間さ迷っていると、来たことのない小さな公園にたどり着く。
公園には誰もいない。ぬかるんだ土の地面に、雨に濡れた滑り台やブランコ。いつもなら小さな子供が遊びに来るのだろうか。でも今は誰もいない。
そう思って、一歩中に入った時だ。
「あれ。もしかして昨日の、いや今日の……ねぇ、ちょっと待って」
後ろから声をかけられた。振り返ると、橋で出会った間の悪い青年が傘をさして立っている。なぜか不安そうな顔で聞いてきた。
「なにしているの?」
「何も」
本当に何もしていない。ただ行く当てもなくて、歩いていただけだ。そのまま青年を置いて歩いていこうとすると、また声がかかった。
「あの橋に行くんじゃないよね!」
何の事だか分らなくて思わず振り返る。青年は公園の向こうに指の先を向けた。
「この先、あの橋だから」
「そうなんだ」
本当に知らなかった。そんな私の表情を読み取ったのだろう。安心したように微笑む青年。
「君さえよければ、一緒にここの近くのファミレスに行かない? もうすぐ夏だって言っても、雨も降っていたら冷えるよね」
この時の私の感情はどう言ったらいいだろうか。どこか温かい家庭で飼われていそうな柴犬が、迷子になっているのを見つけてしまった気分だった。
「……いいよ」
私は顔を見ないで返事をした。
こっちと先を行く青年。私たちは前後に並んで歩き出した。
平日の昼間のファミレスは空いていた。ボックス席に向かい合わせに座ると、青年は自己紹介をしてくる。
「僕は誠。気軽に誠って呼び捨てしてくれていいよ。君は?」
「私は花緒」
とっさに偽名が思い付かなくて、本名を出してしまう。だけど、どうせすぐに素性なんてバレるのだから、偽名だろうが本名だろうが関係ないかと思う。
「花緒ちゃんか。……高校生、だよね」
私は首を振る。少し誠の顔が緩んだ。未成年の高校生だとやはりまずいのだろう。
「じゃあ大学生だ」
「ううん。ただの十九歳。頼まないの?」
学生かどうか聞かれただけだ。根掘り葉掘り聞かれているわけではない。けれど、詳しく答えたくなくて、メニューを渡す。
「そうだね。何か頼まないと悪いよね」
メニューを開く誠。ぺらぺらとめくって、最後の方のデザートのページで止まった。甘ったるいパフェやケーキの写真を誠は指でなぞる。
「ドリンクバーは頼むとして、えーと、クリームあんみつかな。花緒ちゃんはどうする?」
「私はいい」
たった数回のやり取り。それだけで、何年分もの会話をしたような気がして、私は既に疲れてきている。背もたれに体重をかけた。
誠はテーブルに置いてあるボタンを押す。すぐに白いエプロンをした店員がやってきた。誠は落ち着いた声で注文する。
「ドリンクバー二つとクリームあんみつ二つ、お願いします」
定型通りの文言を言って店員は去っていった。それを見届けると私は、テーブルの上を見つめたまま口を開く。
「ねぇ。私、あんみつ食べないんだけど」
「僕がおごるから。それとも嫌い?」
「嫌いじゃないけど、普段甘いもの食べない」
「なら食べるといいよ。甘いものを食べると幸せな気持ちになるから」
誠はふんわりと笑う。男のくせにとかは思わない。男女の味覚にそれほど差があるとは思えないからだ。
「飲み物、よかったら取ってくるよ。何がいい?」
「……自分で行く」
面倒だけれど、立ち上がる。何でもいいなんて言ったら、甘い飲み物が来るだろう。私はウーロン茶、誠はメロンソーダを注いで席に戻ってきた。
「それで、さ」
クリームあんみつがテーブルに来ると、誠は緑色の液体の入ったコップを握りながら、絞り出すように言う。
「あんな所で、何をしていたの?」
「分かっているんじゃないの」
私は氷をカラリと言わせて、ウーロン茶をストローで吸い込んだ。
「僕の想像通りなんだ」
「そうだって言っているでしょ」
うつむく誠。本当は想像通りじゃないと思う。何も考えずに、綺麗に飛べたらいいなと思っていただけだった。結果なんて何も考えていなかった。けれど、わざわざ教えてあげるつもりもない。
私は窓の外を見る。相変わらず雨が降っていて、街並みは歪んでいた。
「でも」
私は誠に目線を戻す。
「……飛び込むタイミングを失ったの」
誠はパッと顔を上げる。
「僕のせいだ」
どこか嬉しそうな表情にイラっとした。
「この話題終わり」
「うん。それがいいよ」
あんこと白玉をスプーンですくって、口に運ぶ誠。なんて呑気な生き物。本当に柴犬みたいだ。甘いものを食べるだけで、ブンブンとしっぽを振っている。
「誠はどこの大学に行っているの?」
「えっ! 僕の事?」
狼狽した声に私は眉をひそめる。私が知っているのは誠という名前だけ。それだって偽名かもしれない。私には聞いてきたのに、自分は何の情報も言わないつもりだろうか。
しかし、誠は自分の顔を指さして私に聞いてきた。
「そんなに若く見える? 一応、もうすぐ三十になろうかっていう年齢なんだけど」
私は頬杖をついて、誠の顔を見る。
目はコロコロと丸っこく、輪郭も丸め。あごにはひげなんてないし、黒髪でつやつや。どう見積もっても二つか、三つ年上ぐらいに見えた。
「アラサーには見えない」
私は端的に感想を述べる。そっかと誠は声をしぼませた。
「無職?」
「うん」
誠は躊躇なく頷く。平日の昼間に公園をウロウロしている人間なんて、私みたいな学校にも行っていない、無職の人間しかいないだろう。
「この前辞めたばかりだけど、前は不動産会社にいたんだ」
私をへぇと曖昧な相槌をする。誠は自分のことを語りたくないわけではないようだ。
「私も同じ。今日までだったから。仕事」
隠すことでもない。だけど、誠は心配そうに聞いてきた。
「……職場で何かあった?」
「何も。ただ辞めただけ。仕事、つまらなかったから」
隠す必要はないとはいえ、誠に無実を訴えるのも違う気がする。訴えても、もう追放という判決は出ているし。
それに川に飛び込もうとしていたのは、仕事を辞めさせられたせいじゃない。
「ねぇ、花緒ちゃん。よかったら、連絡先交換しない? 何かあった時、何もできないけれど相談ぐらいにならのれるよ」
大人だからだろうか。無職で暇だからだろうか。それとも、下心があるからだろうか。誠は胸ポケットから黒いカバーをしたスマホを取り出した。
だけど、私は動かない。答えは一つ。
「スマホ、持っていない」
「そんなに怪しいかな、僕」
私は首を横に振る。スマホを持っていないことは嘘ではない。
「橋から落としたからないの」
「そう、なんだ……」
もうスマホは必要なかった。仕事場から業務連絡を受け取る必要もなくなったし、家族からも連絡はない。友達ももういない。
「私、そろそろ出るから」
私は立ち上がり、茶封筒の中から千円札を引き抜いてテーブルの上に置いた。
「え。まだあんみつ全然食べてないよ」
「私の分も食べて。それじゃ」
バイバイ。もう会わない人。
家には帰りたくなかった。親には仕事をクビになったことは伝えているけれど、理由までは言っていない。たぶん帰っても聞いてきたりはしないだろう。それでも顔を見れば気まずい思いをするのは間違いない。
私は再び町をさ迷った後、コーヒーショップで何時間も過ごした。店員に嫌な顔をされても、その場に居座る。
外も暗くなった頃、近くの席に女子高生が二人、生クリームたっぷりのカップを持ってやってきた。制服を見ると白いシャツに赤いチェックのスカート。
私がいた高校だ。
リングのピアスをしている方が、髪をハーフアップにしている方に言う。
「ねぇ、あれ。死神じゃない?」
「え? ホントだ。髪の先だけ金髪。キショ」
声を潜めることなんてない。無敵の女子高生。つい一年前は私もそうだった。あの頃の私が今の私を見れば、同じことを言うだろう。
「だってさ。あれでしょ? 友達を自殺に追い込んだんでしょ?」
「えー、私は友達を殺したって聞いたけど。それで退学になったって」
「いや、殺していたらさすがに捕まっているって」
それほど大きくない町だ。噂はすぐに広まって、私の耳にも入ってくる。ネットでもいろいろ言われていた。
「お待たせー」
そこにもう一人女子高生がやってきた。長い髪で緩いウェーブがかかっている。その姿を見て、私は思わず立ち上がる。
「莉沙!」
「……、だれ?」
女子高生は私を見て、眉を寄せた。
「あ……、人違い」
莉沙がいるはずがない。私はそのままコーヒーショップを出た。店員が申し訳程度にありがとうございましたと言っている。
女子高生と莉沙は似ても似つかなかった。彼女はもっと瞳が大きかった。彼女はもっと色白だった。彼女はもっと可愛かった。
殺してしまったのは、私だ。
私は雨の中、傘をささずに歩く。
『ねぇ、花緒。私――』
聞き取れなかった言葉。あの時、莉沙は何を言おうとしていたのだろうか。
「花緒ちゃん!」
私の名前を叫ぶ声がした。目の前の視界は雨で滲んでいる。瞬きを数回した。そこには昼間別れた誠が傘をさして、こちらに走ってきていた。
「あ……」
よく見るとここは、あの橋のたもとだ。町をがむしゃらに歩いていたら、いつの間にか来ていたのだ。いや、もしかしたら無意識に足が向いていたのかもしれない。
ひたひたと頭を打っていた雨が止む。
「花緒ちゃん、またここに来たの?」
雨は止んだわけじゃない。誠が傘を傾けてくれていた。
「たまたま、来ただけ」
私は顔を背けながら言う。
「来ただけって、こんな時間に傘もささないで……」
こんな時間とは言うけれど、昨夜ほどの夜更けではなかった。それの証拠に人通りは多い。帰宅する人が通りかかり、じろじろと見られていた。彼らには私はとても奇妙な生物に見えただろう。
「送っていくから、家に帰ろう」
私は首を横に振る。帰っても、きっと何も言われない。ただ、また空気が重くなるだけなのは分かり切っていた。
「でも、雨で身体も冷えているだろ。風邪ひいちゃうよ」
「……誠はなんでここにいたの?」
少しだけ気になった。
「僕はやっぱり花緒ちゃんのことが気になって。だから――、ごほごほ」
風邪をひきそうなのは誠の方だ。雨の中、私が来ないか見張っていたのだろう。来なかったらどうしていたのだろうか。
ぼんやりとした思考で、何となく口にする。
「私、誠の家になら行く」
「え?」
この人の家なら、迷子の柴犬の家なら、暖かいだろうと何故だか思った。雨はやっぱり冷たい。一瞬だけでいいから、暖かい所に行きたかった。
その資格はないのかもしれないけれど――。
誠は固まっていたけれど、あごに手を当てて言う。
「いや、でもほら、僕んちって一人暮らしだから」
「駄目ならいい」
私は誠の脇を通って橋の方に行こうとする。その腕を誠が掴んだ。
「分かった! 分かったよ! 今日だけだからね」
二人で雨の中、一つの傘に入って歩く。誠のマンションは川沿いにあり、橋からは二、三分の場所にあった。エレベーターもなく、三階まで階段で上る。
並んだドアを横目に通り過ぎて、一つの黒いドアの前で誠は止まった。ポケットから鍵を取り出してドアを開ける。ドアの横の表札には名前はない。
中に入ると誠は電気をつけた。玄関すぐの廊下の左側にキッチンが縦に並んでいる。たぶんワンルームだと思う。一人暮らしだって言っていたし。
誠は右側の折り畳み式のドアを開けた。
「お風呂はこっちだよ。早く熱いシャワーを浴びて、身体を温めて」
びしょびしょのまま家に上がり込むわけにもいかないので、言われた通りお風呂場に直行する。脱衣所はない。濡れた服を脱いで、シャワーの蛇口をひねる。最初は冷たい水が出るけれど、身体が冷えているせいか、あまり寒く感じなかった。
頭から浴びている内に、温かいお湯に変わってくる。
「着替えとタオル、扉を開けたところに置いておくね」
扉一枚挟んだところで、声がした。
今更ながら、私はとても大胆なことをしていると思う。知り合って一日も経たない男性の家に上がり込んで、シャワーを借りているなんて。
「莉沙……」
だけど、出てくる名前はかつての友のものだ。
私は自分の長い髪を見つめた。あの頃からかなり伸びていて、毛先だけ金髪のまま残っている。もう一年近く髪を切っていない。
校則が髪型自由だからって、金髪のショートボブにしていったときには、莉沙はとても驚いていた。でもすぐに破顔して、こう言った。
『カッコいい! 私もしてみたい!』
「そう、言ってたのに……」
莉沙が私のように金色に脱色したり、思いっきり短く切ったりすることはなかった。
私が髪を染めてひと月も経たないうちに、莉沙は死んでしまった。
「花緒ちゃん? 大丈夫?」
コンコンとガラス戸を叩く音がする。長くシャワーを浴びていたから、心配したのだろう。
「大丈夫……」
私は顔をこすって、かすれた声で言った。
借りたTシャツやズボンに着替えて、肩にタオルをかけて洗面所から出る。部屋に行くと、少し驚いた。
「ごめんね。こんなところで」
ワンルームのそこまで広くない部屋には、段ボール箱が積みあがっていたのだ。
「引っ越ししてきたの?」
もしかしたら私を知らなかったのは、余所から来たからかもしれないと思った。だけど、誠は首を横に振る。
「ううん。引っ越してきたんじゃなくて、これから引っ越すんだ。あ。売っちゃってテーブルがないから、段ボールの上でいい?」
よく見たら部屋には家具がなかった。テーブル代わりにしているのだろう。段ボールが部屋の中央に置いてあり、そこにはマグカップが二つ置かれていた。湯気が立っている。
「特製の濃厚ココアだよ」
誠は先に奥に座り、マグカップを手にした。
私も大人しくマグカップの前に座る。覗き込むと濃い茶色い液体が入っている。甘い匂いが鼻孔をくすぐる。手に取って、一口口に含んだ。
「甘い」
記憶の中にあるココアの何倍も甘かった。
「花緒ちゃん。昼間はさ。あの話、止めておこうって言っていたけど。やっぱり、話してくれないかな」
マグカップの縁を見ながら誠は言う。
「見ての通り、僕はそのうちいなくなる人間なんだ。だから、ぬいぐるみにでも話すと思ってさ。何でも話して」
誠は親切で言ってくれている。
でも、話したくないと思った。話したら、誠はきっと体のいい言葉で私を慰めようとするだろう。私はそんなの望んでいない。
だからと言って、泊めてもらうのに何も事情を話さないのも、フェアじゃない気がした。
「スマホで……」
「うん」
「スマホで木崎花緒、開林高校で調べたら出てくる」
「……。」
私の顔に視線を感じる。私は目を合わさないように、フローリングの床を見つめていた。しばらくすると誠はスマホを取り出した。検索しているようだ。
「これ……」
そこには多分、コーヒーショップで女子高校生たちが言ったようなことが書かれているはずだ。
じっと黙ったままスマホの画面を見つめる誠。かなり長い間、そうしていたけれど、私から沈黙を破った。
「はは。ウケるよね。私、死神とか言われているんだよ。誠、死神を家に上げて大丈夫?」
「なに笑っているんだよ!」
誠ははじめて声を荒げた。そして、スマホと私の顔を交互に見ながら言う。
「花緒ちゃん、これ訴えていいよ。こんなデマを流されてさ。高校中退したとか書いているけど、これのせいだよね。悪質ないじめだよ?」
「デマ……。なんで、誠、それが嘘だと思うの」
「だって、花緒ちゃんが仲よかった友達を、その。とにかく、花緒ちゃんはそんなことする子じゃないよ」
必死に私をかばう誠。昨日の今日出会って、何を知っているのだろうか。
「嘘じゃないの」
「え?」
声が震える。
「私が莉沙を自殺に追いやったの」
私は痛いくらい下唇をかみしめた。
*
莉沙の様子がおかしくなったのは、莉沙が好きだった男子に彼女が出来た頃からだった。
彼はかっこよかった。耳の軟骨にピアスを開けていて、ちょっとチャラい。イケメンで、学校で一番目立っていた。彼を好きな子なんてたくさんいた。
『私も花緒みたいな金色にしたら、あいつも好きになってくれるかな』
私と二人の時だけに、莉沙は彼の話をした。積極的に話しかけに行ったりしていたから、はた目にもバレバレなのに。私はそのうち莉沙と彼は付き合い出すんじゃないかと思っていた。二人は美男美女で気も合う。私にはお似合いに見えた。
だけど彼が付き合い出したのは、他校の清楚系な子だった。私は莉沙の部屋で枕に顔を埋めている莉沙に言った。
どうせすぐに別れるよ。その時、彼女にしてって、言えばいいじゃん。
――って。
*
「莉沙ちゃん、だっけ? 好きな子に振り向いてもらえないのは、確かにつらいと思うよ。でもそれが、どうして花緒ちゃんが殺したなんてことに……」
誠は私の始めた昔話に耳を傾けていた。誠にしたら、私の話は支離滅裂でなんのことか分からないだろう。
「莉沙と出会ったのは、高校入学の時。単純に席が隣で、違う中学出身だったけれど、すぐに打ち解けた。お互い学校なんて、友達とだべりに来ているものだと思っていたし」
「仲よかったんだね」
「私、莉沙ならなにを言ってもいいって思っていた。何でも話せる友達だと思っていた。莉沙も当然同じだと思っていた。でも違った。莉沙は、私には想像できないものを抱えていたの。だから」
それをはじめから知っていたら、私はあの時どうしていただろう。
「だから――」
詰まらせながら私は誠の顔を見る。言葉を出せない私のことを心配そうに見ていた。
「話はこれでお終い。話を聞いてくれて、ありがとうね。誠。楽になったよ」
私は無理やりにでも笑う。これ以上は話せない。
「本当に?」
「本当」
「もう川に飛び込もうとしない?」
「うん」
それは分からない。あの行動は、ほとんど衝動的なものだった。だから、いつまたその衝動が起きるかは分からない。かつての莉沙のように。
「嘘だね」
「嘘じゃない」
「じゃあ、その髪、いまここで切ろう」
「え」
私は思わず自分の髪を掴む。タオルで拭いただけの、ドライヤーで乾かしていない髪はまだずいぶんと湿っていた。
髪を切ろうと言うのは、この金色の部分を切るという意味だろう。
「僕は君を救いたい」
誠は私を真っ直ぐ見て言う。
「あ、ありがと。でも、もう」
「その髪をしている限り。花緒ちゃんは苦しむよ」
そんなことは分かっていた。半分金髪のこの髪は死神のトレードマークみたいなものだ。この髪があるから、目立つし、陰口を言われる。
でも、切ろうとは思わなかった。髪を切ったら、莉沙のことを忘れてしまったような気分になるだろう。
「僕はあの橋で、その髪が天使の羽に見えたんだ」
「天使の、羽?」
そう言えば、最初誠に会った時、私の事を天使だとか言っていた。
私は自分の髪を持ち上げて、金色の毛先を見る。天使の羽なんて、とてもそんな美しいものには見えない。
「髪が風になびいて、背中から生えているように見えたんだ。最初は……」
「誠?」
うつむいた誠は、肩を震わせている。
「お願いだよ。その髪を切らないと、また花緒ちゃんが羽ばたいて行ってしまうような気がするんだ」
「誠……」
誠には関係ないとは言えなかった。
本当の所、誠が何を考えているかは分からない。公園で見かけても放っておけばいいのに、誠はわざわざ話しかけてきた。こうやって関わってこようとするのは、きっと川に飛び込もうとするところを見られたからだ。
私は莉沙が死ぬところを見た。その莉沙に花緒には関係ないと言われたらと、思うと胸が締め付けられるように痛む。莉沙と繋がっていたい。繋がりたくないと言われても。繋がっていたかったんだ。
誠にとって私は私にとっての莉沙になってしまったのかもしれない。
たった数時間の関係でも、いまさら引き返せないと思った。
「誠、あのね。この髪は切れない」
私はあの日の事を話し始めた。
*
あの日は九月の中旬。
この年の夏は猛暑で、教室のクーラーは効きが悪い。私は下敷きで自分を仰いでいた。古文の教師が教科書を読んでいる。あまりにゆっくりした口調で、あくびをかみ殺すのに苦労した。
私は頬杖をついて、莉沙の席の方を見る。莉沙は夏休みが終わっても学校に来なかった。理由は莉沙が好きだった彼に彼女が出来て、まだ失恋から立ち直れていないのだと、この時は思っていた。
机の引き出しで隠しながらスマホを起動させる。
『まだ学校に来ないの? 莉沙いないとつまんないんだけど』
私は昼休みに送った文言を見た。既読はついていない。これまでは、あいまいな言葉だけれど返事があったのに。
「木崎、聞いてるかー」
教師からチェックが入った。私は教科書を手に取って、はーいと答える。もちろん、集中なんてしていない。
返事が来たのは、その授業の後だった。
『今から学校行く』
スマホを見て、思わず笑いをこらえる。
『いや、もう今日の授業全部終わったんだけど』
残りはもう帰りのホームルームだけだ。
『行くから待っていて』
きっと莉沙は私に話を聞いてもらいたいんだと思った。それならどこか寄り道した方が良いと思って、どこに行こうかと考える。カラオケはうるさいから話は出来ない。
今月は金欠だけれど、ファストフード店なら話を聞くにはいいかもしれない。場合によっては私がおごることになりそうだし。失恋には甘いもののやけ食いが効くと過去の経験から学んでいた。
「花緒。一緒帰ろうよ。カラオケ行こー」
教室の窓際でスマホをいじっていると、クラスの子に声をかけられる。
「ごめん。莉沙、待っているから」
「莉沙、今日も来てないじゃん」
「なんか今から来るんだって」
私はそのまま軽い調子で答えると、ケラケラと笑い声が返ってきた。
「なにそれー。まぁ、いいや。莉沙に元気出せっつっといて。また、明日ねー」
「うん。また明日」
やっぱり莉沙の失恋は、教室中にバレているようだ。あれだけ積極的に行っていたから、気まずいのは分かるのだけれど。
それから一時間後。教室にはもう誰もいない。
「莉沙、来ないな……」
催促はしている。けれど、授業が終わってからまだ一度も返事は返ってこない。まだ、空は明るいけれど。
『私、帰るね』
そう、送った。一時間も待ったし、スマホの充電も少なくなってきている。これ以上は、待っていられなかった。私は鞄を持って、教室を出る。靴箱でローファーに履き替えていると後ろから声をかけられた。
「花緒」
振り返ると、制服を着た莉沙が鞄も持たずに立っていた。
「莉沙! よかった、学校来たんだね。って、あれ? もしかしてここで待っていた? 私、教室にいたんだけど。でも、よかった。すれ違いにならなくて。莉沙、スマホは?」
莉沙はかすれた声で答えた。
「スマホ、持って来てない」
よく見たら、莉沙はすっぴんだった。いつもはマスカラを塗って、外国人並みにバサバサしたカールした長いまつげをしているのに。
とはいえ、莉沙は来てくれた。あまり深く考えずに私は言う。
「莉沙、これからクレープ食べに行こ。ほら、最近駅前に出来たって言っていたでしょ。私、おごるよ」
「……食べたくない。私、行きたいところがあるの」
そう言って、莉沙は先に歩き出した。その背中はいつもより小さく見える。実際、莉沙の顔は以前よりシャープになっていたし、きっと痩せていたんだと思う。
「いいけど」
このとき
本当なら、無理やりでもクレープ屋に連れて行けばよかった。
「ねぇ、花緒。恋愛ってエネルギー使うね」
学校の前の通りを駅の方に歩きながら、莉沙の背中がそう言う。
「まぁね。莉沙の場合、相手があいつだったから、なおさらだったでしょ」
実際、莉沙はがんばった。三年で一緒のクラスになってから、普段からよく話しかけていたし、林間学校の時も同じグループになって、なんとか二人きりになったりしていた。
「やっぱ、莉沙からはっきり告白してればよかったね。そしたら他校の女に取られたりしなかったのに」
「無理だよ」
「無理ってことはないでしょ。莉沙ってはっきり言って、うちの学年だと断トツかわいいし。それに、っと、これはまだ秘密だった」
実はすでに莉沙のことを狙っている男子がいる。私は橋渡し役をするように頼まれていた。悪い奴じゃないし、失恋に効くのは新しい恋だと思って、軽く了承していた。
「無理だよ。告白なんて」
「そお? まぁ、出来ていたら付き合っているって話だよね」
「……。」
莉沙は立ち止まって、こちらを振り返る。ちょうど、踏切の前だった。表情を見て、やっぱり元気がないと思った。
「ねぇ、花緒。花緒は高校卒業したらどうするの?」
突然、話を変える莉沙。恋バナの流れだったのになと思ったけれど、聞かれたからには答える。
「私は美容師の専門学校に行くんだ。この髪も自分で染めたって言ったよね。いつか小さくていいから自分でお店持ちたいんだ」
私は短くなった金色の髪をつまんだ。美容師は、当たり前のように選んだ進路だ。小さい頃からの夢で、お母さんが昔、美容師をやっていてよく髪を切ってもらっていた。
「莉沙は?」
そう言えば、莉沙と将来のことを話すのはほとんど初めてだ。いつもは下らないことで笑ってばかりいるから。
「私は……、決めてない」
私は首を捻る。もう高三の夏休みも終わった。当然、何度か面談もあって、親も交えた三者面談もあった。
「でも、うち進学校じゃないし、そんな感じだよね。クラスの女子のほとんどが短大に行くって言ってたし」
「短大だって、いろいろあるよ?」
いろいろというと、なれる職業だろうか。
「え? うーん。たしか看護学科とかもあるんだよね。意外と莉沙向いてんじゃない? 結構几帳面だし」
看護師さんに几帳面なところが必要かは分からないけれど、莉沙が看護師の格好をしている姿は想像できた。つまり、単に服が似合うだろうって思って口にした。
「無理だよ。私が人の命を助ける仕事なんて」
「じゃあ、栄養士とか? 短大行って試験受かればなれるんでしょ」
「……花緒、詳しいね」
「そりゃ、九月になってクラスで話している子が多いからね」
「そうなんだ。みんな、もう将来のこと決めているんだ……」
莉沙がうつむいて、腕を握りしめている。私はその腕に食い込んだ爪を見て、慌てて言葉を探した。
「だ、大丈夫だよ。今から決めれば。決めなくてもさ、普通に地元の会社で働いて、誰かのお嫁さんになるっていうんだって、いいと思うし」
「ごめん。花緒」
なぜか私に謝る莉沙。
「なに? なんで謝るの?」
この時初めて、莉沙がおかしいと思った。でも、気づくのが遅すぎた。
莉沙は私に背中を向けて、一歩二歩、ゆっくりと歩く。
「私、もうついていけない」
「ついていけないって、進路のこと? それなら、遅いなんてこと」
長い髪を揺らして、莉沙は首を横に振る。
「そうじゃない。本当は最初からついていけてなかったの。私ね。中学の時、花緒と会う前、陰キャだったんだ」
「陰キャ?」
「笑っちゃうよね。高校デビューってやつ。必死にメイクとか勉強してさ」
「そうなんだ。でも莉沙、会った時から明るかったよ」
入学式で会った時から意気投合したことを覚えている。
「それは無理していたから。たまに花緒たちが暗いやつ見て、クスクス笑っていたよね。私、笑えなかった」
私は何も言えなかった。莉沙も一緒に笑っていると思っていたから。
「私も笑われている気がした。ああ、どんなに頑張っても私は同じだって」
「ごめん、莉沙。莉沙がそんな風に思っているなんて」
「花緒が謝ることじゃないよ。でも私、花緒と一緒にいるとき頑張っていた。頑張って、頑張って、笑われないように、置いていかれないように、メイクも、髪も、ちゃんとして、ちゃんと女子高生して!」
莉沙は声を張る。頑張りすぎて疲れてしまったのかもしれない。そう、私は思った。だから、学校に来なかったのかも。
「莉沙、そんなに頑張らなくても……」
私が何か言おうとすると、莉沙は遮って話し出した。
「でも、私がどんなに頑張っても花緒には全然追いつけなかった。私がメイクに頑張っているときには、花緒には彼氏が出来て。私が恋に破れたときには、花緒はもうとっくに将来のことを決めていた。私は目の前のことでいっぱい、いっぱいなのに……」
何となく分かる気がした。中学の時、友達に彼氏が出来たって聞いただけで、自分は遅れているんじゃないかって焦ったことを思い出す。
「莉沙、大丈夫だよ」
「私、花緒が金髪にした時、そんな風に思い切ってみたいって思ったけれど、それ以上に花緒には一生追いつけないだって思い知った。だから――」
その時、カンカンカンカンという音が聞こえてきた。ランプが点滅して、黄色と黒の遮断機が下りてくる。莉沙は踏切の真ん中にいた。
「莉沙、そこにいると危ないよ。とりあえずこっちに」
私は声を少し大きくして言う。しかし、莉沙の後ろ姿は全く動かない。
「莉沙!」
周りの人も騒めき出す。中にはうちの高校の制服の子もいた。遮断機がもう半分も降りてくる。動かない莉沙に私は踏切の中に入った。
「来ないで!」
「なにやってんの! 出るよ!」
私は無理にでも莉沙の腕を引っ張る。だけど莉沙は踏ん張って抵抗した。
「やめて! 私はもう駄目なの!」
「駄目なんかじゃないから!」
汽笛の音が鳴る。もう、電車は近い。
「離して!」
莉沙が私の手から強引に腕を外した。そして私の胸を思いっきり押す。私は遮断機の下の地面に転がった。
電車の車輪が悲鳴を上げる音がする。莉沙が私の事を見下ろしていた。その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「ねぇ、花緒。私――」
最後の言葉は聞こえなかった。莉沙は私の目の前で電車にはねられた。
*
「それから、私は学校に行かなくなって、卒業するにも出席日数も足りなくて、高校中退。春からお父さんの知り合いの工場で働いていたけど、それもやめたの。これで、お終い」
誠は黙って話を聞いていた。私は冷めたココアを一口飲む。
「私が莉沙を自殺に追いやったの。特にこの金髪にしたのが、一番の引き金になったみたい。だから、切れない」
私が髪を触っていると、誠の視線はそこに集中する。
「切れないじゃなくて、切りたくない、じゃないかな」
「……そうかも」
言われて、そうだと納得する自分がいる。
「話を聞いたら思い出した。確かに女子高生が線路に飛び込んで、亡くなってしまったって話、聞いたことがある。でも変だよ。知らず知らずに莉沙ちゃんが追い詰められていたとしても、どう考えても花緒ちゃんが、悪いだなんて思えない。それに花緒ちゃんは莉沙ちゃんを止めようとしていたんだよね」
「でも、止められなかった」
「止めようとしていたことを人が見ていた。なら、なんでこんなこと言われないといけないんだろう」
誠はスマホの画面を指さす。ネットの書き込みの事を言っているのだ。
「花緒ちゃん、もしかして……、自分で悪い噂を書き込んだ?」
じっと私の目を見て聞いてきた。
「どうして?」
「死神だなんて普通、目の前で親友を亡くした人には言わないよ」
「ネットは匿名だから言うかもよ」
「でも花緒ちゃんはその髪といい、自分を悪者にしようとしている」
私はマグカップを段ボールの上に置いて、ふうと息をつく。
「正解だよ。誠」
誠は私の事をさぞ見損なっただろうと思う。自分で悪い噂を流しておいて、傷ついたふりをして。当初、ネットでは莉沙に対する悪口が書かれていた。
電車止めて迷惑だとか、失恋ぐらいでどうかしているとか。その通りなのかもしれない。だれど、私はとても見ていられなかった。
だから私はその場にいた目撃者を装って、私が莉沙を追い込んでいく様子を書き込んだのだ。本当のことも混ぜて書いているから、真実味を増したのだろう。噂は噂好きの間であっという間に広まる。私は死神と言われるようになった。
「自分で自分を傷つけてなんになるんだよ」
「私はもうこの先何もないから、いいの。記憶ってだんだん薄れて行っちゃうんだよね。私はみんなの記憶から莉沙のこと忘れられていくのがいやだった。だから、私が少しでも記憶に残るようにしているの」
「こんなことをしても誰も幸せにはなれないよ。莉沙ちゃんだって望んでいないと思う」
「私は幸せになるつもりはない」
だから川が私を呼んでいた。もう、何も未練はない。そう思うと、またあそこに行こうかと、自然と窓の方に視線がいく。
察したのか、誠は顔をしかめて言う。
「駄目だよ。花緒ちゃん。君には家族がいるだろ。君が死んだら家族は不幸になるよ」
「そんなこと、私だって分かっている。だけど、止められないの。今なら、莉沙の気持ちが分かる。未来が無いってすごく不安なの。それで暗い底に吸い込まれてしまうの」
私は窓の方を見たまま、つい不安が口に出てしまった。
「分かるよ」
誠は頷くが、私はそうは思えなかった。
「莉沙ちゃんがいない未来は不安だよね。だけど、大丈夫だよ」
「私も莉沙に大丈夫だって言ったけど、全然大丈夫じゃなかった」
「ねえ、花緒ちゃん、僕は莉沙ちゃんの代わりにはなれないけれど、僕の希望になって」
突然の言葉に誠の顔を見る。私のことを正面から見つめていて、少しも茶化した雰囲気は感じない。
「希望になる。じゃなくて?」
「はは。そう言えたら、かっこよかったんだけど。残念ながら僕じゃ、花緒ちゃんの希望にはなれないかな。ただ、君は生きていてくれたらいい。そうしたら、僕はこれから頑張れそうな気がするんだ」
「頑張れる……。そんなに頑張らなくていいよ」
私はずっと頑張ってきたと言っていた莉沙のことを思い出す。
「ああ、もちろん、僕の出来る範囲だけどね。花緒ちゃん、人生って特別何もなくても、すごく大変だよね。莉沙ちゃんみたいにちょっとしたことで、つまずくことがある。僕もつまづいているんだ。今」
周りの段ボールを見たら、その理由が少しわかった気がする。誠も少し前に辞めたという会社で何かあったのかもしれない。
すぐ横に来て誠は私の手を取る。大きな手は固く私の手を握った。
「花緒ちゃんは生きてさえいればいい」
「それだけ?」
「それだけでいい。それだけで僕の希望になる。勝手にするから。構わないかな?」
「……、勝手にするならいいよ」
私は自然と首を縦に振っていた。手のひらが暖かい。ずっと感じることのなかった暖かさだ。
「ありがとう」
誠は本当に嬉しそうに笑った。
「僕、思ったんだ。憧れって希望と少し似ているよね。たぶん莉沙ちゃんは花緒ちゃんに憧れていたんじゃないかな」
「憧れ……」
「だから、最後に会おうとしたんだと思う。それぐらい莉沙ちゃんは花緒ちゃんのことが好きだったんだ」
誠の言葉が私の胸にじんわりと広がっていく。これまで私だけが莉沙のことが好きなんだと思っていた。
「私なんかに憧れなくても良かったのに。私は、莉沙とずっと一緒にいるほうがずっと良かったのに、……っ」
顔を見られたくなくて、背中を丸めて額を誠の膝にくっ付ける。
誠は黙ったまま、私の背中を大きな手で撫でてくれた。
目を開けたら見知らぬ天井があった。
「ここ……」
誠の部屋だ。私はいつの間にか床に敷かれた布団に寝ていた。
「誠?」
上半身を起こして、周りを見回しても段ボールばかりで誠の姿はない。私は立ち上がって、青色のカーテンを開けた。雨は止んでいて、朝の光が柔らかく差し込んでくる。窓からは穏やかに流れている川が見えた。川沿いをランニングしている人の姿もある。
その時、ガチャリとドアが開く音がした。
「あ、花緒ちゃん。起きた?」
どうやら誠は外に出ていたようだ。
「いま、何時?」
この部屋には時計がない。誠はスマホを見て、六時と答えた。
「はい。朝ご飯と濡れていた服洗濯して来たから」
ビニール袋と紙袋を見せてくる誠。
「ごめん、誠。お金払うよ。それから、寝た?」
朝からバタバタとしていただろう誠の顔色は悪い。たぶん、寝ていないのだろう。布団は私が占領していたし。
「これぐらいいいよ。ファミレスで多くもらっちゃったし。まぁ、寝るのは無理だったけど、一日ぐらい平気だよ。さ、顔洗って来なよ。朝ご飯食べよう」
「うん」
顔を洗うと、私と誠はまた段ボールをテーブル代わりに食卓を囲んだ。誠が選んで買って来たパンはどれも甘いものばかりだった。
「ね、誠。私、一人で帰れるよ」
私と誠は横に並んで歩いていた。通勤する人もまだいなくて、たまに犬の散歩をするひととすれ違う。
「駄目だよ。花緒ちゃんは僕の希望なんだから。目を離さないようにしないと」
「……それ、本気だったんだ」
「本気も本気だよ」
私は少し気恥ずかしい。抱えていたことを全部吐露したことも、誠の前で子供みたいに泣いたことも、特別に思われていることも。
私たちは橋の上を通りかかる。私はふと足を止めた。
「花緒ちゃん?」
ちょうど、私が欄干の上に登った所だ。あの暗い夜とは違い、空は白く、川も光を反射している。
「もう飛び込もうなんて思わないよ」
「うん」
「莉沙……。私がまた進んでいくと、置いていかないでって言うかな」
「きっと言わないよ。彼女はもう、……天使になっちゃったんだから。きっと花緒ちゃんのこと見守っている」
「そっか」
私は笑って誠の顔を見る。
「でも、誠。天使、天使って。ちょっと頭の中お花畑すぎない?」
「えっ! そんなことないよ!」
「莉沙だって聞いていたら笑うと思う」
「そうかなー。可愛いって言ってくれると思うけど」
私たちは笑い合い、橋を後にした。
私の家は誠の家から歩いて十五分ほどで着いた。
「意外と、近かったね。これなら、すぐに、……あ。誠、引っ越すんだったよね」
いまさら思い出したが、誠はこの町からいなくなってしまう人間だ。それを知った時はどうとも思わなかったけれど、今では少し寂しく感じる。
「でも私、スマホまた買うから。だから、連絡先」
「花緒!」
声の方を向くと、お母さんが玄関から出てきた所だった。
「ただいま……」
私は目をそらす。こっそり家に入るつもりだったのに、見つかってしまった。
「こんな時間まで、どこで遊んでいたの!?」
お母さんは喚き散らしながら近づいてくる。
「別に遊んでいたわけじゃ」
「電話も全然通じないし! そちらの方は?」
誠を睨むお母さん。きっと誤解されている。
「この人は」
「すみません。こんな時間までお嬢さんをお借りしてしまって。僕は井上誠と言います。花緒さんは、僕に付き合ってくれたんです。怒らないであげてください」
誠は丁寧に腰を折って、お母さんに頭を下げた。
「違う。誠が私に付き合ってくれたの」
「どうした。朝からそんな所で近所迷惑だぞ」
声に気づいたのか、お父さんまで玄関から出てきてしまう。誠を見て、驚いた表情をしたけれど、すぐに落ち着いた声で言う。
「そんな所にいないで、うちに上がりなさい。花緒、それと君も」
「いえ、僕はここで失礼します。それじゃ花緒ちゃん、ありがとうね」
「あ……」
誠は軽く手を上げて、去っていく。お礼を言うべきなのは、私の方なのに。
「とにかく入りなさい」
お父さんはそう言って、背中を向ける。私とお母さんはそれに続いた。
「見た目は悪い人じゃなさそうだけど、こんな時間まで連れまわすなんて非常識だわ。花緒、あの人にはもう会ってはだめよ」
お母さんが頭を押さえながら言う。確かに普通に考えたらもう会うなというのが、普通の親なのだろう。
だけど、私は誠に今すぐにでも会いに行きたかった。会ってまだまだ話がしたかった。さすがにさっきの今なので、そんなこと出来ないけれど。これまで何か月もまともな会話をしてこなかった私には考えられないことだった。
「あ。ねぇ、お母さん」
私はお母さんの後ろ姿に声をかけた。私から声をかけるなんてこと、それこそ一年ぶりで、お母さんは少し驚いた表情をしている。
「あの、ね。この髪を切って欲しいんだけど……」
私は自分の長い髪をいじりながらお願いした。お母さんは目を見開いて、私の顔を見つめる。そして、潤んだ目を細めて言う。
「仕事道具。どこにあったかしら」
お母さんの美容師時代のハサミなどは、大事に引き出しにしまわれていた。居間を占領して、即席の美容室を作る。被っているのは穴をあけたゴミ袋だ。
ジョキッと大胆にハサミが入る音がする。重かった髪が軽くなっていくのを感じた。
莉沙のこと、忘れるために切るわけじゃない。金色の髪があってもなくても、私はずっと莉沙のこと覚えているから。
「母さん、飯は?」
弟の真也が顔を出した。私と目が合うと、理解に苦しむといった表情をする。
「真也。ごはんとお味噌汁があるから、自分で注いで食べて」
「分かった。……いいんじゃない、そっちの方が」
真也はそう言い残して去っていった。私とお母さんは、最初何のことか分からなかったけれど、すぐにクスクスと笑い声を漏らす。
「うん。出来上がり」
散髪は三十分ほどで終わった。手に持った鏡を見ると、肩に当たるぐらいの黒髪の私がいる。
「やっぱり腕がなまっているわ。次は美容院に行ってね」
お母さんはハサミやクシをしまいながら言う。私はありがとうと言って、新聞紙の上に散らばった髪を集めた。掃除をしながら考える。
誠に見せに行きたい。
でも、その前にスマホを買い直さないといけない。誠が引っ越してしまう前に、連絡先を交換しないと。
私は部屋で少し休んでから着替えて出かけた。
携帯ショップに入って、スマホを紛失したことを伝えた。名前や電話番号を伝えると、簡単に新しいスマホがもらえた。料金は通信料から差し引くらしい。
仕事も探さないといけない。仕事のことも誠に相談しよう。歩きながら、さすがに迷惑かなと思う。
でも、気恥ずかしいけれど、私は誠の希望だ。少しでも前に進んでいることを見せれば、誠も嬉しいと思う。何より髪を切った姿を見せれば、安心するだろう。
私は誠のマンションに行って、呼び鈴を押す。だけど、誠は出てこない。
場所を間違えたかなと思って、周りを見回すけれど、確かにここだ。もしかしたら、引っ越しの手続きとかでバタバタしているのかもしれない。
ちょっとドアノブを引っ張ると、簡単に開いた。
「誠、いるー?」
顔をのぞかせる。人の気配はない。不用心だなと思いながら、靴を脱いで中に入った。
「え……」
私は持っていた携帯ショップの袋をその場に落とした。
「なんで……」
朝まで積みあがっていた段ボールは、どこにも無く、空っぽの部屋があるだけだった。
誠は言っていた。
『見ての通り、僕はそのうちいなくなる人間なんだ。だから、ぬいぐるみにでも話すと思ってさ。何でも話して』
ははと私の口から軽い笑い声がもれる。
「そっか。こうなるって分かっていたから、話させたのか。希望なんて、恥ずかしいことまで言っちゃってさ。最初からずっと関わり合うつもりなんてなかったんだ。いや、でも、いいやつじゃん」
一日限りの付き合い。それでも、私にとって大事な一日になった。ずっと誰にも言えなかったことを言えた。
「うん。うん。いいやつだった」
私は自分に言い聞かせる。ちょっとだけ涙が出てきた。
恨み言を言えるような立場じゃない。繋がっていたいなんて言える立場でもない。誠はただ一日すれ違って、私に優しくしてくれた人だ。
「ありがとう、誠」
私は届かない独り言を言いながら、橋を渡った。
家に帰ると、お母さんにちょっとと言われて居間に呼ばれた。ソファにはお父さんが座っている。
「花緒、座りなさい」
私は大人しくお父さんの横に座った。
「髪を切ったんだな」
「うん」
「それで、前々から言おうと思っていたんだが、これを見なさい」
お父さんは冊子を数冊渡してくる。
「これ……。美容学校のパンフレット?」
「そうだ。秋から入学できる学校もある。どうだ? 花緒、もう一度、始めてみないか?」
私はパンフレットを固く握りしめる。行きたいと同時に、思うことがあった。
「でも、私……、ずっと人と話していなくて」
美容師は接客業だ。それもかなり人とコミュニケーションを取らないといけない。ずっと黙り込んで生活していた私に出来るだろうか。
「少しずつ慣れて行けばいいのよ。美容師になるには、二年は学校で学ばないといけないし、春に入学してもいいんだし。そうよね、お父さん」
お母さんの言葉にお父さんもああと言って、頷いた。私はパンフレットで顔を覆い隠す。
「私、行きたい。行かせてください」
莉沙、誠。私、前に進むよ。
その日の夕方、パンフレットを眺めていると部屋をノックする音がした。
「はい」
入ってきたのはお母さんだ。
「花緒、これ郵便受けに入っていたんだけど」
そう言って手渡してきたのは、白い封筒だった。大きな字で花緒ちゃんへと書かれている。切手がないので直接投函したのだろう。私は黙って受け取った。
「これ、今朝の人からよね。どんな人なの?」
お母さんが言った通り、裏を見たら井上誠と書かれている。
「……分からない。昨日会ったばかりだったから。私に髪を切れって言って、私の話を聞いてくれたの」
「そう」
「でも、もう引っ越しちゃったから会えない」
本当はちゃんとお礼が言いたかった。髪を切った姿を見せたかった。
「追い返して悪いことしちゃったわね。でも、その手紙に行先とか書いてあるんじゃない?」
そう言って、お母さんは部屋を出て行く。
私は期待しながら、ハサミで手紙の封を切った。
『花緒ちゃんへ
突然、手紙なんて気持ち悪いって思うよね。だけど、直接会うと後ろ髪を引かれそうだから、これだけを残していきます。
花緒ちゃんと別れた後、僕はすぐに引っ越しました。今日が元々引っ越しの予定日だったから。荷物の行先は僕の実家です。同じ県内で、そう離れていない場所です』
私はここまで読んで、なんだ同じ県内ならすぐに会いに行けると思った。
『だけど、僕は実家には住みません。これも予定していたことだけど、すぐに病院に入院することになっているのです。ひと月前、僕は病院で身体をむしばむ病気のことを知らされました。手術の成功率は七十パーセント。意外と多いと思ったでしょ。
でも、僕は残りの三十パーセントのことばかりが頭の中を支配していた。僕は鬱々として、会社を辞めて、入院の準備をしていた。不安に押しつぶされそうだった』
私は夢中で一枚目の手紙をめくって、二枚目を読む。
『そんな時に君に出会った。僕は不安で夜も眠れなくて、散歩をしていた。そしたら橋の上に金色の羽が生えた天使がいたんだ。
最初、僕を迎えに来たんだって思った。
だけど、違ったね。花緒ちゃんはちゃんと人間で、僕と同じように不安で町をさ迷っていたんだ。話を聞けば聞くほど僕なんかじゃ、どうにもできないと思ったよ。
でも、同時に僕でも何か出来ると思ったんだ。君を、少しでも助けることが出来れば、パッとしない人生だったけど、最後に輝けるんじゃないかって。
利用したみたいだよね。花緒ちゃん、怒っている?』
怒っているよ。当たり前じゃん。
『僕の希望になって、なんて。結局、僕が得するほうになっちゃったね。
でも、あの時はそう言うのが一番いいと思ったんだ。僕は、これから入院して闘病生活が始まる。僕にもどれくらい辛いかは分からない。もう甘いものも食べられないしね。
だけどね。あの暗闇だけを見つめていた花緒ちゃんが生きているって思うだけで、なんだか元気が出る気がするんだ。僕の希望があるから僕はがんばれる。また重いものを背負わせるようで、ごめんね。
僕の病気が治ったら会いに行くよ。でも、それはいつになるか分からない。
だから君は、好きなことをして、好きな人を見つけて、幸せになって、いつか可愛いおばあちゃんになるんだ。厳しいことを言うおばあちゃんは苦手だから、孫に愛される優しいおばあちゃんになるんだよ。
それだけで、僕はがんばれる。希望をありがとう、花緒ちゃん』
連絡先はどこにも書いていなかった。
――一年半後。
私はあの橋から、薄桃色に染まった川岸を眺めている。今年も桜が満開だ。
あの後、私は美容学校に入学して、美容師になるべく勉強していた。つまり今は専門学校生だ。一緒に学ぶ仲間も出来て、アルバイトもして、日々忙しく過ごしている。
高校の同級生とは、たまに会うことがある。莉沙の話はあまりすることはないけれど、皆ちゃんと莉沙のことを覚えているし、莉沙のことが好きだった。
ねぇ、誠。会いに来てよ。
私を見て、ちゃんと誠の希望になれているか、教えてよ。でも、きっと誠は生きているだけで、いいって言うんだろうな。誠は私のこと希望だって言ったけど、誠も私の希望だよ。誠がどこかで頑張っているって思うから、私も頑張れる。
だから、誠。会いに来てよ。天使になんて、なっていないよね?
そろそろバイトの時間だ。私は歩き出す。
「花緒ちゃん」
後ろから誰かが私を呼んだ。
優しい声に、誰だかすぐに分かってしまった。
了

