「園田さん、これ資料室に持って行ってくれない?申し訳ないんだけど、次の授業の準備があってどうしても手が離せないの」
「この地図ですか?おそらく資料室2に運ぶんですよね、わかりました。持っていきますね」
「ありがとう!さすが生徒会長ね〜本っ当に!頼りになるんだから!」
先生、いつもは一人で資料室まで運んでいますよね。
手が離せない、なんて、ただ即興でくっつけた潔く資料室に行ってもらうための口実ですよね。
そんな本心は一切感じさせない綺麗な笑みを貼り付けて、私はおばさん先生からの好感と信頼を保った。
…ああ、キツい。
成績優秀。スポーツ万能。そして、頼れる生徒会長。
それらの三つの要素が、私を形成している。
その重さに気づき、蓄積されるようになったのは、親友の紡が亡くなってからだ。
私の心をじんわりと蝕む、その三つの凶器。けれど、その肩書きを外せないまま、今に至っている。
「あ、結楽先輩!荷物運んでるんですか?お手伝いしましょうか?」
生徒会の後輩の子が、私に話しかけてきた。
「ありがとう。でも、今は大丈夫かな」
「本当ですか?…じゃあ、私行きますね。失礼します!」
気づいた頃には、後輩の子はすでに私の前から姿を消していた。
廊下には、まだ笑顔が張り付いたままの私が一人。
そして、冷たい空気に予鈴が鳴り響く。
「うわぁ、やばい」
私は階段を駆け下りて、資料室に向かおうとした。
しかし、階段には、「水」が見えた。
…よりによって、こんなときに。
私は、息を止めてゆっくりと、「水」の中へ入っていく。「水」があるのは踊り場までだ。ほんの少し。
歪む景色と青くなる太陽が、私をふわりと包み込む。
とたんに息ができるようになり、ガッと苦しみから解放された。
「水」があった場所を見てみれば、もう元通り。
普段と変わらない階段がある。階段も私も、どこも濡れていない。
先ほどの出来事が現実であることを感じさせるのは、私の呼吸だけだった。
紡が亡くなってから起こるようになった、不可解な現象。
なぜかもう、慣れてしまった。
私は資料室まで駆け足で移動し、地図を片付けてから急いで教室に戻った。
「すみません、資料室に物を運んでいて遅れました」
整っていない呼吸の中、私は先生にそう伝える。
「…わかりました。次は遅れないようにねー」
はい、と言って、汗をかいたまま席に座る。
どうせ他の先生が頼んだんだろ、結楽ちゃん絶対いいように使われてんじゃん。
私をかばうようにして、様々な言葉が飛び交う。ざわめきが生まれる。
「いいのいいの、気にしないで。大丈夫だから。授業しよう」
私がみんなにそう言うと、女子が、本当に?と言わんばかりの困惑した顔を見せて、教室が静かになった。
もう私には、それが重みにしかならなかった。
帰宅途中、私は紡のことばかり考えていた。
先ほどまで行っていた生徒会の打ち合わせ。
紡が座っていた生徒会長の席には小さな花が添えられ、副会長だった私がそこへ座るようになった。
紡がいると、生徒会は明るくて、とても賑やかだった。
今は、しんとした部室が目立っている。
紡さえいればなぁ…。
道を渡ろうとしたとき、「水」が見えた。
赤信号なのはわかるが、いまいち向こう側がはっきりと見えない。
…ねぇ、これ、紡がしてるの?
紡が亡くなってから、これが見えるようになったんだよ。
私に、来てほしいの?そっち側に。
「私も、行きたいよ」
「水」があるところを渡ったら、どうなるんだろう。
私は、赤信号だけれど、「水」の中に入った。
音が聞こえにくくなる。息が苦しい。このまま息ができなくなりそうなくらい、苦しい。
「…ぃ」
汗が出てくる。足に力が入らなくなってくる気がする。
「…ぃ!」
紡がやってるの?この「水」って、紡が何かしてるの?何がしたいの?
「…ぉい!」
何かの音が聞こえる。
誰かの、声?
「危ねーって!!!」
私は、勢い良く息を吸った。息が、吸えた。
強い力で引っ張られたのと同時に、私のすぐそばで、車が急ブレーキをかけた音が聞こえた。
何が、起きた?
「お前何やってんだよ…園田…」
よろけた私をキャッチして、一気に力が抜けたような声で、その男の子は言った。
紫色に染めてある髪の毛が、派手に輝いた。
「あ…上地くん…?」
その男の子は、クラスメイトの上地くんだった。
「そうだよ、上地羽勇。わかる?」
「うん…わ、私…」
「いいよ、無理に喋んなくて。ちょっと待ってて」
上地くんは、急ブレーキをかけた車の方へ走っていき、何か話をしていた。
私はどうしても頭が回らず、その場に座り込んでしまったまま、動くことができなかった。
私、何してたの…?
「大丈夫かよ。怪我してない?」
上地くんはしばらくしてこちらに戻ってきて、私の前にしゃがんだ。
私は自分がしてしまったことに恐怖を覚え、体がカタカタと震えているのを感じた。
「怪我は、ない」
「はー、まじでよかった…」
上地くんが下を向くと、紫色の髪の毛がふわっと動いた。優しい香りがした。
「車運転してた人、危ないから気をつけろだって。今回はそれだけで済んでるけど、これまじで警察沙汰になる」
…確かにそうだ。
でもあまり記憶がなくて、どんな風に自分が道を渡っていたのか、全くわからない。
「なんかあった?生徒会長が急にこんなことしねーだろ、普通」
上地くんは私を心配そうに見つめてくれている。
冷え切った手を握って、私は、
「…ううん、大丈夫。ごめんね、っていうかありがとう。今のことは忘れてください」
と、貼り付けた笑顔で言った。
「いや、今笑うとこじゃないから」
上地くんは、スパッと、私の笑顔を裁つようにそう言った。
私、なんでこんなところで笑顔になろうって思ったんだろう。
ふと、そう冷静になった。
「俺がこのままじゃ気持ち悪い。話せる範囲でいいから、話聞かせて」
上地くんはそう言って、私の手を引っ張ってどこかへ向かっていった。
着いた場所は、自動販売機だった。
「なんか飲むか。園田は何飲みたい?奢る」
上地くんがピッとボタンを押し、私の方へ視線を向けた。
「いや、そんな大丈夫だって…」
私は上地くんに何もしていないし、むしろ助けてもらった側なのだから、奢られるのは申し訳ない。
しかし、上地くんはサイダーを手に持って、
「奢るって言ってんだから、そこは素直に奢られていいんだよ」
と、感情が読み取れない顔つきで言った。
そうです、ごもっともです…。
「じ、じゃあいちごオレで!」
やっぱり申し訳ない、と思いつつも、私は上地くんにそう言った。
そして、さびれたベンチに腰掛けた上地くんは、園田も座ってと言ってくれた。
「よりによって一番高いやつ選びやがって」
「え!?それは、ごめんなさい!交換する!?」
私は上地くんを怒らせたかと思い、あたふたとしていた。
上地くん、怒ったらなんか怖そうなんだよなぁ…。耳にいっぱいピアスついてるし…。
ただ、実際の上地くんは全然そんなことなくて。
ふはっ、と、優しく笑った。
夏休みが明けて少し経ったけれど、まだ暑さは変わらない。
空はパステルカラーで、入道雲がもくもくと一人で成長している。
「園田、ようやく戻った」
「え?戻った?」
うん、と、上地くんはサイダーを一口飲んで続けた。
「山端が死んでから、お前おかしかったよ」
「紡が死んでから…?」
蝉の鳴き声は学校が始まると止み、代わりに太陽が自分の力を惜しみなく振り絞るようになった。
「うん。…笑ってない感じ」
やっぱり、笑顔。
私は、紡がいなくなってから、なかなか笑えないようになった。
それは当然のことで、今笑顔なのも不自然なのはわかっている。
けれど、そんな冷静な考えを忘れ、ただ口角を上げる動作をするように「笑顔」を貼り付ける作業を、私は一日何回しているのだろう。
「…あ!今日塾!」
私は突然、今日塾があることを思い出した。
「ごめん、私帰らなきゃ!」
「いや、おい!結局俺何も教えられてねーって!」
「本当ごめん!飲み物もありがとう、今度お返しするね!」
私はバックを手に持ち、上地くんとお別れしようと思った。しかし上地くんは、
「今日のことは、誰にも言わないでおく。だから、明日またここで、今度こそお前が話せ」
と言ってくれた。
「ありがとう、色々ごめんね…!また明日!」
私は急いで家に帰った。
最後、上地くんが何か言いかけていた気がするけれど、また話すときに聞けばいいと思った。
明日を楽しみに帰宅するのは、紡が亡くなってから、久しぶりだった。
「…せっかくなら、学校で待ってればよかった」
私は昨日上地くんが言ってくれた通り、自動販売機に向かった。
けれどもう上地くんはベンチに座っていて、そんな言葉を言われてしまった。
「遅くなってごめん…」
「で、なんで昨日はあんなことしたの?」
上地くんは早速その話をしてほしいようだった。いつも上地くんは、色々な事の近道を辿ろうとする。
私は戸惑ったが、しっかり話そうと思った。
真剣な眼差しからは、本気で私の話を聞いてくれようとしてくれている様子が感じられた。
「あのね、私、紡が死んでから、『水』が見えるようになったの」
「水」は、空間に、立体として見える。
形は直方体や立方体で、気づけば色々なところに浮かんでいて、誰にも見えていないと思う。
ただ、私がその「水」の中を通り抜けると、「水」はいつの間にか無くなっている。
そう説明すると、上地くんは不思議そうな顔をして尋ねた。
「それ、お前が見てる幻覚か何かじゃない?」
率直に浮かんだのは、なぜ?という疑問。幻覚?
「昨日、お前自分で自分の首元押さえてた。何もない所で」
「え…?」
それは、自分で首を絞めようとしていたということだろうか。
黙り込んでしまう私に、上地くんはズバズバと、私に良くも悪くも刺さる言葉を発する。
「死にたいの?」
その言葉の後、上地くんの話し声は途切れた。
死にたい?私が?
私は、死というたったの一文字に震えた。
暑いのに指先が冷たくなってきて、思わず手をぎゅっと握った。
私が、そんなことを思っているわけがない。
紡は私が生きることを応援してくれている。だから、そんなわけない。
私自身が私のことをわかっていないなんて、そんなはずは。
「ごめん、俺が悪い」
気がつくと、上地くんは私に向かってそんなことを言っていた。
「俺が心配しすぎた。先走りしすぎた。…余計なこと考えさせて、ごめん」
上地くんも私と同じように手を握っていた。
「俺も園田と同じようなときがあったの思い出して、勝手に怖くなった」
上地くんの声はいつもより弱々しく、目線も合わせてくれなかった。
思い出したくないような何かが、あるのかな。
「上地くんも、何かあったの…?」
私がそう尋ねても、上地くんは首を横に振って、
「いや、いい。今話さなくていいことだから気にしないで」
と言うだけだった。
しかし、私の頭には瞬間的に、紡のお葬式のときの上地くんがフラッシュバックしてきていた。
□
今から何か月か前の、紡のお葬式。
遺影には、笑顔の紡がこちらに手を振っているようだった。
私は紡に手を合わせた後、式場の大きな窓の外にある水たまりを、理由もなく見つめていた。
中学校から共に過ごしてきた、ライバルでもあり大親友でもあった紡が死んだ。
その事実をどう受け止めればよいのかわからず、ただ一人になるしかなかった。
水面には青空が映っていて、それが揺れては、私の目の表面の水もこぼれ落ちていた。
「園田」
遠くにあったはずのクラスメイト達の声が一つ、こちらへ飛んできた。
その声は上地くんで、あまり話したことのなかった、紫色の髪の毛の男の子だった。
けれど、窓に映る上地くんの髪の色は、黒色だった。
「山端、自殺なんだな」
私は返事をすることができなかった。
だから、どうせ上地くんもつまらなくなって早くその場からいなくなるだろうと思っていた。
「同い年の人の葬式に出るの、久しぶりだった」
しかし上地くんは、顔色を変えず、淡々と話していた。
「なんで、急にいなくなったんだろうな」
私のそばに立っている上地くんの手には、何かが握られていた。
「園田がいたのに、なんでそんなことしたのかな」
私はそのとき、今までより遥かに速い速度で、目に水が溜まっていくのを感じた。
「悔しいよな」
その言葉が、私のずっと我慢していた感情の鍵を開けた。
私は大きな声をあげて泣いた。
紡がいなくなって初めて、ぼろぼろになるまで泣いた。
そう。上地くん、そうなんだよ。
私、悔しい。
なんでいなくなっちゃったんだろう。
なんで私に相談してくれなかったんだろう。
なんで私が気づけなかったんだろう。
なんでそんなことしようと思ったんだろう。
なんで、…。
その「なんで」に、もう紡は答えてくれない。
いくら願っても、戻ってくることはない。
どんなに大きな声で空に叫んでも、紡には届かない。
できないことしかない。
それでも、そんな私のそばに、上地くんはいてくれた。
ありがとうも何も言えなかったけれど、もう今なら言える。
上地くんも、もし誰かを失ったことがあるならば。
私たちは似た者同士だ。
お葬式の帰り道、紡のお母さんから言われた
「今はまだ伝えられないけど、紡の言葉は残っているから、この子のことを忘れないでもう少し待っていてほしいな」
という言葉を考えていた。
私はまだ、それを待っている。
いつか紡の声が聞けるかもしれない。お母さんが言ったのだから、きっと。
そのときは、上地くんにも、それを聞いてほしいと思った。
■
「…私、まだいまいち自分をわかってなくて」
「うん」
紡と会うならば、私もそちら側に行くしかないと思う。
それを私は『水』を見ることで無意識にしているのだろうか。
だからといって、やはり、私には自ら命を絶つことはできなかった。
「どうすればいいのかなぁって…」
私はうずくまった。
地面からの熱気を感じ、冷えた指先にはじんじんとあたたかな血液が循環していた。
「じゃあ、待ってやるよ」
突然響いた上地くんの声が、生ぬるい風に滑る。
「青になるまで、待ってやる。また赤信号で渡られたら怖いから、青信号になるまで一緒に待つよ」
私は顔を上げた。
そこには初めて上地くんの笑顔が見えていて、夕焼けの薄い紫の空に髪が溶けていた。
上地くんが、笑った。
「私が『水』に入りそうになったら、助けてくれるの…?」
「助けられるかはわからないけど、同じことがないように見守っててやる」
そんな風に言ってくれる人だなんて、思っていなかった。
もっとあっさりしていて、みんなの話題になんかに引っかからない、強い一匹狼だと思っていた。
けれど、上地くんもそんな風に笑ってくれるんだね。
「ありがとうね、上地くん」
「ん」
返事は短いけれど、どうでもいいように感じてなんかいないことが、上地くんだとよくわかるのだ。
私はベンチを撫でてから、上地くんって少し紡と似ているな、と思った。
上地くんが一緒に青信号になるまで待つようになって、もう一か月がたとうとしていた頃。
あたりはようやく遠くに秋が見えてきて、時折涼しい風が吹くようになった。
紡がいなくなった生徒会も少しずつではあるが賑わいを取り戻してきており、前よりは充実した生活を送れていた。
そんな今日も、上地くんは私が学校から出てくるのを待ち、一緒に信号が青になるまで待ってくれるという。
「上地くん、毎日疲れない?私を待ってる間、暇じゃない?」
「別に。スマホ見てるし大丈夫」
そんな会話が続くのは駅までで、お互い違う電車に乗るため、そこでお別れとなってしまう。
紡がいたときは一緒に下校する日もあったが、こうやってクラスメイトの男子と下校するのはあまりなかったので新鮮だった。
電車に乗ってからは、自分の好きな音楽をイヤホンで聴く。
大体四、五曲聴いてイヤホンを外し、降りる駅をすぎないようにするのだが、紡がいなくなってからは、そのイヤホンを外してからがつまらなかった。
ただ、その日の会話を思い出していると、いつの間にか、最寄りの駅に着いている。
上地くんと話していると、無言の合間さえも心地いい。
気を遣いすぎず、無理に笑顔を貼り付けなくていい時間。
その中で生まれる普通の笑顔が、私にとって、本当に宝物だった。
上地くんが笑ってくれた日は、もっとそう思った。
電車を降りてバスに乗り帰宅すると、急いで夜ご飯を食べ、塾へと向かった。
今日は普段の授業に加えて、学校で夏休み明けに行ったテストの確認も兼ねた面談がある。
面談は十分程度で終わるようなので、塾に着くと、早速面談室に連れていかれた。
「園田さん、この前のテストより点数下がってるね」
いすに座るや否や、早速そんなことを言われてしまった。
おじさん講師さんには、笑顔を貼り付けなければ。
「そうかぁ、でも一応順位は変わらず一位ねぇ…」
おじさん講師は私の個票を見定めるように、自分の顎をさすりながら悩ましく唸っては首をかしげていた。
「数学が落ちちゃって、他はまぁいいとしてぇ…。数学、得意だったはずでしょうに」
「はい。なのでそこまで力を入れて勉強したわけではなかったためだと思います」
「そうかぁ。じゃあ、あれはどうしたの、あのー、ほら」
おじさん講師が何かを思い出し、私に伝えようとした。
「ライバルがいるみたいに言ってたじゃない、前。あの子はどうしたの?」
紡。
紡のことだ。
私が一、二位を行き来しているのはなぜかと訊かれたときに、ライバルがいると言ったのだ。
私の笑顔は、思わず崩れ落ちてしまった。
「…死にました」
「ん?なんだって?」
「…その子、亡くなりました」
私は俯いてそう言うと、おじさん講師は何冗談言ってるのと笑い、軽く流した。
そうして、次もそのライバルに勝てと捨て台詞を吐かれ、面談室を後にされた。
信じられなかった。
人の命を冗談にするなんて、一体どういうことなのか。
その後の授業中も、そのことが頭によぎってはシャーペンの芯を折ってしまっていた。
翌日、ずっと昨日のことが頭を徘徊していて、私の心にはまた、からまった黒い糸が渦を巻いていた。
「結楽ちゃん、これ提出期限って今日までだっけ」
クラスメイトの女の子に話しかけられても、自然と笑顔は貼り付けられていて、
「いや、明日までだと思うよ。だからまだ大丈夫」
と、一見何の変哲もないそんな会話さえも、何気なくできなくなってしまった。
そんな日はいつもより格段に多く「水」が見える。
珍しく教室内にも見えて、私はその「水」の多さに驚いていた。
「園田、大丈夫?」
席について本を読んでいると、上地くんが話しかけてきた。
学校で話すことはあまりなかったので、私は少し返事に困ってしまった。
「えっと、うん」
そう反射的に言うと、上地くんは、絶対大丈夫じゃないだろ、と言って私から本を取り上げた。
「あっ、まだしおり挟んでなかったのに…!」
「一回ちゃんと話聞け」
上地くんはただ本を取り上げたのではなく、しっかり私が見ていたページに指を挟んでくれていた。
そういうところからも、上地くんの優しさがほんわりと伝わってくる。
「俺には、今日ずっと園田がおかしく見える。それしか言えないけど、自暴自棄になって『水』に入ったりすんな」
上地くんはそれだけ言って、私に本を戻してくれた。
それはきっと、私が「水」に入らないようにするための警告だと思う。
けれど、こんな曇った天気に、所々「水」があったら、私は。
「自暴自棄…」
返事ができないまま、上地くんはもう元の場所へ戻っていた。
こんな日に、自分が「水」に入らないとは、保証できなかった。
保証できない何かが、一日中、私の中を走り回っているから。
上地くんはこんな日に限って用事があったようで、一緒に信号を待つことはできないと言われた。
久しぶりの一人の下校と、この厚い灰色の曇に、私は憂鬱を纏っていた。
紡のことをどうしても考えてしまって、別のことを考えようとすると余計に、紡が脳内に色濃く滲む。
やがて、私が赤信号で渡ってしまった信号に着いた。
そこに「水」はあった。
なんとなく、そんな予感はしていた。
信号は赤信号。車の通りは少なく、今なら渡っても全然大丈夫に見えてしまう。
一歩、私の足が前へ出た。
…私の体が、「水」に入ろうとしている。
駄目だ。私は上地くんに言われた。自暴自棄になるなと。
でも。
…でも。
そっちに、紡はいるんだよね。
私もずっと、もう一度会いたいって思ってる。
紡も、私と話したいのかな。
たった一人のライバルだよ。そっち行けば、また一緒に、高みを目指して競えるよね。
また一緒に、過ごせるんだよね。
「それでも、駄目…」
もう一歩、一歩、私の体は「水」に近づいていく。
駄目と言っているのに、体は動く。
足の指先が、ひたりと水についたとき。
『結楽』
と、声が聞こえた。
私の体は止まった。
『僕は、こっちに来てほしくなんかないよ』
誰の声だろう。冷え切っていた体に血が巡り、体温を取り戻していく感覚がする。
『一瞬の黒に溺れるな。負けるな、結楽』
思い出せない。誰なんだっけ。
『生きててほしい』
金縛りから解かれたような感覚に襲われて、その声が紡だとわかった。
それと同時に、今すぐ横断歩道からどかなければならないという恐怖感が支配する。
足は固まり、動かない。
どうしよう、紡。
上地くん。
どうしよう。
「やっぱり、もう無理だよ!!」
気付くと私はそう叫んでいた。
涙も、ぼろぼろとこぼれていた。
「青い!!」
誰かに、ドン、と強く背中を押され、私は前のめりに倒れこんだ。
「痛っ…」
そう言ってとっさに立ち上がろうとすると、それを妨げるように、誰かに肩を鷲掴みにされた。
その手には強い力がこもっていた。
上地くんだった。
「自暴自棄に…なるなって…言ったのに…」
激しい息切れで途切れ途切れになる上地くんの言葉は、なんだか胸が締め付けられるようだった。
青い、と言って私を突き飛ばしたのは、もう信号が青に変わっていたからだろう。
つい先ほどまで私が立っていた横断歩道は、車の下に静かに横たわっていただけだった。
まるで何事もなかったかのように、上地くんと私以外、全てがいつも通りだった。
「…俺の話、してもいい?急になんだよって思っていい。でも聞いてほしい」
上地くんが自ら自分の話をすると言い出したのは、初めてだった。
上地くんは何も話せない私を支えながら歩き、人目のつかない路地裏に私を座らせてくれた。
「俺、中学生のとき、付き合ってたやつがいたんだけどさ」
「…うん」
小さな声がようやく出て、上地くんは安堵した表情を見せた。
「でも、そいつ死んだんだ」
「…え?」
どこか寂しげな、それでも柔らかな笑みの上地くんは、そんな言葉を口にした。
「交通事故。完全に車が悪い方のな」
その一言で、上地くんが好きだった人の死因が思い浮かんでしまった。
上地くんは高校進学のときにちょうど引っ越してきたそうで、私たちがそれを知らないのは当たり前のことだと言った。
「山端みたいに、あいつも急にいなくなって。…今でも受け入れられてないんだよ、俺」
受け入れられない気持ち、すごくよくわかるよ。
「しかも、園田。お前、あいつにすげー似てるんだよ」
「私が、その人に…?」
うん、と、上地くんは変わらない表情のまま、いつもより優しく相槌をうつ。
「それで、あいつの事故もニュースになった。でも、お前らがわかんないのは当たり前。そんなの何万とあるだろうから」
ニュースで報道されるものの中には、毎日命に関することが必ず混じっている。
しかし、私たちはいつ何時もそれと向き合っているわけではない。
「それでも、やっぱり忘れてほしくないよな。…身内しか覚えてなくたって、誰かが死ぬまで、あいつのこと覚えててほしいって思うよ。やっぱり」
私だって、そう思う。
ずっと、紡のことを覚えていたい、覚えていてほしいと思っている。
「それが、俺の仕事だと思ってるんだけどさ」
そうだね、それが私たちに残された役目。
私は頷きながら話を聞いていたが、上地くんの表情はそのままだった。
しかし今、上地くんの目が夕陽に照らされて、うっすらと涙の膜が張っているのがわかった。
上地くんが瞬きをすると、とうとう、茜色の涙が宝石のようにひとしずく、静かに地面に落下した。
アスファルトに染みた宝石が、じんわりと広がり、やがて停止する。
その時間は、とても長く感じた。
そして、再び上地くんが言葉を紡ぐと。
「園田見ると、どうしてもあいつが思い浮かぶんだよなぁ…」
宝石が銀河を駆けていくように、ぽろぽろと、涙は輝きを増して落ちていった。
それは私も同じで、知らぬ間に、目頭は熱く、視界は潤いと輝きに満ち溢れていた。
「後悔しかない。でも、園田」
上地くんは、微笑みながら、泣きながら、まっすぐ私のほうを見る。
「…俺たちがここからいなくなっちゃ、駄目だろ」
今すぐほろりと消えてしまいそうな儚げな笑顔で、上地くんは言った。
そうだ。私たちは、想いの形は違うけれど、大好きな人のそばにいた人。
誰に向ける笑顔よりも優しくて、大好きな笑顔をたくさん見せてくれた人に、寄り添ってもらった人。
「…ほんとだね」
私はまだ出づらい声を振り絞って、聞こえるように、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
それから、記憶と想いを、繋ぐ。
「私たちがいなくなっちゃ、駄目だ」
今、紡が優しく、大好きな笑顔を見せてくれた気がした。
黄昏時。
君に出会えてよかったと、心から思う。