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 夏凜(かりん)が、青い流星に身体を撃ち抜かれた。
 比喩ではない。本当にその言葉通りだ。
 夏凜は、青い流星に脳を貫かれて、徐々にだが、僕のことを忘れていくことになる。より正確に言うと、僕のことだけを忘れていくことになる。
 多くの人にとっては、軽く同情する程度の話かもしれない。
 でも、僕にとっては、生涯忘れることのできない、二人だけの特別なエピソードだ。



       1



 あの日、僕と夏凜は、二人の自宅近くにある小高い丘で雑談をしていた。
 僕たちは高校の制服を着たまま、帰宅する前にその丘に立ち寄ることが多かった。
 僕たちのその光景は、瞬きの間にも流れていく、忙しない世界に比べたら取るに足らないものかもしれない。でも、僕はその時間を何よりも大切にしていた――つもりだった。
そのとき、僕と夏凜は、久しく話題にしていなかった幼い頃のことを話していた。僕たちは、ほぼ同じ時期にいま住んでいる場所に引っ越してきた。夏凜の母親である秋穂さんは、赤の他人に話しかけることに、物怖じしないし、ニュートラルな性格の女性だった。
 秋穂さんは二家族が同時期に引っ越してきたという理由で、お祝いパーティーをしようと提案して、その後もことあるごとに、イベントを提案して、二家族は瞬く間に家族ぐるみの付き合いをするようになった。
僕の家族と夏凜の家族の交流が始まって、六年の月日が流れた。
「ねえ、(けい)? 覚えてる?」
「うん? なにを?」
 僕は眉を上げてそう言った。
「慧が、私に初めて会ったときに言ってくれた言葉だよ」
「うーん、覚えてるような、覚えていないような……」
「そっか……慧はね、『僕のことずっと忘れないでね』って言ったんだよ」
「そんなこと言ったかなあ」
「うん。間違いなく言った。私の記憶の奥に大切にしまってあるから」
 夏凜は少し照れ臭そうにしてそう言った。
「夏凜がそう言うなら、そのときの僕はそう言ったんだろうね」
 実のところ僕は、はっきり覚えていた。ただ、小学生の頃とはいえ、初対面の異性に対して、そんなセリフを言ったことが気恥ずかしく曖昧に濁したのだ。
 僕の父親が転勤の多い仕事をしていたせいもあり、僕は夏凜と出会う小学六年生のときには、すでに四回ほど引っ越しを経験していた。引っ越すたびに築いてきた人間関係がリセットされる。他人と接することが苦手だった僕にとっては、一から人間関係を築くことは、精神的に負担がかかったし、億劫なことでもあった。
「私は、いつでも慧の味方だからね。だから、何かあったら……ううん、何もなくてもいい。ほんの些細なことでもいいから、私には話して。私は慧の言ったことは、ほとんど覚えてるよ」
「うん……ありがとう」
 しばらくのあいだ、風が森の木々の葉を揺らす音と野鳥の鳴き声だけが響いていた。
「私……この森のにおいも、きっと忘れないと思う」
 夏凜は誰に言うわけでもなく独り言のように言ったのかもしれないが、僕の耳にはしっかり届いていた。
「夏凜……僕ね……」
「うん? どうしたの?」
「やっぱり、いいや。いまは言わない。ごめん。僕から言い出したのに……」
「わかったわ。慧が言いたいときでいいのよ。そのときまで、私は待ってるから」
 夏凜がそう言って、僕に優しく微笑みかけた後、生温い風が丘全体を駆け抜けていった。季節はまだ肌寒さの残る三月だというのに、真夏の風のような気怠さを纏っていて、その風は、どこからか不穏な気配を連れてきたように感じた。
「なんか、嫌な感じね……」
 夏凜は眉をひそめてそう言った。
 風がどこかへ連れていったのか、空には見渡す限り雲がひとつもなくなっていた。
三月の夕方なのに、空は真夜中のように真っ黒に姿を変えた。
「夏凜……なんだか変だよ。早く帰ろう」
「そうね……少し、怖くなってきた」
 夏凜が何かに対して、怖い、という言葉を使ったのは初めてのような気がした。
 僕は胸騒ぎがした。これ以上、ここにいるとよくないとこが起きるような気がする。
「いこう」
「うん……」
 夏凜が立ち上がろうとしたとき、空がまた変化した。突如として、無数の星が現れたのだ。月明かりだけでは心細かった辺り一面が、一気に明るくなった。
 僕の鼓動が加速度を上げていく。
「夏凜!」
 僕は彼女の名前を今までに出したことのないような大きな声で呼んだ。
 夏凜は世界の変化についていけずに呆然としていたのか、僕の呼び声にすぐには反応しなかった。
「夏凜‼」
 僕は再び彼女の名前をさきほどよりも力を込めて呼んだ。
 ようやく、我に返ったのか、夏凜はおぼろげな視線で僕を見返した。
「ねえ、慧……空、きれいだね」
「なに言ってんだよ。早く家に帰らないと」
 僕は夏凜の腕を掴んで、強引にこの場所から離れようとした。
 夏凜の小柄で華奢な体のどこにそんな力があったのかはわからなかったが、僕がどれだけ夏凜の腕を引っ張っても彼女の体はビクともしない。
「もう少し、慧とここにいたいな」
 夏凜がそう言ったのを合図にしたかのように、空から無数の星が降ってきた。
細い雨が降りしきるように、星が降ってきたのだ。
僕はいよいよ、身の危険を感じた。
夏凜は相変わらず、恍惚とした表情をして、その光景を見ている。
とにかく夏凜を守らないと。
僕はその一心で、普段なら絶対にしないような行動に出た。夏凜を抱きしめたのだ。
「慧?」
「夏凜は僕が守るから」
 僕のその言葉で我に返ったのか、夏凜は元の夏凜に戻った。
「慧! えっ、えっ……どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ」
「早くここから離れないと。家に帰るよ」
「う、うん……でも、私はもう少しこのままでもいいけどね。慧がこんなに積極的になったなんて。慧が抱きしめてくれるなら、私、怖いものなんてない」
「そんなこと言ってる場合じゃない」
「わかりましたよー」
「いくよ」
「はーい」
 夏凜は恐怖を逸らすためにおどけたふりをしていたのかもしれない。
 僕は夏凜の腕を掴んで走り出した。触れてみて初めて気づいた。彼女の腕の細さに。
 こんなときに不謹慎だとは思ったが、心は正直なのだ。
「夏凜、大丈夫? もう少しゆっくり走ろうか?」
「大丈夫だよ。このぐらいなら」
「もう少しだ。夏凜。がんばって!」
「うん」
 丘の入り口がようやく見えてきた。
 僕はこの丘はこんなに広かっただろうか、とふと思った。
「慧!」
「どうした?」
「あれ、見て!」
「あれって?」
「あの、青い星。星なのかな……」
 夏凜がそう言ったモノは、明らかに僕たちに向かって飛来していた。
「こっちに向かってきてる!」
 それはすごいスピードで僕たちに向かってきていた。
 あんなモノに衝突されたら――確実に、死んでしまう。
 時間がない。
 僕はそれの軌道から夏凜を逸らすために、彼女を突き飛ばそうとした。
「慧。今までありがとう」
 そう考えていたのは夏凜も同じだったようだ。
 突き飛ばされたのは、僕の方だった。
「夏凜‼」
 僕が彼女の名前を叫ぶと、夏凜は今までにみせたことのないような表情をしていた。
 夏凜が何かを口にした。
 でも、聞き取れなかった。
 夏凜が青い星と呼んだそれは、瞬く間に、彼女の脳を貫いていった。
 僕は思わず目を閉じてしまった。
 鼓動が収まらない。夏凜はどうなった。
 僕は恐る恐る重たい瞼を持ち上げた。
 夏凜はすぐそばで地面に仰向けになって倒れている。
「夏凜……? 夏凜!」
 僕は彼女の名前を呼びながら、夏凜の様子を窺った。
 見る限りでは外傷はないように感じた。でも、倒れたときに頭を打っているかもしれない。
 僕は救急車を呼ぼうと思って、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
 スマートフォンを持つ手が震えている。震える指で番号をタップしようとした。
「大丈夫だよ。慧」
「夏凜?」
「あれは、当たらなかったの?」
「うん、そうみたい……あんなのが当たってたら、私の頭はなくなってるよ」
「でも、倒れたときに頭を打ってる」
「うーん、頭も特に痛くはないよ」
「病院には行こう。僕もついていくから」
「うん……わかった。慧を不安にさせたくないし」
「とりあえず、いったん帰って、着替えてから病院に行こう」
「えー、今日、病院に行かないとダメ?」
「ダメ!」
「わかりましたー。そういえば、今日って、何かの日だった?」
 夏凜は細い首を傾げてそう言った。本当に今日が何の日か分からないという風に。
 今日は、僕と夏凜が初めて会った日だった――。