あ、チョコレートはどうなったっけ。トラックの下敷きになってしまったんだろうか。
 紡木は、手作りのバレンタインチョコを入れた紙袋を思い出した。友成にあげようと思って、作ったものだ。師匠にチョコレートをあげるなんておこがましいにもほどがあるが、好きな人に自分の腕が少しでも上がったことを見せたい気持ちもあった。
 形に残るものをあげても、既婚者の友成には迷惑なだけだろうというのも大きかった。
 友成には迷惑を掛けないように。それが友成と会う時の紡木なりのルールだった。

「ごめんな。紡木には我慢ばっかさせてるよな。俺なんかと付き合ってるばかりに」
「そんなこと言わないで下さい。俺が自分で決めて好きになったんですから。友成さんとこうやって会えてるだけで、俺幸せですから」

 人目を偲んで逢瀬を重ねる日々。だれにも言えない関係だけど、たしかに幸せを感じていた。そう、俺は幸せだ。紡木はふと友成との会話に思いを巡らせた。友成さんにチョコレートを渡したあとはフレンチレストランで食事をして、それから……。予定はすべて狂った。

 カランコロン。
 ふいに店のドアが開き、紡木ははっと思考を中断させた。ついいつもの調子で、
「いらっしゃいませ」
 と客を出迎える言葉が口をついて出る。

 白い光の向こうから現れたのは、スーツ姿の若い男だった。
「あのぉ、ここ、ケーキ屋……ですよね」
 180センチはあろうか、ドアと同じくらいの身長を丸め、おそるおそる店内を覗き込む男は、地味なスーツの割には年若いように見えた。首から何やらネームストラップのようなものを付けていて、それをスーツの中ポケットにしまっている。
 紡木は答えに詰まった。たしかにうちはケーキ屋、洋菓子を売る店だ。だが今紡木自身も戸惑っている最中で、在庫がいくつあるかなんて調べてすらいない。買い出しにも行けていない。今日は何も作れない。
「そうなんですけど……」
 言葉を濁した紡木を、男の言葉が追いかける。
「モンブランってありますか?」
 モンブランはもちろん得意だ。紡木のパティスリーでも一番の売れ筋だ。けれど材料がなければ今日の分は作れない。この世界で、何をどうすればいいのだ。
「……すみません。普段はあるんですけど、今日はその、作ってなくて……」
「なんだ……ないのか。じゃいいです、すいませんでした」

 え、なにその言い方。
 紡木は思わずむっとして男を見た。男は紡木を気にする素振りもなく、ぶつぶつと「やっぱここもだめか……」とつぶやきながら、とってつけたようにお辞儀をしてドアを閉めた。

 パタン。
 店に残された紡木に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「何だぁ? あいつ。失礼だな」
 パティスリーとして、お客様にお出し出来るものがないのは申し訳ないとしか言いようがない。だが、こっちにも都合ってもんがあるんだ。恋人と会うはずの日にトラック事故に巻き込まれたかと思ったら、一面真っ白けの世界にわけも分からず連れて来られた方の身にもなれ!

 ここがどこなのか未だに分からないが、自分の得意とするお菓子が作れないことで人から文句を言われるのは癪だ。
 体の底から何だかエネルギーが湧いてきた。