「片倉さん……でしたっけ。もし生きていた頃と同じ仕事をしたいと思ったら」
「それなら就労相談課ですね」
「なるほど……」
「……え、もしかして牧瀬さん、ケーキ屋を開いてくれるんですか?」
「考えてみてからですけどね」
「ぜひやって下さい! もし牧瀬さんの店が開店してくれたら、俺一番に買いに行きます! 毎日行きます!」
「だから、考えてからですって」
「あ、そうでしたね」
片倉のモンブラン食べたさが言動の端々で感じられる。これほどまでに紡木の洋菓子を食べたいと言ってくれる人を見て、嬉しくないはずはなかった。
「厨房に戻って、在庫とかいろいろ見てみないと分からないので。その、色が戻るってのも理解しておきたいし」
「そうですよね。行きつけの店とか思い入れのあるものとかも、早めに色が戻ってくると思います」
「そうですか」
「ぜひ前向きにご検討下さい!」
再び深々とお辞儀をされて、紡木は冷や汗をかきながら霊界庁をあとにした。
あの片倉という男、モンブランへの思いが半端なさすぎる。けれど、悪くない気持ちだった。紡木の足取りは、来た時より軽くなった。
なるほど、色が戻っている。足りないものを買う時によく使っていた八百屋を中心に、商店街が生きていた世界と同じ風景を取り戻していた。なかほどまで歩けば、紡木のパティスリーが視界に入った。
俺の店だ。何にも変わらない。
ふいに、紡木の胸に深々とした気持ちが込み上げてきた。死んだことを恨む気持ちは正直言ってある。なんで死ななければいけなかったんだ、そんな風に思う。けれど、死んだこと以上に自分の大好きな洋菓子を作れないことのほうが辛いのだ、とあらためて感じた。
もし、この世界でも自分の好きな洋菓子が作れるのなら。紡木の足は自然と早くなる。死んだ時と同じ状態なら、材料の在庫は把握している。仕入先については、就労相談課に相談してみよう。今までの仕入先と同じというわけにはいかないが、一から探してみるのも、店を始めた時と同じみたいで楽しいじゃないか。
紡木は店のドアを開けると、大急ぎで厨房に入った。気持ちが急いている。今までと変わらない紡木の職場。どこに何があるかは目を閉じていても分かる。
冷蔵庫、保管庫を覗く。うん、次の発注をするまでの分はある。
「大丈夫そうだ」
思わずひとりごとが漏れた。作ってみよう。紡木はロッカーに掛けてあるユニフォームを身に着けた。気持ちがしゃんと引き締まる。
「いっちょやってみるか」
何から作ってみようか。──モンブラン。紡木の頭に真っ先に浮かんだのは、片倉の一生懸命な表情だった。
紡木の作るモンブランには特徴がある。メレンゲを土台にした生クリームの上に、マロンペーストを山型に絞る。大きさは小ぶり。口溶けが良くて、甘すぎず食べやすいと評判だった。
「出来た」
死んだくらいじゃ腕は落ちない。紡木は満足した気持ちで、仕上がったモンブランを見つめた。
今日のところは、これ以上洋菓子を作る予定はない。出来上がったふたつのモンブランのうち、ひとつは自分用、もうひとつは片倉に食べてもらうつもりで作った。
「片倉さん、来るかな」
考えておくと言っただけだから、今日はもう来ないか。ふと厨房のデジタル時計を見ると二月十五日の十九時を回ったところだった。霊界にも時間という概念はあるのだろう。
友成との待ち合わせは二月十四日の十九時だった。死んでから丸一日経ったということになる。
長いような短いようなよく分からない一日だった。友成は今どうしているだろう。紡木の死を悲しんでくれているだろうか。
未練。友成への思いは未練以外の何物でもない。未練を断ち切ることなんて出来ない。つまり紡木はずっとここに住み続けることになるだろう。
これからの長い年月を思って、紡木は声を上げそうになる自分の喉を手で押さえた。生きていた時は、たとえ報われない恋だとしても、逢瀬の時間さえあれば充分だった。けれど、この霊界に友成はいない。恋人に会えないまま日々を過ごすのは過酷だ。
思い入れのあるものにも色が戻る──片倉の言葉を思い出し、二階に上る。友成と写した写真にも色が戻っていた。
「良かった」
貝殻の写真立てをそっと手に取れば、修行時代のこと、友成と付き合い始めた日のこと、デートやスイーツ巡りをした日のことが脳裏に蘇る。
──本当に好きだったと思う。
師匠としても、恋人としても、友成に惚れていた。洋菓子界の重鎮のお嬢さんと結婚した時も、
「俺の心はずっと紡木だけだよ」
と言われて、心底喜びを感じたものだ。もともと同性同士の恋愛だ、他人に見せびらかすものでもないし、紡木はこの立ち位置で良いと納得していた。
少し困ったように笑う友成の顔と、スマホの自撮り画角を気にして変顔になっている自分。ふたりの時間は、写真立ての中と同じように永遠に止まってしまったのだ。
カランコロン。
階下から来客を告げる音が聞こえ、紡木ははっと我に返った。特にクローズにもしていないから、またさっきのように客が来てしまったか。
慌てて階段を降りてみると、今日一日で目に馴染んだ体躯の青年が、恐縮したように立っていた。
「何度もすいません。そのぉ……、ケーキ屋をどうされるか気になってしまって」
少し猫背ぎみに頭を掻く片倉の姿は、塞いだ気持ちになった紡木を和ませてくれるようだ。
「いいところへ来てくれました。店のこと、前向きに考えてみたいと思います」
「マジっすか!? ありがとうございます!!」
片倉の表情がぱっと明るくなった。ふてくされたり謝ったり走ったり笑ったり忙しい男だ。紡木は片倉に釣られて思わず笑ってしまう。
「そうだ、明日霊界庁の就労相談課に行こうと思って、その時に片倉さんいたら声掛けようと思ったんですけど、ちょうど良かった。試しにひとつモンブラン作ってみたんで、いかがですか? っていうお誘いなんですけど」
「え、うそ、モンブラン作ってくれたんですか?」
「何だかとてもモンブランお好きそうだったんで」
「好きです。大好物です。気になってた店のモンブランが食えなくてそれが未練になってるくらいですから」
「それは筋金入りですね」
片倉のモンブランに対する思いがそこまでとは思わなかった。生きていた頃の未練が残ると言えば、人生の一部に相当するような大きな出来事だというのに。
「お金ちゃんと払いますから」「試してみただけなので、お代は要りませんよ」「そういうわけには」
押し問答が続いて、じゃあお言葉に甘えます、と片倉は頭を下げた。
立ち話もなんですからと、バックヤードを兼ねている小さな事務室に片倉を通す。紡木やスタッフが休憩をしたり、業者と打ち合わせをしたりする場所だ。
事務室の椅子は、片倉には小さいようで申し訳ない。こんな健康そうな若者が早くに霊界へ来るなんてどんな事情があったのだろう。紡木は気になった。
「片倉さんはどういう経緯でこの霊界に?」
紡木の問いかけに、片倉は持っていた鞄を足元へ置きながら答えた。
「市役所の仕事を終えて、モンブランが人気だと雑誌に載っていたケーキ屋……パティスリーって言うんですね。パティスリーへ行く途中でバイクで事故っちゃったんです。通行人を避けようとして」
「それでモンブランに未練があるわけですか」
「そうなんです。口溶けが良くて、いくらでも食べられるモンブランなんて言われたら、気になって未練も残るじゃないですか」
そこまで思われたらモンブランも本望だろう。紡木は冷蔵庫にしまっておいたふたつのモンブランを取り出して、事務室のテーブルに置いた。
「そのモンブランに適うか分かりませんが、作ってみました。口に合うと良いんですけど」
うわ! 片倉の目が輝いてモンブランを見つめる。
「霊界へ来て一年、美味しいモンブランに出会うのが夢でした……いただきます」
モンブランの三角錐の山にフォークが入り、丁寧にすくい取られる。フォークを持つ片倉の長い指が少し節ばっていて、綺麗だなとつい見とれた。
「この形……雑誌で見たのと同じだ……」
呟きながら片倉はそっとモンブランを口に入れた。目を閉じて口の中のクリームを味わう姿に、紡木の胸はドキドキする。緊張している。
「……美味い……本当に美味い!」
目を開けてフォークを置くと、片倉は紡木の手を両手で包みこんで強く握った。突然のスキンシップに、紡木の胸が再び跳ねる。
「牧瀬さん! これです! 俺が食べたかったのはこのモンブランだ。ふんわい軽い生クリーム、栗の味がしっかり味わえるマロンペースト、土台のメレンゲは雪のように溶けていく。これです!」
「本当ですか? それなら嬉しいんですけど。……あのぉ、手をそろそろ」
「あっすいません。つい力がこもっちゃって」
慌てて片倉が、握っていた紡木の手を離し、恥ずかしそうに笑った。紡木も何だか気恥ずかしくなってしまう。
何を言えば分からなくなって、黙って自分の分のモンブランを口に運んだ。束の間、モンブランを味わうだけの時間が過ぎていく。
片倉はにこにこと幸せそうにモンブランを完食した。早い。
「飲み物入れますね。何がいいですか、コーヒー? 紅茶?」
「じゃあコーヒーを」
「分かりました」
厨房でお湯を沸かしてコーヒーを淹れながら、紡木は自分の心が満たされているのに気づいた。だれかの喜ぶ顔のために作る洋菓子。それが今の紡木にとってどれだけ大きいものか実感する。俺にはまだ洋菓子があると思わせてくれる。
片倉の未練にもなるくらいのモンブラン、本当に片倉は満足なのだろうか。
「片倉さんが食べたかったのは、本当にうちのモンブランなのかな」
コーヒーを差し出しながら聞くと、片倉は手を顎にあてて何かを思い出すような仕草をした。
「えっと、雑誌にはジョエとかジョなんとかって書いてありました。地図さえ頭に入っていればなんとかなるかなって」
「ジョなんとか」
思わずぷっと吹き出す。紡木のパティスリーの店名は petit joie だ。ジョなんとかで合っている。
「うちに来る途中の出来事だったんですね」
「一年前、自分の二十六の誕生日を祝おうと思って買いに行こうとしたんです」
「事故がなかったら、店で会えたかもしれないんですね」
「そうですね。皮肉なことに、霊界でお会いすることになりましたけどね」
本当だ。お互いに事故がなくて死ぬこともなかったら、生きている世界でモンブランを楽しんだだろう。片倉が常連になって、モンブランをちょくちょく買いに来てくれる未来図が浮かぶ。
しんどい時もあるけれど、洋菓子を作っている時は本当に楽しい。お客さんに喜んでもらえると、ああこの道に入って良かったなぁと思うのだ。
けれど、霊界に来てしまった自分にそういう未来はもうない。そんなことを思ってまた意気消沈しかけた紡木に、片倉の声が降ってきた。
「牧瀬さん、この店を霊界で一番のパティスリーにしませんか?」
「片倉さん……?」
「俺、牧瀬さんのモンブランを食べて思いました。ここへ来て不安な人、落ち込んでいる人、そんな人たちを元気づけるケーキだって。霊界にもたくさん人はいます。宣伝を打ってみんなに来てもらえればきっと流行ると思うんです。俺もできる限りお手伝いします。やりませんか? パティスリー」
片倉に最後の一押しをされて、紡木の心は決まった。どうせ霊界にとどまるのなら楽しんでやろう。紡木は自然と頷いていた。
「やります。片倉さんにそう言ってもらえて心が決まりました」
やった! 上を向いてガッツポーズを取る片倉の様子があまりにも正直過ぎて笑ってしまう。紡木の感情も解放されていくのが分かる。片倉といると、塞いだ気持ちが明るくなるみたいだ。
「明日、就労相談課で待ってます」
「はい、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
片倉の差し出した手が紡木を待っていた。紡木がその手を握ると、ぎゅっと力強い無言の返事とともに、なんとかなると思えるあたたかい微笑みが返ってきた。
「パティスリー専門の卸業者は残念ながらヒットしませんね……」
「そうですか……」
翌日、就労相談課に仕入先のマッチングを依頼しに来た紡木は、早くも困難に直面してしまった。案内してくれた片倉と顔を見合わせる。
「少し遠いところとか、範囲を広げてもだめですか?」
「霊界庁の権限が及ぶのは日本国内に限るんです」
たしかにピンポイントで製菓材料の業者を探すのは難しいとは思う。霊界でエンカウントできるタイミングはそうそうないだろう。
「一旦出直して来ます」
「お役に立てずすみません。パティスリーの開店許可はすぐに降りますので、手続きしておきます」
頭を下げて、就労相談課をあとにする。片倉が紡木のあとを追ってきた。
「牧瀬さん、お役に立てずすみません!」
「いいえ、片倉さんのせいじゃないですよ。当然のことながら俺の考えが甘かった。そう簡単に仕入先は見つからないです」
生きていた時は、友成の取引している仕入先を紹介してもらったものだ。思えばいろいろと恵まれていた。大口の顧客だって何箇所か友成から回してもらったのだから。
「俺は独立したつもりでいたけど、全然そうじゃなかったんだなぁ……」
「牧瀬さん?」
「あ、こっちの話です。このくらいで諦めるわけにいかないので、店に帰ってあれこれ考えてみます」
紡木の言葉に、片倉が立ち止まって何か思案し始めた。何を考えているんだろう。紡木も一緒になって立ち止まる。
「牧瀬さん、パティスリー開店の宣伝とかチラシ配りとか、今やれることは何でもやっておきたいんで、今日店へ行ってもいいですか」
「へ?」
突然の片倉の申し出に、紡木は面食らった。一緒になってパティスリーのことを考えてくれただけでも心強いのに、そこまでしてもらうのは申し訳ない。
「俺、実はずっと甘いもの好きってことを隠してたんです。見栄えが悪いと思ってたんですよね。男ひとりでケーキを食べに行くなんて大きな声じゃ言えないなんて思ってました。すいません、こんなの牧瀬さんに告白することじゃないんですけど」
「片倉さん……」
「モンブランを買うのもいつも人のいない時にこっそり買ったりして。だけど、牧瀬さんのモンブランを雑誌で見た時に、店を探してまで買いに行きたいと思ったんです、はじめて。その時の気持ちは今も忘れられません。未練に残るくらい牧瀬さんのモンブランが食べたかったんだなぁって」
空を見上げながら爽やかに語る片倉の横顔は、懐かしそうにも切なそうにも見えて、片倉もまた意図せずして霊界に来てしまった人間なのだと、紡木はあらためて感じた。
「霊界に来て、こうやって牧瀬さんと出会えて、夢にまで見たモンブランを食べさせてもらった以上、俺も何かお返しがしたいです。牧瀬さんの手伝いをさせて下さい」
片倉の意志の強いまなざしが紡木の心を射抜いた。パティスリーの手伝いをしたいと言っているだけなのに、何か別の思いにすり替えてしまいそうな自分に驚く。俺は片倉に対して何を思ったのか。
……いや、今は寄り道をしている場合ではない。片倉の申し出は、ひとりで霊界に来て途方に暮れていた自分にとってとても心強い。仕入先を探すのと並行して、パティスリーの開店に向けて準備を進めていける。
パティスリー・プティジョア。小さな喜びという意味のフランス語だ。霊界に来た人にも小さな喜びを見出してほしい。紡木が片倉のおかげで元気が出たように、みんなにも元気を出してほしい。
「片倉さん、じゃあお願い出来ますか?」
「ぜひ! 今夜お伺いしますね」
紡木が在庫している材料でいくつか試作を作っていると、片倉が霊界庁の仕事を終えて店にやって来た。
「霊界庁が発行しているフリーペーパーで、店の宣伝をさせてもらえることになりました」
「え、すごい。さっそくありがとうございます」
「俺、文章考えますね。牧瀬さん、いくつか質問に答えてもらえますか」
片倉は背負っていたリュックから小さなノートパソコンを取り出してセッティングした。
店名の由来、コンセプト、どういう商品が人気か、営業日などを片倉に聞かれるままに答えていく。霊界庁では慣れない仕事に四苦八苦しているようだが、こういった人に寄り添うような仕事は元来得意のようだ。生きていた時も、市役所で重宝されていたのだろうと推察される。
「ありがとうございました。まとめて文章にしたら、いっぺん牧瀬さんに見てもらいますね」
「こちらこそありがとうございます」
「あ、ケーキ、出来たんですか?」
「ええ、今日はガトーショコラ、スフレチーズケーキとシュークリームを。来店者数が読めないので、数は少なめにして売りきれそうな分だけ。フルーツを使ったケーキが作れないのは痛いな。あと卵や小麦粉なんかも数日で在庫が切れそうですね」
「やっぱり仕入先がネックか……」
ふと、片倉が持ってきたフリーペーパーが目に入り、何気なくめくってみた。本当にこれが霊界なのかというくらい、いろんな情報が載っている。図書館や公園などの公共施設だけでなく、カフェや飲食店、個人商店なんかもある。みんな生きていた頃と同じ仕事をしたいと思っているのか。
パラパラと読み進めるにつれて、紡木の住んでいる町からは遠いところの情報に切り替わる。キャンプ場、河川敷、農場に農園。
「これだ!」
思わず紡木は大きな声を出した。
「どうしました、牧瀬さん」
「卸業者にこだわらなくても、農家さんに直接交渉すればいいんだ。すっかり頭が固くなっていたなぁ」
「なるほど、卵は養鶏場、フルーツは農園。考えてみればそうですよね」
「だけどこの地図を見る限り、だいぶ距離がありそうですけどね」
「そこは任せて下さい。霊界庁の職員は車を持っているので、休みの日に仕入れに行けますよ」
「そこまで片倉さんにお願いするわけには。貴重な休日を潰してしまいますし」
「何言ってるんですか。この店が霊界一のパティスリーになるなら、それくらい朝飯前ですよ」
なるほど、この線で調べてみればヒットしそうだな。片倉がノートパソコンで検索をかける。
「米農家さんが兼業で小麦も育ててるらしいです」
「交渉してみる価値はありますね」
「いつ行きます? 俺、先方さんと連絡取って日取り決めておきますよ。今週の週末にでもいかがですか?」
「こっちはいつでも大丈夫です」
「決まりだ。うまくいくといいですね」
紡木のスマホは壊れているので、片倉が連絡を取ってくれるのはありがたい。紡木のパティスリーを開店させるぞという片倉の強い意志のおかげで、紡木はまた一歩踏み出すことが出来る。
初めて行く白いエリアを、片倉の車は安定感ある走りで駆け抜ける。週末、片倉がアポイントを取っておいてくれたいくつかの農家を車で回り、紡木は心躍る気持ちだった。
寿命で霊界にやって来ても、まだ美味しいものを作り続けたいと願っている人々に出会った。丁寧に育てられた苺、餌にこだわった卵、弾力と風味を増すために改良された小麦。いいものに出会って、この材料を自分のケーキに生かしたい。そんな風に強く思えた出会いだった。
繋いでくれたのは片倉だ。感謝してもしきれない。
「片倉さんのおかげです。本当にありがとうございます」
「何言ってるんですか。牧瀬さんのやる気が出会いを引き寄せたんですよ」
帰り道はほんのりと色づいていた。紡木の記憶に上書きされたからだ。信号待ちをする片倉の横顔を紡木はちらりと見やる。
片倉と一緒に過ごしている時間が、どんどん記憶に残っていくのが嬉しい。片倉の存在が、紡木の中で大きくなっていくのを感じていた。
片倉が好きだ──。
就労相談課から、パティスリーの開店許可が降りたと片倉が言いに来たのは数日後のことだった。
取引に応じてくれた農家とも契約を交わし、無事に店を切り盛りすることが出来る。来週のオープンに向けてやる気が湧いてくる。
「今週のフリーペーパーにパティスリー・プティジョアが載ります。チラシは霊界庁でコピーしてきますね」
「ありがとうございます。何から何まで片倉さんのおかげです」
「……あ、いえ、全然、俺何にもしてませんよ。電話したくらいで」
「そんなことないです、片倉さんがいなかったら何も踏み出せなかった」
「……少しでもお役に立てたんなら良かったです」
あれ? おかしい。片倉の表情が冴えない。紡木の心はざわついた。いつも一途で真っ直ぐ前を見ている片倉がうつむきがちでいることに、紡木は違和感を覚えた。
「片倉さん、どうしました?」
「え?」
「何だか今日、元気なさそうで」
「あ、あ、すいません。心配させてしまって」
「俺で良ければ話聞きますよ」
「いや、いや。うん、何でもない……いや、どうなんだろう」
ためらう様子を見せたあと、片倉が口を開いた。
「……今日、通知が来たんです」
「通知?」
「天界移籍勧告の通知です」
天界移籍。霊界庁へはじめて行った時にたしか説明を受けた。生きていた時の未練が解決出来ると、人は天界へ移籍するのだ。
「片倉さん……」
「たしかに霊界へ来た時持っていた俺の未練は解決しました。食べたかった牧瀬さんのモンブランが食べられたんですから」
片倉の言葉を受けて、紡木は返す言葉が見つからなかった。息を呑み、下を向く。
未練が解決して天界へ行けるのなら喜ばしいことじゃないか。おめでとう、と一声掛ければいい。片倉がいつまでも霊界にとどまる理由はもうない。
けれど、紡木はどうしてもその一言を声に出すことが出来なかった。
片倉が天界に移籍する。そうなれば、きっともう二度と会えない。成仏というのはそういうことだろう。
紡木の作ったモンブランを美味しそうに食べてくれた片倉。何か出来ることはないかと奔走してくれた片倉。何事にも前向きで、落ち込む紡木をいつも励ましてくれた片倉。
紡木にいつも笑いかけてくれる片倉がいなくなる。そう考えると、紡木の胸は痛んだ。
(俺はどこまでも好きな人と添い遂げられない運命なのかな)
「片倉さん、良かったじゃないですか。おめでとうございます」
何とか笑顔を作り、言葉を喉から引っ張り出した。不自然になっていなければいいが。
紡木の思いとは裏腹に、片倉の表情はまだ固い。何か気持ちを飲み込んでいるように見える。
「迷惑じゃなければ……パティスリーのオープンまでは霊界でお手伝いさせてもらってもいいでしょうか?」
片倉の提案は、意外なものだった。霊界にとどまるより、みんな早くに天界へ行きたいんじゃないのか。片倉も例外なくそうだと思っていた。
「いや、俺としては嬉しいですけど……あ、いや、その、開店準備を手伝ってくれるとありがたいですけど、片倉さんはいいんですか? 早くに天界へ移籍しなくても」
「……その、せっかく牧瀬さんと会えたのに、ここで途中離脱したくないなって。もしお邪魔じゃなかったらの話なんですけど」
「邪魔なんてとんでもない。片倉さんがいてくれたら百人力ですよ」
開店準備だけじゃない、本当に片倉にいてほしいのだ。そう言ってしまいたい自分を何とか抑える。片倉はモンブランの未練を解決出来たお礼を兼ねて、手伝うと言ってくれているのだろう。その気持ちだけでもありがたいのだ、これ以上望むものはない。
「良かった。宣伝も荷物運びも頑張るので、何でも言って下さいね」
「助かります。頼りにしてます」
片倉がいずれいなくなることは、今は考えたくない。紡木は切なくなる胸を宥めながら、片倉と握手をして笑い合った。パティスリーのオープンまで、余計なことは考えない。
翌朝、コーヒーを飲みながら、生きている時にあたためていた新作の案をパソコンに打ち出している時に、店のドアベルがカランコロンと鳴った。
「牧瀬さーん、書留です。印鑑お願いします」
え、また? 紡木はいぶかしく思いながらドアを開けた。最初に受け取った時と同じ、霊界庁からの書類封筒だ。一体今度は何の知らせだろう。
中から出てきたのは、「天界移籍勧告」。おそらく片倉が受け取ったものと同じ通知だった。
「え、なんで? 俺の未練は……」
思わず声が出る。片倉を見送ったあとも、この霊界にずっといるものだと思っていた。霊界に残る覚悟は出来ているはずなのに一体どういうことだろう。
霊界庁の五番窓口で説明を受けた時、支援対策が必要そうなら三番窓口へという言葉をもらった。自分の未練について何か情報を得られるかもしれない。
行ってみよう。自分の未練がどうなっているのか知りたい。