私が桜くんの家で過ごすようになってから、一週間が経った。
 月曜日だけ行って春休みななるという、よくわからない日程にある修了式。
「じゃあ行ってくるけど、必要になったらいつでもスマホで呼んで。そしたらすぐに帰ってくるから」
「うん。今回は大丈夫だと思う。いってらっしゃい」
 この一週間で私の心はだいぶ安定してきたから、きっと大丈夫。
「いってきます。好きなことしててね」
「うん」
 制服姿がよく似合う桜くんを見送り、私は部屋にひとり取り残された格好になる。
 まだ朝方は冷え込むので、こたつに入ってくつろぐことにした。
 来実のこと、彼女と西川くんの関係、私がいないときのクラスの様子など、学校のことを考えれば不安は尽きないけれど、私がそれを気にしてもどうしようもないから、その方向への思考はやめる。
 一度買い物に出かけて以来、桜くんはずっと外へ出ずに私と家にいてくれた。申し訳なさもあるけれど、嬉しいという気持ちの方が勝ってしまう。
 早い段階から、ご飯を作るときは桜くんに教えてもらいながら私も手伝うようになった。料理なんてほとんどしたことがなかったけれど、この数日で少しは上手になったと思いたい。
 夜はいつも、すぐ横に並んで寝る。はっきりとそうしてほしい言ったことはないけれど、私がそれを望むから、桜くんは一切嫌がらずに隣にいてくれる。一方で私の方は、望んでいるのにいつまでもそれに慣れず、距離が詰まったときなどはよく心臓が暴れる。
 だんだんと自分が桜くんに抱く淡い想いを自覚するようになってから、ますます距離を意識してしまうようになった。
 最近は、そんなふうに、以前とは別の原因で緊張してしまう。
 やることを探して家の中を見回すと、いつもは余計な物を一切置いていない桜くんの机に、一冊のノートが置いてあるのが目に入った。
 こたつから立ち上がり、近付いてそれをまじまじと見る。
 学校で使うようなノートの表紙に、『日記』というシンプルなタイトルが書かれていた。
 見ちゃいけないやつだ、と直感的に思った。
 それなのに、私の中に潜む好奇心がまた芽吹く。
 桜くんのことを、もっと知りたい。彼がどういう人で、どんなことを経験し、どんなことを考えているのか。この中にはたぶん、その全てが秘められている。
 抑えられない望月桜くんという人物への興味が、私の手を動かした。
 横書きで、一日あたり二行くらいずつ書いている。字が小さく薄めで可愛らしい。日付はとかろどころ抜けているけれど、ほぼ毎日書いているようだった。
 パッと開いたページのある一日の日記が、私の目線を吸い込んだ。

4月30日 失いたくない。絶対に止める。でも、もし止められなかったら、そのときは僕が死んでも引き止める。

 決して穏やかではないその内容を見て、息が詰まる。
 失いたくない。私も何度も思った気持ち。それを桜くんも抱えていた――?
 どういうことなのか、その答えを知るために、他の日付のものも読んでいく。
 日記とはいうものの、その日の出来事というよりは、桜くんの気持ちが主に書いてある。

5月12日 恋ってどんな感覚なんだろう。楽しそうではあるけど、怖い。
7月10日 さすがに疲れてきたかも。でも、遅くまで勉強してる人がいるんだから僕も頑張ろう。
8月17日 死んだらどうなるんだろう。なにもなくなる?大切な人と会えなくなることは確かだと思う。それは絶対に嫌だ。
9月13日 学校にもまだ知らないところがたくさんある。卒業までに見てみたい。あの空き教室は人目を避けるのに良さそう。
12月23日 焦ってきてる。でも、焦ってもどうしようもない。僕にできることはなにか、落ち着いて考えて。
3月1日 心を壊すくらいなら頑張らないでほしい。なんでこの世界は頑張ってる人が傷ついてしまうんだろう。

 もしかしたらあのときのことかな、と思い当たることもいくつかあったけれど、ほとんどは私が知らないことについて書かれているようだった。
 私がここに来てからの日付のものは、昨日のもの以外はなかった。私のせいで書く暇がないのだろうと思うと、罪悪感が膨らむ。
 昨日のところには、学校休むのもいいな、というようなことが書いてあった。
 これは、桜くんの誰にも言えない感情の居場所だ。
 桜くんだって、明るくて優しいだけじゃなくて、不安や焦燥を感じているんだ。
 でも、肝心な、なにが桜くんをそう感じさせているのか、「死」という言葉が使われるくらい追い詰めているのかはどこからも読み取れない。
 ページをパラパラとめくるうちに、人の心を漁っているような感覚になり、そっとノートを閉じた。
 桜くんが笑顔の裏に隠し続けてきた感情を、見てしまった。知りたかったはずの彼の過去と感情が、私の心を重く、暗くする。
 こんな思いをするくらいなら見なければよかったのに。せっかく今まで抑え続けてきた私の好奇心が、最悪な形で表れてしまった。
 見なかったことにするしかない。
 日記の内容を頭から必死に退けようとする。けれど、「死」という一文字は、重く、強く、頭に残り続けた。

 お昼を過ぎて、玄関のドアがガチャリと開き、桜くんがようやく姿を見せた。
「ただいま」
「おかえり」
「大丈夫だった?」
「うん。今日は、大丈夫」
 帰ってすぐに私のことを心配してくれる桜くんの優しさが、塗りすぎた薬のように痛いほど身に染みる。
 鞄を置き、すぐに部屋着に着替えてリビングに戻ってくる。制服も私服もどちらもよく似合っているなといつも思う。
 私の隣に腰を下ろし、ふぅ、と糸が切れたように息を吐いた。
「お疲れ様」
「ありがとう。学校行くとやっぱり疲れちゃう……」
 桜くんはだんだんと私がいても緩んだ姿を見せるようになっていた。最初の頃も自宅だからかややまったりしていたけれど、それ以上に。
「水瀬さんと、話してきたよ」
「……どうだった?」
「元気そうだったよ」
 来実のことだから私がいなくても元気に過ごせるとは思っていたけれど、本当にそうだと知ると安心すると同時に寂しさを覚える。
 やっぱり、私なんかがいなくても。
「でも」
 桜くんが逆接で続けたので、私は沈んだ顔を上げた。
「『沙月がいなくて寂しい』って、言ってた」
「え……」
「僕が言わせたわけじゃないよ。心からそう思ってるみたいだった」
 ゆるく微笑みながら桜くんが言葉を重ねる。
 嬉しいけれど信じ難くて、私は自分の耳を疑った。
 来実には、西川くんという彼氏がいる。だから彼女は満たされていて、私は必要ないはずだ。
 私が彼女を避けていた理由は、満たされている彼女と話したらきっと、私は来実のことを傷つけてしまうから。
 ――私が、来実のいちばんになりたかった。
 でも、恋人を越えられるはずもなくて、その劣等感は西川くんへの嫉妬と来実への不満に姿を変えた。それが外に出る前に、来実を私から守ろうと思って、私は来実と距離を置いた。
 それなのに来実は、彼氏がいても私がいないことに「寂しい」と、私にいてほしいと思ってくれるのだろうか。
「……桜くんって、来実と仲良いの?」
 彼の話を聞いてふと生じた疑問を口にした。
「そうだよ。知らなかった?」
「知らなかった……」
「水瀬さんがどう思ってるかはわからないけど、けっこう気が合うんだよね。話すようになったのは七月くらいからかな」
「七月……!?」
 そんなに早くから交流があったなんて。
 でも確かに、二人は気が合いそうだとは思う。
 桜くんも来実も、優しくて、他人想いだ。自分を抑えてまで誰かのために頑張ってしまうところも共通している。
 二人が談笑している場面は容易に想像できた。
 七月といえばまだ私の心にも余裕はあった時期だ。いかに自分のことしか考えていなかったかを思い知らされた。
「もしかして、桜くんの友達も来実と仲良かったりする?」
「うん。いちばん仲良さそうなのは優翔かな」
 それは、付き合ってるんだからそのはずだ。桜くんは西川くんから聞いてないのかな。
 桜くんがよく一緒にいる数人の男の子たちも、桜くん同様落ち着きがあるから来実とは気が合いそうだ。来実と西川くんはやはりお似合いだと思う。
「でも、来実が男の子とたくさん話すなんてすごいなぁ」
「確かに、姫野さん以外と話してるところはあんまり見なかったね」
「話したとしても、来実が一方的に話されるみたいなことが多くて。いつも一緒にいるような友達はいないみたい」
 桜くんのようなタイプのクラスメイトは今までいなかったから、来実にとっても新鮮な出会いだっただろう。
「姫野さん以外は、ね」
「……!ううん、私は、ただ自分が来実と一緒にいたかっただけで……来実は私がいなくても大丈夫だよ」
 今までは、そう思っていた。来実は強くて優しいから。
「でも、今話してて思ったけど、姫野さんは水瀬さんのこといっぱい知ってるんでしょ?それって深く関わってないとできないし、水瀬さんが姫野さんのこと信頼してる証拠だと思う」
 桜くんが真剣な口調で私に語りかける。
 来実が私のことを頼ってくれていたことは、わかっている。でも、来実は私をいちばんにはしてくれなかった。
 私では力不足だったから――違う、私が「もっと」を求めすぎてしまったから?来実から距離を置いたのは、他でもない私だ。来実が西川くんと付き合いながら私との関係を保つことだって、私の考え方次第でできたはずだ。
「それに、水瀬さんが姫野さんのことを大切に思ってることは、水瀬さんと話す中で僕にも強く伝わってきたから。姫野さんは水瀬さんにとっても、かけがえのない存在なんだよ」
 来実の気持ちを代弁するかのように桜くんが話す。来実じゃないんだから、わかるわけがないのに。でも、当事者ではない桜くんにさえ伝わるという来実の想いは本物だろう。桜くんは、大事なところで嘘はつかない。
 それで、ようやく、気付いた。
 来実を傷つけないために彼女を避けることが、彼女を苦しめてしまっていたことに。
 私だったら、来実に避けられたら耐えられない。
 私だって、来実と離れ離れになりたいわけじゃない。来実ともっと仲良くなりたかっただけで。
 桜くんがいなかったら、こんなことさえわからなかった。
「……ありがとう、桜くん」
 私のお願いを聞いてくれて。気付かせてくれて。
「何もしてないよ」
「ううん、そんなことないよ。大事なこと、伝えてくれた」
 相変わらず謙虚な態度で、穏やかな表情を浮かべる桜くん。
 でも、その裏に、悲壮な覚悟を秘めていることを、私は知ってしまった。
 やっぱり、黙っているのは良くない。そう思って口を開いた。
「あの、それとね」
「うん」
「ごめんなさい!桜くんの日記、読んじゃって……」
 自分の素が書かれた日記というものは、他人に触れてほしくないものに違いない。それなのに、好奇心に負けてそれを覗いてしまった。
「……謝らなくていいよ。姫野さんは悪いことはしてない」
 けれど、桜くんの反応は、相変わらず落ち着いたものだった。
「好きなことしててねって言ったんだから、日記見たっていいんだよ」
 その言葉に、ぽかんとして桜くんを見た。
「もしかして、見させるためだったの?」
「ううん、片付け忘れただけ。でも姫野さんになら見られてもいいとは思ってる」
「え、あの、日記の内容って……」
 どういうこと、とはっきりと尋ねるわけにもいかなくて口ごもったけれど、桜くんには伝わってしまったようだった。
「どういうことかは、遠くないうちにわかるよ」
 桜くんはそう言って、どこか悲しそうに、微笑んだ。
 私はそれ以上、なにも訊けなかった。
 「死」という一文字が、ずっと頭にこびりついていた。