重い瞼を開けると、見慣れない天井が目に入った。
ここはどこだろう。
「おはよう、姫野さん」
ふわっと桜が咲くような声がした。寝起きの耳にも心地良く響く。
そうだ、ここは彼の家。
「おはよ、桜くん……早いね」
「そうでもないよ。もう七時半だよ」
「えっ?」
ゆっくりと体を起こして時計を見ると、確かにもう、いつもなら私は学校を出ている時刻になっていた。ここは私の家よりさらに学校から離れていたはずだから、今出ても間に合わない。
「桜くん、学校は……?」
「僕はどっちでもいいけど、姫野さんは?」
「私は……行きたくない」
今日学校に行く気なんて、昨日からなかった。行ける気がしない。
桜くんに嘘をついても仕方がないと、昨日わかったから、はっきりと自分の気持ちを伝えた。
「うん、じゃあ僕も行かない」
「え……」
「その方がいいでしょ?」
「それは、そう、だけど、桜くんがいないと、みんな困るんじゃ……。桜くん、生徒会だし」
「みんなの役に立つことよりも、姫野さんに尽くす方が、僕にとっては大事だから」
さらっとそんなことを言われ、私は言葉を継げなくなる。
みんなより、私が大事?
「……な、なんで……」
かろうじてそれだけ尋ねると、桜くんは小さく笑って、
「なんとなく、かな」
たった一言だけ答えた。
嘘だ、と直感的に思った。桜くんはいつもいろいろなことを深く考えて、的確な判断をしているはずだ。そうでなければ、頭が良くて優しくて、とみんながいうようなことにはならないと思う。
それでもなにも言えずに、私はそれから桜くんに言われるがままに朝ご飯をいただいて、今日もまた服を貸してもらい、それに着替えた。
場所は違えど普段と同じような朝の流れを過ごしながら、ふと、こんなにいろいろ使わせてもらっていいのかな、と考えた。
桜くんは両親が家にいないから、金銭的にそこまで余裕があるわけではないはずだ。自分からはそういうことは言わないだろうから、私も節約するように心がけた方がいいかなと思った。
朝のやることを終わらせてリビングに戻ってきて、なんだか手持ち無沙汰な気分になった。
――暇だ。
この「暇」という状況を得るのはかなり久々だった。そのせいで、なにをしていいかわからない。
いつもは勉強ばかりしてわざと時間を削っていたけれど、それはもうこりごりだ。
この感覚は桜くんも同じだったようで、洗濯物を干し終えた後、しばらくこたつの前に体育座りでしてじっとしていた。
「……暇だね」
たっぷり沈黙を置いた後、桜くんが呟いた。
「うん……暇だね」
私も静かに答える。
時間がやけにのんびりと流れていた。
その流れに乗るように、私はゆっくりと言葉を続ける。
「考えてみれば、いつもなにかしてばっかりで、こういう時間って全然なかったんだよね」
「僕もそうだな。学校にいると常にやるべきことがあるから、なにもないとなんか物足りなくなっちゃう」
桜くんは、生徒や先生たちみんなから頼られ、生徒会のメンバーとしても活躍し、家のことも一人で頑張っている。その忙しなさは友達も少なく誰からも頼られない私には想像できない。
桜くんにだって、いや桜くんにこそ、休む時間が必要だと思う。
「こういうときくらい、ゆっくりしちゃおうよ」
「……そうだね」
私の言葉に頷き、桜くんは机に両腕を預け、大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
こんな気が抜けた感じの彼を見るのもまた新鮮だった。それだけ普段疲れているのだろう。
きっと彼も我慢をして、たくさん頑張って生きている。
だからこそ、余計に心配になってしまう。
私を置く余裕なんて、あるのかな、と。
せめて、邪魔にならないようにしたい。それを口にすれば、おそらく桜くんは「邪魔なわけないでしょ」と言うのだろうけれど。
いつの間にかうたた寝を始めた桜くんの安らかな表情と呼吸を感じながら、私もこたつに体を預けた。
昨日充分に眠れたので私は寝なかったけれど、ぼうっと桜くんのことを考えていたら、気付けばお昼時になっていた。
目を擦りながらゆっくりと桜くんが顔を上げた。
「……ごめん、寝てた」
ふわふわした声で言いながら小さく欠伸をする。無防備な表情がとても――いとおしく、思えた。
「ふふ、可愛かったよ」
「恥ずかしいからやめて」
照れ笑いを浮かべる桜くんなんて初めて見た。寝起きだからなのかわからないけれど、今の彼との間には隔たりなんてないように感じられた。
「あ、そうだ」
少しして桜くんが思い出したように声を上げる。
「ちょっと、買い物行ってこないといけなくて。ひとりにさせちゃうけど、大丈夫?」
「うん。桜くんこそ、寝起きなんだから気を付けてね」
「ありがとう。じゃあ行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
出掛ける支度を始めていた桜くんは一度ぴたっと動きを止め私を見て、笑顔で「いってきます」とはっきりと言った。
そういえば「いってらっしゃい」なんてあまり言ったことがなかった。いつも両親の方が家を出るのが早い。それにそうではない日も丁寧に送り出すなんてことをしていなかった気がする。
……本当にダメなのは、やっぱり私だ。
お母さんもお父さんも私を思ってくれていることは確かで、それなのに私はそれを素直に受け取れなくて。
両親と生活することもできていない桜くんから見たら、なんて贅沢な悩みなんだろう。家族のことは桜くんには言えない。嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないから。
両親が私を思ってくれているとわかっていても、私はそう簡単に変える気にはなれない。
ずっと重圧をかけてきたお母さんと、それを見て見ぬふりをしてきたお父さん。まだ私は、二人と一緒にいたいとは思えない。
考えれば考えるだけ苦しくなる。
それではここに来ている意味がなくなってしまう。一旦やめよう、家のことを考えるのは。
桜くんがいなくなってしまった後の部屋は、しんとしていて寂しい。桜くんだって静かだけれど、誰かがいるのといないのとでは全然違う。
その〝誰か〟がいてほしいときもあるし、いてほしくないときもある。桜くんには、いてほしい。
本当は、今ひとりになるのは怖い。
異世界にひとりきりで放り込まれたような気分になる。中三で友達がいなかったときも、こんな感情を抱いた。
もしだれか知らない人が押し入ってきたらどうしよう。
桜くんが帰ってこなかったらどうしよう。
でも、桜くんにだって自分の生活がある。だから文句は言えない。
桜くんが早く無事に帰ってきますように。
ただの買い物なのに、私は強くそう祈った。
――まだかな。
買い物にしては遅い。
私が不安になりながら待っているせいで余計に長く感じているせいでもあるとは思うけれど、それにしたって遅い。
秒針が一秒進むごとに、私の不安も募っていく。
早く帰ってきて。
桜くんまで、私をひとりにしないで……。
差し込んでくる光がオレンジ色を帯びてきたとき、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。ごめん、遅くなっ――わっ」
完全に、衝動的だった。私は、桜くんに飛びついた。
ふわっと、穏やかな匂いがした。
おかえりも言えずに、泣きそうになるのを堪えながら桜くんの服を強く掴む。
「……寂しかったの?」
春にぴったりな優しい声が私を包みこんでくれる。私は強くうなずいた。
「そうだよね。ごめんね、ひとりにして……。もう、大丈夫」
桜くんがそっと私の腕に触れた。彼の温もりが、動転していた心を落ち着かせててくれる。
しばらくそのまま桜くんにくっついていた後、冷静になってきた私は顔を上げて尋ねる。
「なに買ってきたの?」
「食料品とか必要なものと、あと、姫野さんの服」
「えっ?」
「先に言っちゃうと引き止めるでしょ?」
その通りだからなにも言えない。
バッグから数着の服を取り出し、手渡してくれた。
「姫野さんの好みに合うかわからないけど、似合いそうなの、買ってきた」
「ありがとう……!」
どれも私が普段着ているのと似たようなもので、早く着てみたいと思った。私に似合いそうなものを当ててしまうなんて、すごい。
「大事にするね」
「喜んでくれて良かった」
桜くんも嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て完全に力が抜けてしまって、私はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫!?」
「ごめん、なんか、安心して……」
まさかあんなにひとりが怖くなるなんて、自分でも思っていなかった。その分、桜くんが帰ってきてくれたときの安心感はとてつもないものだった。
「ほんとに、ごめんね。とりあえず、部屋の中入ろう」
「……うん」
桜くんが謝る必要なんて全くない。むしろ桜くんの時間を邪魔してしまう私の方が悪い。
けれど、桜くんがいてくれないと、今の私は、生きていけそうになかった。
「できるだけ家にいるようにするけど、これからも出ないといけないときはあるから……」
買ってきたミルクティーを一口飲んで、桜くんが申し訳なさそうに言った。相変わらず向かい側ではなく隣同士だ。
「ううん、桜くんの時間を奪っちゃってるのは私だから、そんなに気にしないで」
居候の身で要望とか自己主張なんてできない。今更言ってももう遅い気はするけれど、これ以上は。
「そんなふうに考えなくていいよ」
穏やかな声色で言って、桜くんが私に笑いかける。
「僕が姫野さんに時間を使いたくて、そうしてるんだよ。だから、姫野さんこそ、変に気に病まないで」
当たり前のことをしているだけ、というような口ぶりだった。
桜くんならそう言ってくれると思っていたものをさらに上回ってくる。嬉しさと同時に、それが欲しくて自責を口にしたことを否定できず、自分の卑しさに嫌気が差した。
それでも、桜くんの前では自分の気持ちを話したくなってしまう。そのことを、とめられない。
「……桜くんにも、自分の生活があるっていうのは、わかってるの。それなのに、ひとりになると寂しくて。どうすればいいのかな」
自分の気持ちを自ら誰かに委ねたことだって、今までは一度もなかった。
「寂しいって思うことは、別に悪いことじゃないんだから、それでもいいと思うよ。ただ……」
桜くんが言葉を選ぶように言いよどんだ。けれど、私を真っ直ぐに見つめて、続ける。
「……ひとりでいて、本当は寂しかったんだね」
「……!」
いつのことを言っているのかはすぐわかった。私が自ら親友を離れ、誰かのせいで推しを失ったこの三学期。
私は、ずっとひとりだった。だけどここに来るまで、寂しさなんて感じなかった。感じないようにしていた。
自分の心の悲鳴まで押し込めていたせいで、なにが苦しいのか、なんでつらいのか、それすらも、いつの間にか漠然としていて。
それが今、桜くんと過ごすことで、少しずつ整理され始めている。
「……うん」
桜くんの聞き方の上手さだけでなく、一緒にいて得られる安心感が、私の心を落ち着かせてくれるから。
「ずっと、寂しかった、本当は……」
ひとりでいることがなんで寂しかったのか、それははっきりとはまだ自分でもわからない。でも、考えてみれば、小さな寂しさくらいはずっと前から抱いていたように思う。
きっと私の根底は、いつまでも変わらないまま。
「桜くん……」
だから、そんな私が桜くんにのぞむことは。
これを言ったら桜くんを困らせてしまうとわかっていたけれど、桜くんがひたすら私に寄り添ってくれるから、止められなかった。
「ずっと、一緒にいて、ほしい」
そう言い切って、桜くんを見つめ返した私の目は潤んでいた。
桜くんがいてくれれば、私は寂しくない。
彼の綺麗な目が一瞬見開かれる。驚愕か、動揺か、困惑か。すぐにやわらかい表情が作られたせいで、どの感情なのかは読み取れなかった。
「――うん」
私を安心させるように、大きくうなずく。
「姫野さんが望むなら、僕はずっとそばにいるよ。だから、大丈夫」
込み上げてくるものをなんとか呑み込み、私は首を縦に振りながら「ありがとう」と伝えた。
「でも、一つだけお願いがあって」
「お願い?」
桜くんが誰かになにかをお願いするのを見るのは初めてだった。桜くん自身もそれに慣れていないのか、少し困ったように笑いながら私を見続ける。
「修了式の日だけは、学校行きたいと思ってるんだけど、ひとりにしても大丈夫?」
すぐには、いいよ、と答えられなかった。でも桜くんの行動を私が許可したり制限するのはおかしな話だ。無理してまで一緒にいてもらう必要は、ない。本当は、行かないでほしいけれど。それは私の都合だ。
「……うん、大丈夫。でも、私もお願いしてもいいかな?たくさん聞いてもらっちゃってるけど……」
「いいよ、言って」
私も、学校のことには一つ気がかりがある。
学校と聞いていちばんに脳裏に浮かぶ女の子。
「……来実の様子も、見てきてほしい」
「うん、もちろん。姫野さんの大切な友達だもんね」
「知ってたの?」
「見てればわかるよ」
桜くんが私や来実のことを見てくれているのは意外だった。でもそういえば、「このままだと壊れちゃうよ」と忠告してくれたことも、私が公園で泣いていたときに冷静に対応してくれたことも、私のことをよく見ていないとできないことだ。
「なんか、ストーカーみたいだね。ごめん」
「ううん、そんなことないよ!むしろ認知されてたのは嬉しい」
「そう?無意識に人のこと観察しすぎちゃってたまに引かれるけど……」
「それは、桜くんの洞察力がすごいってことだよ。私は引かないよ」
自己否定をしてほしくなくて思っていることを必死に伝えると、桜くんは目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「ふふっ、ありがとう。姫野さんこそすごいよ」
私は別にすごくない。
それに私だって桜くんのことをしばしば見ていたから、人のことは言えない。
そういえば、どうして、私は以前から桜くんのことをそれほど気にして、今ではこんなに一緒にいて楽しいのだろう。
桜くんの話し方や声、笑顔、なにもかもが魅力的で、私はそれが、とても。
そういうことなのかな、と考えると、整理がつかなかった私の桜くんに向けて抱く気持ちが、そのたった一つの気持ちにまとまっていく感覚がした。
ここはどこだろう。
「おはよう、姫野さん」
ふわっと桜が咲くような声がした。寝起きの耳にも心地良く響く。
そうだ、ここは彼の家。
「おはよ、桜くん……早いね」
「そうでもないよ。もう七時半だよ」
「えっ?」
ゆっくりと体を起こして時計を見ると、確かにもう、いつもなら私は学校を出ている時刻になっていた。ここは私の家よりさらに学校から離れていたはずだから、今出ても間に合わない。
「桜くん、学校は……?」
「僕はどっちでもいいけど、姫野さんは?」
「私は……行きたくない」
今日学校に行く気なんて、昨日からなかった。行ける気がしない。
桜くんに嘘をついても仕方がないと、昨日わかったから、はっきりと自分の気持ちを伝えた。
「うん、じゃあ僕も行かない」
「え……」
「その方がいいでしょ?」
「それは、そう、だけど、桜くんがいないと、みんな困るんじゃ……。桜くん、生徒会だし」
「みんなの役に立つことよりも、姫野さんに尽くす方が、僕にとっては大事だから」
さらっとそんなことを言われ、私は言葉を継げなくなる。
みんなより、私が大事?
「……な、なんで……」
かろうじてそれだけ尋ねると、桜くんは小さく笑って、
「なんとなく、かな」
たった一言だけ答えた。
嘘だ、と直感的に思った。桜くんはいつもいろいろなことを深く考えて、的確な判断をしているはずだ。そうでなければ、頭が良くて優しくて、とみんながいうようなことにはならないと思う。
それでもなにも言えずに、私はそれから桜くんに言われるがままに朝ご飯をいただいて、今日もまた服を貸してもらい、それに着替えた。
場所は違えど普段と同じような朝の流れを過ごしながら、ふと、こんなにいろいろ使わせてもらっていいのかな、と考えた。
桜くんは両親が家にいないから、金銭的にそこまで余裕があるわけではないはずだ。自分からはそういうことは言わないだろうから、私も節約するように心がけた方がいいかなと思った。
朝のやることを終わらせてリビングに戻ってきて、なんだか手持ち無沙汰な気分になった。
――暇だ。
この「暇」という状況を得るのはかなり久々だった。そのせいで、なにをしていいかわからない。
いつもは勉強ばかりしてわざと時間を削っていたけれど、それはもうこりごりだ。
この感覚は桜くんも同じだったようで、洗濯物を干し終えた後、しばらくこたつの前に体育座りでしてじっとしていた。
「……暇だね」
たっぷり沈黙を置いた後、桜くんが呟いた。
「うん……暇だね」
私も静かに答える。
時間がやけにのんびりと流れていた。
その流れに乗るように、私はゆっくりと言葉を続ける。
「考えてみれば、いつもなにかしてばっかりで、こういう時間って全然なかったんだよね」
「僕もそうだな。学校にいると常にやるべきことがあるから、なにもないとなんか物足りなくなっちゃう」
桜くんは、生徒や先生たちみんなから頼られ、生徒会のメンバーとしても活躍し、家のことも一人で頑張っている。その忙しなさは友達も少なく誰からも頼られない私には想像できない。
桜くんにだって、いや桜くんにこそ、休む時間が必要だと思う。
「こういうときくらい、ゆっくりしちゃおうよ」
「……そうだね」
私の言葉に頷き、桜くんは机に両腕を預け、大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
こんな気が抜けた感じの彼を見るのもまた新鮮だった。それだけ普段疲れているのだろう。
きっと彼も我慢をして、たくさん頑張って生きている。
だからこそ、余計に心配になってしまう。
私を置く余裕なんて、あるのかな、と。
せめて、邪魔にならないようにしたい。それを口にすれば、おそらく桜くんは「邪魔なわけないでしょ」と言うのだろうけれど。
いつの間にかうたた寝を始めた桜くんの安らかな表情と呼吸を感じながら、私もこたつに体を預けた。
昨日充分に眠れたので私は寝なかったけれど、ぼうっと桜くんのことを考えていたら、気付けばお昼時になっていた。
目を擦りながらゆっくりと桜くんが顔を上げた。
「……ごめん、寝てた」
ふわふわした声で言いながら小さく欠伸をする。無防備な表情がとても――いとおしく、思えた。
「ふふ、可愛かったよ」
「恥ずかしいからやめて」
照れ笑いを浮かべる桜くんなんて初めて見た。寝起きだからなのかわからないけれど、今の彼との間には隔たりなんてないように感じられた。
「あ、そうだ」
少しして桜くんが思い出したように声を上げる。
「ちょっと、買い物行ってこないといけなくて。ひとりにさせちゃうけど、大丈夫?」
「うん。桜くんこそ、寝起きなんだから気を付けてね」
「ありがとう。じゃあ行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
出掛ける支度を始めていた桜くんは一度ぴたっと動きを止め私を見て、笑顔で「いってきます」とはっきりと言った。
そういえば「いってらっしゃい」なんてあまり言ったことがなかった。いつも両親の方が家を出るのが早い。それにそうではない日も丁寧に送り出すなんてことをしていなかった気がする。
……本当にダメなのは、やっぱり私だ。
お母さんもお父さんも私を思ってくれていることは確かで、それなのに私はそれを素直に受け取れなくて。
両親と生活することもできていない桜くんから見たら、なんて贅沢な悩みなんだろう。家族のことは桜くんには言えない。嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないから。
両親が私を思ってくれているとわかっていても、私はそう簡単に変える気にはなれない。
ずっと重圧をかけてきたお母さんと、それを見て見ぬふりをしてきたお父さん。まだ私は、二人と一緒にいたいとは思えない。
考えれば考えるだけ苦しくなる。
それではここに来ている意味がなくなってしまう。一旦やめよう、家のことを考えるのは。
桜くんがいなくなってしまった後の部屋は、しんとしていて寂しい。桜くんだって静かだけれど、誰かがいるのといないのとでは全然違う。
その〝誰か〟がいてほしいときもあるし、いてほしくないときもある。桜くんには、いてほしい。
本当は、今ひとりになるのは怖い。
異世界にひとりきりで放り込まれたような気分になる。中三で友達がいなかったときも、こんな感情を抱いた。
もしだれか知らない人が押し入ってきたらどうしよう。
桜くんが帰ってこなかったらどうしよう。
でも、桜くんにだって自分の生活がある。だから文句は言えない。
桜くんが早く無事に帰ってきますように。
ただの買い物なのに、私は強くそう祈った。
――まだかな。
買い物にしては遅い。
私が不安になりながら待っているせいで余計に長く感じているせいでもあるとは思うけれど、それにしたって遅い。
秒針が一秒進むごとに、私の不安も募っていく。
早く帰ってきて。
桜くんまで、私をひとりにしないで……。
差し込んでくる光がオレンジ色を帯びてきたとき、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。ごめん、遅くなっ――わっ」
完全に、衝動的だった。私は、桜くんに飛びついた。
ふわっと、穏やかな匂いがした。
おかえりも言えずに、泣きそうになるのを堪えながら桜くんの服を強く掴む。
「……寂しかったの?」
春にぴったりな優しい声が私を包みこんでくれる。私は強くうなずいた。
「そうだよね。ごめんね、ひとりにして……。もう、大丈夫」
桜くんがそっと私の腕に触れた。彼の温もりが、動転していた心を落ち着かせててくれる。
しばらくそのまま桜くんにくっついていた後、冷静になってきた私は顔を上げて尋ねる。
「なに買ってきたの?」
「食料品とか必要なものと、あと、姫野さんの服」
「えっ?」
「先に言っちゃうと引き止めるでしょ?」
その通りだからなにも言えない。
バッグから数着の服を取り出し、手渡してくれた。
「姫野さんの好みに合うかわからないけど、似合いそうなの、買ってきた」
「ありがとう……!」
どれも私が普段着ているのと似たようなもので、早く着てみたいと思った。私に似合いそうなものを当ててしまうなんて、すごい。
「大事にするね」
「喜んでくれて良かった」
桜くんも嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て完全に力が抜けてしまって、私はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫!?」
「ごめん、なんか、安心して……」
まさかあんなにひとりが怖くなるなんて、自分でも思っていなかった。その分、桜くんが帰ってきてくれたときの安心感はとてつもないものだった。
「ほんとに、ごめんね。とりあえず、部屋の中入ろう」
「……うん」
桜くんが謝る必要なんて全くない。むしろ桜くんの時間を邪魔してしまう私の方が悪い。
けれど、桜くんがいてくれないと、今の私は、生きていけそうになかった。
「できるだけ家にいるようにするけど、これからも出ないといけないときはあるから……」
買ってきたミルクティーを一口飲んで、桜くんが申し訳なさそうに言った。相変わらず向かい側ではなく隣同士だ。
「ううん、桜くんの時間を奪っちゃってるのは私だから、そんなに気にしないで」
居候の身で要望とか自己主張なんてできない。今更言ってももう遅い気はするけれど、これ以上は。
「そんなふうに考えなくていいよ」
穏やかな声色で言って、桜くんが私に笑いかける。
「僕が姫野さんに時間を使いたくて、そうしてるんだよ。だから、姫野さんこそ、変に気に病まないで」
当たり前のことをしているだけ、というような口ぶりだった。
桜くんならそう言ってくれると思っていたものをさらに上回ってくる。嬉しさと同時に、それが欲しくて自責を口にしたことを否定できず、自分の卑しさに嫌気が差した。
それでも、桜くんの前では自分の気持ちを話したくなってしまう。そのことを、とめられない。
「……桜くんにも、自分の生活があるっていうのは、わかってるの。それなのに、ひとりになると寂しくて。どうすればいいのかな」
自分の気持ちを自ら誰かに委ねたことだって、今までは一度もなかった。
「寂しいって思うことは、別に悪いことじゃないんだから、それでもいいと思うよ。ただ……」
桜くんが言葉を選ぶように言いよどんだ。けれど、私を真っ直ぐに見つめて、続ける。
「……ひとりでいて、本当は寂しかったんだね」
「……!」
いつのことを言っているのかはすぐわかった。私が自ら親友を離れ、誰かのせいで推しを失ったこの三学期。
私は、ずっとひとりだった。だけどここに来るまで、寂しさなんて感じなかった。感じないようにしていた。
自分の心の悲鳴まで押し込めていたせいで、なにが苦しいのか、なんでつらいのか、それすらも、いつの間にか漠然としていて。
それが今、桜くんと過ごすことで、少しずつ整理され始めている。
「……うん」
桜くんの聞き方の上手さだけでなく、一緒にいて得られる安心感が、私の心を落ち着かせてくれるから。
「ずっと、寂しかった、本当は……」
ひとりでいることがなんで寂しかったのか、それははっきりとはまだ自分でもわからない。でも、考えてみれば、小さな寂しさくらいはずっと前から抱いていたように思う。
きっと私の根底は、いつまでも変わらないまま。
「桜くん……」
だから、そんな私が桜くんにのぞむことは。
これを言ったら桜くんを困らせてしまうとわかっていたけれど、桜くんがひたすら私に寄り添ってくれるから、止められなかった。
「ずっと、一緒にいて、ほしい」
そう言い切って、桜くんを見つめ返した私の目は潤んでいた。
桜くんがいてくれれば、私は寂しくない。
彼の綺麗な目が一瞬見開かれる。驚愕か、動揺か、困惑か。すぐにやわらかい表情が作られたせいで、どの感情なのかは読み取れなかった。
「――うん」
私を安心させるように、大きくうなずく。
「姫野さんが望むなら、僕はずっとそばにいるよ。だから、大丈夫」
込み上げてくるものをなんとか呑み込み、私は首を縦に振りながら「ありがとう」と伝えた。
「でも、一つだけお願いがあって」
「お願い?」
桜くんが誰かになにかをお願いするのを見るのは初めてだった。桜くん自身もそれに慣れていないのか、少し困ったように笑いながら私を見続ける。
「修了式の日だけは、学校行きたいと思ってるんだけど、ひとりにしても大丈夫?」
すぐには、いいよ、と答えられなかった。でも桜くんの行動を私が許可したり制限するのはおかしな話だ。無理してまで一緒にいてもらう必要は、ない。本当は、行かないでほしいけれど。それは私の都合だ。
「……うん、大丈夫。でも、私もお願いしてもいいかな?たくさん聞いてもらっちゃってるけど……」
「いいよ、言って」
私も、学校のことには一つ気がかりがある。
学校と聞いていちばんに脳裏に浮かぶ女の子。
「……来実の様子も、見てきてほしい」
「うん、もちろん。姫野さんの大切な友達だもんね」
「知ってたの?」
「見てればわかるよ」
桜くんが私や来実のことを見てくれているのは意外だった。でもそういえば、「このままだと壊れちゃうよ」と忠告してくれたことも、私が公園で泣いていたときに冷静に対応してくれたことも、私のことをよく見ていないとできないことだ。
「なんか、ストーカーみたいだね。ごめん」
「ううん、そんなことないよ!むしろ認知されてたのは嬉しい」
「そう?無意識に人のこと観察しすぎちゃってたまに引かれるけど……」
「それは、桜くんの洞察力がすごいってことだよ。私は引かないよ」
自己否定をしてほしくなくて思っていることを必死に伝えると、桜くんは目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「ふふっ、ありがとう。姫野さんこそすごいよ」
私は別にすごくない。
それに私だって桜くんのことをしばしば見ていたから、人のことは言えない。
そういえば、どうして、私は以前から桜くんのことをそれほど気にして、今ではこんなに一緒にいて楽しいのだろう。
桜くんの話し方や声、笑顔、なにもかもが魅力的で、私はそれが、とても。
そういうことなのかな、と考えると、整理がつかなかった私の桜くんに向けて抱く気持ちが、そのたった一つの気持ちにまとまっていく感覚がした。



