冬休みはひたすら勉強に浸り、一日のうち起きている時間のほとんどを勉強に費やした。とにかくなにかしていないと落ち着かなかった。もう私に残されているのは、勉強して良い成績を取り、お母さんの期待に応えることだけだった。
冷たい冷たい冬休みが明け、三学期。
私は極力来実との関わりを避けるようにしていた。休み時間は自習をし、移動教室のときは授業が終わると真っ先に教室を出て、昼休みは一人で別の場所でお弁当を食べる。帰りも終礼が終わると同時に教室を飛び出す。
幸せそうな来実と会って、なにを言ってしまうか、自分が怖かった。来実のことは絶対に傷つけたくない。
自ら孤独になりに行っているようなものだと自覚はしていたけれど、そうするしかなかった。
すると次第に来実も私に話しかけなくなってきた。彼女には申し訳ないけれど、それが来実のためだ。
朝から夜までひたすら勉強に励む毎日が続いた。つらくても苦しくても、それが私を認めてもらう唯一の方法だから。
今日も学校で、ひたすらノートと向き合い続ける。
「ねえ、姫野さん」
突然話しかけられて、びくりと肩が跳ねる。聞き馴染みのある声――望月くんだった。
心を見透かすような、真剣でまっすぐな眼差し。それにやや怯む。
「な、なに?」
なんとかそう尋ねた声は、しばらく人と話していなかったせいで、弱々しく掠れていた。
「……このままだと、心も体も壊しちゃうよ」
「……!」
本当に望月くんは人の心を見透かせるのだろうか。
私だって、自分の心が悲鳴を上げていることは、知っている。
「……そうかもしれないね。でも」
それでいい。だって。
「私には、こうするしかないから……」
私の声は相変わらず消えてしまいそうなほど弱くて、望月くんに聞こえているかどうかさえ不安だったけれど、聞き取ってくれたようだった。
望月くんは視線をずらさないまま「でも……」と言いかけたけれど、一度口を噤んだ。そして小さく息を吐いて、今度は優しく告げる。
「つらいなら言ってほしいし、逃げてもいいから、自分のことを大切にして」
心の奥底まで染み渡るような、温かく包んでくれる声色だった。
けれど、私はそれを、手を広げて受け取ることができない。受けっ取ってしまったら、全て終わってしまうような気がして。
「うん。ごめん……」
それだけ返すと、望月くんは諦めたように苦笑して自分の席に戻っていった。
ごめんなさい、望月くん。
つらいって言いたいけど、そんな私の気持ちを伝えることで望月くんを傷つけたくない。
逃げたいけど、私には逃げ場所なんてない。それを探す気力もない。
だから、私にはそれはできない。自分を大切にする方法なんて、わからない。
勉強するしか、ないんだよ。
勉強のし過ぎが原因だったのだろうか。
学年末テストの結果はこれまで以上に悲惨だった。どの教科も、平均点に届いていなかった。
実際、二月の中旬辺りからさすがに勉強する体力も尽き始めていた。それでも体を押して自分の心に鞭を打って取り組んだ結果がこれだ。
三ヶ月間の私の耐え続けた努力には、結局何の意味もなかった。
努力は報われるなんて、そんな成功者の言葉は嘘だ。勉強に限らず、いくら頑張ってもこの心が満たされることはずっとなかった。
「沙月、成績返ってきた?どうだったの?」
帰宅して早々、お母さんに急かされ、私は渋々と成績表を差し出した。もうどうにでもなれ、と半ば自暴自棄な気持ちで。
お母さんの険しいはずの顔を見ていられず、俯く。
「なにこれ、どういうこと?過去最悪じゃない」
怒気のこもった声が降ってくる。事実だから、仕方がない。
「ねえ、ちゃんと勉強してるの?前回だってあれほど言ったのに、なんで頑張ってくれないの?」
頑張ってる、頑張ってるんだよ。
唇をきつく結ぶ。反抗してもいいことはないとわかっているのに、そうしていないと言葉が溢れてしまいそうで。頷くことすらできなかった。
しはらくして、はあ、と呆れたような深い溜息が聞こえた。
「もういい、沙月に期待した私が馬鹿だった」
お母さんが勝手に期待しただけ。それが私にとってどれだけ重いのかも知らないくせに。
ぐっと爪が食入りそうなほど強く拳を握った。痛い。でもその痛みが自分の存在を証明してくれる。
「――こんな子になるなら、産まなきゃ良かった」
捨て台詞のように言い放たれた言葉が、弓矢のように鋭く突き刺さる。お母さんはくるりと身を翻してキッチンへと向かっていた。
私も自分の部屋に駆け込み、ベットに飛び込んだ。傷口から実体のない血が溢れ出してくる。
もういいと、お母さんは言った。私ももう無理だった。
なのに、息苦しいこの場所では涙なんか出なくて、ただただ痛みを我慢するしかなかった。
私の手元には、これでもう、なにも残っていない。
なんのために生きているんだろう。
こんな世界なら、生きていないほうがいい。私はこの世界には不必要な存在なんだ。
心の中はぐちゃぐちゃで、どこにも光なんてなくて。
なにをすればいいのか、どうすればいいのか、もうなにもわからない。
翌日、足を引きずるようにして学校に行った。
勉強する気になんてなれるはずもなく、一日中放心状態で過ごした。授業はなんとかして真面目に受けたけれど、内容は一切入ってこなかった。今日はもう誰も私に話しかけてこなかった。
終礼後、逃げるように学校を出て、慣れた道を歩く。足取りが心許ない。
――帰りたくない。
家にいたくない。でも、学校だって嫌だ。どこに行けばいい?
気付けば私は立ち止まっていた。どうしようもなく、しばらくそのままでいると、私の影が消え、冷たい水滴が落ちてきた。今日雨が降るなんて知らなかったから、傘は持っていなかった。
雨足はみるみる速くなっていき、髪の毛からどんどん濡れていく。
けれど私は冷たくなるのも構わずに、その場に立ちすくんでいた。
『逃げてもいいから、自分のことを大切にして』
望月くんの優しい言葉が、回らない頭に浮かぶ。
――逃げても、いいかな。全部から。
近くにあった小さな公園に入り、水滴にまみれたベンチに座った。
雨はときどき、空が泣いていると表現される。今の天気は、まさにそれだ。
「ぁ……」
気が付けば私の目から涙が零れ落ちていた。
今なら涙なのか雨なのかわからないから都合がいい。思い切り泣ける。
そう思うと次から次へと涙が流れてきて、もう止めようがなかった。雨の降りしきる公園でひとり、嗚咽の声を漏らした。
悔しい、寂しい、しんどい。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ああ、そっか、全部、私のせいだ。
自分でつらくなって、その痛みで泣いて。バカみたいだ。
心が叫んでいるかのように涙が溢れてくる。苦しい。痛い。誰か、助けて。
「――なにしてるの?風邪引くよ」
「ぇ……」
心の声に答えるように、突然、鈴の音のような声が鼓膜に響いた。顔を上げると、ぼやけた視界の先にいたのは、
「もち、づき、くん……」
「桜でいいよ」
ぐしゃぐしゃなはずの私の顔にも大して驚かずに、やわらかい微笑みを浮かべて隣に座った。すると、私を濡らしていた雨が途切れる。望月くん――桜くんが自分の傘を私の上に差してくれていた。
肩が触れそうなほど距離が近く、桜くんの熱がほんのりと伝わってくる。長く感じられていなかった、隣に誰かがいてくれる感覚。そのせいでまだ泣き止むことができない。
「姫野さん、コーヒーは好き?」
泣きながらこくりと頷くと、桜くんは「ちょっと待ってて」と立ち上がって、近くの自動販売機でホットコーヒーを買ってきてくれた。
「無理に飲まなくていいよ。持ってるだけでもあったかいと思うから」
桜くんからそれを受け取り、両手でぎゅっと包む。とても温かくて、心が解れていくのを感じた。
桜くんはなにも訊いてこない。ただなにも言わず、隣にいてくれている。
無理に話さなくていいよ、と言っているような気がした。私が話し出すのを待ってくれている、というのは都合の良い解釈だろうか。
でも今は、その都合の良い解釈に頼るしか方法がない。
『つらいなら言ってほしい』
そうだ、桜くんはこの前、そうも言ってくれた。桜くんになら、言ってもいいかもしれない。
ごしごしと乱暴に目を擦り、呼吸を整える。
「……帰りたくない……」
震える声でそう告げる。雨にかき消されそうな声量だったけれど、桜くんには届いてくれたようだった。
ようやく、ずっと心に溜め込んでいた自分の意思を、はっきりと口にすることができた。
「自分の、家に?」
私は小さくうなずく。
「……そっか」
桜くんはそれだけ静かに答えた。私のたった一言だけで、いろんなことを悟ってくれたかのようだった。
降りしきる雨の中、桜くんが私の方に目を向ける。いつも通りの穏やかな表情をしていた。今まであまり意識しなかったけれど、並んで座っていると身長差がほとんどない。
「――じゃあ、うち来る?」
「えっ……?」
「姫野さんがよければ、僕の家、来る?」
唐突な提案に驚いて、すぐには返事ができなかった。
桜くんの、家。
「逆に、桜くんと、ご家族は、いいの……?」
「今は僕が一人で住んでるから、大丈夫だよ」
「え……」
なんでもないように衝撃の事実を告げられ、理解が追いつかない。桜くんが一人暮らしをしているなんて知らなかった。
「さ、桜くんは、迷惑じゃ、ない?」
「迷惑なわけないでしょ。むしろ来てくれるなら歓迎する。姫野さんは、どうしたい?」
「私は……」
こんな私が桜くんの家に行ってしまったら、きっと桜くんの邪魔になってしまうだけだと思う。
でも、最初に尋ねられた時点で、私の心は決まっていた。それを封じ込める気には、もうなれなかった。
「行っても、いいかな……?」
「もちろん」
桜くんはにこっと微笑んで頷いてくれた。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、待って。これだけ飲んでから……」
立ち上がろうとする桜くんを引き止めて、私は桜くんが買ってきてくれた缶の蓋を開けた。少しずつ口に流し込み、全部飲み切った。
「無理しなくていいのに」
「無理してないよ、大丈夫。……ほんとに、ありがとう」
落ち着いてきてようやく感謝を伝えると、桜くんはふふっと笑って「気にしないで」と返してくれた。
なおも降り続く雨の中、二人並んで一つの傘に入って歩く。しばらく歩いていると、いつの間にか私の方が傘に収まっている面積が広くなっていた。
「桜くん、濡れちゃうよ」
「僕はいいよ。姫野さんがこれ以上濡れちゃう方が嫌だから」
桜くんは私がなにを言っても持ち方を変えそうにはなかったから、私は口を噤んだ。
二十分くらい歩くと、静かに佇むアパートに着いた。いくつかある住宅のうち、二階のいちばん左が桜くんの家らしい。
「お疲れ様。ごめんね、遠くて」
「ううん、大丈夫」
玄関に入れてもらい、部屋の方に目を向ける。
桜くんがスイッチを押すと、家の中が暖色で照らされた。するとそこには、彼らしくきちんと整理された綺麗な空間が広がっていた。
「とりあえず、着替える?姫野さんに合いそうなのは僕が前使ってたやつくらいしかないけど」
「え、いや、いいよ、このままで」
「それはダメでしょ。さっきも言ったけど、風邪引いちゃうよ」
「う……」
「そんな似合わないものでもないと思うから、安心して。僕は気にしないし」
私は気にする。でも、私が体調を崩したら桜くんも困ってしまうだろうし、確かにびしょ濡れの制服を着たまま過ごすわけにもいかないから、桜くんからタオルと服を受け取った。
思ったより可愛らしい服に着替えてリビングに戻ると、部屋が少し温まっていた。
「とりあえず、こっち来て」
こたつに入った桜くんが自分の隣をポンポンと軽く叩いた。その声は学校で聞くより静かで、落ち着いていた。
「ち、近いよ」
「座りやすいところでいいよ」
そうは言っても、向かい側に座る方が今の私には苦しく思えた。正面から顔を見られるのは今は少し気が引ける。
……それに本当は、桜くんの隣がいい。
「じゃあ……」
私は桜くんに言われた通り、少しだけ距離を置いて彼の隣に腰を下ろした。
「ここでいいの?」
「うん。……ここがいい」
なに言ってるんだろう、私。
恥ずかしくて俯いてしまったから、桜くんの表情はわからなかった。
桜くんのおかげなのか、躊躇はあるにせよ、今は不思議と自分が思っていることを口にできてしまう。
「さっき、一人で住んでるって言ったけど」
「うん」
「実は、お父さんはずいぶん前に離婚して出てって、お母さんは病気で入院中なんだよね」
「え……」
「全然知らなかったでしょ?」
「うん……知らなかった」
桜くんと話すのは数えられるほどだったことは言うまでもなく、風の噂でさえ桜くんの家族について聞いたことはにった。それくらい巧みにその話をすることを避けていたのかもしれない。
「……でも、私に話しちゃっていいの?」
「姫野さんは誰かに漏らしたりしないと思うし、知っておいてほしかったから」
ここで過ごすことになるから、ということだろうか。
たくさんの人から愛されて、私とは対照的な存在だと思っていた桜くんの姿が、一欠片、剥がれ落ちる。
「そういうわけで、うちには僕一人だから、姫野さんは好きなように過ごしてくれればいいよ」
「いいの……?」
「うん。守ってほしいルールとかもないし、連れてきたのは僕だから」
「ありがとう……」
油断したら、また泣いてしまいそうだった。
三学期になってからずっと張り詰めて凍りついていた心に、桜くんの優しさが滞りなく染み込んでいく。
体の力が一気に抜ける。
そっか、私、こんなに無理してたんだ。
ごめんね――。
気が付くと、部屋がいい匂いで満たされていた。
疲れでいつの間にか寝てしまったらしい。私の肩には毛布がかけられていた。
「あ、起きた?」
顔を上げると、お皿を手に持った桜くんが立っていた。
「え……。ご飯作ってくれてたの?」
「うん。ちょうどできたところだよ」
桜くんがお皿をゆっくりとテーブルに置いた。ほかほかと湯気が上がっていて、とても、おいしそう。
配膳をした後、桜くんはまた私の隣に座ってくれた。
「そんなに豪華なものじゃないけど……」
「ううん、すごいよ。私一人じゃこんなに作れない……」
いくら意見が合わないとはいえ、私はお母さんがいなければ生きていけない。それを改めて実感させられ、少し気分が沈んだ。
「普段のお弁当とかも自分で作ってるの?」
「夜は作ってるけど、お昼は食べてないよ」
「えっ」
「詳しいことは、食べながらでね」
「……そうだね」
ご飯と、お味噌汁、そして野菜炒めなどと、簡素ではあるけれど、その全てに桜くんの温もりが込められていることが感じられる。
「いただきます」
二人ともパチンと両手を合わせ、私はまずお味噌汁を手に取った。こんなに心を込めて「いただきます」と言ったのはいつぶりだろうと思いつつ、ゆっくりとお味噌汁を口に運ぶ。
「おいしい……」
しんみりと口の中からお腹へ温もりが広がっていく。
「ふふ、良かった」
桜くんが嬉しそうに微笑んだ。
お味噌汁なんて食べ慣れているけれど、いつもお母さんに作っているものとは違う。確かな〝こころ〟が、ここにはある。
「こんなにおいしいもの作れるなんて、ほんとにすごいよ。料理って大変でしょ……?」
「大変だよ。だから、ちゃんと作ってるのは夜だけで、朝は前日の残り、昼はなにも食べてない」
そういうことか、と納得すると同時に、心配にもなってしまう。
「……足りる?」
「うん。元々そんなに食べる方ではないし、食べられるときにちゃんと食べてる」
「それならいいけど……」
桜くんは小柄で細いけれど、見たところやつれているというほどではない。安心して今度は白いご飯を口に入れた。冷えていた心まで温めてくれる。
好きな食べ物がどうとか、誰のおかげで食べられているのかということをしばらく考えられていなかった。
なにかに急かされることもなくゆっくりと全て食べ切ると、ちょうどお腹がいっぱいになった。
「ごちそうさまでした。ほんとに、ありがとう、桜くん」
「どういたしまして」
桜くんはまたやわらかく微笑んだ。この笑顔を、ずっと見ていたい。
――そんな穏やかな空間を引き裂くように、突然、スマホが振動する音がした。
「ごめん、僕のだ」
私のスマホは、みぞれくんの一件があって以来基本的に電源を切っているから、鳴ることはない。
桜くんが立ち上がってスマホを手に取った。
「もしもし、こんばんは」
『桜くん?ねえ、沙月どこ行ったか知らない!?』
桜くんの電話越しの叫ぶような声を耳にして、冷や水を浴びせられたような感覚になった。お母さんだ。
「姫野さんなら、大丈夫ですよ」
『え……』
桜くんが私の方をちらりと見て手で制し、別室へ移動した。
きっとお母さんとの会話が聞こえないようにしてくれたのだろう。その優しさにまた目の奥が熱くなる。
それを我慢して、少しでも桜くんに貢献しようと、テーブルの上のお皿をまとめ、キッチンへと運んだ。
しばらくして桜くんが戻ってきた。ずいぶん長い時間かかった。
「あ、ごめん、お皿洗ってくれてたんだ」
「うん。これくらいはやるよ。……お母さんと知り合いなの?」
何を話したのかを聞くのは怖くて、尋ね方を変えた。
「よく僕のお母さんに連れられて地域の活動に参加してたんだけど、そのときに姫野さんのお母さんとも仲良くなったんだよ」
「そうだったんだ……!」
お母さんが地域の活動に積極的に関わっているのは知っていたけれど、まさか桜くんと接点があったなんて。
私はお母さんのことさえよく知らなかったのだ。
「春休みが終わるまでは姫野さんは僕の家にいていいって、言ってくれた」
「え……私のお母さんが?」
「うん」
あの人をどうやって説得したのだろう。私のお母さんの桜くんへの信頼は厚さが窺える。私より信頼されているんじゃないかというくらい。
「あの、桜くんは、ほんとにそれでいいの?」
「僕はむしろ大歓迎だけど、姫野さんは、どう?」
春休み中、ずっと桜くんの家に。
たった数時間過ごしただけだけど、ここは家よりもずっと居心地がいい。だから、いれるならいくらでもここにいたい。その気持ちを、素直に口にする。
「私も、ここで過ごしたい」
「じゃあ、決まりだね」
そう言った桜くんの表情は、喜んでいるように見えた気がした。やはり今の彼は、学校で見るよりも、どこか隙がある。
その後、順番にお風呂に入り、私は桜くんがかけてくれた「ゆっくりしてね」という言葉通り長くお湯に浸かった。
お風呂から上がって、桜くんが貸してくれたパジャマを着て部屋に戻った。これもまた桜くんが以前使っていたものらしい。他の人の、ましてや男の子の服を借りるなんてやはり慣れなくて、妙に意識してしまう。
それに思い返してみると、制服や体操服以外の姿を同級生に見られことすらもめったになかったから、余計に恥ずかしくなる。
リビングの壁に掛けられた何年も前からありそうな時計を見ると、午後十一時を指していた。
「もうこんな時間……」
今日の午後はいろいろありすぎて、時間の感覚が麻痺していた。こんなに、ある意味で濃い一日は初めてだった。
「姫野さんはいつも何時に寝てる?」
「ちょうど今くらいかな」
だいたいみぞれくんの配信が終わる時間だったから。三学期になってもその生活習慣は変わらず、みぞれくんの配信を聴く時間が勉強する時間に変わっただけだった。
「桜くんは?」
「僕も同じくらいだから、そろそろ寝よっか。あ、でも、昼寝してたから眠くないかな?」
「ううん、なんか、すごく眠い……」
あの時間はもはや昼寝ではなかったと思う。そのせいか意識がややぼやけてきていた。
目を擦る私を見て桜くんがくすくすと笑った。
「ほんとに眠そう。そりゃあ疲れちゃうよね」
疲れた。桜くんにそう言われる今まで自覚していなかったけれど、きっとそうなのだと思う。
だけど次の桜くんの言葉は、眠気を吹き飛ばすほど衝撃的なものだった。
「――良かったら、隣で寝る?」
「へっ?」
思わず間抜けな声を出し、私は桜くんを見つめる。
「語弊があるかもしれないけど、僕が隣にいた方が姫野さんが安心するならそうするよ」
「え、で、でも……!」
いろいろと、問題があるような。
隣にいてくれた方が落ち着くけれど、桜くんはそれでいいのだろうか。
躊躇っていると、そんな私の心を見透かしたように、桜くんがやわらかい口調でさらに続ける。
「僕のことは気にしなくていいから。姫野さんが、どうしたいかだよ」
同じような言葉を、今日一日で何度もかけられていた。
無視し続けてきた私の心に従っていいのなら、答えは決まっている。
「……ひとりは、やだ」
はっきりと肯定するとそれこそ語弊が生まれそうだったし恥ずかしいから、ぽつりと呟いた。
「うん、了解」
みぞれくんの件があってからは、ずっと一人で寂しい夜を過ごしていた。悪夢もたくさん見て、幽霊に襲われるとか怖い想像もしてしまった。
そんなのはもう、嫌だった。
衛生的に保たれていた和室に入り、桜くんが畳に二枚の布団を敷き、二人分の毛布も用意してくれた。旅館の人みたい、なんてことを思う。
「なんか、桜くん、こういうの慣れてる?」
「こういうのって?」
「女の子を部屋に泊める、みたいなこと」
「慣れてるわけないでしょ。友達を、家に入れたのも初めてだよ。もしくは小学生以来かな」
一人暮らしをしているから、家事には慣れているだけなのかもしれない。ちょっと失礼なことを訊いてしまったかな、と後悔する。けれど桜くんは気にしたり怒ったりする様子は全く見せなかった。
私が布団に入ってから、桜くんが電気を消す。すると視界が一気に漆黒に切り替わった。突然体が闇に投げ出されたような気分になる。
周りにはなにもなくて、ただ永遠に闇が続く。そんな感覚。
ぎゅっと手で布団を強く握りしめた。
「怖い?」
耳元で優しい囁き声がして、私の意識が闇から引き戻される。顔は見えないけれど、すぐ近くにいてくれているのがわかった。
「……怖い」
虚勢を張る気になんてなれなくて、素直に答えてしまった。無理に我慢しなくていいよ、と言ってくれている気がしたから。
「――大丈夫」
震えていた私の右手が、突如やわらかくて温かいものに包まれた。それが桜くんの左手だと気付き、急激に体が熱を持つ。
ぎゅっと、ではなく、そっと、添えるように。
根拠なんてないけど、大丈夫、と、そう思えた。全身の力が抜けていく。
桜くんは、いつも怖くないのかな。薄らいでいく意識の中で、そんなことを考えた。
私はひとりではいられない一方、桜くんは家ではいつもひとり。しかもその秘密をクラスメイトの誰にも話さずに。
私だったら、耐えられない。
勝手な想像ではあるけれど、もしかした、桜くんも寂しさを抱えて生きているのかもしれない。
それなのに、こうして私にありったけの優しさをくれる。
そのことにまた目の奥が熱くなるのを感じつつ、いつしか意識は安眠へと落ちた――。
冷たい冷たい冬休みが明け、三学期。
私は極力来実との関わりを避けるようにしていた。休み時間は自習をし、移動教室のときは授業が終わると真っ先に教室を出て、昼休みは一人で別の場所でお弁当を食べる。帰りも終礼が終わると同時に教室を飛び出す。
幸せそうな来実と会って、なにを言ってしまうか、自分が怖かった。来実のことは絶対に傷つけたくない。
自ら孤独になりに行っているようなものだと自覚はしていたけれど、そうするしかなかった。
すると次第に来実も私に話しかけなくなってきた。彼女には申し訳ないけれど、それが来実のためだ。
朝から夜までひたすら勉強に励む毎日が続いた。つらくても苦しくても、それが私を認めてもらう唯一の方法だから。
今日も学校で、ひたすらノートと向き合い続ける。
「ねえ、姫野さん」
突然話しかけられて、びくりと肩が跳ねる。聞き馴染みのある声――望月くんだった。
心を見透かすような、真剣でまっすぐな眼差し。それにやや怯む。
「な、なに?」
なんとかそう尋ねた声は、しばらく人と話していなかったせいで、弱々しく掠れていた。
「……このままだと、心も体も壊しちゃうよ」
「……!」
本当に望月くんは人の心を見透かせるのだろうか。
私だって、自分の心が悲鳴を上げていることは、知っている。
「……そうかもしれないね。でも」
それでいい。だって。
「私には、こうするしかないから……」
私の声は相変わらず消えてしまいそうなほど弱くて、望月くんに聞こえているかどうかさえ不安だったけれど、聞き取ってくれたようだった。
望月くんは視線をずらさないまま「でも……」と言いかけたけれど、一度口を噤んだ。そして小さく息を吐いて、今度は優しく告げる。
「つらいなら言ってほしいし、逃げてもいいから、自分のことを大切にして」
心の奥底まで染み渡るような、温かく包んでくれる声色だった。
けれど、私はそれを、手を広げて受け取ることができない。受けっ取ってしまったら、全て終わってしまうような気がして。
「うん。ごめん……」
それだけ返すと、望月くんは諦めたように苦笑して自分の席に戻っていった。
ごめんなさい、望月くん。
つらいって言いたいけど、そんな私の気持ちを伝えることで望月くんを傷つけたくない。
逃げたいけど、私には逃げ場所なんてない。それを探す気力もない。
だから、私にはそれはできない。自分を大切にする方法なんて、わからない。
勉強するしか、ないんだよ。
勉強のし過ぎが原因だったのだろうか。
学年末テストの結果はこれまで以上に悲惨だった。どの教科も、平均点に届いていなかった。
実際、二月の中旬辺りからさすがに勉強する体力も尽き始めていた。それでも体を押して自分の心に鞭を打って取り組んだ結果がこれだ。
三ヶ月間の私の耐え続けた努力には、結局何の意味もなかった。
努力は報われるなんて、そんな成功者の言葉は嘘だ。勉強に限らず、いくら頑張ってもこの心が満たされることはずっとなかった。
「沙月、成績返ってきた?どうだったの?」
帰宅して早々、お母さんに急かされ、私は渋々と成績表を差し出した。もうどうにでもなれ、と半ば自暴自棄な気持ちで。
お母さんの険しいはずの顔を見ていられず、俯く。
「なにこれ、どういうこと?過去最悪じゃない」
怒気のこもった声が降ってくる。事実だから、仕方がない。
「ねえ、ちゃんと勉強してるの?前回だってあれほど言ったのに、なんで頑張ってくれないの?」
頑張ってる、頑張ってるんだよ。
唇をきつく結ぶ。反抗してもいいことはないとわかっているのに、そうしていないと言葉が溢れてしまいそうで。頷くことすらできなかった。
しはらくして、はあ、と呆れたような深い溜息が聞こえた。
「もういい、沙月に期待した私が馬鹿だった」
お母さんが勝手に期待しただけ。それが私にとってどれだけ重いのかも知らないくせに。
ぐっと爪が食入りそうなほど強く拳を握った。痛い。でもその痛みが自分の存在を証明してくれる。
「――こんな子になるなら、産まなきゃ良かった」
捨て台詞のように言い放たれた言葉が、弓矢のように鋭く突き刺さる。お母さんはくるりと身を翻してキッチンへと向かっていた。
私も自分の部屋に駆け込み、ベットに飛び込んだ。傷口から実体のない血が溢れ出してくる。
もういいと、お母さんは言った。私ももう無理だった。
なのに、息苦しいこの場所では涙なんか出なくて、ただただ痛みを我慢するしかなかった。
私の手元には、これでもう、なにも残っていない。
なんのために生きているんだろう。
こんな世界なら、生きていないほうがいい。私はこの世界には不必要な存在なんだ。
心の中はぐちゃぐちゃで、どこにも光なんてなくて。
なにをすればいいのか、どうすればいいのか、もうなにもわからない。
翌日、足を引きずるようにして学校に行った。
勉強する気になんてなれるはずもなく、一日中放心状態で過ごした。授業はなんとかして真面目に受けたけれど、内容は一切入ってこなかった。今日はもう誰も私に話しかけてこなかった。
終礼後、逃げるように学校を出て、慣れた道を歩く。足取りが心許ない。
――帰りたくない。
家にいたくない。でも、学校だって嫌だ。どこに行けばいい?
気付けば私は立ち止まっていた。どうしようもなく、しばらくそのままでいると、私の影が消え、冷たい水滴が落ちてきた。今日雨が降るなんて知らなかったから、傘は持っていなかった。
雨足はみるみる速くなっていき、髪の毛からどんどん濡れていく。
けれど私は冷たくなるのも構わずに、その場に立ちすくんでいた。
『逃げてもいいから、自分のことを大切にして』
望月くんの優しい言葉が、回らない頭に浮かぶ。
――逃げても、いいかな。全部から。
近くにあった小さな公園に入り、水滴にまみれたベンチに座った。
雨はときどき、空が泣いていると表現される。今の天気は、まさにそれだ。
「ぁ……」
気が付けば私の目から涙が零れ落ちていた。
今なら涙なのか雨なのかわからないから都合がいい。思い切り泣ける。
そう思うと次から次へと涙が流れてきて、もう止めようがなかった。雨の降りしきる公園でひとり、嗚咽の声を漏らした。
悔しい、寂しい、しんどい。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ああ、そっか、全部、私のせいだ。
自分でつらくなって、その痛みで泣いて。バカみたいだ。
心が叫んでいるかのように涙が溢れてくる。苦しい。痛い。誰か、助けて。
「――なにしてるの?風邪引くよ」
「ぇ……」
心の声に答えるように、突然、鈴の音のような声が鼓膜に響いた。顔を上げると、ぼやけた視界の先にいたのは、
「もち、づき、くん……」
「桜でいいよ」
ぐしゃぐしゃなはずの私の顔にも大して驚かずに、やわらかい微笑みを浮かべて隣に座った。すると、私を濡らしていた雨が途切れる。望月くん――桜くんが自分の傘を私の上に差してくれていた。
肩が触れそうなほど距離が近く、桜くんの熱がほんのりと伝わってくる。長く感じられていなかった、隣に誰かがいてくれる感覚。そのせいでまだ泣き止むことができない。
「姫野さん、コーヒーは好き?」
泣きながらこくりと頷くと、桜くんは「ちょっと待ってて」と立ち上がって、近くの自動販売機でホットコーヒーを買ってきてくれた。
「無理に飲まなくていいよ。持ってるだけでもあったかいと思うから」
桜くんからそれを受け取り、両手でぎゅっと包む。とても温かくて、心が解れていくのを感じた。
桜くんはなにも訊いてこない。ただなにも言わず、隣にいてくれている。
無理に話さなくていいよ、と言っているような気がした。私が話し出すのを待ってくれている、というのは都合の良い解釈だろうか。
でも今は、その都合の良い解釈に頼るしか方法がない。
『つらいなら言ってほしい』
そうだ、桜くんはこの前、そうも言ってくれた。桜くんになら、言ってもいいかもしれない。
ごしごしと乱暴に目を擦り、呼吸を整える。
「……帰りたくない……」
震える声でそう告げる。雨にかき消されそうな声量だったけれど、桜くんには届いてくれたようだった。
ようやく、ずっと心に溜め込んでいた自分の意思を、はっきりと口にすることができた。
「自分の、家に?」
私は小さくうなずく。
「……そっか」
桜くんはそれだけ静かに答えた。私のたった一言だけで、いろんなことを悟ってくれたかのようだった。
降りしきる雨の中、桜くんが私の方に目を向ける。いつも通りの穏やかな表情をしていた。今まであまり意識しなかったけれど、並んで座っていると身長差がほとんどない。
「――じゃあ、うち来る?」
「えっ……?」
「姫野さんがよければ、僕の家、来る?」
唐突な提案に驚いて、すぐには返事ができなかった。
桜くんの、家。
「逆に、桜くんと、ご家族は、いいの……?」
「今は僕が一人で住んでるから、大丈夫だよ」
「え……」
なんでもないように衝撃の事実を告げられ、理解が追いつかない。桜くんが一人暮らしをしているなんて知らなかった。
「さ、桜くんは、迷惑じゃ、ない?」
「迷惑なわけないでしょ。むしろ来てくれるなら歓迎する。姫野さんは、どうしたい?」
「私は……」
こんな私が桜くんの家に行ってしまったら、きっと桜くんの邪魔になってしまうだけだと思う。
でも、最初に尋ねられた時点で、私の心は決まっていた。それを封じ込める気には、もうなれなかった。
「行っても、いいかな……?」
「もちろん」
桜くんはにこっと微笑んで頷いてくれた。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、待って。これだけ飲んでから……」
立ち上がろうとする桜くんを引き止めて、私は桜くんが買ってきてくれた缶の蓋を開けた。少しずつ口に流し込み、全部飲み切った。
「無理しなくていいのに」
「無理してないよ、大丈夫。……ほんとに、ありがとう」
落ち着いてきてようやく感謝を伝えると、桜くんはふふっと笑って「気にしないで」と返してくれた。
なおも降り続く雨の中、二人並んで一つの傘に入って歩く。しばらく歩いていると、いつの間にか私の方が傘に収まっている面積が広くなっていた。
「桜くん、濡れちゃうよ」
「僕はいいよ。姫野さんがこれ以上濡れちゃう方が嫌だから」
桜くんは私がなにを言っても持ち方を変えそうにはなかったから、私は口を噤んだ。
二十分くらい歩くと、静かに佇むアパートに着いた。いくつかある住宅のうち、二階のいちばん左が桜くんの家らしい。
「お疲れ様。ごめんね、遠くて」
「ううん、大丈夫」
玄関に入れてもらい、部屋の方に目を向ける。
桜くんがスイッチを押すと、家の中が暖色で照らされた。するとそこには、彼らしくきちんと整理された綺麗な空間が広がっていた。
「とりあえず、着替える?姫野さんに合いそうなのは僕が前使ってたやつくらいしかないけど」
「え、いや、いいよ、このままで」
「それはダメでしょ。さっきも言ったけど、風邪引いちゃうよ」
「う……」
「そんな似合わないものでもないと思うから、安心して。僕は気にしないし」
私は気にする。でも、私が体調を崩したら桜くんも困ってしまうだろうし、確かにびしょ濡れの制服を着たまま過ごすわけにもいかないから、桜くんからタオルと服を受け取った。
思ったより可愛らしい服に着替えてリビングに戻ると、部屋が少し温まっていた。
「とりあえず、こっち来て」
こたつに入った桜くんが自分の隣をポンポンと軽く叩いた。その声は学校で聞くより静かで、落ち着いていた。
「ち、近いよ」
「座りやすいところでいいよ」
そうは言っても、向かい側に座る方が今の私には苦しく思えた。正面から顔を見られるのは今は少し気が引ける。
……それに本当は、桜くんの隣がいい。
「じゃあ……」
私は桜くんに言われた通り、少しだけ距離を置いて彼の隣に腰を下ろした。
「ここでいいの?」
「うん。……ここがいい」
なに言ってるんだろう、私。
恥ずかしくて俯いてしまったから、桜くんの表情はわからなかった。
桜くんのおかげなのか、躊躇はあるにせよ、今は不思議と自分が思っていることを口にできてしまう。
「さっき、一人で住んでるって言ったけど」
「うん」
「実は、お父さんはずいぶん前に離婚して出てって、お母さんは病気で入院中なんだよね」
「え……」
「全然知らなかったでしょ?」
「うん……知らなかった」
桜くんと話すのは数えられるほどだったことは言うまでもなく、風の噂でさえ桜くんの家族について聞いたことはにった。それくらい巧みにその話をすることを避けていたのかもしれない。
「……でも、私に話しちゃっていいの?」
「姫野さんは誰かに漏らしたりしないと思うし、知っておいてほしかったから」
ここで過ごすことになるから、ということだろうか。
たくさんの人から愛されて、私とは対照的な存在だと思っていた桜くんの姿が、一欠片、剥がれ落ちる。
「そういうわけで、うちには僕一人だから、姫野さんは好きなように過ごしてくれればいいよ」
「いいの……?」
「うん。守ってほしいルールとかもないし、連れてきたのは僕だから」
「ありがとう……」
油断したら、また泣いてしまいそうだった。
三学期になってからずっと張り詰めて凍りついていた心に、桜くんの優しさが滞りなく染み込んでいく。
体の力が一気に抜ける。
そっか、私、こんなに無理してたんだ。
ごめんね――。
気が付くと、部屋がいい匂いで満たされていた。
疲れでいつの間にか寝てしまったらしい。私の肩には毛布がかけられていた。
「あ、起きた?」
顔を上げると、お皿を手に持った桜くんが立っていた。
「え……。ご飯作ってくれてたの?」
「うん。ちょうどできたところだよ」
桜くんがお皿をゆっくりとテーブルに置いた。ほかほかと湯気が上がっていて、とても、おいしそう。
配膳をした後、桜くんはまた私の隣に座ってくれた。
「そんなに豪華なものじゃないけど……」
「ううん、すごいよ。私一人じゃこんなに作れない……」
いくら意見が合わないとはいえ、私はお母さんがいなければ生きていけない。それを改めて実感させられ、少し気分が沈んだ。
「普段のお弁当とかも自分で作ってるの?」
「夜は作ってるけど、お昼は食べてないよ」
「えっ」
「詳しいことは、食べながらでね」
「……そうだね」
ご飯と、お味噌汁、そして野菜炒めなどと、簡素ではあるけれど、その全てに桜くんの温もりが込められていることが感じられる。
「いただきます」
二人ともパチンと両手を合わせ、私はまずお味噌汁を手に取った。こんなに心を込めて「いただきます」と言ったのはいつぶりだろうと思いつつ、ゆっくりとお味噌汁を口に運ぶ。
「おいしい……」
しんみりと口の中からお腹へ温もりが広がっていく。
「ふふ、良かった」
桜くんが嬉しそうに微笑んだ。
お味噌汁なんて食べ慣れているけれど、いつもお母さんに作っているものとは違う。確かな〝こころ〟が、ここにはある。
「こんなにおいしいもの作れるなんて、ほんとにすごいよ。料理って大変でしょ……?」
「大変だよ。だから、ちゃんと作ってるのは夜だけで、朝は前日の残り、昼はなにも食べてない」
そういうことか、と納得すると同時に、心配にもなってしまう。
「……足りる?」
「うん。元々そんなに食べる方ではないし、食べられるときにちゃんと食べてる」
「それならいいけど……」
桜くんは小柄で細いけれど、見たところやつれているというほどではない。安心して今度は白いご飯を口に入れた。冷えていた心まで温めてくれる。
好きな食べ物がどうとか、誰のおかげで食べられているのかということをしばらく考えられていなかった。
なにかに急かされることもなくゆっくりと全て食べ切ると、ちょうどお腹がいっぱいになった。
「ごちそうさまでした。ほんとに、ありがとう、桜くん」
「どういたしまして」
桜くんはまたやわらかく微笑んだ。この笑顔を、ずっと見ていたい。
――そんな穏やかな空間を引き裂くように、突然、スマホが振動する音がした。
「ごめん、僕のだ」
私のスマホは、みぞれくんの一件があって以来基本的に電源を切っているから、鳴ることはない。
桜くんが立ち上がってスマホを手に取った。
「もしもし、こんばんは」
『桜くん?ねえ、沙月どこ行ったか知らない!?』
桜くんの電話越しの叫ぶような声を耳にして、冷や水を浴びせられたような感覚になった。お母さんだ。
「姫野さんなら、大丈夫ですよ」
『え……』
桜くんが私の方をちらりと見て手で制し、別室へ移動した。
きっとお母さんとの会話が聞こえないようにしてくれたのだろう。その優しさにまた目の奥が熱くなる。
それを我慢して、少しでも桜くんに貢献しようと、テーブルの上のお皿をまとめ、キッチンへと運んだ。
しばらくして桜くんが戻ってきた。ずいぶん長い時間かかった。
「あ、ごめん、お皿洗ってくれてたんだ」
「うん。これくらいはやるよ。……お母さんと知り合いなの?」
何を話したのかを聞くのは怖くて、尋ね方を変えた。
「よく僕のお母さんに連れられて地域の活動に参加してたんだけど、そのときに姫野さんのお母さんとも仲良くなったんだよ」
「そうだったんだ……!」
お母さんが地域の活動に積極的に関わっているのは知っていたけれど、まさか桜くんと接点があったなんて。
私はお母さんのことさえよく知らなかったのだ。
「春休みが終わるまでは姫野さんは僕の家にいていいって、言ってくれた」
「え……私のお母さんが?」
「うん」
あの人をどうやって説得したのだろう。私のお母さんの桜くんへの信頼は厚さが窺える。私より信頼されているんじゃないかというくらい。
「あの、桜くんは、ほんとにそれでいいの?」
「僕はむしろ大歓迎だけど、姫野さんは、どう?」
春休み中、ずっと桜くんの家に。
たった数時間過ごしただけだけど、ここは家よりもずっと居心地がいい。だから、いれるならいくらでもここにいたい。その気持ちを、素直に口にする。
「私も、ここで過ごしたい」
「じゃあ、決まりだね」
そう言った桜くんの表情は、喜んでいるように見えた気がした。やはり今の彼は、学校で見るよりも、どこか隙がある。
その後、順番にお風呂に入り、私は桜くんがかけてくれた「ゆっくりしてね」という言葉通り長くお湯に浸かった。
お風呂から上がって、桜くんが貸してくれたパジャマを着て部屋に戻った。これもまた桜くんが以前使っていたものらしい。他の人の、ましてや男の子の服を借りるなんてやはり慣れなくて、妙に意識してしまう。
それに思い返してみると、制服や体操服以外の姿を同級生に見られことすらもめったになかったから、余計に恥ずかしくなる。
リビングの壁に掛けられた何年も前からありそうな時計を見ると、午後十一時を指していた。
「もうこんな時間……」
今日の午後はいろいろありすぎて、時間の感覚が麻痺していた。こんなに、ある意味で濃い一日は初めてだった。
「姫野さんはいつも何時に寝てる?」
「ちょうど今くらいかな」
だいたいみぞれくんの配信が終わる時間だったから。三学期になってもその生活習慣は変わらず、みぞれくんの配信を聴く時間が勉強する時間に変わっただけだった。
「桜くんは?」
「僕も同じくらいだから、そろそろ寝よっか。あ、でも、昼寝してたから眠くないかな?」
「ううん、なんか、すごく眠い……」
あの時間はもはや昼寝ではなかったと思う。そのせいか意識がややぼやけてきていた。
目を擦る私を見て桜くんがくすくすと笑った。
「ほんとに眠そう。そりゃあ疲れちゃうよね」
疲れた。桜くんにそう言われる今まで自覚していなかったけれど、きっとそうなのだと思う。
だけど次の桜くんの言葉は、眠気を吹き飛ばすほど衝撃的なものだった。
「――良かったら、隣で寝る?」
「へっ?」
思わず間抜けな声を出し、私は桜くんを見つめる。
「語弊があるかもしれないけど、僕が隣にいた方が姫野さんが安心するならそうするよ」
「え、で、でも……!」
いろいろと、問題があるような。
隣にいてくれた方が落ち着くけれど、桜くんはそれでいいのだろうか。
躊躇っていると、そんな私の心を見透かしたように、桜くんがやわらかい口調でさらに続ける。
「僕のことは気にしなくていいから。姫野さんが、どうしたいかだよ」
同じような言葉を、今日一日で何度もかけられていた。
無視し続けてきた私の心に従っていいのなら、答えは決まっている。
「……ひとりは、やだ」
はっきりと肯定するとそれこそ語弊が生まれそうだったし恥ずかしいから、ぽつりと呟いた。
「うん、了解」
みぞれくんの件があってからは、ずっと一人で寂しい夜を過ごしていた。悪夢もたくさん見て、幽霊に襲われるとか怖い想像もしてしまった。
そんなのはもう、嫌だった。
衛生的に保たれていた和室に入り、桜くんが畳に二枚の布団を敷き、二人分の毛布も用意してくれた。旅館の人みたい、なんてことを思う。
「なんか、桜くん、こういうの慣れてる?」
「こういうのって?」
「女の子を部屋に泊める、みたいなこと」
「慣れてるわけないでしょ。友達を、家に入れたのも初めてだよ。もしくは小学生以来かな」
一人暮らしをしているから、家事には慣れているだけなのかもしれない。ちょっと失礼なことを訊いてしまったかな、と後悔する。けれど桜くんは気にしたり怒ったりする様子は全く見せなかった。
私が布団に入ってから、桜くんが電気を消す。すると視界が一気に漆黒に切り替わった。突然体が闇に投げ出されたような気分になる。
周りにはなにもなくて、ただ永遠に闇が続く。そんな感覚。
ぎゅっと手で布団を強く握りしめた。
「怖い?」
耳元で優しい囁き声がして、私の意識が闇から引き戻される。顔は見えないけれど、すぐ近くにいてくれているのがわかった。
「……怖い」
虚勢を張る気になんてなれなくて、素直に答えてしまった。無理に我慢しなくていいよ、と言ってくれている気がしたから。
「――大丈夫」
震えていた私の右手が、突如やわらかくて温かいものに包まれた。それが桜くんの左手だと気付き、急激に体が熱を持つ。
ぎゅっと、ではなく、そっと、添えるように。
根拠なんてないけど、大丈夫、と、そう思えた。全身の力が抜けていく。
桜くんは、いつも怖くないのかな。薄らいでいく意識の中で、そんなことを考えた。
私はひとりではいられない一方、桜くんは家ではいつもひとり。しかもその秘密をクラスメイトの誰にも話さずに。
私だったら、耐えられない。
勝手な想像ではあるけれど、もしかした、桜くんも寂しさを抱えて生きているのかもしれない。
それなのに、こうして私にありったけの優しさをくれる。
そのことにまた目の奥が熱くなるのを感じつつ、いつしか意識は安眠へと落ちた――。



