時間を持て余した夏休みがあっという間に終わり、生徒たちがやや浮かれた気分になっている九月。
来週には文化祭がある。このクラスはメイド喫茶をするらしい。もちろん私はメイド服なんて着るわけがない。
「ね、沙月」
「ん?」
休み時間の教室で、来実が声を抑えて私を呼ぶ。少し頬が赤くなっている。それだけでなにについて話されるのか分かってしまい、心の中を冷たい風が吹き抜けた。
「……文化祭でね、西川くんと一緒に回りたいんだけど、どう思う?」
「どうって……」
やめたほうがいいんじゃない、と言うこともできる。けれど、そう言ったとして、それは来実のためになる?違う、私のためだ。来実に私と一緒にいてほしい。でも、それを来実は望んでいない。だからそんな考えは切り捨てる。
「……いいと思うよ。せっかくの文化祭だし、この機に急接近できるかもね」
「ほんとっ?じゃ、じゃあ、沙月、誘いたいからちょっとついてきてくれる?」
「うん、もちろん。いつにする?」
まるで流れ作業のように調子の良い言葉を並べながら、西川くんの方にちらりと視線を向ける。ちょうど望月くんと談笑しているところだった。この数ヶ月でわかったのだけれど、あの二人はわりと相性がいいらしい。
「えぇー、いつにしよう……。沙月はいつがいいと思う?」
「思い立ったが吉日ってことで、今行ってみたら?」
「えっ、今!?」
「早い方がいいよ」
「た、確かにそうだけど……」
――しまった。
自分の意見を求められたことで調子に乗って、来実の気持ちも考えずに言ってしまった。今がいいのは、私がその方が心の整理がしやすいからだ。
戸惑っていた来実は「でも、そうだよね」と自分に言い聞かせるように呟き、顔を上げた。
「誘ってみる。沙月、ついてきて」
「うん」
私たちは椅子を立ち上がり望月くんと西川くんのところへ向かった。
「あの、西川くん!」
二人の会話が一段落したタイミングを見計らって、やや硬くなった来実の呼びかけに西川くんが振り向く。
「あ、どうしたの?水瀬さん」
望月くんと仲が良く来実が惚れるだけあって、落ち着いた感じで頼れそうな男の子だ。
「えっと、西川くん、文化祭の日予定ある?」
「文化祭の日?今のところクラスのシフト以外はないよ」
「あっ、じゃあ、もし良かったら私と一緒に回らない?もちろん、嫌だったらいいけど……」
「マジで!?いいの?嫌というかむしろ大歓迎だよ」
「ありがとう……」
本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた西川くんと頬を真っ赤にした来実を見て、大丈夫そうだなと思った。二人の話しぶりを見るに、これまでも何回か話したことはあったのだろう。
私と同じようにあまり人に話しかける方ではない来実がこんなに積極的になるなんて。恋ってすごいな、と妙に客観的にそんなことを考えた。
楽しそうに会話をする二人を眺めていたら、近くから視線を感じた。見ると、西川くんの横から、心配そうな瞳で私を見つめる望月くんとばちっと目が合ってしまった。私が目を逸らすより前に、望月くんが私に向かって小さく微笑んだから、動揺しつつも軽く頷く。大丈夫だよ、と伝わるように。
しばらくしていつの間にか連絡先の交換まで済ませた後、来実が私の方に向き直り、小声で喜びを伝えてきた。
「やった~!できたよ!」
「良かったね。すごいよ来実」
「そんなことないよ。沙月がいてくれたからだよ」
「違うよ……」
「ううん、そうだよ!」
来実は眩しい笑顔を向けてくれるけれど、私は何もしていない。ただそこにいただけだ。それに二人の会話よりも望月くんの視線の方が気になってしまった。
とはいえ、来実がすごいと思うのは本心だ。私だったらこんなに積極的には行けずに永遠に片想いを引きずっていると思う。
「あっ、でも、待って」
尊敬の眼差しを送っていたら、ふと来実が声を上げた。
「どうしたの?」
「沙月は……文化祭の日、大丈夫?」
「え……」
一瞬戸惑ったものの、そういうことか、とすぐさま理解する。来実は、彼女がいないと私が一人になってしまうことを心配してくれているのだ。去年の文化祭はずっと来実と二人だったけど、おそらく今年は。
「うん。大丈夫だよ。他の子と回るから。それより来実は私のこと気にしないで楽しんでね」
「そっか、ありがとう」
文化祭を一緒に回るような「他の子」なんて、本当はいない。いるわけがない。友達を作ってこなかった私に。
でも来実に余計な心配をかけたくなかった。
自分の席に戻ってから私はスマホを点けてSNSアプリを開いた。普段はほとんど学校でスマホは使っていないけれど、今は使わずにはいられなかった。
みぞれくんの投稿やリスナーによるイラスト、写真などを追っていく。欠けていく心を少しでも満たせるように。最後の居場所に縋るように。
想いが溢れている空間で、ふと一件の奇妙な投稿に指を止めた。たった一文なのにそれはやけに私の目を引いた。
【みぞれくんっていじめしてたってマジ?】
反応は一つもついていない。数十分前の投稿だった。
なにを言ってるんだろう、この人は。長くみぞれくんのファンをやっている私でもそんな話は聞いたことがないし、みぞれくんがそんなことをするわけがない。
満たされるために開いたSNSで逆に抉られてしまい、そっとスマホを閉じた。
◇
文化祭当日。
西川くんに声をかける来実を見送った後、一人でそろそろと教室を離れた。
学校の行事というものは、というより基本的に学校は「ひとりぼっち」に優しくない。来実がいなかったら、と思ったことも今まで何度もある。それが現実になるなんて思ってもみなかったけれど。
喧騒を避けたくて、クラスの教室などがある一号棟から、あまり使われていない二号棟へと向かう。
友達同士で、カップルで、グループで。誰かと一緒に文化祭を満喫しているたくさんの人たち。次どこ行こう、あそこ良かったよね、といった楽しそうな声がいたるところから聞こえてくる。
その中から「桜くん」という言葉が聞こえたとき、私は思わず足を止めた。女子三人組の明るい話し声がする。
「桜くんかわいかったねー」
「ね!他の女の子よりも似合ってた」
「でもさあ、桜くんってちょっと怖くない?」
「ええ、なんで?」
「だって、中学のときに学校行ってなかったらしいよ」
「えっ、そうなの!?」
一人の女の子の驚く声に私の心が共鳴した。
「闇深そう」
けれど、次に聞こえた別の子の一言が私の頭をちりっと焼く。学校に行っていなかったことと、怖い、闇が深いということになんの関係があるというのだろう。本人の事情も知らないのに噂から勝手に想像して、盛り上げて。人はいつも勝手だ。
彼女たちが言っていた望月くんの話は、今の彼からは想像もつかない。賢くて面倒見もよく、誰にでも好かれる望月くんからは。ただその才能への妬みなのか、一部の人からは嫌われているという話は聞いたことがある。もしかしたらその人たちが立てた噂かもしれない。
でもやっぱり、望月くんはよくも悪くもみんなの目を引く存在のようだ。私なんてクラスメイトから認知されているかも怪しいのに。
気持が沈み切る前に足早に二号棟へ行く。できるだけ人がいないところへ。美術室、音楽室なども通り過ぎ、薄暗い空き教室の前に辿り着いた。
文化祭の騒々しさがかなり遠くなっている。
恐る恐る扉を開けると、誰もいなかった。無造作に積み重なった机や椅子、落書きされた黒板、締め切られた窓。
埃っぽいけれど、ここなら落ち着けそうだ。外見は綺麗なこの私立高校にこんな場所があったなんて。
窓を開けると生ぬるい風が吹き込んでくる。その先はただの住宅街が広がっているだけだった。
平日のお昼時の街は恐ろしくしんとしている。学校と窓の外では時間の流れが随分と違うように見えた。ここはちょうどその狭間。学校内である限り、忙しなさと息苦しさから完全に逃れることはできない。
ここは二階、地面からの高さはあまりない。いっそここから飛び降りて学校を抜け出してしまいたい。最近は〝生き苦しさ〟が増していくだけだった。
でも、学校から出たところで私に居場所なんてない。
みぞれくんは私にとっての居場所だけど、ネットの世界には実際の空間がないから、現実の縛られた場所で架空の居場所に浸ることになってしまう。
だからせめて、居心地が良いとは言い難いけど、こういう空間を大切にしたい。
ここなら誰にも邪魔されることのない、私だけの時間を過ごせる。
「――あれ、姫野さん」
そんな私だけの空間は、すぐに高くやわらかい声に破られた。まさか誰かが来るなんて思っていなかったから、びっくりして肩が跳ねる。振り向くと、そこには、振り向かなくてもわかっていたけれど、望月くんがいた。
「望月くん!?どうして……」
「落ち着けそうなところがここしかなかったから」
自分だけの空間が壊されたような気分になったけれど、今の口ぶりからするに望月くんはこの場所を元から知っていたのかもしれない。だとしたら居場所を汚したのは私の方だ。
望月くんは部屋に入り窓際の席に座った。改めて見ると、肌は透き通るように白く、顔も整っていて、茶色い瞳は全てを見透かすかのように澄んでいる。小柄なことも相まって、イケメンと言うよりは可愛らしい。薄暗いこの空間には似合わない。
「どうしたの?」
じっと見てしまっていたせいで、望月くんが不思議そうに尋ねてきた。慌てて笑顔を作る。
「あっ、ううん、なんでもないよ。……そういえば望月くん、メイド服着たの?」
さっきの女子たちの会話を思い出してそう訊いてみる。
「着せられたよ。めっちゃ恥ずかしかった」
「へぇ。見てみたかったなぁ」
「別に僕のメイド服なんて需要なくない……?」
「あるよ!絶対可愛いでしょ」
「可愛くないよ」
とても似合っている様子が想像できる。着せた人もおそらく同じように思ったのだろう。恥ずかしがっている望月くんを見るのは新鮮だった。
「姫野さんは文化祭でなにか仕事ある?」
「ないよ。気付いたらシフト埋まってたし……」
クラスの仕事は全員が交代制でやるのかと思ったら、それほど人手はいらないということで、私はどの時間も担当しないことになった。それがいいのか悪いのかはともかく。
「じゃあずっとここにいるつもり?」
「……うん。行きたいところもないから。望月くんは?」
「僕もそのつもりだよ」
「友達から呼ばれたりとか約束してたりとかしないの?」
「今のところは特にないよ。これからできるかもしれないけど」
やはり望月くんが文化祭をこんなところでひとりで過ごすなんて意外すぎる。なんで、と訊きたいけれどやめておく。望月くんも私がここにいることついては尋ねてこない。
なにも言えない私の代わりに、ふぅ、と力を抜くように息をついて望月くんが続ける。
「文化祭ならではの雰囲気みたいなの、苦手なんだよね。人が多いと疲れるし」
「そうだよね。私も文化祭とか体育祭ってあんまり好きじゃない……。私じゃ場違いな感じがしちゃう」
「キラキラしてる人のためのものみたいな感じだよね」
彼の言葉にこくこくと頷く一方、望月くんだって〝そっち側〟じゃないのかなと考えていた。
『中学のときに学校行ってなかったらしいよ』
真偽不明の噂が頭の中で再生される。
「望月くんは、こういう静かなところ好きなの?」
心の奥に触れないよにしながら、けれど少しでも彼のことを知れるように、言葉を選びながら尋ねてみる。
「うん。教室みたいな忙しない空間よりも、ゆっくりできるところの方が好き」
「わかる……」
自分とはかけ離れたところにいるはずの望月くん。そんな彼の言葉に共感できることが不思議でたまらない。
「望月くんも教室だと、ちょっと息苦しいなとか思ったりする?」
言ってしまってから、突っ込みすぎた、とすぐに後悔した。来実以外の人とほとんど話していなかったせいだ。
けれど望月くんはなにも気にする様子もなく答えてくれた。
「仲良い人はいるから、息苦しいとまでは行かないかな。言いたくても言えないみたいなことは、もちろんあるけど」
「そうなんだね……」
やっぱり私と望月くんは違う。彼にはたくさんの友達がいて、優しいし、賢い。一瞬でも似てるかもしれないと思った私がバカだった。そもそも私と似てるなんて嫌味でしかない。
望月くんにはなぜかいろいろ尋ねたくなってしまうけれど、深いところまで触れてしまって傷つけてしまうのは嫌なので、私は話題を変えることにした。
会話力は明らかに望月くんの方が高いから、気まずくなることもなく雑談をすることができた。
学校に行っていなかった、という噂と目の前のやわらかな男の子とは、どうしても結びつかなかった。
文化祭が終わり、空き教室からクラスへと戻る。するとすぐに来実が話しかけてきた。
「沙月、どこ行ってたの?文化祭中全然いなかったじゃん」
「あ、えっと……」
空き教室で望月くんとずっと話していた、正直に言うのは気が引けた。一週間前に「他の子と回る」と自分で言ったから、心苦しいけれどそれに合わせる。
「クラスの友達と回ってたよ。偶然会わなかっただけじゃないかな」
「そっか。楽しかった?」
望月くんと話すのは楽しかったから、ここで頷くことは嘘にはならない。心の中でよくわからない言い訳を並べる。
「うん。来実は?」
「すごく楽しかったよ!西川くんかっこよかった……!」
「良かったね」
「うん!」
嬉しそうに笑う来実を見ながら、私はやっぱり複雑な思いを抱えていた。
それを来実に悟られないように、私も笑みを作る。応援する、と言ったのは私だ。
「もうこのまま告白しちゃってもいいんじゃない?」
「えっ、さすがに早いよ……!心の準備もできてないよ」
「大丈夫だよ。来実は可愛いから、西川くんも受け入れてくれるよ」
「そうかなあ。でも、うん、遠くないうちに、言いたいなって思ってる」
「……!そっか、頑張ってね。来実なら行けるよ」
「うん。ありがとう、沙月」
私にはそんなに純真な「ありがとう」を受け取る資格なんかない。来実のことは大好きなのに、大切なのに、どうしても全力で応援することができない。
西川くんと来実が付き合ったら、私が彼女といられる時間が少なくなる。来実は、私という友達より恋人を優先するだろう。それは、カップルだから、おかしくないこと。
でも。
ねえ、来実。どうして、恋なんて――。
違う、ダメだ、こんなことを考えてはいけない。
来実が西川くんと近付けば近付くほど、私の中の黒い靄が広がっていく。自分の嫌な部分が暴走しようとしている。
必死に隠して、抑えて、潰して。
今もまた、無理に笑う。
家に帰った後、例によって今日も部屋のベットに転がってSNSを開く。最近こういう日が増えた。以前は一日に一度もSNSを見ない日だってあったのに。
一週間前に見た「みぞれくんはいじめをしていた」という噂は今のところあの投稿以外には見ていない。変なものが広まってはいないようでほっとした。
だんだんと広がっていく私の心の穴を埋めるように、リスナーが描いたみぞれくんのイラストなどを漁っていく。
動画配信アプリでみぞれくんの過去の動画を聞き直したり、歌を聴いたりもした。
ここだけ。
私が自分を預けられる場所は、この架空の世界だけだから。
来週には文化祭がある。このクラスはメイド喫茶をするらしい。もちろん私はメイド服なんて着るわけがない。
「ね、沙月」
「ん?」
休み時間の教室で、来実が声を抑えて私を呼ぶ。少し頬が赤くなっている。それだけでなにについて話されるのか分かってしまい、心の中を冷たい風が吹き抜けた。
「……文化祭でね、西川くんと一緒に回りたいんだけど、どう思う?」
「どうって……」
やめたほうがいいんじゃない、と言うこともできる。けれど、そう言ったとして、それは来実のためになる?違う、私のためだ。来実に私と一緒にいてほしい。でも、それを来実は望んでいない。だからそんな考えは切り捨てる。
「……いいと思うよ。せっかくの文化祭だし、この機に急接近できるかもね」
「ほんとっ?じゃ、じゃあ、沙月、誘いたいからちょっとついてきてくれる?」
「うん、もちろん。いつにする?」
まるで流れ作業のように調子の良い言葉を並べながら、西川くんの方にちらりと視線を向ける。ちょうど望月くんと談笑しているところだった。この数ヶ月でわかったのだけれど、あの二人はわりと相性がいいらしい。
「えぇー、いつにしよう……。沙月はいつがいいと思う?」
「思い立ったが吉日ってことで、今行ってみたら?」
「えっ、今!?」
「早い方がいいよ」
「た、確かにそうだけど……」
――しまった。
自分の意見を求められたことで調子に乗って、来実の気持ちも考えずに言ってしまった。今がいいのは、私がその方が心の整理がしやすいからだ。
戸惑っていた来実は「でも、そうだよね」と自分に言い聞かせるように呟き、顔を上げた。
「誘ってみる。沙月、ついてきて」
「うん」
私たちは椅子を立ち上がり望月くんと西川くんのところへ向かった。
「あの、西川くん!」
二人の会話が一段落したタイミングを見計らって、やや硬くなった来実の呼びかけに西川くんが振り向く。
「あ、どうしたの?水瀬さん」
望月くんと仲が良く来実が惚れるだけあって、落ち着いた感じで頼れそうな男の子だ。
「えっと、西川くん、文化祭の日予定ある?」
「文化祭の日?今のところクラスのシフト以外はないよ」
「あっ、じゃあ、もし良かったら私と一緒に回らない?もちろん、嫌だったらいいけど……」
「マジで!?いいの?嫌というかむしろ大歓迎だよ」
「ありがとう……」
本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた西川くんと頬を真っ赤にした来実を見て、大丈夫そうだなと思った。二人の話しぶりを見るに、これまでも何回か話したことはあったのだろう。
私と同じようにあまり人に話しかける方ではない来実がこんなに積極的になるなんて。恋ってすごいな、と妙に客観的にそんなことを考えた。
楽しそうに会話をする二人を眺めていたら、近くから視線を感じた。見ると、西川くんの横から、心配そうな瞳で私を見つめる望月くんとばちっと目が合ってしまった。私が目を逸らすより前に、望月くんが私に向かって小さく微笑んだから、動揺しつつも軽く頷く。大丈夫だよ、と伝わるように。
しばらくしていつの間にか連絡先の交換まで済ませた後、来実が私の方に向き直り、小声で喜びを伝えてきた。
「やった~!できたよ!」
「良かったね。すごいよ来実」
「そんなことないよ。沙月がいてくれたからだよ」
「違うよ……」
「ううん、そうだよ!」
来実は眩しい笑顔を向けてくれるけれど、私は何もしていない。ただそこにいただけだ。それに二人の会話よりも望月くんの視線の方が気になってしまった。
とはいえ、来実がすごいと思うのは本心だ。私だったらこんなに積極的には行けずに永遠に片想いを引きずっていると思う。
「あっ、でも、待って」
尊敬の眼差しを送っていたら、ふと来実が声を上げた。
「どうしたの?」
「沙月は……文化祭の日、大丈夫?」
「え……」
一瞬戸惑ったものの、そういうことか、とすぐさま理解する。来実は、彼女がいないと私が一人になってしまうことを心配してくれているのだ。去年の文化祭はずっと来実と二人だったけど、おそらく今年は。
「うん。大丈夫だよ。他の子と回るから。それより来実は私のこと気にしないで楽しんでね」
「そっか、ありがとう」
文化祭を一緒に回るような「他の子」なんて、本当はいない。いるわけがない。友達を作ってこなかった私に。
でも来実に余計な心配をかけたくなかった。
自分の席に戻ってから私はスマホを点けてSNSアプリを開いた。普段はほとんど学校でスマホは使っていないけれど、今は使わずにはいられなかった。
みぞれくんの投稿やリスナーによるイラスト、写真などを追っていく。欠けていく心を少しでも満たせるように。最後の居場所に縋るように。
想いが溢れている空間で、ふと一件の奇妙な投稿に指を止めた。たった一文なのにそれはやけに私の目を引いた。
【みぞれくんっていじめしてたってマジ?】
反応は一つもついていない。数十分前の投稿だった。
なにを言ってるんだろう、この人は。長くみぞれくんのファンをやっている私でもそんな話は聞いたことがないし、みぞれくんがそんなことをするわけがない。
満たされるために開いたSNSで逆に抉られてしまい、そっとスマホを閉じた。
◇
文化祭当日。
西川くんに声をかける来実を見送った後、一人でそろそろと教室を離れた。
学校の行事というものは、というより基本的に学校は「ひとりぼっち」に優しくない。来実がいなかったら、と思ったことも今まで何度もある。それが現実になるなんて思ってもみなかったけれど。
喧騒を避けたくて、クラスの教室などがある一号棟から、あまり使われていない二号棟へと向かう。
友達同士で、カップルで、グループで。誰かと一緒に文化祭を満喫しているたくさんの人たち。次どこ行こう、あそこ良かったよね、といった楽しそうな声がいたるところから聞こえてくる。
その中から「桜くん」という言葉が聞こえたとき、私は思わず足を止めた。女子三人組の明るい話し声がする。
「桜くんかわいかったねー」
「ね!他の女の子よりも似合ってた」
「でもさあ、桜くんってちょっと怖くない?」
「ええ、なんで?」
「だって、中学のときに学校行ってなかったらしいよ」
「えっ、そうなの!?」
一人の女の子の驚く声に私の心が共鳴した。
「闇深そう」
けれど、次に聞こえた別の子の一言が私の頭をちりっと焼く。学校に行っていなかったことと、怖い、闇が深いということになんの関係があるというのだろう。本人の事情も知らないのに噂から勝手に想像して、盛り上げて。人はいつも勝手だ。
彼女たちが言っていた望月くんの話は、今の彼からは想像もつかない。賢くて面倒見もよく、誰にでも好かれる望月くんからは。ただその才能への妬みなのか、一部の人からは嫌われているという話は聞いたことがある。もしかしたらその人たちが立てた噂かもしれない。
でもやっぱり、望月くんはよくも悪くもみんなの目を引く存在のようだ。私なんてクラスメイトから認知されているかも怪しいのに。
気持が沈み切る前に足早に二号棟へ行く。できるだけ人がいないところへ。美術室、音楽室なども通り過ぎ、薄暗い空き教室の前に辿り着いた。
文化祭の騒々しさがかなり遠くなっている。
恐る恐る扉を開けると、誰もいなかった。無造作に積み重なった机や椅子、落書きされた黒板、締め切られた窓。
埃っぽいけれど、ここなら落ち着けそうだ。外見は綺麗なこの私立高校にこんな場所があったなんて。
窓を開けると生ぬるい風が吹き込んでくる。その先はただの住宅街が広がっているだけだった。
平日のお昼時の街は恐ろしくしんとしている。学校と窓の外では時間の流れが随分と違うように見えた。ここはちょうどその狭間。学校内である限り、忙しなさと息苦しさから完全に逃れることはできない。
ここは二階、地面からの高さはあまりない。いっそここから飛び降りて学校を抜け出してしまいたい。最近は〝生き苦しさ〟が増していくだけだった。
でも、学校から出たところで私に居場所なんてない。
みぞれくんは私にとっての居場所だけど、ネットの世界には実際の空間がないから、現実の縛られた場所で架空の居場所に浸ることになってしまう。
だからせめて、居心地が良いとは言い難いけど、こういう空間を大切にしたい。
ここなら誰にも邪魔されることのない、私だけの時間を過ごせる。
「――あれ、姫野さん」
そんな私だけの空間は、すぐに高くやわらかい声に破られた。まさか誰かが来るなんて思っていなかったから、びっくりして肩が跳ねる。振り向くと、そこには、振り向かなくてもわかっていたけれど、望月くんがいた。
「望月くん!?どうして……」
「落ち着けそうなところがここしかなかったから」
自分だけの空間が壊されたような気分になったけれど、今の口ぶりからするに望月くんはこの場所を元から知っていたのかもしれない。だとしたら居場所を汚したのは私の方だ。
望月くんは部屋に入り窓際の席に座った。改めて見ると、肌は透き通るように白く、顔も整っていて、茶色い瞳は全てを見透かすかのように澄んでいる。小柄なことも相まって、イケメンと言うよりは可愛らしい。薄暗いこの空間には似合わない。
「どうしたの?」
じっと見てしまっていたせいで、望月くんが不思議そうに尋ねてきた。慌てて笑顔を作る。
「あっ、ううん、なんでもないよ。……そういえば望月くん、メイド服着たの?」
さっきの女子たちの会話を思い出してそう訊いてみる。
「着せられたよ。めっちゃ恥ずかしかった」
「へぇ。見てみたかったなぁ」
「別に僕のメイド服なんて需要なくない……?」
「あるよ!絶対可愛いでしょ」
「可愛くないよ」
とても似合っている様子が想像できる。着せた人もおそらく同じように思ったのだろう。恥ずかしがっている望月くんを見るのは新鮮だった。
「姫野さんは文化祭でなにか仕事ある?」
「ないよ。気付いたらシフト埋まってたし……」
クラスの仕事は全員が交代制でやるのかと思ったら、それほど人手はいらないということで、私はどの時間も担当しないことになった。それがいいのか悪いのかはともかく。
「じゃあずっとここにいるつもり?」
「……うん。行きたいところもないから。望月くんは?」
「僕もそのつもりだよ」
「友達から呼ばれたりとか約束してたりとかしないの?」
「今のところは特にないよ。これからできるかもしれないけど」
やはり望月くんが文化祭をこんなところでひとりで過ごすなんて意外すぎる。なんで、と訊きたいけれどやめておく。望月くんも私がここにいることついては尋ねてこない。
なにも言えない私の代わりに、ふぅ、と力を抜くように息をついて望月くんが続ける。
「文化祭ならではの雰囲気みたいなの、苦手なんだよね。人が多いと疲れるし」
「そうだよね。私も文化祭とか体育祭ってあんまり好きじゃない……。私じゃ場違いな感じがしちゃう」
「キラキラしてる人のためのものみたいな感じだよね」
彼の言葉にこくこくと頷く一方、望月くんだって〝そっち側〟じゃないのかなと考えていた。
『中学のときに学校行ってなかったらしいよ』
真偽不明の噂が頭の中で再生される。
「望月くんは、こういう静かなところ好きなの?」
心の奥に触れないよにしながら、けれど少しでも彼のことを知れるように、言葉を選びながら尋ねてみる。
「うん。教室みたいな忙しない空間よりも、ゆっくりできるところの方が好き」
「わかる……」
自分とはかけ離れたところにいるはずの望月くん。そんな彼の言葉に共感できることが不思議でたまらない。
「望月くんも教室だと、ちょっと息苦しいなとか思ったりする?」
言ってしまってから、突っ込みすぎた、とすぐに後悔した。来実以外の人とほとんど話していなかったせいだ。
けれど望月くんはなにも気にする様子もなく答えてくれた。
「仲良い人はいるから、息苦しいとまでは行かないかな。言いたくても言えないみたいなことは、もちろんあるけど」
「そうなんだね……」
やっぱり私と望月くんは違う。彼にはたくさんの友達がいて、優しいし、賢い。一瞬でも似てるかもしれないと思った私がバカだった。そもそも私と似てるなんて嫌味でしかない。
望月くんにはなぜかいろいろ尋ねたくなってしまうけれど、深いところまで触れてしまって傷つけてしまうのは嫌なので、私は話題を変えることにした。
会話力は明らかに望月くんの方が高いから、気まずくなることもなく雑談をすることができた。
学校に行っていなかった、という噂と目の前のやわらかな男の子とは、どうしても結びつかなかった。
文化祭が終わり、空き教室からクラスへと戻る。するとすぐに来実が話しかけてきた。
「沙月、どこ行ってたの?文化祭中全然いなかったじゃん」
「あ、えっと……」
空き教室で望月くんとずっと話していた、正直に言うのは気が引けた。一週間前に「他の子と回る」と自分で言ったから、心苦しいけれどそれに合わせる。
「クラスの友達と回ってたよ。偶然会わなかっただけじゃないかな」
「そっか。楽しかった?」
望月くんと話すのは楽しかったから、ここで頷くことは嘘にはならない。心の中でよくわからない言い訳を並べる。
「うん。来実は?」
「すごく楽しかったよ!西川くんかっこよかった……!」
「良かったね」
「うん!」
嬉しそうに笑う来実を見ながら、私はやっぱり複雑な思いを抱えていた。
それを来実に悟られないように、私も笑みを作る。応援する、と言ったのは私だ。
「もうこのまま告白しちゃってもいいんじゃない?」
「えっ、さすがに早いよ……!心の準備もできてないよ」
「大丈夫だよ。来実は可愛いから、西川くんも受け入れてくれるよ」
「そうかなあ。でも、うん、遠くないうちに、言いたいなって思ってる」
「……!そっか、頑張ってね。来実なら行けるよ」
「うん。ありがとう、沙月」
私にはそんなに純真な「ありがとう」を受け取る資格なんかない。来実のことは大好きなのに、大切なのに、どうしても全力で応援することができない。
西川くんと来実が付き合ったら、私が彼女といられる時間が少なくなる。来実は、私という友達より恋人を優先するだろう。それは、カップルだから、おかしくないこと。
でも。
ねえ、来実。どうして、恋なんて――。
違う、ダメだ、こんなことを考えてはいけない。
来実が西川くんと近付けば近付くほど、私の中の黒い靄が広がっていく。自分の嫌な部分が暴走しようとしている。
必死に隠して、抑えて、潰して。
今もまた、無理に笑う。
家に帰った後、例によって今日も部屋のベットに転がってSNSを開く。最近こういう日が増えた。以前は一日に一度もSNSを見ない日だってあったのに。
一週間前に見た「みぞれくんはいじめをしていた」という噂は今のところあの投稿以外には見ていない。変なものが広まってはいないようでほっとした。
だんだんと広がっていく私の心の穴を埋めるように、リスナーが描いたみぞれくんのイラストなどを漁っていく。
動画配信アプリでみぞれくんの過去の動画を聞き直したり、歌を聴いたりもした。
ここだけ。
私が自分を預けられる場所は、この架空の世界だけだから。



