来実と西川くん、私と望月くんの関係になんの進展もないまま二ヶ月が過ぎた。
そのことにつまらないなと思いつつも、心のどこかで安心していた。
夏の暑さから隔離された、冷房の効いた教室。一週間後に期末テストが迫っているため、私は放課後残って勉強をしていた。
他にも何人か残っている人はいたけれど、みんな帰ってしまって今はひとりだ。周りに誰かがいるよりはこの方が勉強しやすい。
集中力が切れ、顔を上げるともう午後六時になるところだった。まだ外は暗くないのに、もうこんな時間。六時は生徒下校の時刻で、それ以降は残れない。
帰りの準備をしようと机の上を片付け始めたとき、教室の扉がガラリと開いた。完全に油断していたのでびっくりしてそちらを見る。
「あ、まだいたんだ。ごめんね」
和やかな声を響かせて入ってきた人物を見てさらに驚かされる。望月くんだった。
無視するわけにもいかないので、私も疲れを悟られないよう明るい声を意識して口を開く。
「ううん、大丈夫だよ。望月くんは部活?」
「部活じゃなくて、生徒会の仕事があって」
「えっ!望月くん生徒会なの?」
「うん。選挙で選ばれた人とは別に、雑用みたいな仕事してる」
「へえ、すごい……!」
「そんなことないよ」
私なんて生徒会の仕組みすらよく分かっていなかった。積極的に学校の制度に関わろうとする姿勢は尊敬するほかない。
「姫野さんこそすごいよ、こんなに遅くまで頑張って」
「えっ、それこそそんなことないよ!これくらいはやらなきゃいけないから……」
「やらなきゃいけない?」
望月くんか軽く首をかしげる。
「えっと……私、みんなと同じくらい勉強しても全然いい成績が取れなくて。だから、人一倍勉強しないといけないし、頑張らなきゃダメなんだよ」
前回の一学期中間テストだって、膨大な時間を勉強に費やしたのに思うような点数を取れなかった。今回はそれ以上に勉強をしなければならない。
真っ直ぐな瞳が心を見透かすように射抜く。その視線を感じて私は自分が話し過ぎていたことに気付いた。どうしてこんなに話してしまったんだろう。望月くんには何も関係のないことだから、そんなことを言われても困ってしまったに違いない。
「本当にすごいね……。僕はそんなに頑張れないよ」
慌てて言葉を続けようとした私の耳に入ってきたのは、本気で感心したような声だった。
「ううん。まだ足りないよ」
まだ全然足りない。自戒をたっぷり込めてそう言うと、望月くんはふっと表情を緩めた。
「あんまり頑張りすぎないようにね。心を壊しちゃったら元も子もないから。でも、応援してるよ」
「ありがとう……」
私もこんなふうに、さらっと「応援してる」と言えたらいいのに。私の心は望月くんほど綺麗ではない。嫌なことを思い出してしまった。
「じゃあ、姫野さん、また明日。お疲れ様」
「あっ、うん、お疲れ様」
最後に付け加えられた一言で、私の胸が大きく跳ねた。軽い足取りで去っていった望月くんは、やはり名前通り桜がよく似合う人だと思う。そしてどこかみぞれくんにも似ている。
望月くんには、期待していいのかな。
そんな変な気持ちがまた浮かび上がってきて、慌てて打ち消した。望月くんは誰にだってこうしてやわらかく接する。あれは私だけに向けられたものじゃない。望月くんからしてみれば私なんてただのクラスメイトAでしかない。
私がやるべきことは、望月くんの応援も力にただひらすら努力するだけだ。
そうすればいつか必ず結果に表れるで、周りの人も私の努力を、私を、認めてくれるだろうから――。
重い鞄を持ち、よろけそうになりながらゆっくりと教室を出た。
◇
期末テストの結果は、悲惨なものだった。
どの教科も平均点に届くか届かないかくらいで、勉強の成果が反映されているようには思えない。
いつものことだから予想はしていたけれど、あんなに頑張ったのに、なんで。悔しは拭えない。
理由は明白だ。テストの当日、ほぼ全ての教科で緊張と焦りのせいで思うように解けなかったのだ。自分が積み上げてきたものを自分で捨てたようなものだった。
これだけ頑張っても上手くいかないなら、私はどうすればいいんだろう。
苦しい現実をまざまざと突きつけてくる成績表を見てため息をつきそうになるのを堪え、まだ騒がしさの残る教室を後にした。
家に帰り着いてからはずっと心が休まる暇がなかった。この成績表をお母さんに見せたときのことを考えると憂鬱な気分にならずにはいられない。
後回しにしてもその気分が続くだけだし、捨てても学校の予定表をしっかり見ているお母さんにはバレてしまうだけだから、いつも成績表は配られたその日に見せている。
夜になって、お母さんが帰ってきた。
「ただいま」
「……おかえり」
タイミングを見計らって成績表を差し出す。
「どうだったの?」
「……」
私はなにも答えられない。鋭い目線を成績表に移したお母さんの顔がみるみる険しくなっていく。
お母さんだって予想はできていたはずじゃないの?私はそう簡単には成績が上がらないって。
そんなことはもちろん口にはしない。
「なにこれ、どういうこと?」
もう幾度となく聞かされてきたきつい口調に未だ慣れなくて、びくりと肩が震える。
「こんなんじゃ全然ダメじゃない。ちゃんと勉強してきたの?」
「……ごめんなさい」
してきたよ。勉強量だけで言えば、クラスの半分の人たちよりは何倍も頑張ったはずだ。
勉強したことが事実だけど、そんなことを言っても事を荒立てるだけだから、ただ謝罪の言葉を述べる。
「ねえ、わかってる?沙月には私が行ったところくらいの大学に行ってもらいたいの。それなのに定期テストでさえこれだったらどう転んでも行けるわけないじゃない。もっと頑張りなさい」
「はい……」
お母さんが行ったのは世間でも有名な国立大学だった。私にもそれと同等なものを期待している。
今の私の学力では、到底追いつけない。
でも、私、そうなれるように頑張ってるんだよ?結果ばかりじゃなくて、もっとそれを見てよ……。
吐き出せない感情が体の中に蓄積されていく。胸が詰まりそうだった。
はあ、とお母さんが大袈裟に溜息をついた。
「私は沙月のこと信じてるんだからね。その気持ちに応えてちょうだい」
はい、ともう一度小さく返事をしてその場を去った。
信用とか期待とかいうものは、ときにプレッシャーとして重くのしかかる。信用されるのも、するのも、場合によっては苦しい。いくら信じられても、私にはそんな学力はない。だからもう、諦めてほしい。
自分の部屋に戻り、ベットに突っ伏した。
もし私が自分の気持ちをはっきり言えていたら、なにか変わっただろうか。
いや、変わったとしても悪くなる。私の自己主張が良い方に働くなんて考えられない。だから私はずっと、家族にすら感情や夢を隠している。これまでも、これからも。
大学だって本当は、行きたいところがないどころか行きたくない。だって私の夢を叶えることに大学は必要ないから。
本当は、勉強よりももっと他にやりたいことがある。でも、言えない。
私の家族はそこまで深く関わり合えているわけではなく、お父さんとお母さんの馴れ初めや私が生まれたときのこともあまり知らない。私も学校であったことや自分の予定を話すことはしない。
お父さんは寡黙で真面目なタイプで、お母さんは思ったことを何でも口にするタイプ。つまり家族の主導権はお母さんが握っている。
家族の仲は、私がそうならないように常に気を遣っていて、お父さんがなにを言われてもお母さんに反論しないので、悪くない。表面上は平和な家庭だと思う。
けれど私にとっては全くもって居心地の良い場所ではなくて、できるなら早くここから出たい。小学生時代、一人で友達の家に遊びに行ったとき、遅くなっても帰りを渋ることが何度もあって、友達の家族に迷惑をかけてしまった。
私は幼い頃から自分の意見を積極的に言う方ではなかったから、自分の意見がない子なんだと思われることがよくあった。高校受験も、本当は行きたいところがあったけれどそれは言わず、母の決めた高校を第一志望で受けることにした。結果的には受からなかったのだけど。
その高校受験の失敗が、私の口をさらに重くした。結果を知ったお母さんから「勉強量が足りてなかったか、やり方が悪かったんじゃないの」と言われたからだ。
そんな些細な言葉でも、お母さんの期待に応えようと必死に受験勉強をしてきた私にはナイフのように突き刺さった。
お母さんは、私の努力を認めてくれなかった。
それがどうしようもなくつらくて、寂しくて、もう高校生からは頑張らなくていいかとさえ思った。けれどなんとか踏みとどまって、だったら今度こそお母さんの期待に応えられるように、お母さんに認めてもらえるように頑張ってきた。
……だけどそれも、そろそろ限界なのかもしれない。
「望月くん……」
どうしてか、ふいにその人の名前が口をついて出た。
静かな部屋に降った声は、誰にも届かず、消えていく。
『すごいね、こんなに遅くまで頑張って』
もう一度、そうして褒めてほしいよ――。
息苦しいほど暑い夏に、桜のような温もりを求めていた。
そのことにつまらないなと思いつつも、心のどこかで安心していた。
夏の暑さから隔離された、冷房の効いた教室。一週間後に期末テストが迫っているため、私は放課後残って勉強をしていた。
他にも何人か残っている人はいたけれど、みんな帰ってしまって今はひとりだ。周りに誰かがいるよりはこの方が勉強しやすい。
集中力が切れ、顔を上げるともう午後六時になるところだった。まだ外は暗くないのに、もうこんな時間。六時は生徒下校の時刻で、それ以降は残れない。
帰りの準備をしようと机の上を片付け始めたとき、教室の扉がガラリと開いた。完全に油断していたのでびっくりしてそちらを見る。
「あ、まだいたんだ。ごめんね」
和やかな声を響かせて入ってきた人物を見てさらに驚かされる。望月くんだった。
無視するわけにもいかないので、私も疲れを悟られないよう明るい声を意識して口を開く。
「ううん、大丈夫だよ。望月くんは部活?」
「部活じゃなくて、生徒会の仕事があって」
「えっ!望月くん生徒会なの?」
「うん。選挙で選ばれた人とは別に、雑用みたいな仕事してる」
「へえ、すごい……!」
「そんなことないよ」
私なんて生徒会の仕組みすらよく分かっていなかった。積極的に学校の制度に関わろうとする姿勢は尊敬するほかない。
「姫野さんこそすごいよ、こんなに遅くまで頑張って」
「えっ、それこそそんなことないよ!これくらいはやらなきゃいけないから……」
「やらなきゃいけない?」
望月くんか軽く首をかしげる。
「えっと……私、みんなと同じくらい勉強しても全然いい成績が取れなくて。だから、人一倍勉強しないといけないし、頑張らなきゃダメなんだよ」
前回の一学期中間テストだって、膨大な時間を勉強に費やしたのに思うような点数を取れなかった。今回はそれ以上に勉強をしなければならない。
真っ直ぐな瞳が心を見透かすように射抜く。その視線を感じて私は自分が話し過ぎていたことに気付いた。どうしてこんなに話してしまったんだろう。望月くんには何も関係のないことだから、そんなことを言われても困ってしまったに違いない。
「本当にすごいね……。僕はそんなに頑張れないよ」
慌てて言葉を続けようとした私の耳に入ってきたのは、本気で感心したような声だった。
「ううん。まだ足りないよ」
まだ全然足りない。自戒をたっぷり込めてそう言うと、望月くんはふっと表情を緩めた。
「あんまり頑張りすぎないようにね。心を壊しちゃったら元も子もないから。でも、応援してるよ」
「ありがとう……」
私もこんなふうに、さらっと「応援してる」と言えたらいいのに。私の心は望月くんほど綺麗ではない。嫌なことを思い出してしまった。
「じゃあ、姫野さん、また明日。お疲れ様」
「あっ、うん、お疲れ様」
最後に付け加えられた一言で、私の胸が大きく跳ねた。軽い足取りで去っていった望月くんは、やはり名前通り桜がよく似合う人だと思う。そしてどこかみぞれくんにも似ている。
望月くんには、期待していいのかな。
そんな変な気持ちがまた浮かび上がってきて、慌てて打ち消した。望月くんは誰にだってこうしてやわらかく接する。あれは私だけに向けられたものじゃない。望月くんからしてみれば私なんてただのクラスメイトAでしかない。
私がやるべきことは、望月くんの応援も力にただひらすら努力するだけだ。
そうすればいつか必ず結果に表れるで、周りの人も私の努力を、私を、認めてくれるだろうから――。
重い鞄を持ち、よろけそうになりながらゆっくりと教室を出た。
◇
期末テストの結果は、悲惨なものだった。
どの教科も平均点に届くか届かないかくらいで、勉強の成果が反映されているようには思えない。
いつものことだから予想はしていたけれど、あんなに頑張ったのに、なんで。悔しは拭えない。
理由は明白だ。テストの当日、ほぼ全ての教科で緊張と焦りのせいで思うように解けなかったのだ。自分が積み上げてきたものを自分で捨てたようなものだった。
これだけ頑張っても上手くいかないなら、私はどうすればいいんだろう。
苦しい現実をまざまざと突きつけてくる成績表を見てため息をつきそうになるのを堪え、まだ騒がしさの残る教室を後にした。
家に帰り着いてからはずっと心が休まる暇がなかった。この成績表をお母さんに見せたときのことを考えると憂鬱な気分にならずにはいられない。
後回しにしてもその気分が続くだけだし、捨てても学校の予定表をしっかり見ているお母さんにはバレてしまうだけだから、いつも成績表は配られたその日に見せている。
夜になって、お母さんが帰ってきた。
「ただいま」
「……おかえり」
タイミングを見計らって成績表を差し出す。
「どうだったの?」
「……」
私はなにも答えられない。鋭い目線を成績表に移したお母さんの顔がみるみる険しくなっていく。
お母さんだって予想はできていたはずじゃないの?私はそう簡単には成績が上がらないって。
そんなことはもちろん口にはしない。
「なにこれ、どういうこと?」
もう幾度となく聞かされてきたきつい口調に未だ慣れなくて、びくりと肩が震える。
「こんなんじゃ全然ダメじゃない。ちゃんと勉強してきたの?」
「……ごめんなさい」
してきたよ。勉強量だけで言えば、クラスの半分の人たちよりは何倍も頑張ったはずだ。
勉強したことが事実だけど、そんなことを言っても事を荒立てるだけだから、ただ謝罪の言葉を述べる。
「ねえ、わかってる?沙月には私が行ったところくらいの大学に行ってもらいたいの。それなのに定期テストでさえこれだったらどう転んでも行けるわけないじゃない。もっと頑張りなさい」
「はい……」
お母さんが行ったのは世間でも有名な国立大学だった。私にもそれと同等なものを期待している。
今の私の学力では、到底追いつけない。
でも、私、そうなれるように頑張ってるんだよ?結果ばかりじゃなくて、もっとそれを見てよ……。
吐き出せない感情が体の中に蓄積されていく。胸が詰まりそうだった。
はあ、とお母さんが大袈裟に溜息をついた。
「私は沙月のこと信じてるんだからね。その気持ちに応えてちょうだい」
はい、ともう一度小さく返事をしてその場を去った。
信用とか期待とかいうものは、ときにプレッシャーとして重くのしかかる。信用されるのも、するのも、場合によっては苦しい。いくら信じられても、私にはそんな学力はない。だからもう、諦めてほしい。
自分の部屋に戻り、ベットに突っ伏した。
もし私が自分の気持ちをはっきり言えていたら、なにか変わっただろうか。
いや、変わったとしても悪くなる。私の自己主張が良い方に働くなんて考えられない。だから私はずっと、家族にすら感情や夢を隠している。これまでも、これからも。
大学だって本当は、行きたいところがないどころか行きたくない。だって私の夢を叶えることに大学は必要ないから。
本当は、勉強よりももっと他にやりたいことがある。でも、言えない。
私の家族はそこまで深く関わり合えているわけではなく、お父さんとお母さんの馴れ初めや私が生まれたときのこともあまり知らない。私も学校であったことや自分の予定を話すことはしない。
お父さんは寡黙で真面目なタイプで、お母さんは思ったことを何でも口にするタイプ。つまり家族の主導権はお母さんが握っている。
家族の仲は、私がそうならないように常に気を遣っていて、お父さんがなにを言われてもお母さんに反論しないので、悪くない。表面上は平和な家庭だと思う。
けれど私にとっては全くもって居心地の良い場所ではなくて、できるなら早くここから出たい。小学生時代、一人で友達の家に遊びに行ったとき、遅くなっても帰りを渋ることが何度もあって、友達の家族に迷惑をかけてしまった。
私は幼い頃から自分の意見を積極的に言う方ではなかったから、自分の意見がない子なんだと思われることがよくあった。高校受験も、本当は行きたいところがあったけれどそれは言わず、母の決めた高校を第一志望で受けることにした。結果的には受からなかったのだけど。
その高校受験の失敗が、私の口をさらに重くした。結果を知ったお母さんから「勉強量が足りてなかったか、やり方が悪かったんじゃないの」と言われたからだ。
そんな些細な言葉でも、お母さんの期待に応えようと必死に受験勉強をしてきた私にはナイフのように突き刺さった。
お母さんは、私の努力を認めてくれなかった。
それがどうしようもなくつらくて、寂しくて、もう高校生からは頑張らなくていいかとさえ思った。けれどなんとか踏みとどまって、だったら今度こそお母さんの期待に応えられるように、お母さんに認めてもらえるように頑張ってきた。
……だけどそれも、そろそろ限界なのかもしれない。
「望月くん……」
どうしてか、ふいにその人の名前が口をついて出た。
静かな部屋に降った声は、誰にも届かず、消えていく。
『すごいね、こんなに遅くまで頑張って』
もう一度、そうして褒めてほしいよ――。
息苦しいほど暑い夏に、桜のような温もりを求めていた。



