「じゃあ、いってくるね、唯菜ちゃん」
「うん、いってらっしゃい」
久しぶりに制服で家を出る桜くんと私を、唯菜ちゃんが見送ってくれる。
「くれぐれも、危ないはことしないでね」
「わかってるよ、さくちゃん。大丈夫」
そして、唯菜ちゃんに「いってきます」と言って、二人で桜くんの家を出た。
昨日、私も唯菜ちゃんもひとりにしておけない、と桜くんは悩んでいた。 でも唯菜ちゃんが「さくちゃんの家だから安心して過ごせる」と言ったので、私についてきてくれることになった。
当たり前のように大切な人を優先し、自分のことは二の次の姿勢に尊敬するとともに少しだけ呆れる。もっと桜くん自身のことも大切にしてほしい。
すっきり晴れた春空の下を、他愛のない話をしながら並んで歩く。
「姫野さんが制服着てるところ見るのも、久しぶりだね」
「そうだね。なんか違和感がある……。制服着ると、変に気が引き締まっちゃう」
「集中力が上がるのはいいけど、頑張りすぎないようにしないとね」
「うん。気をつける」
頑張りすぎたとしても、その後桜くんが癒してくれるから別にいいかな、なんてこっそり思った。
本当は、朝早く家を出て、制服を着て学校に向かうというこの時点で、かなり苦労した。
学校に行ったらどうなってしまうんだろう。鞄の持ちてを握る手に力を込める。
「怖い?」
そう訊いたのは、桜くんではなく私だった。
だって、隣の彼は、とても緊張しているように見えたから。
「……そう、見える?」
困ったような笑みを浮かべて、尋ねてくる。
「なんとなく、だけど。久しぶりに学校に行くって怖いよね。春休みに心変わりして、突然みんなが友達じゃなくなってるかもしれないし、休んでる間は楽だったけど、これから絶対苦しいくなるって考えると……。修了式の日も、本当は怖かった?」
桜くんが、一瞬目を丸くする。
あのときも、私のせいで桜くんは一週間学校を休んだ。
当時は知らなかったけれど、桜くんにとっても学校は楽しいとはいえない。苦しいとわかってるところにわざわざ行くなんて、それだけでしんどい。
「……怖いよ」
桜くんが、私の前ではっきりと不安を口にするのは初めてだった。
「姫野さんが言った通り、いつも、不安だし、苦しい。なにより、油断したら本当の弱い僕が表れちゃうかもしれないことが、いちばん怖い」
「……そうだよね」
桜くんだって、不安や恐怖だって感じる。人間だから。
私の役目は、それをやわらげることだ。それは、夢への第一歩でもある。まずは、身近な人から。
「――でも、大丈夫だよ」
私は桜くんの左手を、右手できゅっと握った。
すると、たちまち桜くんの表情が緩む。
「ふふっ。姫野さんには、敵わないな」
やわらかい笑顔が私を虜にする。そんなの、私のセリフだよ。桜くんには、敵わない。
肩の力が抜けたところで、私は一昨日あたりから気になっていた疑問をぶつけた。
「……なんで、唯菜ちゃんのことは呼び捨てにするのに、私のことは名前で呼んでくれないの?」
「――呼んでほしいの?」
ぼっ、と急激に顔が熱を持つ。
意地悪な質問をしたつもりが、さらに上の返しをされてしまった。
「昔は、唯菜って呼び捨てしてなかったんだよ」
「なんて呼んでたの?」
「唯菜がさくちゃんって呼んでくれるから、そんな感じ」
ゆいちゃんとか、そんなところだろうか。だとしたらなおさら嫉妬してしまいそうになる。
「唯菜ちゃんだけ、ずるい……」
幼馴染だから、仕方がないのだろうけど。私は「桜くん」と呼んでいるのに、いつまでも桜くんは「姫野さん」のまま。それだと距離がこれ以上縮められそうにない。
「――沙月ちゃん」
「ふぇっ!?」
不意打ちは、もっとずるい。
きっと真っ赤になっているであろう顔を向けると、桜くんはにっこり笑っていた。
「これで、いいでしょ?」
私はなにも言えずにこくりとうなずくしかなかった。
これだから、私は……。
その後、校門の前まで、桜くんと私は手をつないだまま歩き続けた。
◇
教室に桜くんと私が続いて入ってきたので、クラスメイトがざわついた。先月はほとんど来ていなかった二人が一緒に来たのだから、当たり前の反応だ。
そして桜くんはすぐに友達の男の子たちに囲まれていた。彼らに笑顔で対応し、楽しそうに見せている。
一方私の方には、一人の女の子が笑顔で勢いよく抱きついてきた。
「沙月〜!おはよう!」
「来実……。おはよう」
以前と変わらずの笑顔と温もりにほっとする。喜びや嬉しさ、罪悪感などと、いろいろな感情が込み上げてきた。
「もう、すっごく心配してたんだからね」
「うん……ごめんね。ありがとう」
「本当に、良かったぁ……」
来実の声が少し震えていることに気付き、心の底から申し訳ない気持ちになる。
それからしばらく、私たちはくっついていた。
「たくさん話したいことがあるから……放課後、残ってほしい」
「うん!私も、言いたいこと、あるから」
来実が笑顔で頷いてくれた。
ずっと言えていなかったことを、しっかりと伝えたい。来実は私のいちばんの友達で、大切な人だから。
放課後、教室には他にも残る人がいたので、私たちは外の小さな公園に移動し、ベンチに座った。桜の木が一本堂々と立ち、満開の花を咲かせいる。今日は始業式だけで学校は終わったから、昼の太陽が真上からキラキラと花を照らしている。
「来実」
「うん」
「本当に、ごめんね。私、自分の勝手な思い込みで、来実のためだと思って、来実のこと避けて、傷つけてた……」
「避けることが、私のため?」
来実のことを傷つけてしまうかもしれないけれど、言わないといけない。そうしなければ、伝わらない。
「……私ね、本当は、来実と西川くんに……付き合ってほしく、なかった」
来実が目を丸くする。私の嫌なところが、露わになっていく。でも、来実に鎧を被っておく必要はない。
「来実に、私のことを、いちばん大切に思ってほしかったから。私は、来実のことが大好きだから、恋人ができることで、来実が私から離れていくのが怖くて……」
「……うん」
「だから、来実が好きな人ができたって言ったとき、ショックだったし、西川くんと付き合うって報告されたときも……嫌だ、って思ったの。悲しかったし、寂しくなった。だから、来実に会ったときに自分がそういう気持ちを口にして、来実を傷つけたくなかったから、避けてたんだ……。本当に、ごめんね」
「沙月……」
みぞれくんの活動休止もあったクリスマスイブの夜。それに追い打ちをかけるように来実の報告が来て、もう終わったと思った。あのときのメッセージでも、おめでとう、ではなく、やめて、と送ってしまいそうだった。
私が、来実のいちばんでいたかったから。
「私は、優翔くんと付き合っても、沙月とこれまで通り過ごしたいって思ってたよ」
「え……」
「沙月は、私にいちばんに思ってほしいって言ってくれたけど、私にとっては、優翔くんも、沙月も、どっちも大好きで、大切なの。そこに順位なんてないし、つけたくない。だから、優翔くんと付き合うことで沙月から離れるなんて、ありえないよ」
来実がどれだけ私のことを大切に思ってくれているか。それは、私の想像以上だった。それが嬉しくて、泣きそうで。
「ほんとは、沙月の様子がおかしいってこと、ずっと気付いてたんだよ。でも、私が元気にしてれば、沙月も笑ってくれるかなって思って、話してたんだけど……それが、裏目に出ちゃったんだね。私こそ、ごめんね」
「来実は、悪くないよ」
「沙月も悪くないよ。だって、私が優翔くんと付き合うのが嫌だってことは、それくらい私のことを大切に思ってくれてるってことでしょ?それは、すごく嬉しい」
やっぱりどこまでも、来実は優しい。その優しさに私はどれだけ救われたことか。今日だけじゃない、今まで何度も助けられてきた。
「どっちも大切じゃ、ダメかな?」
来実が可愛らしく首をかしげる。
「ううん、いいよ。今はもう、いちばんとかどうでもよくて、大切に思ってくれてることがわかったから、それだけで充分だよ」
「良かった、ありがとう。――沙月、大好きだよ」
「私も、来実のこと、大好きだよ」
この気持ちをそのまま口にしたのはお互いに初めてで、恥ずかしい。
「ふふふ、なんか、照れちゃうね」
来実も頬を赤くしながら笑った。
「ね、沙月。私、初めて沙月に話しかけられたとき、びっくりしたけど、すごく嬉しかったんだよ」
中学生のときの、来実との初めての会話。あのときの私も、愛を求めていた。来実には、親近感を感じていた。
「頼み事とかじゃなくて、ただ雑談しようとしてくれるのが、みんなには当たり前かもしれないけど、私にはありえないことだったから……。上手く喋れてなかったけど、めげないで話してくれて、ありがとう」
「ううん、むしろ私の方が話すのが下手だから、困らせちゃったと思う。こちらこそありがとう」
「沙月は、コミュニケーションは上手なんだけど、全然自分のこと話してくれないよね」
「う……。自己主張って、するのもされるのも苦手だか
ら……」
「自分のことばっかり話されるよりはずっといいけど、無理してまで抑える必要はないんだからね?」
「そうだよね……ごめん」
ちょっと怒ったように頬を膨らませる来実に、可愛いなと思いつつ謝る。
自分のことは、どこまで話していいのか、線引きが難しい。自己主張はやはり性に合わない。でも、来実の言った通り、堪えきれないときくらいは自己主張をしてもいいかもしれない。心が壊れるよりはいい。
「でも、それが、沙月のいいところでもあるから。それに、誰かには話せたんでしょ?望月くん?」
「えっ!?なんでわかったの?」
「前よりすっきりした顔してるもん。そういえば、望月くんと今日一緒に入ってきたよね」
「あっ、いや、あれは……」
「えっ、沙月、もしかして……!」
あたふたしていると、来実がぐいぐいと迫ってくる。誤解を解くため、私は言葉を探し出す。
「ま、まだ、付き合ってないよ!」
「まだ!?」
やってしまった。墓穴を掘った。
来実が興奮した様子で私を見ている。
「てことは、沙月、ほんとに望月くんのこと好きになったの?」
「うぅ……」
「顔真っ赤だよ〜」
来実にからかわれて、私は両手で顔を覆う。
心の中でさえはっきり言葉にしたことはなかったのに、ついに言われてしまった。それで、自分でもはっきりと認識する。
私は、桜くんのことが好きだ。
「でもよかった、望月くん、ちゃんと守ってくれたんだ」
「……守るって、なにを?」
「三学期に沙月が変に頑張りすぎちゃってたでしょ?それで私も、どうしようって悩んでてね。そしたら、望月くんが、『最近元気ないみたいだけどどうしたの?』って聞いてくれて。望月くんなら信頼できるって思ったから、相談したの」
「え……」
それは、桜くんからも聞かされていなかった。おそらく、私と来実の距離が離れたことに気付き、動いてくれたのだろう。
「沙月が苦しそうだからどうにかしたいって言ったら『僕が絶対に姫野さんのことを救うから、任せて』って約束してくれたの。それ聞いて、私も安心できた」
「いつのまに桜くんとそんなに仲良くなってたの?」
「桜くんって呼んでるの!?」
「あ……!」
「ふふっ、いいよ。沙月の乙女心に免じて、教えてあげる。最初は優翔くんつながりで、望月くんとも仲良くなって、それからだんだん話すようになったんだよ。二人とも話しやすいから、すぐ仲良くなれて。望月くんは、私が優翔くんに告白するのも応援してくれたよ」
「えっ、そうだったの!?」
てっきり桜くんは二人の関係を知らないものだと思っていた。結果を知らないだけなのかもしれない。
「そう。それで、望月くんは私と沙月のこともよく見てくれるようになって、特に沙月のことよく気にしてたから、望月くんなら大丈夫って思ったんだ。望月くんから、聞いてないの?」
「そこまでは話してくれなかった……」
普段あまり人に頼らない来実が、まさか桜くんに相談していたとは。つまり、それくらい私のことを心配してくれているということで。
最初から、もっと来実を頼れば良かった。
「でもね、私が相談してなくても、望月くんは沙月のために動いたと思うよ」
「そうなのかな……」
「だって、相談に乗ってくれたときも、もう決めてるって感じだったもん。沙月を、救うこと」
桜くんは、私は「僕と似てる」と言っていた。自分のように頑張りすぎて苦しくなってほしくないから、手を差し伸べてくれたのだろうか。
どんな理由であっても、救ってくれたことにはいくら感謝してもしきれない。
「望月くんとどんなことがあったのか、ちょっとでも知りたいな」
「……ちょっとだけだよ?」
「うん」
私は、泣いていたときに桜くんが声をかけてくれたこと、家に入れてくれたこと、彼の言葉でたくさん救われたことを、簡潔に説明した。桜くん自身のことと唯菜ちゃんの話は伏せた。
「すごいなぁ、望月くん。ちょっと嫉妬しちゃう」
「どうして?」
「だって、沙月を癒すのは、私がやりたいから――ね?」
頭の上に温かい感覚が乗った。
来実が、私の頭を、優しく撫でてくれていた。
「よし、よし、頑張ったね。今は、甘えていいんだよ」
「もう、また泣いちゃうよ……」
「泣いていいんだよ。それに、沙月のためっていうより、私が撫でたいから、撫でてるの。こうすると、私も落ち着くから……」
彼女には、私の髪を触る癖がある。あれは、そういうことだったんだ。
好きな人に触れることは、心の安定にもなる。
私はそのまま、来実の肩に頭を預けた。今だけは、甘えさせて、と。
来実と別れる頃には、空はオレンジがかってきていた。これからいちばんの修羅場を迎えるとなると気が重いけれど、来実の癒しのおかげで頑張れそうだ。
久しぶりの、自宅。
もう両親とも帰っている頃だろう。
意を決して玄関の扉を開けると、音に気付いたお母さんが慌ただしく駆け寄ってきた。
「……ただいま」
「……おかえり」
気を鎮めるように間を置いて、ただ一言だけ返してくれた。後からお父さんも「おかえり」と顔を見せる。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「ええ。とりあえず、手洗ってきなさい」
「うん」
手洗いをして鞄を部屋に置いてから、私は両親とリビングのダイニングテーブルで向かい合った。桜くんの家にはなかった物だ。
「……いろいろ迷惑かけて、ごめんなさい」
開口一番、私は二人に向かって頭を下げた。
「ほんとよ……!突然家出して、桜くんにも迷惑かけて」
「まあまあ母さん、落ち着いて」
お父さんがお母さんを宥める。普段見ない光景に驚かずにはいられなかった。お父さんはいつも無口だ。続けて、優しい口調で尋ねてくれる。
「とりあえず、どうして出て行ってしまったのか、聞いてもいいか?」
「うん」
出て行った理由、それだけなら、自ずと話す内容は絞られる。学校でのことや桜くんとのこと、私の心の深いところを話さずに済む。
「家に帰ったら、絶対勉強のことで、なにか言われるし、味方になってくれる人がいなくて、つらいだけだから……帰りたくなかった」
怒られるかもしるないと思いながら慎重に言ったけれど、お母さんは呆気に取られた様子でなにも言わなかった。代わりにお父さんが話を進める。
「そこを、桜くんって子に救われたわけか」
「うん。お父さんは知らないかもしれないけど、桜くんって本当に素敵な人で、私のことをたくさん救ってくれて、寄り添ってくれたんだよ」
「そうか。いい人に出会えたな」
「……!うん!」
お父さんが思いの外私の言葉をあっさりと受け止めてくれることに驚きつつ、私は大きくうなずく。そういえばお父さんに怒られたことはほとんどなかったし、肯定もだけれど否定もされなかった。
けれど、お母さんは溜息をつき、険しい表情で口を開く。
「でも、桜くんだって男の子なのよ?それに沙月はお互いによく知ってるわけでもないのに。なにかされるかもしれないし……」
「――それ以上言わないで!」
桜くんを否定するような言葉に普段怒らない私もかちんとして、自分でも恐ろしいほど鋭い声が出た。
驚く二人を前に、一度深呼吸して続ける。
「お母さんは心配してくれてるんだろうけど、桜くんはそんなことしないよ。お母さんだって知ってるはずでしょ?」
はっとした表情を浮かべ、お母さんが罰が悪そうに口を噤む。
今だからわかるけど、お母さんは私の成績のことも心配してくれていた。けれど私がそうであるように、お母さんも感情を表情をすることに関して不器用だった。だから、上手く伝わらなかったのだ。
だから、私は今、伝わるように精一杯言葉を紡ぐ。
「桜くんの家に言って、二人が普段いてくれること、やってくれることって当たり前じゃないんだってわかったし、私なんてまだ全然ダメだって気付いた。本当に、いつもありがとう」
お父さん、お母さん、そして桜くんに向けて、その言葉を告げる。お父さんは穏やかな表情で、お母さんは言葉を失って私を見ていた。
「でも、私だって、私なりに頑張ってる。勉強だって、結果は伴わないままだけど、たくさんやってる。授業はちゃんと真面目に受けてる」
成績は伸びないけれど、授業を真面目に受けていることだけは小学生のときから自信を持って言える。
「だから、本当は、結果じゃなくて努力を見てほしい。結果が求められるってわかってるけど、そんな言葉で努力をないものにしてほしくない。頑張ってることに変わりはないはずだよ」
特にお母さんに向けて、必死に言葉を重ねる。
桜くんや唯菜ちゃん、来実が言ってくれたように、「頑張ったね」という一言があれば、それだけで良かった。
お母さんは私がこんなに自分の気持ちを吐き出したことに驚いているようで、まだなにも言わない。お父さんがその気持ちを代弁するように口を開いた。
「沙月が家出したときに母さんに言われたんだけど、桜くんと電話したらしくてな」
「うん」
「そのときに、『もう沙月ちゃんは限界だから、休ませてあげてください』って言われたんだそうだ」
「えっ」
二人が電話でなにを話したのか、私は知らなかった。桜くんも具体的には教えてくれなかったから。
「それで俺もようやく気付いたよ、追い詰めてしまってたことに」
「私も、いろいろ言いたいことはあったのになにも言葉が出なかった。だから沙月が桜くんの家で過ごすことを認めるしかなかった」
お母さんもようやく声を発した。桜くんを信頼していたからと言うよりは、それもあるだろうけど、桜くんに諭されたのかもしれない。
「ごめんな、沙月」
「ごめんなさい」
二人が同時に頭を下げる。まさか謝られるとは思っていなかったので私は慌てて顔を上げさせる。
「待って、謝らないで!私の方が、これからもっと謝らないといけないこと話すから……」
「謝らないといけないこと?」
お母さんが怪訝そうに眉を潜める。ここからが私にとっての本題だった。
「うん、あのね、さっきも言った通り、私ひとりだとまだ弱いってわかったから、将来の一人暮らしのためにも、今日からも桜くんの家で過ごしたいと思って。もちろん今度はたまには帰ってくるし、学校には毎日行く。勉強もする」
「なっ……!」
「桜くんに許可は取ってあるのか?」
「ちょっと、あなた!」
驚愕するお母さんを他所に、お父さんは受け入れる姿勢を示してくれた。
「うん、桜くんも、歓迎してくれてるよ」
ただ、今言った理由はほとんど口実で、本当は居心地がいい桜くんの隣にいたいからだった。
「じゃあ、いいだろう。けどこっちは寂しくなるから、たまには帰ってきてな」
「うん、約束する」
「ちょっと、勝手に決めないでよ!」
「まあいいじゃないか、今は一人暮らしする高校生も多いし、勉強にもなる。桜くんはいい子だから」
お父さんに諭されて、お母さんも渋々といった様子で引き下がってくれた。
「……しょうがない。桜くんに迷惑かけないでよ」
「うん。親不孝でごめんなさい。でも、ありがとう」
わかり合えないこともあるけれど、きっと話し合うことに価値はある。それに気付くことができた。
話し合うきっかけをくれた桜くんに、早く会いたいと思った。
日が沈む頃、私は荷物を持って桜くんの家に向かった。それほど重くはならなかった。
桜くんの家に入ると、本を読んでいた唯菜ちゃんが迎えてくれた。
「あれ、桜くんは?」
「まだ帰ってきてないよ。生徒会の仕事かな」
さっそく始まるものなのだろうか。生徒会は大変だ。
部屋に荷物を置き、息を吐いて座り込む。解決したのはいいけれど、なんだか今日はとても疲れた。
「お疲れ様」
「ありがとう。唯菜ちゃん、髪結んだんだね」
「うん、この方が私っていう感じがする」
「似合ってるよ、可愛い」
「そう?ありがとう」
彼女の長い髪は、真ん中辺りで一つに束ねられていた。同学年なのに感じていた「お姉ちゃん感」が幾分か増した。
「あれ、そのキーホルダー」
唯菜ちゃんが私の鞄に付いたみぞれくんのキーホルダーを指差した。
「知ってるの?」
「前なにかの動画でその人が出てるの見たことある。みぞれくん、だっけ」
「うん、合ってるよ」
キーホルダーを手で持つと、心がより解れていく感覚があった。みぞれくんの動画や配信の内容が心に溢れ出してくる。
「沙月ちゃんの、推し?」
「そうだよ。可愛くて、そこにいるだけでこっちが癒される、大好きな人」
「へぇ。私も、みぞれくんのこと追ってみようかな」
「あ、でも……」
共通の推しを持つ友達ができるのが以前は嬉しかったけれど、今はもう、みぞれくんは。
「……みぞれくん、誹謗中傷が原因で活動休止しちゃったから……。これから新しいコンテンツは、もう出ないと思う……」
「そうだったんだ……。そういえば、ネットで見たかも」
みぞれくんが活動を休止してから、私は長い間スマホすら点けていない。けれど心にはいつまでもみぞれくんがいて、彼のことを忘れることなんてできない。
「でも、諦めていいの?」
「え?」
「だって、みぞれくんは『活動休止』っていうだけで、活動を辞めるとは言ってないんでしょ?だからまだ希望はあるよ」
「でも、望んでても、みぞれくんの心が回復しない限り、復帰はできないから……」
誹謗中傷は、多くの活動者さんが受けながらも平気な顔をしているけれど、痛みは感じると思うし、炎上までになってしまうと、刻まれる傷は深い。そう簡単には治らない。
「――じゃあ、沙月ちゃんが癒せばいいんだよ」
「私が……?」
「今の時代は余計なほど便利だから、スマホで直接メッセージを送れるし、推しによっては手紙も送れるよ。沙月ちゃんの愛は、少なからずみぞれくんの力になるはずだよ」
愛は、力になる。それは私自身も感じたことだ。たまに悪い力にもなるけれど。
想いを言葉に詰め込んで贈れば、きっと私の愛は届く。
「うん!やってみる!」
確かみぞれくんが所属している事務所のホームページに、ファンレターの宛先が書いてあったはずた。
長らく眠らせていたスマホを点ける。点けた瞬間はその光に目が眩みそうになったけれど、なんとか耐えてホームページにアクセスした。
――やっぱり、書いてあった。ここに送ればいいんだ。
私の想いが少しでも伝わるように、手書きがいい。
そのときちょうど、ドアが開く音がした。
「あ、さくちゃんおかえり」
「ただいま」
「おかえり。ねえ桜くん、封筒と便箋貰ってもいいかな」
「あ、いいよ、机の真ん中の引き出し」
「ありがとう!」
言われた場所を開け、封筒と便箋を手にしてすぐに私は手紙を書き始めた。
届け、私の想い。
「……沙月ちゃん、どうしたの」
「ふふっ。愛しい人へのラブレターだって」
「え」
そんな二人の会話を他所に、私はペンを走らせた。
桜くんがお風呂に入っている間、また唯菜ちゃんと私の二人きりになる。
「手紙は、書けた?」
「まだ……。どう伝えれば見いいのか、わかんない……」
もう何回も書き直し、せっかく貰った便箋をいくつか無駄にしてしまっている。桜くんは「気にしないで」と言ってくれていたけれど、申し訳ないから白い紙に下書きをすることにした。
「一旦休憩しようよ。頭がパンクしちゃう」
「……そうだね」
私はペンを置いて、大きく伸びをした。
「もう一人の愛しい人には、書かなくていいの?」
「へっ?な、なんのこと?」
「沙月ちゃん、さくちゃんのこと好きなんでしょ?」
図星すぎて、なにも言えない。
私の恋心は周りにだだ漏れなのだろうか。だとしたら桜くんが気付かないわけがない。
「しかも、たぶん両片想いだよ」
「いや、桜くんが私のこと、そんなふうに思ってくれてるなんて、ありえないよ……!」
「幼馴染として自信を持って言うけど、さくちゃんも沙月ちゃんのこと好きなんだと思うよ」
桜くんが想ってくれているということを、心の底から否定できない。実際、そうなのかな、と期待してしまうことは何度かあった。
「沙月ちゃん。いつ、伝えられなくなるかわからないんだから、早いうちに言うべきだと思う。……沙月ちゃんも、見たよね?」
唯菜ちゃんが言っているのは、桜くんが彼女の身代わりとなって落下したことだろう。
桜くんが生きていたのは、たまたま。次にいつ命の危険を伴う事故が起きるか、未来のことはわからない。
だから早く伝えるべきだという、その理屈はわかるけれど……。
「どう言えばいいのかな……」
「二人の場合もう付き合ってるみたいなものなんだし、ストレートに言っちゃっていいと思う。でなきゃ私が奪っちゃうよ?」
「それはダメ!」
「私が言っても振られるから、大丈夫。私もそんな気ないし。頑張って!勝ちはほぼ決まってるんだから」
「……うぅ」
でも、伝えられなくて後悔するのは嫌だ。話し合うことの大切さを気付かせてくれたのは、他でもない桜くん。
玉砕してもいいから、伝えるべきかもしれない。
「あ、上がってきた」
唯菜ちゃんにつられて私もお風呂の方へ目を向ける。すると寝巻き姿の桜くんがこちらに歩いてきていた。
見慣れているはずなのに、なぜか体温が急上昇する。
「沙月ちゃん、手紙書けそう?」
「えっ、あっ、ちょっと、えっと」
「どうしたの?今日やっぱりおかしいよ」
心配してくれる桜くんに、私はなにも答えられなかった。
そんな私たちの様子を、唯菜ちゃんは笑って見ていた。
◇
翌日の放課後、生徒会の仕事もないということで、桜くんと私は一緒に帰ることになった。
終礼が済んだ後、桜くんが私のところに来て「一緒に帰ろう」と笑いかけてきたときは心臓が飛び出るかと思った。
周りのクラスメイトの好奇の目が痛かった。来実は頑張ってというような笑みを私に向けていた。
桜くんの一歩後ろについて、ゆっくりと家への道を歩く。桜はまだたくさん咲いている。
「……なんか今日も様子が変だよ。緊張してる?」
「いや、あの、改めて考えると、この状況って不思議だなって」
「不思議?」
「ちょうど一年前くらいは、桜くんとこんなに仲良くなれるなんて思ってなかったから……」
「確かに、僕も沙月ちゃんとこんなに話せるようになるなんて、思ってなかったな」
一年前は、この人とは仲良くできないだろうな、なんて思っていた。桜くんが明るくて積極的というキャラを演じているとも知らずに。
本当に、未来のことはわからない。だから、怖いけど、楽しみでもある。
「でも、沙月ちゃんに、出会えて良かった」
――ああ、ほら、だから。
私の心臓がこんなにも暴れてしまうのは、君のせいなんだよ。
「沙月ちゃんがいなかったら、僕も唯菜も、今はもういなかったと思う」
「私がいなくても、桜くんなら、唯菜ちゃんを引き止められたよ」
「引き止められなかったから、僕は落ちたんだよ。沙月ちゃんじゃないと、唯菜は止められなかった。それに、そのことだけじゃなくて」
一度言葉を区切り、桜くんが立ち止まって私の方を振り向いた。
「自分の本音を隠して、無理して笑ってて、でも苦しいとか寂しいっていう気持ちはずっとあったから。それが続いてたら、どうなってたかわからない。だから、来てくれてありがとう」
桜くんはそう言って、ふわっと花が咲くように笑った。
私を自分の家に誘ったあのときの桜くんは、私の心配だけではなくて、そんな気持ちも抱えていたのだ。
私の存在が桜くんの支えになるのなら、私はいつだって君の隣にいたい。
「こちらこそ、手を差し伸べてくれて、寄り添い続けてくれてありがとう。桜くんのおかげで、大切なことに気付くことができて、それに――」
言うならここだと、そう思った。
これからも君の隣に居続けたいから。私の気持ちを、全部込めて。
「桜くんの隣にいると、すごく安心して、心が落ち着いて、ここが私の居場所だって思えるの。ずっと、隣にいたくなる。……なんでかな?」
上目遣いで尋ねると、桜くんの頬が、どんな桜よりもピンク色に染まっていた。
はっきり、目を見て、伝える。それだけは、前々からなんとなく決めていた。
「――大好きだよ、桜くん。ずっと、そばにいてほしい」
言い切った。でも、これ以上はもう無理で、目を逸らしてしまいそうになる。けれど桜くんの透きとおった瞳が、それを許さなかった。
「……最初は、ちょっと似てるかもなって、ただ気にかけてただけだったけど」
桜くんのその包むような声も、やわらかな口調も、優しい言葉も、なにもかもが愛おしい。
「一緒に過ごすうちに、こんなに隣が居心地がいいことってあるんだなって思うようになって、気付いたら、心まで預けるようになってた」
私のことを信じてくれて、話してくれた。だから私も、もっともっと君のことが好きになった。
「――僕も、好きだよ。こちらこそ、ずっと一緒にいてもいいかな」
「もちろんだよ」
うなずくと、体が熱に包まれた。ぎゅっと、大切に。
私も、桜くんを抱きしめ返す。君の全部を、受け入れるように。
酔いしれそうなほど、熱くて、心地良くて、幸せで。
しばらく抱き合った後、腕を離し、お互いに見つめ合う。
桜くんも、君の瞳に映る私も、真っ赤だった。
君と生きることができる偶然を、奇跡を、噛み締めて、私はこれからも、君と一緒にいたい。
街中に咲き誇る桜が散っても、君だけは散らないでほしい。
そしていつか、この桜が散るときが来ても、私はきっと、君のことが大切だろう。
でも、今はまだ、私はひとりでは生きられないから。
君に隣にいてほしい。
私も、君の隣にいるから。
君が傷ついたときに、君の心を癒せるように。
君が咲けなくなったときに、「頑張ったね」って、言えるように――。
「うん、いってらっしゃい」
久しぶりに制服で家を出る桜くんと私を、唯菜ちゃんが見送ってくれる。
「くれぐれも、危ないはことしないでね」
「わかってるよ、さくちゃん。大丈夫」
そして、唯菜ちゃんに「いってきます」と言って、二人で桜くんの家を出た。
昨日、私も唯菜ちゃんもひとりにしておけない、と桜くんは悩んでいた。 でも唯菜ちゃんが「さくちゃんの家だから安心して過ごせる」と言ったので、私についてきてくれることになった。
当たり前のように大切な人を優先し、自分のことは二の次の姿勢に尊敬するとともに少しだけ呆れる。もっと桜くん自身のことも大切にしてほしい。
すっきり晴れた春空の下を、他愛のない話をしながら並んで歩く。
「姫野さんが制服着てるところ見るのも、久しぶりだね」
「そうだね。なんか違和感がある……。制服着ると、変に気が引き締まっちゃう」
「集中力が上がるのはいいけど、頑張りすぎないようにしないとね」
「うん。気をつける」
頑張りすぎたとしても、その後桜くんが癒してくれるから別にいいかな、なんてこっそり思った。
本当は、朝早く家を出て、制服を着て学校に向かうというこの時点で、かなり苦労した。
学校に行ったらどうなってしまうんだろう。鞄の持ちてを握る手に力を込める。
「怖い?」
そう訊いたのは、桜くんではなく私だった。
だって、隣の彼は、とても緊張しているように見えたから。
「……そう、見える?」
困ったような笑みを浮かべて、尋ねてくる。
「なんとなく、だけど。久しぶりに学校に行くって怖いよね。春休みに心変わりして、突然みんなが友達じゃなくなってるかもしれないし、休んでる間は楽だったけど、これから絶対苦しいくなるって考えると……。修了式の日も、本当は怖かった?」
桜くんが、一瞬目を丸くする。
あのときも、私のせいで桜くんは一週間学校を休んだ。
当時は知らなかったけれど、桜くんにとっても学校は楽しいとはいえない。苦しいとわかってるところにわざわざ行くなんて、それだけでしんどい。
「……怖いよ」
桜くんが、私の前ではっきりと不安を口にするのは初めてだった。
「姫野さんが言った通り、いつも、不安だし、苦しい。なにより、油断したら本当の弱い僕が表れちゃうかもしれないことが、いちばん怖い」
「……そうだよね」
桜くんだって、不安や恐怖だって感じる。人間だから。
私の役目は、それをやわらげることだ。それは、夢への第一歩でもある。まずは、身近な人から。
「――でも、大丈夫だよ」
私は桜くんの左手を、右手できゅっと握った。
すると、たちまち桜くんの表情が緩む。
「ふふっ。姫野さんには、敵わないな」
やわらかい笑顔が私を虜にする。そんなの、私のセリフだよ。桜くんには、敵わない。
肩の力が抜けたところで、私は一昨日あたりから気になっていた疑問をぶつけた。
「……なんで、唯菜ちゃんのことは呼び捨てにするのに、私のことは名前で呼んでくれないの?」
「――呼んでほしいの?」
ぼっ、と急激に顔が熱を持つ。
意地悪な質問をしたつもりが、さらに上の返しをされてしまった。
「昔は、唯菜って呼び捨てしてなかったんだよ」
「なんて呼んでたの?」
「唯菜がさくちゃんって呼んでくれるから、そんな感じ」
ゆいちゃんとか、そんなところだろうか。だとしたらなおさら嫉妬してしまいそうになる。
「唯菜ちゃんだけ、ずるい……」
幼馴染だから、仕方がないのだろうけど。私は「桜くん」と呼んでいるのに、いつまでも桜くんは「姫野さん」のまま。それだと距離がこれ以上縮められそうにない。
「――沙月ちゃん」
「ふぇっ!?」
不意打ちは、もっとずるい。
きっと真っ赤になっているであろう顔を向けると、桜くんはにっこり笑っていた。
「これで、いいでしょ?」
私はなにも言えずにこくりとうなずくしかなかった。
これだから、私は……。
その後、校門の前まで、桜くんと私は手をつないだまま歩き続けた。
◇
教室に桜くんと私が続いて入ってきたので、クラスメイトがざわついた。先月はほとんど来ていなかった二人が一緒に来たのだから、当たり前の反応だ。
そして桜くんはすぐに友達の男の子たちに囲まれていた。彼らに笑顔で対応し、楽しそうに見せている。
一方私の方には、一人の女の子が笑顔で勢いよく抱きついてきた。
「沙月〜!おはよう!」
「来実……。おはよう」
以前と変わらずの笑顔と温もりにほっとする。喜びや嬉しさ、罪悪感などと、いろいろな感情が込み上げてきた。
「もう、すっごく心配してたんだからね」
「うん……ごめんね。ありがとう」
「本当に、良かったぁ……」
来実の声が少し震えていることに気付き、心の底から申し訳ない気持ちになる。
それからしばらく、私たちはくっついていた。
「たくさん話したいことがあるから……放課後、残ってほしい」
「うん!私も、言いたいこと、あるから」
来実が笑顔で頷いてくれた。
ずっと言えていなかったことを、しっかりと伝えたい。来実は私のいちばんの友達で、大切な人だから。
放課後、教室には他にも残る人がいたので、私たちは外の小さな公園に移動し、ベンチに座った。桜の木が一本堂々と立ち、満開の花を咲かせいる。今日は始業式だけで学校は終わったから、昼の太陽が真上からキラキラと花を照らしている。
「来実」
「うん」
「本当に、ごめんね。私、自分の勝手な思い込みで、来実のためだと思って、来実のこと避けて、傷つけてた……」
「避けることが、私のため?」
来実のことを傷つけてしまうかもしれないけれど、言わないといけない。そうしなければ、伝わらない。
「……私ね、本当は、来実と西川くんに……付き合ってほしく、なかった」
来実が目を丸くする。私の嫌なところが、露わになっていく。でも、来実に鎧を被っておく必要はない。
「来実に、私のことを、いちばん大切に思ってほしかったから。私は、来実のことが大好きだから、恋人ができることで、来実が私から離れていくのが怖くて……」
「……うん」
「だから、来実が好きな人ができたって言ったとき、ショックだったし、西川くんと付き合うって報告されたときも……嫌だ、って思ったの。悲しかったし、寂しくなった。だから、来実に会ったときに自分がそういう気持ちを口にして、来実を傷つけたくなかったから、避けてたんだ……。本当に、ごめんね」
「沙月……」
みぞれくんの活動休止もあったクリスマスイブの夜。それに追い打ちをかけるように来実の報告が来て、もう終わったと思った。あのときのメッセージでも、おめでとう、ではなく、やめて、と送ってしまいそうだった。
私が、来実のいちばんでいたかったから。
「私は、優翔くんと付き合っても、沙月とこれまで通り過ごしたいって思ってたよ」
「え……」
「沙月は、私にいちばんに思ってほしいって言ってくれたけど、私にとっては、優翔くんも、沙月も、どっちも大好きで、大切なの。そこに順位なんてないし、つけたくない。だから、優翔くんと付き合うことで沙月から離れるなんて、ありえないよ」
来実がどれだけ私のことを大切に思ってくれているか。それは、私の想像以上だった。それが嬉しくて、泣きそうで。
「ほんとは、沙月の様子がおかしいってこと、ずっと気付いてたんだよ。でも、私が元気にしてれば、沙月も笑ってくれるかなって思って、話してたんだけど……それが、裏目に出ちゃったんだね。私こそ、ごめんね」
「来実は、悪くないよ」
「沙月も悪くないよ。だって、私が優翔くんと付き合うのが嫌だってことは、それくらい私のことを大切に思ってくれてるってことでしょ?それは、すごく嬉しい」
やっぱりどこまでも、来実は優しい。その優しさに私はどれだけ救われたことか。今日だけじゃない、今まで何度も助けられてきた。
「どっちも大切じゃ、ダメかな?」
来実が可愛らしく首をかしげる。
「ううん、いいよ。今はもう、いちばんとかどうでもよくて、大切に思ってくれてることがわかったから、それだけで充分だよ」
「良かった、ありがとう。――沙月、大好きだよ」
「私も、来実のこと、大好きだよ」
この気持ちをそのまま口にしたのはお互いに初めてで、恥ずかしい。
「ふふふ、なんか、照れちゃうね」
来実も頬を赤くしながら笑った。
「ね、沙月。私、初めて沙月に話しかけられたとき、びっくりしたけど、すごく嬉しかったんだよ」
中学生のときの、来実との初めての会話。あのときの私も、愛を求めていた。来実には、親近感を感じていた。
「頼み事とかじゃなくて、ただ雑談しようとしてくれるのが、みんなには当たり前かもしれないけど、私にはありえないことだったから……。上手く喋れてなかったけど、めげないで話してくれて、ありがとう」
「ううん、むしろ私の方が話すのが下手だから、困らせちゃったと思う。こちらこそありがとう」
「沙月は、コミュニケーションは上手なんだけど、全然自分のこと話してくれないよね」
「う……。自己主張って、するのもされるのも苦手だか
ら……」
「自分のことばっかり話されるよりはずっといいけど、無理してまで抑える必要はないんだからね?」
「そうだよね……ごめん」
ちょっと怒ったように頬を膨らませる来実に、可愛いなと思いつつ謝る。
自分のことは、どこまで話していいのか、線引きが難しい。自己主張はやはり性に合わない。でも、来実の言った通り、堪えきれないときくらいは自己主張をしてもいいかもしれない。心が壊れるよりはいい。
「でも、それが、沙月のいいところでもあるから。それに、誰かには話せたんでしょ?望月くん?」
「えっ!?なんでわかったの?」
「前よりすっきりした顔してるもん。そういえば、望月くんと今日一緒に入ってきたよね」
「あっ、いや、あれは……」
「えっ、沙月、もしかして……!」
あたふたしていると、来実がぐいぐいと迫ってくる。誤解を解くため、私は言葉を探し出す。
「ま、まだ、付き合ってないよ!」
「まだ!?」
やってしまった。墓穴を掘った。
来実が興奮した様子で私を見ている。
「てことは、沙月、ほんとに望月くんのこと好きになったの?」
「うぅ……」
「顔真っ赤だよ〜」
来実にからかわれて、私は両手で顔を覆う。
心の中でさえはっきり言葉にしたことはなかったのに、ついに言われてしまった。それで、自分でもはっきりと認識する。
私は、桜くんのことが好きだ。
「でもよかった、望月くん、ちゃんと守ってくれたんだ」
「……守るって、なにを?」
「三学期に沙月が変に頑張りすぎちゃってたでしょ?それで私も、どうしようって悩んでてね。そしたら、望月くんが、『最近元気ないみたいだけどどうしたの?』って聞いてくれて。望月くんなら信頼できるって思ったから、相談したの」
「え……」
それは、桜くんからも聞かされていなかった。おそらく、私と来実の距離が離れたことに気付き、動いてくれたのだろう。
「沙月が苦しそうだからどうにかしたいって言ったら『僕が絶対に姫野さんのことを救うから、任せて』って約束してくれたの。それ聞いて、私も安心できた」
「いつのまに桜くんとそんなに仲良くなってたの?」
「桜くんって呼んでるの!?」
「あ……!」
「ふふっ、いいよ。沙月の乙女心に免じて、教えてあげる。最初は優翔くんつながりで、望月くんとも仲良くなって、それからだんだん話すようになったんだよ。二人とも話しやすいから、すぐ仲良くなれて。望月くんは、私が優翔くんに告白するのも応援してくれたよ」
「えっ、そうだったの!?」
てっきり桜くんは二人の関係を知らないものだと思っていた。結果を知らないだけなのかもしれない。
「そう。それで、望月くんは私と沙月のこともよく見てくれるようになって、特に沙月のことよく気にしてたから、望月くんなら大丈夫って思ったんだ。望月くんから、聞いてないの?」
「そこまでは話してくれなかった……」
普段あまり人に頼らない来実が、まさか桜くんに相談していたとは。つまり、それくらい私のことを心配してくれているということで。
最初から、もっと来実を頼れば良かった。
「でもね、私が相談してなくても、望月くんは沙月のために動いたと思うよ」
「そうなのかな……」
「だって、相談に乗ってくれたときも、もう決めてるって感じだったもん。沙月を、救うこと」
桜くんは、私は「僕と似てる」と言っていた。自分のように頑張りすぎて苦しくなってほしくないから、手を差し伸べてくれたのだろうか。
どんな理由であっても、救ってくれたことにはいくら感謝してもしきれない。
「望月くんとどんなことがあったのか、ちょっとでも知りたいな」
「……ちょっとだけだよ?」
「うん」
私は、泣いていたときに桜くんが声をかけてくれたこと、家に入れてくれたこと、彼の言葉でたくさん救われたことを、簡潔に説明した。桜くん自身のことと唯菜ちゃんの話は伏せた。
「すごいなぁ、望月くん。ちょっと嫉妬しちゃう」
「どうして?」
「だって、沙月を癒すのは、私がやりたいから――ね?」
頭の上に温かい感覚が乗った。
来実が、私の頭を、優しく撫でてくれていた。
「よし、よし、頑張ったね。今は、甘えていいんだよ」
「もう、また泣いちゃうよ……」
「泣いていいんだよ。それに、沙月のためっていうより、私が撫でたいから、撫でてるの。こうすると、私も落ち着くから……」
彼女には、私の髪を触る癖がある。あれは、そういうことだったんだ。
好きな人に触れることは、心の安定にもなる。
私はそのまま、来実の肩に頭を預けた。今だけは、甘えさせて、と。
来実と別れる頃には、空はオレンジがかってきていた。これからいちばんの修羅場を迎えるとなると気が重いけれど、来実の癒しのおかげで頑張れそうだ。
久しぶりの、自宅。
もう両親とも帰っている頃だろう。
意を決して玄関の扉を開けると、音に気付いたお母さんが慌ただしく駆け寄ってきた。
「……ただいま」
「……おかえり」
気を鎮めるように間を置いて、ただ一言だけ返してくれた。後からお父さんも「おかえり」と顔を見せる。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「ええ。とりあえず、手洗ってきなさい」
「うん」
手洗いをして鞄を部屋に置いてから、私は両親とリビングのダイニングテーブルで向かい合った。桜くんの家にはなかった物だ。
「……いろいろ迷惑かけて、ごめんなさい」
開口一番、私は二人に向かって頭を下げた。
「ほんとよ……!突然家出して、桜くんにも迷惑かけて」
「まあまあ母さん、落ち着いて」
お父さんがお母さんを宥める。普段見ない光景に驚かずにはいられなかった。お父さんはいつも無口だ。続けて、優しい口調で尋ねてくれる。
「とりあえず、どうして出て行ってしまったのか、聞いてもいいか?」
「うん」
出て行った理由、それだけなら、自ずと話す内容は絞られる。学校でのことや桜くんとのこと、私の心の深いところを話さずに済む。
「家に帰ったら、絶対勉強のことで、なにか言われるし、味方になってくれる人がいなくて、つらいだけだから……帰りたくなかった」
怒られるかもしるないと思いながら慎重に言ったけれど、お母さんは呆気に取られた様子でなにも言わなかった。代わりにお父さんが話を進める。
「そこを、桜くんって子に救われたわけか」
「うん。お父さんは知らないかもしれないけど、桜くんって本当に素敵な人で、私のことをたくさん救ってくれて、寄り添ってくれたんだよ」
「そうか。いい人に出会えたな」
「……!うん!」
お父さんが思いの外私の言葉をあっさりと受け止めてくれることに驚きつつ、私は大きくうなずく。そういえばお父さんに怒られたことはほとんどなかったし、肯定もだけれど否定もされなかった。
けれど、お母さんは溜息をつき、険しい表情で口を開く。
「でも、桜くんだって男の子なのよ?それに沙月はお互いによく知ってるわけでもないのに。なにかされるかもしれないし……」
「――それ以上言わないで!」
桜くんを否定するような言葉に普段怒らない私もかちんとして、自分でも恐ろしいほど鋭い声が出た。
驚く二人を前に、一度深呼吸して続ける。
「お母さんは心配してくれてるんだろうけど、桜くんはそんなことしないよ。お母さんだって知ってるはずでしょ?」
はっとした表情を浮かべ、お母さんが罰が悪そうに口を噤む。
今だからわかるけど、お母さんは私の成績のことも心配してくれていた。けれど私がそうであるように、お母さんも感情を表情をすることに関して不器用だった。だから、上手く伝わらなかったのだ。
だから、私は今、伝わるように精一杯言葉を紡ぐ。
「桜くんの家に言って、二人が普段いてくれること、やってくれることって当たり前じゃないんだってわかったし、私なんてまだ全然ダメだって気付いた。本当に、いつもありがとう」
お父さん、お母さん、そして桜くんに向けて、その言葉を告げる。お父さんは穏やかな表情で、お母さんは言葉を失って私を見ていた。
「でも、私だって、私なりに頑張ってる。勉強だって、結果は伴わないままだけど、たくさんやってる。授業はちゃんと真面目に受けてる」
成績は伸びないけれど、授業を真面目に受けていることだけは小学生のときから自信を持って言える。
「だから、本当は、結果じゃなくて努力を見てほしい。結果が求められるってわかってるけど、そんな言葉で努力をないものにしてほしくない。頑張ってることに変わりはないはずだよ」
特にお母さんに向けて、必死に言葉を重ねる。
桜くんや唯菜ちゃん、来実が言ってくれたように、「頑張ったね」という一言があれば、それだけで良かった。
お母さんは私がこんなに自分の気持ちを吐き出したことに驚いているようで、まだなにも言わない。お父さんがその気持ちを代弁するように口を開いた。
「沙月が家出したときに母さんに言われたんだけど、桜くんと電話したらしくてな」
「うん」
「そのときに、『もう沙月ちゃんは限界だから、休ませてあげてください』って言われたんだそうだ」
「えっ」
二人が電話でなにを話したのか、私は知らなかった。桜くんも具体的には教えてくれなかったから。
「それで俺もようやく気付いたよ、追い詰めてしまってたことに」
「私も、いろいろ言いたいことはあったのになにも言葉が出なかった。だから沙月が桜くんの家で過ごすことを認めるしかなかった」
お母さんもようやく声を発した。桜くんを信頼していたからと言うよりは、それもあるだろうけど、桜くんに諭されたのかもしれない。
「ごめんな、沙月」
「ごめんなさい」
二人が同時に頭を下げる。まさか謝られるとは思っていなかったので私は慌てて顔を上げさせる。
「待って、謝らないで!私の方が、これからもっと謝らないといけないこと話すから……」
「謝らないといけないこと?」
お母さんが怪訝そうに眉を潜める。ここからが私にとっての本題だった。
「うん、あのね、さっきも言った通り、私ひとりだとまだ弱いってわかったから、将来の一人暮らしのためにも、今日からも桜くんの家で過ごしたいと思って。もちろん今度はたまには帰ってくるし、学校には毎日行く。勉強もする」
「なっ……!」
「桜くんに許可は取ってあるのか?」
「ちょっと、あなた!」
驚愕するお母さんを他所に、お父さんは受け入れる姿勢を示してくれた。
「うん、桜くんも、歓迎してくれてるよ」
ただ、今言った理由はほとんど口実で、本当は居心地がいい桜くんの隣にいたいからだった。
「じゃあ、いいだろう。けどこっちは寂しくなるから、たまには帰ってきてな」
「うん、約束する」
「ちょっと、勝手に決めないでよ!」
「まあいいじゃないか、今は一人暮らしする高校生も多いし、勉強にもなる。桜くんはいい子だから」
お父さんに諭されて、お母さんも渋々といった様子で引き下がってくれた。
「……しょうがない。桜くんに迷惑かけないでよ」
「うん。親不孝でごめんなさい。でも、ありがとう」
わかり合えないこともあるけれど、きっと話し合うことに価値はある。それに気付くことができた。
話し合うきっかけをくれた桜くんに、早く会いたいと思った。
日が沈む頃、私は荷物を持って桜くんの家に向かった。それほど重くはならなかった。
桜くんの家に入ると、本を読んでいた唯菜ちゃんが迎えてくれた。
「あれ、桜くんは?」
「まだ帰ってきてないよ。生徒会の仕事かな」
さっそく始まるものなのだろうか。生徒会は大変だ。
部屋に荷物を置き、息を吐いて座り込む。解決したのはいいけれど、なんだか今日はとても疲れた。
「お疲れ様」
「ありがとう。唯菜ちゃん、髪結んだんだね」
「うん、この方が私っていう感じがする」
「似合ってるよ、可愛い」
「そう?ありがとう」
彼女の長い髪は、真ん中辺りで一つに束ねられていた。同学年なのに感じていた「お姉ちゃん感」が幾分か増した。
「あれ、そのキーホルダー」
唯菜ちゃんが私の鞄に付いたみぞれくんのキーホルダーを指差した。
「知ってるの?」
「前なにかの動画でその人が出てるの見たことある。みぞれくん、だっけ」
「うん、合ってるよ」
キーホルダーを手で持つと、心がより解れていく感覚があった。みぞれくんの動画や配信の内容が心に溢れ出してくる。
「沙月ちゃんの、推し?」
「そうだよ。可愛くて、そこにいるだけでこっちが癒される、大好きな人」
「へぇ。私も、みぞれくんのこと追ってみようかな」
「あ、でも……」
共通の推しを持つ友達ができるのが以前は嬉しかったけれど、今はもう、みぞれくんは。
「……みぞれくん、誹謗中傷が原因で活動休止しちゃったから……。これから新しいコンテンツは、もう出ないと思う……」
「そうだったんだ……。そういえば、ネットで見たかも」
みぞれくんが活動を休止してから、私は長い間スマホすら点けていない。けれど心にはいつまでもみぞれくんがいて、彼のことを忘れることなんてできない。
「でも、諦めていいの?」
「え?」
「だって、みぞれくんは『活動休止』っていうだけで、活動を辞めるとは言ってないんでしょ?だからまだ希望はあるよ」
「でも、望んでても、みぞれくんの心が回復しない限り、復帰はできないから……」
誹謗中傷は、多くの活動者さんが受けながらも平気な顔をしているけれど、痛みは感じると思うし、炎上までになってしまうと、刻まれる傷は深い。そう簡単には治らない。
「――じゃあ、沙月ちゃんが癒せばいいんだよ」
「私が……?」
「今の時代は余計なほど便利だから、スマホで直接メッセージを送れるし、推しによっては手紙も送れるよ。沙月ちゃんの愛は、少なからずみぞれくんの力になるはずだよ」
愛は、力になる。それは私自身も感じたことだ。たまに悪い力にもなるけれど。
想いを言葉に詰め込んで贈れば、きっと私の愛は届く。
「うん!やってみる!」
確かみぞれくんが所属している事務所のホームページに、ファンレターの宛先が書いてあったはずた。
長らく眠らせていたスマホを点ける。点けた瞬間はその光に目が眩みそうになったけれど、なんとか耐えてホームページにアクセスした。
――やっぱり、書いてあった。ここに送ればいいんだ。
私の想いが少しでも伝わるように、手書きがいい。
そのときちょうど、ドアが開く音がした。
「あ、さくちゃんおかえり」
「ただいま」
「おかえり。ねえ桜くん、封筒と便箋貰ってもいいかな」
「あ、いいよ、机の真ん中の引き出し」
「ありがとう!」
言われた場所を開け、封筒と便箋を手にしてすぐに私は手紙を書き始めた。
届け、私の想い。
「……沙月ちゃん、どうしたの」
「ふふっ。愛しい人へのラブレターだって」
「え」
そんな二人の会話を他所に、私はペンを走らせた。
桜くんがお風呂に入っている間、また唯菜ちゃんと私の二人きりになる。
「手紙は、書けた?」
「まだ……。どう伝えれば見いいのか、わかんない……」
もう何回も書き直し、せっかく貰った便箋をいくつか無駄にしてしまっている。桜くんは「気にしないで」と言ってくれていたけれど、申し訳ないから白い紙に下書きをすることにした。
「一旦休憩しようよ。頭がパンクしちゃう」
「……そうだね」
私はペンを置いて、大きく伸びをした。
「もう一人の愛しい人には、書かなくていいの?」
「へっ?な、なんのこと?」
「沙月ちゃん、さくちゃんのこと好きなんでしょ?」
図星すぎて、なにも言えない。
私の恋心は周りにだだ漏れなのだろうか。だとしたら桜くんが気付かないわけがない。
「しかも、たぶん両片想いだよ」
「いや、桜くんが私のこと、そんなふうに思ってくれてるなんて、ありえないよ……!」
「幼馴染として自信を持って言うけど、さくちゃんも沙月ちゃんのこと好きなんだと思うよ」
桜くんが想ってくれているということを、心の底から否定できない。実際、そうなのかな、と期待してしまうことは何度かあった。
「沙月ちゃん。いつ、伝えられなくなるかわからないんだから、早いうちに言うべきだと思う。……沙月ちゃんも、見たよね?」
唯菜ちゃんが言っているのは、桜くんが彼女の身代わりとなって落下したことだろう。
桜くんが生きていたのは、たまたま。次にいつ命の危険を伴う事故が起きるか、未来のことはわからない。
だから早く伝えるべきだという、その理屈はわかるけれど……。
「どう言えばいいのかな……」
「二人の場合もう付き合ってるみたいなものなんだし、ストレートに言っちゃっていいと思う。でなきゃ私が奪っちゃうよ?」
「それはダメ!」
「私が言っても振られるから、大丈夫。私もそんな気ないし。頑張って!勝ちはほぼ決まってるんだから」
「……うぅ」
でも、伝えられなくて後悔するのは嫌だ。話し合うことの大切さを気付かせてくれたのは、他でもない桜くん。
玉砕してもいいから、伝えるべきかもしれない。
「あ、上がってきた」
唯菜ちゃんにつられて私もお風呂の方へ目を向ける。すると寝巻き姿の桜くんがこちらに歩いてきていた。
見慣れているはずなのに、なぜか体温が急上昇する。
「沙月ちゃん、手紙書けそう?」
「えっ、あっ、ちょっと、えっと」
「どうしたの?今日やっぱりおかしいよ」
心配してくれる桜くんに、私はなにも答えられなかった。
そんな私たちの様子を、唯菜ちゃんは笑って見ていた。
◇
翌日の放課後、生徒会の仕事もないということで、桜くんと私は一緒に帰ることになった。
終礼が済んだ後、桜くんが私のところに来て「一緒に帰ろう」と笑いかけてきたときは心臓が飛び出るかと思った。
周りのクラスメイトの好奇の目が痛かった。来実は頑張ってというような笑みを私に向けていた。
桜くんの一歩後ろについて、ゆっくりと家への道を歩く。桜はまだたくさん咲いている。
「……なんか今日も様子が変だよ。緊張してる?」
「いや、あの、改めて考えると、この状況って不思議だなって」
「不思議?」
「ちょうど一年前くらいは、桜くんとこんなに仲良くなれるなんて思ってなかったから……」
「確かに、僕も沙月ちゃんとこんなに話せるようになるなんて、思ってなかったな」
一年前は、この人とは仲良くできないだろうな、なんて思っていた。桜くんが明るくて積極的というキャラを演じているとも知らずに。
本当に、未来のことはわからない。だから、怖いけど、楽しみでもある。
「でも、沙月ちゃんに、出会えて良かった」
――ああ、ほら、だから。
私の心臓がこんなにも暴れてしまうのは、君のせいなんだよ。
「沙月ちゃんがいなかったら、僕も唯菜も、今はもういなかったと思う」
「私がいなくても、桜くんなら、唯菜ちゃんを引き止められたよ」
「引き止められなかったから、僕は落ちたんだよ。沙月ちゃんじゃないと、唯菜は止められなかった。それに、そのことだけじゃなくて」
一度言葉を区切り、桜くんが立ち止まって私の方を振り向いた。
「自分の本音を隠して、無理して笑ってて、でも苦しいとか寂しいっていう気持ちはずっとあったから。それが続いてたら、どうなってたかわからない。だから、来てくれてありがとう」
桜くんはそう言って、ふわっと花が咲くように笑った。
私を自分の家に誘ったあのときの桜くんは、私の心配だけではなくて、そんな気持ちも抱えていたのだ。
私の存在が桜くんの支えになるのなら、私はいつだって君の隣にいたい。
「こちらこそ、手を差し伸べてくれて、寄り添い続けてくれてありがとう。桜くんのおかげで、大切なことに気付くことができて、それに――」
言うならここだと、そう思った。
これからも君の隣に居続けたいから。私の気持ちを、全部込めて。
「桜くんの隣にいると、すごく安心して、心が落ち着いて、ここが私の居場所だって思えるの。ずっと、隣にいたくなる。……なんでかな?」
上目遣いで尋ねると、桜くんの頬が、どんな桜よりもピンク色に染まっていた。
はっきり、目を見て、伝える。それだけは、前々からなんとなく決めていた。
「――大好きだよ、桜くん。ずっと、そばにいてほしい」
言い切った。でも、これ以上はもう無理で、目を逸らしてしまいそうになる。けれど桜くんの透きとおった瞳が、それを許さなかった。
「……最初は、ちょっと似てるかもなって、ただ気にかけてただけだったけど」
桜くんのその包むような声も、やわらかな口調も、優しい言葉も、なにもかもが愛おしい。
「一緒に過ごすうちに、こんなに隣が居心地がいいことってあるんだなって思うようになって、気付いたら、心まで預けるようになってた」
私のことを信じてくれて、話してくれた。だから私も、もっともっと君のことが好きになった。
「――僕も、好きだよ。こちらこそ、ずっと一緒にいてもいいかな」
「もちろんだよ」
うなずくと、体が熱に包まれた。ぎゅっと、大切に。
私も、桜くんを抱きしめ返す。君の全部を、受け入れるように。
酔いしれそうなほど、熱くて、心地良くて、幸せで。
しばらく抱き合った後、腕を離し、お互いに見つめ合う。
桜くんも、君の瞳に映る私も、真っ赤だった。
君と生きることができる偶然を、奇跡を、噛み締めて、私はこれからも、君と一緒にいたい。
街中に咲き誇る桜が散っても、君だけは散らないでほしい。
そしていつか、この桜が散るときが来ても、私はきっと、君のことが大切だろう。
でも、今はまだ、私はひとりでは生きられないから。
君に隣にいてほしい。
私も、君の隣にいるから。
君が傷ついたときに、君の心を癒せるように。
君が咲けなくなったときに、「頑張ったね」って、言えるように――。



