朝起きると、部屋は奇妙な静けさに包まれていた。
気付けば年度を跨ぎ、四月四日、午前七時。
いつもなら、桜くんは先に起きて朝ご飯を用意してくれている時間。
「桜くん……?」
名前を呼んで部屋を渡り歩く。けれど、どこにも彼の姿はなかった。
急激に寂しさが襲ってくる。桜くんが、いない?
部屋を見回すと、ふと、桜くんの整理された机の真ん中に、茶色い封筒が置かれているのが目に入った。
『姫野沙月さんへ』
封筒に丁寧に書かれた文字を読んだ瞬間、心臓がどくっと嫌な音を立てた。三月末に見た日記の内容が脳裏を駆け抜ける。
中には紙が二枚入っていて、そこにはどちらも文字がぎっしりと書かれていた。整っているから、見づらさは感じない。
鼓動が逸るのを感じながら、私は手前にあった一枚目の紙から目を通した。
突然の手紙で、また、なにも言わずに外出してしまってごめんなさい。姫野さんはきっと今寂しさを感じていると思います。ただ、これが姫野さんに対しての最善の方法だと言うことを理解してくれれば幸いです。
この手紙は、僕になにかあったときのために、僕の全てを姫野さんに伝えるものとして書いています。長くなりますが、最後まで読んでくれると嬉しいです。
まず、姫野さんに謝らないといけないことが一つあります。僕は君に嘘をついていました。君がこの家に来て二日目、僕は買い物に行くと言って外に出て、遅くなったことで寂しい思いをさせてしまいました。しかし、本当はこのとき、買い物だけに行ったわけではありませんでした。確かに買い物には行ったのだけれど、その後、一人の女の子と会いました。それが僕の幼馴染、咲田唯菜です(先に言っておくと僕と唯菜に恋愛関係はないので安心してね)。
唯菜とは同じ病院で産まれ、親同士も仲が良く、小さい頃から交流がありました。人当たりが良く無邪気で、みんなから好かれるような女の子でした。僕が高校生になってから演じているキャラの手本は、唯菜です。演じていると言っても、それほど無理しているわけではないです。素の自分とかけ離れているわけでもないので。
唯菜は生真面目で消極的だった僕をいつも引っ張ってくれて、小学校、中学校でも彼女のおかげでひとりにならずに済みました。小学三年生で僕のお父さんが家を出て行ったときも、唯菜は苦しんでいた僕をお姉ちゃんのように支えてくれました。ただ、それでも無理がたたって、僕は中学二年の三学期から中学三年の一学期まで学校に行けませんでした。いわゆる不登校です。学校で僕が不登校だったという噂が流れているみたいだけど、本当です。後で知ったのだけれど、それと同じ頃から、元々悪かった唯菜の両親の仲かがさらに悪化していったのだそうです。
僕が不登校の間も唯菜は、自分の家庭が不安定であるにも関わらず、寄り添い続けてくれました。中三の二学期は、学校に行くことができ、不登校になる前のように学校生活を送ることができるようになりました。本当に、普通通り。唯菜はいつも笑顔で、明るくて。だから三学期になって唯菜が学校に来なくなったとき、心の底から驚いたし、なんで気付けなかったんだろうって強く後悔した。
唯菜の家庭と心は、その冬休みに崩壊しました。そしてそれに続くように、中学卒業後、僕のお母さんが体調を崩して入院。唯菜は祖父母に引き取られ、僕は一人暮らしが始まりました。お母さんは、僕が高校生になってからは一度も目覚めていません。
高校生になってから、僕と唯菜は毎日のように桜が並ぶ河川敷で会うようになりました。僕の心の拠り所は唯菜だけだったし、唯菜も僕おそらくのことを唯一信頼してくれていました。その信頼に応えれることができなかったけれど。
唯菜の心を救うことができないまま、一年が過ぎて。去年のちょうどこの頃、唯菜は「来年の四月四日に死ぬ」と宣言しました。その後の一年で唯菜の死ぬ気をなくすことはできなかった。だから僕は今日、それを止めに行きます。
僕は死なない。死にたくない。でも、唯菜が危なくなったら、体を張って助かます。だからそうなってしまったときのため、ここに書き残しておきます。
突然のことで、本当にごめんなさい。そして、僕のことを支えてくれてありがとう。自覚はなかったかな?でも、そうなんだよ。
姫野さん、どうか、君が、幸せになれますように。
望月 桜
最後の一文を読み終えた瞬間、私は手紙を置いて桜くんの家を飛び出した。
どこに行けばいい?どこに行けば、二人を止められる?
唯菜ちゃんという人が選びそうな場所は。桜くんの大切な幼馴染ならば――。
二人が会っていたという土手を、私はたぶん知っている。この辺りだとあそこしかない。
合っているかはわからない。でも、行くしかない。私は全速力で走り出した。
桜くんがいない幸せなんてありえない。
君がいなければ、私は本当に生きていけなくなるんだよ。
桜くんがなにかを抱え込んでいることには気付けていた。もし私があと一歩踏み込んでいたら、こんな展開を避けられただろうか。
踏み込んで傷つけてしまうことが、嫌だった。でも、踏み込まないことで失ってしまうかもしれないなんて。
もう、大切な人を、失いたくない。桜くんと公園で話したあの日、決意したはずなのに、また私は。
嫌だ、ダメ、死なないで。
満開の桜が並ぶ土手まで来たけれど、二人の姿は見当たらない。ここではなく、死ぬことができてしまうところにいるはずだ。近くにそんな場所は――。
はっとして、すぐそばにの、桜並木がある大通りに走った。整然と並ぶ高い建物のいちばん手前にあるのは、今は使われていないビル。すっかり衰退した大通りを象徴している。
その廃ビルに向かって走っていると、屋上から、なにかが落ちてくるのが目に入った。
――間に合わなかった?
私の目前の桜の木が、バサッと大きな音を立ててたくさんの花びらを散らした。落ちてきたものを、受け止めたのだ。
荒く呼吸をしながら木の上に目を向けると、そこには桜の花びらにまみれた男の子がいた。
「桜くん!」
名前を呼ぶと、木の上で彼の体がぴくりと動いた。そしてゆっくりと起きて、私の前に飛び下りる。
良かった、生きててくれた――。
安心して脱力し、その場に座り込みそうになる。
「姫野、さん?なんで、ここに……」
落下した衝撃からか、桜くんの体は震えていた。こんなに動揺した桜くんは見たことがなかった。
よく見ると、服の左肘の辺りが赤く滲んでいた
「あ……桜くん、血が……!」
「軽い擦り傷だから、大丈夫。それより、唯菜が……」
「うん、任せて。桜くんは、ここで待ってて」
私は再び走り出してビルに入り、一気に屋上へと、錆びれた非常階段を上った。
屋上に来ると、手すりの向こうに、蹲って震える女の子がいた。近くまで駆けて手すりを乗り越え、女の子の隣に立つ。
「あの……!」
声をかけると、彼女の肩がびくっと跳ね、顔をゆっくりとこちらへ向けた。
長い黒髪、怯えた目、白すぎる肌。
どことなく見覚えがある。
「咲田唯菜ちゃんだよね」
怯えながらも、彼女はこくりとうなずいてくれた。
「私は、姫野沙月、桜くんのクラスメイトです。……危ないから、こっち行こう?」
慎重に言葉を選び、手すりの内側を指さす。彼女はその指の先に目をやり、もう一度私を見て、
「……さく、ちゃん、は?」
弱々しく、消え入りそうな声だった。私は安心させるように笑みを浮かべて、答える。
「大丈夫、無事だよ。桜の木が助けてくれた」
それを聞くと、彼女はほぅっと息を吐いた。体の震えも和らいでいた。
そして彼女は、躊躇いながらも私が差し出した手を取り、手すりの内側へ戻った。私も後から内側に入り、座り込んだ彼女の隣に腰を下ろす。
「……桜くんから、全部ではないけど、あなたのこと、聞いたよ」
「え……」
困惑したように向けられた瞳には、光が見えなかった。無邪気で明るいという桜くんの言葉からは程遠い。
「初対面だし、なんだこいつってなると思うけど、私は、あなたのこと、貶したりバカにしたりしないから、大丈夫だよ」
なんて偉そうな言葉だろう、と言いながら思った。私だって人のことを言えない。
どうすれば、彼女の心を上向かせることができるだろう。桜くんのように丁寧に落ち着かせたり、癒したりすることができない。慰めの言葉を言ったって、意味はないと思う。
でも、私と彼女には、一つ、共通点がある。
「……私も、桜くんに、救ってもらったの」
「……え」
「大切な友達を手放して、推しを失って、もう、私に生きる価値なんてないのかなって思ってた」
ひとりきりで泣いていた雨の日のことが頭に浮かぶ。
もしあの日、桜くんが手を差し伸べてくれていなかったら、私はあのまま野垂れ死んでいたかもしれない。
「そんなときに、桜くんは、私のことを助けてくれて、大丈夫だよって言ってくれて、そばにいてくれて。……自分も大変なことを、ずっと隠して」
唯菜ちゃんが目を見開いた。同じようなことは、彼女にも心当たりがあると思う。
「桜くんは、私のことも、あなたのことも、すごく大切に思ってくれてる。だから、自分がつらくても、無理してでも、……自分が死んでも、幸せにしようとしてくれるんだよ」
「……!」
学校を休んでまで、隣にいてくれた桜くん。地域の活動に参加していると言っていたけど、それだって、誰かのため。そして、毎日、唯菜ちゃんと会っていたという。
「桜くんは、大切な人が死ぬくらいなら、自分が死んでもそれを止めようとするんだって、わかった。だから、私と一緒に、桜くんが生きるために、生きようよ」
自分に言い聞かせる意味も込めてそう伝え、笑いかけると、唯菜ちゃんの目から涙が一筋零れた。
ただ、私にはまだ言わないといけないことがある。それと、と声を落として続ける。
「――唯菜ちゃん、ごめんね」
「え……?」
「私が、桜くんにそばにいてほしいってわがまま言ったせいで、唯菜ちゃんと桜くんの時間を奪ってしまって……。本当に、ごめんなさい」
もしかしたら、私がいなければ、桜くんが怪我をするのを防げたんじゃないか。そんな考えさえ頭をよぎる。
私が、二人の関係を途絶えさせてしまった。
「……ううん、いいの」
意外にも、唯菜ちゃんは穏やかな表情を浮かべて首を横に振った。もう怯えた様子は消えていた。
儚い微笑みを私に向け、言葉を紡ぐ。
「三月の、真ん中くらいかな。さくちゃんが、これからは会える頻度が少なくなるって言ってきて。どうしてって訊いたら、放っとけない人がいるからって答えてくれて、最初はその子を恨んだし、寂しかった」
「……うん」
それだけのことをしているから、仕方がない。
私は、桜くんのことも、唯菜ちゃんのことも、知らない間に追い込んでしまっていた。
「でも、次に会ったとき、さくちゃんがすごく優しい表情をしてて。その子に、ありがとうって、思った」
「え……」
唯菜ちゃんの言葉に、私は驚きを隠せない。
その日はたぶん、修了式だ。そういえば、式は十時くらいに終わるはずだったのに、桜くんが帰ってきたのは十三時頃だった。式の後、唯菜ちゃんと会っていたということだ。
「さくちゃんは、学校だとどんな感じ?」
「えっと……誰にでも優しくて、明るくて、みんなから人気の男の子だよ」
「そんなの、昔の私じゃん……」
唯菜ちゃんは悲しそうに笑った。桜くんは唯菜ちゃんが「演じているキャラの手本」だと書いていた。つまりそれは、本当の桜くんではないということ。
「私の前では、さくちゃんはすごく気弱で、いつも不安を口にしてた。高校生になってからもそう」
「えっ?」
家での桜くんだって、不安や負の感情を見せたことは一度もない。唯一、日記くらいだ。
「私が死ぬって言ってからは、頑張って助けようとしてくれて、そういうこと、あんまり言わなくなったけど……自然な笑顔を見せてくれることは、ずっとなかった。だから、さくちゃんが微笑むところ、久しぶりに見せてくれて、その子――沙月ちゃんには、すごく感謝してるよ」
「で、でも、それじゃあ、どうして、死のうとなんて……」
いろいろと言いたいことはあったけれど、いちばんはそれだった。深入りしすぎだとは思ったけど、気にせずにはいられない。
「私がこうなった原因、どれくらい聞いてる?」
「中三のときに、家庭と、心が、壊れてちゃったって……」
「ふふっ。さくちゃんらしい言い方」
唯菜ちゃんがクスリと笑った。こんなふうに笑うんだ。
「間違いじゃないけど、本当は、それどころじゃなくて」
一度口を閉じ、ふっと視線を足元に落とした。そして、次に続けられた言葉に、私は声を出せなかった。
「――私のお母さんは、お父さんのせいで死んだの」
想像を遥かに超える事実に、ショックでなにも言えない。
それって、つまり。
唯菜ちゃんが負った傷は、私が治すには深すぎる。
「ごめんね、びっくりしちゃうよね……。でも、沙月ちゃんには、伝えたかった」
高校生二人が背負うには、あまりにも重すぎる過去。だから私が知ることでそれが少しでも軽くなら、それでいい。
だけど、私が加わっても、そう簡単に唯菜ちゃんの心は軽くならないだろう。私も、聞いただけなのに、胸が塞がれるほど苦しくなる。
「あんまり考えすぎないで。苦しんでほしいわけじゃないから」
「う、うん……」
「……そのときから、私は誰のことも、引き取ってくれたおじいちゃんとおばあちゃんのことも、信じられなくなって。それでもたった一人、信じられたのが、さくちゃんだった。沙月ちゃんは、二人目」
どうしてそんなに信じてくれるの、という言葉を唾と共に呑み込む。今は訊くべきじゃない。
「さくちゃんは私にずっと寄り添ってくれたけど、私は、いつまでも回復できなくて。だから、さくちゃんにまで苦しい思いをさせちゃってるのが嫌になって、死んじゃおうって思った」
相手のためなら、自分の身をも捨てる。唯菜ちゃんと桜くんは、そこが同じだった。ただひたすらに相手のことを思い合う。素敵だけど、行き過ぎるとこうなってしまう、危険な関係。
相手のことを思うあまり、致命的なすれ違いが起きてしまった。私と来実の関係にも通じるところがある。
「でも、沙月ちゃんの言った通りだよね」
泣き笑いの表情で、再び私に目を向ける。その表情を見ていいのか、見ないべきかわからず、目を離すことができなかった。
「さくちゃんが生きるために、生きなきゃいけないよね。教えてくれて、ありがとう」
◇
唯菜ちゃんと共に階段を下りて、桜くんの下に戻ってくる。桜くんは自分が落ちた桜の木に手をつき、向かい合っていた。桜の木と会話しているようにも見える。
「桜くん」
私の声に気付いた桜くんは、こちらを向くと、ほっとしたように息を吐いた。
「良かった……」
「……ごめんね、さくちゃん」
「結果的に助かったから、いいよ」
命の危険に遭ったにも関わらず、もう桜くんは落ち着いていた。それほど唯菜ちゃんの無事に安心したのだろう。つまり、それくらい唯菜ちゃんのことが大切だということで。
「ありがとう、姫野さん」
桜くんのやわらかい「ありがとう」をまた聞くことができて、もう衝動を抑えきれそうになかった。
「ううん、私はなにもしてないよ。でも、一つだけ、お願い……っ」
――ばふっ、と、私は桜くんの胸に飛び込んだ。
「もう、絶対、死のうとしないで……!桜くんも、唯菜ちゃんも……」
そして私は桜くんの胸の中で、声を上げて、子どものように泣いた。桜くんはこの前とは違って、添えるように私の背中に手を回した。
本当に、二人が無事で良かった。
失うのは、もう嫌だ。
「……うん。ごめんね」
頭上から、桜くんの静かな声が降ってくる。隣からも、「ごめんね」という声が聞こえた。
あと十センチずれていたら、桜くんは今、この世界にいなかった。道に並ぶ桜より早く、散っていた。そのことが痛いほど胸を締め付ける。桜くんが生きているのは奇跡で、言い換えれば、たまたま生きていただけだ。
本当は泣きたいくらい苦しいのは二人の方で、当事者ではない私がこんなに泣くなんておかしい。頭ではわかってる。でも、涙が止められない。
やっと見つけた居場所が、「愛」が、失われることが、恐ろしかった。
私はまだ、ひとりでは生きられないくらい弱い。だから、桜くんという、居場所が必要で。だけど、私が強くなれたって、桜くんが必要じゃなくなる日も、きっと来ない。手に入れた強さを保つためにも、桜くんがいてくれないといけない。
だから、桜くんに、いつも隣で生きてほしい。
そんな願いと想いが伝わるように、私は桜くんの服を、強く強く握っていた。
私がすっかり泣き腫らした後、三人で桜くんの家に移動した。
リビングのこたつを、私と桜くんが隣同士、正面に唯菜ちゃんという不思議な配置で座る。確かにいつもは私と桜くんが隣同士だけれど、さすがに今は桜くんと唯菜ちゃんが隣でいいと思う。そう言い出せないまま、私は桜くんの隣にちょこんと座った。
桜くんが、私の状況を唯菜ちゃんに軽く説明してくれていた。
「そういうことだったんだね……」
唯菜ちゃんが優しい目を私に向ける。全体的に力のない唯菜ちゃんだけれど、本当は桜くんの書いた通り無邪気な子なんだろうなということが、ところどころ感じ取れる。
「私も、さくちゃんの家にいていい?」
「えっ?」
私と桜くんが、当時に声を上げた。
「今の家が嫌だっていうわけじゃないけど、ここの方が、安心する」
「僕はいいけど……姫野さんは?」
「大丈夫だよ」
「やった!ありがとう」
私が決めることではないと思うので、桜くんに合わせてうなずいた。正直に言うと若干の不安はあるけれど「恋愛関係はない」と桜くんが明言しているから大丈夫だろう。
それに、春休みはもうすぐ終わってしまう。お母さんに許可されたのは、春休みの間だけだ。
「ねえ、桜くん」
「うん」
「私も、春休み終わっても、ここにいたいな……」
無理は承知の上で、尋ねてみる。すると桜くんはあっさりとうなずいた。
「いいよ。でも、姫野さんのお母さんと、話さないとだよね」
「うん。とりあえず、始業式の日に学校に行って、終わったら一旦家に帰ってお母さんと話して、それからまた来ようと思う」
お母さんと話すなんていう選択肢は、ひとりで震えていた頃の私には浮かびもしなかった。桜くんがいなければ、私は今も自分の部屋で震えていただろう。
桜くんに救われたときが学校から帰る途中だったから、始業式に必要な荷物はここにある。提出書類は、私の分も桜くんが修了式に持ち帰ってきてくれていた。
「それがいいね。姫野さんのお母さんも、ちゃんと話せば、分かり合うことはできなくても、聞いてくれるよ」
「うん」
家族と話し合うことには不安しかないけれど、桜くんに言われると、できる気がしてくる。
「唯菜も、一旦家に戻ってお二人に話して、荷物持ってきたら?」
「うん、そうする」
私と唯菜ちゃんの家族との話し合いが成功すれば、本物の同居生活というようなものが始まる。唯菜ちゃんは私と似ているところがあるから、仲良くなれたら楽しそうだ。
「それと、僕からも一つ提案なんだけど……」
唯菜ちゃんがいるからか、私に心の全部を曝け出して吹っ切れたからなのか、桜くんは今までよりさらに無防備でリラックスしているように見えた。
私にもそんな姿を見せてくれることが素直に嬉しい。
「明日、三人でお母さんのお見舞いに行きたいんだけど、どうかな」
「いいね!沙月ちゃんが行ったら、絶対お母さんも喜ぶよ」
「えっ、ち、ちょっと待って」
桜くんのお母さんに会いに行く。その人とはなんの関わりもない私が行っていいのだろうか。
「私も、行きたい、けど……どうして、二人は、そんなに私のこと信じてくれるの……?」
唯菜ちゃんと話したときも、感じていた疑問。尋ねると、二人はちらりと顔を見合わせた。桜くんに対しては、今更な質問かもしれない。
「さくちゃんが認めた人だから。それに、さっき屋上で話したときも、沙月ちゃんの言葉で救われたから、沙月ちゃんなら、信じられる」
「姫野さんは誰かを傷つけたりしないから、疑う理由がないよ」
どっちの理由も、具体的ではなかった。でも、細かい理由もなく信じてくれていることが、むしろ嬉しい。恋心に理由なんてないのと同じように、必ずしも感情に理由はいらないのだと思った。
「ありがとう……。私も、桜くんのお母さんのお見舞い、行くよ」
「こちらこそありがとう。唯菜が言った通り、お母さんも喜ぶよ」
「私が行ったら、喜ぶ……?」
「今までは僕と唯菜しかお見舞いしたことなかったからね。仲間が増えて、僕も嬉しい」
「さくちゃんが私しかいろいろ喋れる人がいないかと、お母さんも心配してたもんね」
「そうだったんだ……」
学校では不登校という噂以外、桜くんの素性がわかるようなことはあまりなかった。学校での友達はまだ桜くんにとって本当の友達ではないのかもしれない。
「じゃあ、私、おばあちゃんたちに話してくるね」
「うん。唯菜が帰ってきたら、買い物行ってくるよ。いろいろと足りなくなりそうだから」
「……本当に買い物?」
信じていないわけではないけれど、そう尋ねてみる。
「ほんとだよ。あのときはごめんね」
「……いいよ」
唯菜ちゃんと桜くんの時間を邪魔するわけにはいかないから、二人が土手で話していたことは構わないけど、せめて友達と話してくるとくらい言ってくれれば。
でもあのタイミングで唯菜ちゃんの話をするのも、私にとって重い物を背負わせてしまうことになる。いろいろと悩んだ結果だったのだろう。桜くんのことも責められない。
出ていく唯菜ちゃんを見送って、二人きりになる。
「ねぇ、桜くん」
隣に座る彼の袖をくいくいとつまむ。
「唯菜ちゃんと、恋愛関係はないって言ってたけど……」
「そうだよ。そういう気持ちを持ったことは一度もない。唯菜もそうだと思う」
「でも、すごく仲良いよね」
「幼馴染だからね。恋心があったら、もっと物理的な距離も意識してる」
「え」
困惑した表情を浮かべると、桜くんがふふっと笑った。
意識してる、という言葉がわかりにくい。縮めようとしてるということなのか、近付きすぎないようにするということなのか。
胸の鼓動が、変に逸っていた。
◇
翌日、私たちは三人で歩いて街の病院に向かった。
唯菜ちゃんはこの病院と桜くんと合う土手に行くとき以外は家から出ていないのだという。人が怖いからだそうだ。でも今日は「二人とならこのままどこでも行けそう」と言って微笑んでいた。
昨日の夜は、寝る場所をどうするかでちょっとした審議が入った。桜くんと私が隣で寝ていることを知った唯菜ちゃんは大いに驚いていたけれど、三人が別々の部屋で寝れるほどのスペースもなく、片付けるのも面倒だからと結局みんなで並んで眠ることになった。決定打は三人ともひとりよりは隣に人がいた方がいいと思っていることだった。
そして、なぜか私が真ん中になって、両隣を唯菜ちゃんと桜くんに挟まれて寝た。しかも桜くんはいつも通り手を重ねてきた。バレていなかったからいいけど、唯菜ちゃんがいるので落ち着くどころかいつもよりドキドキしてしまった。
そして今も、私が真ん中、二人が両隣にいる。
「桜くんのお母さんって、どんな人?」
二人の間を歩きながら尋ねる。桜くんと唯菜ちゃんは、おそらく自分たちの距離をほとんど気にしていない。つまり、桜くんの言葉通り「意識して」いない。
「さくちゃんに似て、優しい人だよ」
「怒られたことはめったになかったな。でも、僕よりも活発だよ」
私のお母さんと接点があることを思い出した。桜くんを連れて地域の活動によく参加していたらしいから、積極的なのだろう。
病院に着き、静かな病室に入ると、桜くんに似て綺麗な顔立ちの女性が、安らか表情で眠っていた。
桜くんが、女性の手に自分の手を添える。
「大切な人が増えたよ……」
私にもかろうじて聞こえるくらいの声量で、お母さんに向けて囁いた。
桜くんの優しい目つきに、私は見惚れるばかりだった。
「姫野さん」
お母さんの手を取ったまま、桜くんが静かに私の名前を呼ぶ。
「昨日の手紙にには書き切れなかったんだけど……僕が、明るくて優しい、人気者っていうキャラを演じてる理由は、こういうこと」
本当の桜くんは気弱で不安も口にすると、唯菜ちゃんも言っていた。優しいのは変わらない。
「いつかお母さんが目を覚ましたときに、心配かけたくないから。クラスで友達がたくさんいて、いろんな活動にも積極的に参加して、元気そうにしていれば、お母さんも安心してくれるかなって思った」
演じていると言ってもそれほど無理をしているわけではないとも書いていたけど、自分の本音を押し殺すのは、決して楽なことではない。私にもそれはわかる。
「でもやっぱり、いちばん安心してくれそうなのは、こうやって、僕が大切な人を作って、心も健康に生活してることだって、最近は思うよ。だから――」
桜くんは立ち上がり、私に向かって優しすぎる微笑みを向けた。
「姫野さん、ありがとう」
私は、この感謝を受け取っていいのだろうか。救われているのは私の方なのに。
「……私は、なにもしてないよ。ただ、桜くんが心を許してくれただけで」
「姫野さんだから、心を許すことができたんだよ。姫野さんは、僕と似てる」
「え?」
「頑張りすぎて壊れちゃうっていうのは、中二のときの僕と同じだよ。頑張ってる人だなって思って、前から気にかけてたら、案の定、頑張りすぎちゃって。自分を見てるみたいだった」
だから、桜くんは学校で、私に忠告してくれたんだ。それを聞かずに、私は結局心を壊してしまった。
「唯菜も、そう」
「私たちって、似たもの同士なんだね」
唯菜ちゃんがクスリと笑った。
桜くんは、全然違う世界にいる人だと思っていたのに。
真面目さゆえに頑張りすぎて不登校になった桜くん。その彼をつらさを隠して支えたけれど、ついに糸が切れてしまった唯菜ちゃん。どれだけ頑張っても報われず、桜くんに救われた私。
「――頑張ったね、私たち」
唯菜ちゃんが穏やかな表情でそんなことを言う。本当に、その通りだと思う。
「そうだね。本当に、頑張ったよ」
桜くんも、大きくうなずいて言った。
どれだけ頑張っても失ってばかりで、勉強し続けても成績は伸びなかったけれど、あの夜桜くんに認めてもらたから、そんなことはどうでもよくなった。そして今、ようやく自分でも、私の頑張りを受け入れることができた。
頑張ったね、私。無理させて、ごめんね。
努力というものは、周りからは見えにくく、結果に結びつかないこともある。でも、頑張っているることを自分でアピールするものでもない。だから、周りが気付いてあげるか、自分で認めるしかない。
今度は私が、誰かの努力を見つけられるようになりたい。
私はもう、大丈夫。
頑張りすぎた私たちの想いは、それぞれに確かに、伝わったから。
気付けば年度を跨ぎ、四月四日、午前七時。
いつもなら、桜くんは先に起きて朝ご飯を用意してくれている時間。
「桜くん……?」
名前を呼んで部屋を渡り歩く。けれど、どこにも彼の姿はなかった。
急激に寂しさが襲ってくる。桜くんが、いない?
部屋を見回すと、ふと、桜くんの整理された机の真ん中に、茶色い封筒が置かれているのが目に入った。
『姫野沙月さんへ』
封筒に丁寧に書かれた文字を読んだ瞬間、心臓がどくっと嫌な音を立てた。三月末に見た日記の内容が脳裏を駆け抜ける。
中には紙が二枚入っていて、そこにはどちらも文字がぎっしりと書かれていた。整っているから、見づらさは感じない。
鼓動が逸るのを感じながら、私は手前にあった一枚目の紙から目を通した。
突然の手紙で、また、なにも言わずに外出してしまってごめんなさい。姫野さんはきっと今寂しさを感じていると思います。ただ、これが姫野さんに対しての最善の方法だと言うことを理解してくれれば幸いです。
この手紙は、僕になにかあったときのために、僕の全てを姫野さんに伝えるものとして書いています。長くなりますが、最後まで読んでくれると嬉しいです。
まず、姫野さんに謝らないといけないことが一つあります。僕は君に嘘をついていました。君がこの家に来て二日目、僕は買い物に行くと言って外に出て、遅くなったことで寂しい思いをさせてしまいました。しかし、本当はこのとき、買い物だけに行ったわけではありませんでした。確かに買い物には行ったのだけれど、その後、一人の女の子と会いました。それが僕の幼馴染、咲田唯菜です(先に言っておくと僕と唯菜に恋愛関係はないので安心してね)。
唯菜とは同じ病院で産まれ、親同士も仲が良く、小さい頃から交流がありました。人当たりが良く無邪気で、みんなから好かれるような女の子でした。僕が高校生になってから演じているキャラの手本は、唯菜です。演じていると言っても、それほど無理しているわけではないです。素の自分とかけ離れているわけでもないので。
唯菜は生真面目で消極的だった僕をいつも引っ張ってくれて、小学校、中学校でも彼女のおかげでひとりにならずに済みました。小学三年生で僕のお父さんが家を出て行ったときも、唯菜は苦しんでいた僕をお姉ちゃんのように支えてくれました。ただ、それでも無理がたたって、僕は中学二年の三学期から中学三年の一学期まで学校に行けませんでした。いわゆる不登校です。学校で僕が不登校だったという噂が流れているみたいだけど、本当です。後で知ったのだけれど、それと同じ頃から、元々悪かった唯菜の両親の仲かがさらに悪化していったのだそうです。
僕が不登校の間も唯菜は、自分の家庭が不安定であるにも関わらず、寄り添い続けてくれました。中三の二学期は、学校に行くことができ、不登校になる前のように学校生活を送ることができるようになりました。本当に、普通通り。唯菜はいつも笑顔で、明るくて。だから三学期になって唯菜が学校に来なくなったとき、心の底から驚いたし、なんで気付けなかったんだろうって強く後悔した。
唯菜の家庭と心は、その冬休みに崩壊しました。そしてそれに続くように、中学卒業後、僕のお母さんが体調を崩して入院。唯菜は祖父母に引き取られ、僕は一人暮らしが始まりました。お母さんは、僕が高校生になってからは一度も目覚めていません。
高校生になってから、僕と唯菜は毎日のように桜が並ぶ河川敷で会うようになりました。僕の心の拠り所は唯菜だけだったし、唯菜も僕おそらくのことを唯一信頼してくれていました。その信頼に応えれることができなかったけれど。
唯菜の心を救うことができないまま、一年が過ぎて。去年のちょうどこの頃、唯菜は「来年の四月四日に死ぬ」と宣言しました。その後の一年で唯菜の死ぬ気をなくすことはできなかった。だから僕は今日、それを止めに行きます。
僕は死なない。死にたくない。でも、唯菜が危なくなったら、体を張って助かます。だからそうなってしまったときのため、ここに書き残しておきます。
突然のことで、本当にごめんなさい。そして、僕のことを支えてくれてありがとう。自覚はなかったかな?でも、そうなんだよ。
姫野さん、どうか、君が、幸せになれますように。
望月 桜
最後の一文を読み終えた瞬間、私は手紙を置いて桜くんの家を飛び出した。
どこに行けばいい?どこに行けば、二人を止められる?
唯菜ちゃんという人が選びそうな場所は。桜くんの大切な幼馴染ならば――。
二人が会っていたという土手を、私はたぶん知っている。この辺りだとあそこしかない。
合っているかはわからない。でも、行くしかない。私は全速力で走り出した。
桜くんがいない幸せなんてありえない。
君がいなければ、私は本当に生きていけなくなるんだよ。
桜くんがなにかを抱え込んでいることには気付けていた。もし私があと一歩踏み込んでいたら、こんな展開を避けられただろうか。
踏み込んで傷つけてしまうことが、嫌だった。でも、踏み込まないことで失ってしまうかもしれないなんて。
もう、大切な人を、失いたくない。桜くんと公園で話したあの日、決意したはずなのに、また私は。
嫌だ、ダメ、死なないで。
満開の桜が並ぶ土手まで来たけれど、二人の姿は見当たらない。ここではなく、死ぬことができてしまうところにいるはずだ。近くにそんな場所は――。
はっとして、すぐそばにの、桜並木がある大通りに走った。整然と並ぶ高い建物のいちばん手前にあるのは、今は使われていないビル。すっかり衰退した大通りを象徴している。
その廃ビルに向かって走っていると、屋上から、なにかが落ちてくるのが目に入った。
――間に合わなかった?
私の目前の桜の木が、バサッと大きな音を立ててたくさんの花びらを散らした。落ちてきたものを、受け止めたのだ。
荒く呼吸をしながら木の上に目を向けると、そこには桜の花びらにまみれた男の子がいた。
「桜くん!」
名前を呼ぶと、木の上で彼の体がぴくりと動いた。そしてゆっくりと起きて、私の前に飛び下りる。
良かった、生きててくれた――。
安心して脱力し、その場に座り込みそうになる。
「姫野、さん?なんで、ここに……」
落下した衝撃からか、桜くんの体は震えていた。こんなに動揺した桜くんは見たことがなかった。
よく見ると、服の左肘の辺りが赤く滲んでいた
「あ……桜くん、血が……!」
「軽い擦り傷だから、大丈夫。それより、唯菜が……」
「うん、任せて。桜くんは、ここで待ってて」
私は再び走り出してビルに入り、一気に屋上へと、錆びれた非常階段を上った。
屋上に来ると、手すりの向こうに、蹲って震える女の子がいた。近くまで駆けて手すりを乗り越え、女の子の隣に立つ。
「あの……!」
声をかけると、彼女の肩がびくっと跳ね、顔をゆっくりとこちらへ向けた。
長い黒髪、怯えた目、白すぎる肌。
どことなく見覚えがある。
「咲田唯菜ちゃんだよね」
怯えながらも、彼女はこくりとうなずいてくれた。
「私は、姫野沙月、桜くんのクラスメイトです。……危ないから、こっち行こう?」
慎重に言葉を選び、手すりの内側を指さす。彼女はその指の先に目をやり、もう一度私を見て、
「……さく、ちゃん、は?」
弱々しく、消え入りそうな声だった。私は安心させるように笑みを浮かべて、答える。
「大丈夫、無事だよ。桜の木が助けてくれた」
それを聞くと、彼女はほぅっと息を吐いた。体の震えも和らいでいた。
そして彼女は、躊躇いながらも私が差し出した手を取り、手すりの内側へ戻った。私も後から内側に入り、座り込んだ彼女の隣に腰を下ろす。
「……桜くんから、全部ではないけど、あなたのこと、聞いたよ」
「え……」
困惑したように向けられた瞳には、光が見えなかった。無邪気で明るいという桜くんの言葉からは程遠い。
「初対面だし、なんだこいつってなると思うけど、私は、あなたのこと、貶したりバカにしたりしないから、大丈夫だよ」
なんて偉そうな言葉だろう、と言いながら思った。私だって人のことを言えない。
どうすれば、彼女の心を上向かせることができるだろう。桜くんのように丁寧に落ち着かせたり、癒したりすることができない。慰めの言葉を言ったって、意味はないと思う。
でも、私と彼女には、一つ、共通点がある。
「……私も、桜くんに、救ってもらったの」
「……え」
「大切な友達を手放して、推しを失って、もう、私に生きる価値なんてないのかなって思ってた」
ひとりきりで泣いていた雨の日のことが頭に浮かぶ。
もしあの日、桜くんが手を差し伸べてくれていなかったら、私はあのまま野垂れ死んでいたかもしれない。
「そんなときに、桜くんは、私のことを助けてくれて、大丈夫だよって言ってくれて、そばにいてくれて。……自分も大変なことを、ずっと隠して」
唯菜ちゃんが目を見開いた。同じようなことは、彼女にも心当たりがあると思う。
「桜くんは、私のことも、あなたのことも、すごく大切に思ってくれてる。だから、自分がつらくても、無理してでも、……自分が死んでも、幸せにしようとしてくれるんだよ」
「……!」
学校を休んでまで、隣にいてくれた桜くん。地域の活動に参加していると言っていたけど、それだって、誰かのため。そして、毎日、唯菜ちゃんと会っていたという。
「桜くんは、大切な人が死ぬくらいなら、自分が死んでもそれを止めようとするんだって、わかった。だから、私と一緒に、桜くんが生きるために、生きようよ」
自分に言い聞かせる意味も込めてそう伝え、笑いかけると、唯菜ちゃんの目から涙が一筋零れた。
ただ、私にはまだ言わないといけないことがある。それと、と声を落として続ける。
「――唯菜ちゃん、ごめんね」
「え……?」
「私が、桜くんにそばにいてほしいってわがまま言ったせいで、唯菜ちゃんと桜くんの時間を奪ってしまって……。本当に、ごめんなさい」
もしかしたら、私がいなければ、桜くんが怪我をするのを防げたんじゃないか。そんな考えさえ頭をよぎる。
私が、二人の関係を途絶えさせてしまった。
「……ううん、いいの」
意外にも、唯菜ちゃんは穏やかな表情を浮かべて首を横に振った。もう怯えた様子は消えていた。
儚い微笑みを私に向け、言葉を紡ぐ。
「三月の、真ん中くらいかな。さくちゃんが、これからは会える頻度が少なくなるって言ってきて。どうしてって訊いたら、放っとけない人がいるからって答えてくれて、最初はその子を恨んだし、寂しかった」
「……うん」
それだけのことをしているから、仕方がない。
私は、桜くんのことも、唯菜ちゃんのことも、知らない間に追い込んでしまっていた。
「でも、次に会ったとき、さくちゃんがすごく優しい表情をしてて。その子に、ありがとうって、思った」
「え……」
唯菜ちゃんの言葉に、私は驚きを隠せない。
その日はたぶん、修了式だ。そういえば、式は十時くらいに終わるはずだったのに、桜くんが帰ってきたのは十三時頃だった。式の後、唯菜ちゃんと会っていたということだ。
「さくちゃんは、学校だとどんな感じ?」
「えっと……誰にでも優しくて、明るくて、みんなから人気の男の子だよ」
「そんなの、昔の私じゃん……」
唯菜ちゃんは悲しそうに笑った。桜くんは唯菜ちゃんが「演じているキャラの手本」だと書いていた。つまりそれは、本当の桜くんではないということ。
「私の前では、さくちゃんはすごく気弱で、いつも不安を口にしてた。高校生になってからもそう」
「えっ?」
家での桜くんだって、不安や負の感情を見せたことは一度もない。唯一、日記くらいだ。
「私が死ぬって言ってからは、頑張って助けようとしてくれて、そういうこと、あんまり言わなくなったけど……自然な笑顔を見せてくれることは、ずっとなかった。だから、さくちゃんが微笑むところ、久しぶりに見せてくれて、その子――沙月ちゃんには、すごく感謝してるよ」
「で、でも、それじゃあ、どうして、死のうとなんて……」
いろいろと言いたいことはあったけれど、いちばんはそれだった。深入りしすぎだとは思ったけど、気にせずにはいられない。
「私がこうなった原因、どれくらい聞いてる?」
「中三のときに、家庭と、心が、壊れてちゃったって……」
「ふふっ。さくちゃんらしい言い方」
唯菜ちゃんがクスリと笑った。こんなふうに笑うんだ。
「間違いじゃないけど、本当は、それどころじゃなくて」
一度口を閉じ、ふっと視線を足元に落とした。そして、次に続けられた言葉に、私は声を出せなかった。
「――私のお母さんは、お父さんのせいで死んだの」
想像を遥かに超える事実に、ショックでなにも言えない。
それって、つまり。
唯菜ちゃんが負った傷は、私が治すには深すぎる。
「ごめんね、びっくりしちゃうよね……。でも、沙月ちゃんには、伝えたかった」
高校生二人が背負うには、あまりにも重すぎる過去。だから私が知ることでそれが少しでも軽くなら、それでいい。
だけど、私が加わっても、そう簡単に唯菜ちゃんの心は軽くならないだろう。私も、聞いただけなのに、胸が塞がれるほど苦しくなる。
「あんまり考えすぎないで。苦しんでほしいわけじゃないから」
「う、うん……」
「……そのときから、私は誰のことも、引き取ってくれたおじいちゃんとおばあちゃんのことも、信じられなくなって。それでもたった一人、信じられたのが、さくちゃんだった。沙月ちゃんは、二人目」
どうしてそんなに信じてくれるの、という言葉を唾と共に呑み込む。今は訊くべきじゃない。
「さくちゃんは私にずっと寄り添ってくれたけど、私は、いつまでも回復できなくて。だから、さくちゃんにまで苦しい思いをさせちゃってるのが嫌になって、死んじゃおうって思った」
相手のためなら、自分の身をも捨てる。唯菜ちゃんと桜くんは、そこが同じだった。ただひたすらに相手のことを思い合う。素敵だけど、行き過ぎるとこうなってしまう、危険な関係。
相手のことを思うあまり、致命的なすれ違いが起きてしまった。私と来実の関係にも通じるところがある。
「でも、沙月ちゃんの言った通りだよね」
泣き笑いの表情で、再び私に目を向ける。その表情を見ていいのか、見ないべきかわからず、目を離すことができなかった。
「さくちゃんが生きるために、生きなきゃいけないよね。教えてくれて、ありがとう」
◇
唯菜ちゃんと共に階段を下りて、桜くんの下に戻ってくる。桜くんは自分が落ちた桜の木に手をつき、向かい合っていた。桜の木と会話しているようにも見える。
「桜くん」
私の声に気付いた桜くんは、こちらを向くと、ほっとしたように息を吐いた。
「良かった……」
「……ごめんね、さくちゃん」
「結果的に助かったから、いいよ」
命の危険に遭ったにも関わらず、もう桜くんは落ち着いていた。それほど唯菜ちゃんの無事に安心したのだろう。つまり、それくらい唯菜ちゃんのことが大切だということで。
「ありがとう、姫野さん」
桜くんのやわらかい「ありがとう」をまた聞くことができて、もう衝動を抑えきれそうになかった。
「ううん、私はなにもしてないよ。でも、一つだけ、お願い……っ」
――ばふっ、と、私は桜くんの胸に飛び込んだ。
「もう、絶対、死のうとしないで……!桜くんも、唯菜ちゃんも……」
そして私は桜くんの胸の中で、声を上げて、子どものように泣いた。桜くんはこの前とは違って、添えるように私の背中に手を回した。
本当に、二人が無事で良かった。
失うのは、もう嫌だ。
「……うん。ごめんね」
頭上から、桜くんの静かな声が降ってくる。隣からも、「ごめんね」という声が聞こえた。
あと十センチずれていたら、桜くんは今、この世界にいなかった。道に並ぶ桜より早く、散っていた。そのことが痛いほど胸を締め付ける。桜くんが生きているのは奇跡で、言い換えれば、たまたま生きていただけだ。
本当は泣きたいくらい苦しいのは二人の方で、当事者ではない私がこんなに泣くなんておかしい。頭ではわかってる。でも、涙が止められない。
やっと見つけた居場所が、「愛」が、失われることが、恐ろしかった。
私はまだ、ひとりでは生きられないくらい弱い。だから、桜くんという、居場所が必要で。だけど、私が強くなれたって、桜くんが必要じゃなくなる日も、きっと来ない。手に入れた強さを保つためにも、桜くんがいてくれないといけない。
だから、桜くんに、いつも隣で生きてほしい。
そんな願いと想いが伝わるように、私は桜くんの服を、強く強く握っていた。
私がすっかり泣き腫らした後、三人で桜くんの家に移動した。
リビングのこたつを、私と桜くんが隣同士、正面に唯菜ちゃんという不思議な配置で座る。確かにいつもは私と桜くんが隣同士だけれど、さすがに今は桜くんと唯菜ちゃんが隣でいいと思う。そう言い出せないまま、私は桜くんの隣にちょこんと座った。
桜くんが、私の状況を唯菜ちゃんに軽く説明してくれていた。
「そういうことだったんだね……」
唯菜ちゃんが優しい目を私に向ける。全体的に力のない唯菜ちゃんだけれど、本当は桜くんの書いた通り無邪気な子なんだろうなということが、ところどころ感じ取れる。
「私も、さくちゃんの家にいていい?」
「えっ?」
私と桜くんが、当時に声を上げた。
「今の家が嫌だっていうわけじゃないけど、ここの方が、安心する」
「僕はいいけど……姫野さんは?」
「大丈夫だよ」
「やった!ありがとう」
私が決めることではないと思うので、桜くんに合わせてうなずいた。正直に言うと若干の不安はあるけれど「恋愛関係はない」と桜くんが明言しているから大丈夫だろう。
それに、春休みはもうすぐ終わってしまう。お母さんに許可されたのは、春休みの間だけだ。
「ねえ、桜くん」
「うん」
「私も、春休み終わっても、ここにいたいな……」
無理は承知の上で、尋ねてみる。すると桜くんはあっさりとうなずいた。
「いいよ。でも、姫野さんのお母さんと、話さないとだよね」
「うん。とりあえず、始業式の日に学校に行って、終わったら一旦家に帰ってお母さんと話して、それからまた来ようと思う」
お母さんと話すなんていう選択肢は、ひとりで震えていた頃の私には浮かびもしなかった。桜くんがいなければ、私は今も自分の部屋で震えていただろう。
桜くんに救われたときが学校から帰る途中だったから、始業式に必要な荷物はここにある。提出書類は、私の分も桜くんが修了式に持ち帰ってきてくれていた。
「それがいいね。姫野さんのお母さんも、ちゃんと話せば、分かり合うことはできなくても、聞いてくれるよ」
「うん」
家族と話し合うことには不安しかないけれど、桜くんに言われると、できる気がしてくる。
「唯菜も、一旦家に戻ってお二人に話して、荷物持ってきたら?」
「うん、そうする」
私と唯菜ちゃんの家族との話し合いが成功すれば、本物の同居生活というようなものが始まる。唯菜ちゃんは私と似ているところがあるから、仲良くなれたら楽しそうだ。
「それと、僕からも一つ提案なんだけど……」
唯菜ちゃんがいるからか、私に心の全部を曝け出して吹っ切れたからなのか、桜くんは今までよりさらに無防備でリラックスしているように見えた。
私にもそんな姿を見せてくれることが素直に嬉しい。
「明日、三人でお母さんのお見舞いに行きたいんだけど、どうかな」
「いいね!沙月ちゃんが行ったら、絶対お母さんも喜ぶよ」
「えっ、ち、ちょっと待って」
桜くんのお母さんに会いに行く。その人とはなんの関わりもない私が行っていいのだろうか。
「私も、行きたい、けど……どうして、二人は、そんなに私のこと信じてくれるの……?」
唯菜ちゃんと話したときも、感じていた疑問。尋ねると、二人はちらりと顔を見合わせた。桜くんに対しては、今更な質問かもしれない。
「さくちゃんが認めた人だから。それに、さっき屋上で話したときも、沙月ちゃんの言葉で救われたから、沙月ちゃんなら、信じられる」
「姫野さんは誰かを傷つけたりしないから、疑う理由がないよ」
どっちの理由も、具体的ではなかった。でも、細かい理由もなく信じてくれていることが、むしろ嬉しい。恋心に理由なんてないのと同じように、必ずしも感情に理由はいらないのだと思った。
「ありがとう……。私も、桜くんのお母さんのお見舞い、行くよ」
「こちらこそありがとう。唯菜が言った通り、お母さんも喜ぶよ」
「私が行ったら、喜ぶ……?」
「今までは僕と唯菜しかお見舞いしたことなかったからね。仲間が増えて、僕も嬉しい」
「さくちゃんが私しかいろいろ喋れる人がいないかと、お母さんも心配してたもんね」
「そうだったんだ……」
学校では不登校という噂以外、桜くんの素性がわかるようなことはあまりなかった。学校での友達はまだ桜くんにとって本当の友達ではないのかもしれない。
「じゃあ、私、おばあちゃんたちに話してくるね」
「うん。唯菜が帰ってきたら、買い物行ってくるよ。いろいろと足りなくなりそうだから」
「……本当に買い物?」
信じていないわけではないけれど、そう尋ねてみる。
「ほんとだよ。あのときはごめんね」
「……いいよ」
唯菜ちゃんと桜くんの時間を邪魔するわけにはいかないから、二人が土手で話していたことは構わないけど、せめて友達と話してくるとくらい言ってくれれば。
でもあのタイミングで唯菜ちゃんの話をするのも、私にとって重い物を背負わせてしまうことになる。いろいろと悩んだ結果だったのだろう。桜くんのことも責められない。
出ていく唯菜ちゃんを見送って、二人きりになる。
「ねぇ、桜くん」
隣に座る彼の袖をくいくいとつまむ。
「唯菜ちゃんと、恋愛関係はないって言ってたけど……」
「そうだよ。そういう気持ちを持ったことは一度もない。唯菜もそうだと思う」
「でも、すごく仲良いよね」
「幼馴染だからね。恋心があったら、もっと物理的な距離も意識してる」
「え」
困惑した表情を浮かべると、桜くんがふふっと笑った。
意識してる、という言葉がわかりにくい。縮めようとしてるということなのか、近付きすぎないようにするということなのか。
胸の鼓動が、変に逸っていた。
◇
翌日、私たちは三人で歩いて街の病院に向かった。
唯菜ちゃんはこの病院と桜くんと合う土手に行くとき以外は家から出ていないのだという。人が怖いからだそうだ。でも今日は「二人とならこのままどこでも行けそう」と言って微笑んでいた。
昨日の夜は、寝る場所をどうするかでちょっとした審議が入った。桜くんと私が隣で寝ていることを知った唯菜ちゃんは大いに驚いていたけれど、三人が別々の部屋で寝れるほどのスペースもなく、片付けるのも面倒だからと結局みんなで並んで眠ることになった。決定打は三人ともひとりよりは隣に人がいた方がいいと思っていることだった。
そして、なぜか私が真ん中になって、両隣を唯菜ちゃんと桜くんに挟まれて寝た。しかも桜くんはいつも通り手を重ねてきた。バレていなかったからいいけど、唯菜ちゃんがいるので落ち着くどころかいつもよりドキドキしてしまった。
そして今も、私が真ん中、二人が両隣にいる。
「桜くんのお母さんって、どんな人?」
二人の間を歩きながら尋ねる。桜くんと唯菜ちゃんは、おそらく自分たちの距離をほとんど気にしていない。つまり、桜くんの言葉通り「意識して」いない。
「さくちゃんに似て、優しい人だよ」
「怒られたことはめったになかったな。でも、僕よりも活発だよ」
私のお母さんと接点があることを思い出した。桜くんを連れて地域の活動によく参加していたらしいから、積極的なのだろう。
病院に着き、静かな病室に入ると、桜くんに似て綺麗な顔立ちの女性が、安らか表情で眠っていた。
桜くんが、女性の手に自分の手を添える。
「大切な人が増えたよ……」
私にもかろうじて聞こえるくらいの声量で、お母さんに向けて囁いた。
桜くんの優しい目つきに、私は見惚れるばかりだった。
「姫野さん」
お母さんの手を取ったまま、桜くんが静かに私の名前を呼ぶ。
「昨日の手紙にには書き切れなかったんだけど……僕が、明るくて優しい、人気者っていうキャラを演じてる理由は、こういうこと」
本当の桜くんは気弱で不安も口にすると、唯菜ちゃんも言っていた。優しいのは変わらない。
「いつかお母さんが目を覚ましたときに、心配かけたくないから。クラスで友達がたくさんいて、いろんな活動にも積極的に参加して、元気そうにしていれば、お母さんも安心してくれるかなって思った」
演じていると言ってもそれほど無理をしているわけではないとも書いていたけど、自分の本音を押し殺すのは、決して楽なことではない。私にもそれはわかる。
「でもやっぱり、いちばん安心してくれそうなのは、こうやって、僕が大切な人を作って、心も健康に生活してることだって、最近は思うよ。だから――」
桜くんは立ち上がり、私に向かって優しすぎる微笑みを向けた。
「姫野さん、ありがとう」
私は、この感謝を受け取っていいのだろうか。救われているのは私の方なのに。
「……私は、なにもしてないよ。ただ、桜くんが心を許してくれただけで」
「姫野さんだから、心を許すことができたんだよ。姫野さんは、僕と似てる」
「え?」
「頑張りすぎて壊れちゃうっていうのは、中二のときの僕と同じだよ。頑張ってる人だなって思って、前から気にかけてたら、案の定、頑張りすぎちゃって。自分を見てるみたいだった」
だから、桜くんは学校で、私に忠告してくれたんだ。それを聞かずに、私は結局心を壊してしまった。
「唯菜も、そう」
「私たちって、似たもの同士なんだね」
唯菜ちゃんがクスリと笑った。
桜くんは、全然違う世界にいる人だと思っていたのに。
真面目さゆえに頑張りすぎて不登校になった桜くん。その彼をつらさを隠して支えたけれど、ついに糸が切れてしまった唯菜ちゃん。どれだけ頑張っても報われず、桜くんに救われた私。
「――頑張ったね、私たち」
唯菜ちゃんが穏やかな表情でそんなことを言う。本当に、その通りだと思う。
「そうだね。本当に、頑張ったよ」
桜くんも、大きくうなずいて言った。
どれだけ頑張っても失ってばかりで、勉強し続けても成績は伸びなかったけれど、あの夜桜くんに認めてもらたから、そんなことはどうでもよくなった。そして今、ようやく自分でも、私の頑張りを受け入れることができた。
頑張ったね、私。無理させて、ごめんね。
努力というものは、周りからは見えにくく、結果に結びつかないこともある。でも、頑張っているることを自分でアピールするものでもない。だから、周りが気付いてあげるか、自分で認めるしかない。
今度は私が、誰かの努力を見つけられるようになりたい。
私はもう、大丈夫。
頑張りすぎた私たちの想いは、それぞれに確かに、伝わったから。



