三月も終わりが近づいてきた日、私と桜くんはいつも通り夜ご飯とお風呂を済ませ、リビングでゆっくり過ごしていた。
時刻はまだ夜の八時。やることがないおかげで、時間がゆっくりと流れている。
「姫野さん」
温かい声が私を呼ぶ。
「ちょっと、外出てみない?」
「えっ、今から?」
「そう。姫野さんと行きたいところがあるんだけど、どう?」
そう言って桜くんは無邪気に笑った。
ずっと部屋にいたから体が外の空気を求めている。それに夜外に出るのも危ないけれど楽しそうだと思った。まだ補導時間までは余裕がある。
「うん、行く!」
明るく返事をして立ち上がると、桜くんが今度はやわらかく笑った。暖かそうな上着を貸してもらい、寝巻きの上に羽織る。桜くんは淡いピンク色のパーカーに腕を通した。
外に出ると、三月下旬、まだ夜の空気は冷たかった。
「姫野さん、こっち」
「うん」
桜くんの半歩後をついて、夜の街を歩く。街灯と家から漏れ出す光が道を照らしていた。
学校や私の家とは逆の方向へ進む。次第に大きな建物は減っていき、暗くなっていく。この辺りは、一度か二度、散歩で来たことがある。
そこからもっと行くと、私には見覚えのない場所になった。閑散としていて、住宅も少ない。
「怖い?」
「ううん、大丈夫」
立ち止まって振り向いた桜くんの問いかけに、首を横に振る。むしろ知らない場所に来て気分がちょっと高揚していた。
「ん、良かった。もうちょっとで着くよ」
さらに足を進めると、ほとんど周りに建物のない道に入った。ひっそりとしてして、二人の足音だけが響く。
「お疲れ様、着いたよ」
「わあ」
足を止めた場所は、桜の木に囲まれた小さな公園だった。中にはベンチが一つだけ設置されている。
「座ろう」
「あっ、うん」
桜に見惚れていた私は、桜くんの声で我に返った。そして二人並んで、やや古びたベンチに座る。
「姫野さん、上、見てみて」
「上?――あ」
言われた通り上を見ると、満月が光り輝き、公園を囲む満開の桜を照らしていた。
「綺麗……」
月が照らし、桜は照らされる。私たちの関係性とは真逆だな、なんてことを思う。
「小さい頃、家族とよく来てたんだ」
上に向けていた目を桜くんの方に移す。幼い頃の思い出を振り返っているのか、懐かしそうに目を細めていた。
桜の木と望月桜くんという人物を同時に視界に入れると、彼も一本の木のように見える。本当に桜のような男の子だ。たくさん咲く桜の中でも、一際目立つ、中心的な存在。
一方で私は、どんなに頑張っても月のように輝けない。太陽から当たってくる光を反射させることもできない。
「――月はずっと回ってて、人間でいう心臓みたいなものだけど」
私のマイナスな思考を止めるように桜くんが口を開く。彼はゆっくりとこちらを向いた。透きとおった瞳と視線が交差する。
「人間の心は、ずっと働き続けることはできないよね」
そうだ。月や心臓は死ぬまで動き続けるけれど、心はそうはいかない。当たり前のことなのに、新しい知識のように思えた。
「姫野さんは、ちょっとは休ませてたかもしれないけど、それじゃ、全然足りなかった」
「……」
桜くんの言う通りだった。三学期、心を休ませられたのは、ほとんど眠っているときだけ。桜くんの家に来るまでは。
「ねえ、姫野さん」
優しく、桜の花びらで包むように、桜くんが私の名前を呼ぶ。
「――頑張ったね」
「……っ」
それだけで、充分だった。ただ、私の努力を認めてくれる、私だけに向けられた、そのたった一言が欲しかった。ずっと、ずっと。
欲しい言葉を欲しい人から貰えるって、こんなにも嬉しくて、泣きそうになることなんだ。
「全部ではないけど、姫野さんが頑張ってること、僕はちゃんと知ってるから。安心してほしい」
堪えきれずに、涙がぽろりと零れてくる。拭おうとする右手を、桜くんの両手が優しく包み込んだ。
「少しずつでいいから、教えてくれる?姫野さんが、どうしてそんなに、自分が壊れちゃうくらい、頑張ってたのか」
「うん……っ」
左手で目元を抑えて、涙をせき止め、私は、自分の奥底の本音を話し始める。誰にも言ったことのなかった、自分でさえ向き合おうとしなかった、本音を。
いつも寄り添ってくれる桜くんだから、言える。
「ずっと、誰かに認めて欲しかったんだ……。私が、頑張ってる、努力してるって。……私には、価値があるって」
両親は過度に厳しいわけではなく、特に不自由のない生活を送ってきた。小学生のときは友達も多くいて、多くの人に囲まれて過ごしたいた。たくさんの人に恵まれて生きてきた私は幸せだったと思う。幸せだと思うべきだ。
物足りなさを感じ始めたのは、中学生になってからすぐの頃だった。いや、それより前からだったのかもしれない。広くてもそれぞれことを深く知っているわけではなく、心から信頼し合うことができない人間関係に、嫌気が差し始めていた。だから中三のときは友達を作ろうとするのをやめ、できた友達は来実だけだった。
中三のときには推しもできた。みぞれくんはたくさん癒しを届けてくれて、つらいことがあってもみぞれくんのおかげで乗り越えることができた。
それでも、私はそんな、自分の人生を変えてくれた来実とみぞれくんにでさえ、物足りなさを感じた。〝もっと〟を求めた。
「友達がいて、推しがいて、満たせれてるはずなのに、心はずっと寂しくて。でも、こうやって自分の本音を言うことが、ずっとできなくて……」
どうしてそんなに〝もっと〟を求めたのか。求めなければ、現状に満足していれば、幸せになれたはずだ。でも、認めてほしい、理解してほしいという承認欲求は収まるところを知らなかった。だって、それだけには留まらなかった、私の本当に求めていたものは。
「私は、ずっと」
言葉にすればたった一文字だけれど、実際はとても曖昧で、深くて、時に重くて、でも幸せなもの。
「……愛が、欲しかったの」
私のことを本当に理解しようとしてくれなかった両親からも、画面越しで観ているみんなに届けるみぞれくんからも、親友だけれど心の深淵まで踏み込んだことはなかった来実からも、欲しいだけのそれを受け取ることはできなかった。
頑張り続ければ、いつか誰かから、特にお母さんから、それを貰えると思った。だから頑張った。でも、いつまで経ってもそれを与えられることはなかった。
そして、貪欲になった結果、親友を手放し、推しを失い、最後には。
「お母さんに、こんな子になるなら産まなきゃ良かったって言われて。それで次の日、帰ろうと思えなかった……」
そんなときに、桜くんが手を差し伸べてくれた。
私が頑張っていた理由と、私が本当に欲しかったもの。ときどき詰まりながらもそれらを伝え切った私の話を、桜くんは一欠片も取りこぼさないように、ずっと私の手を包み、私を見つめて聞いてくれた。
これまでずっと、口にするかとはおろか、心に言葉として表すこともしないでいた、たった一文字。それを初めて放つことができた。
ようやく、本当の意味で、心が解放された気がした。
その解放感のせいで、また涙が川のように流れてきた。
強くなった右手の温もりが、ひとりじゃないよ、大丈夫だよ、と言ってくれているようで、それがまた、私の涙を加速させた。
やっと受け取ることができた、恋愛とはまた違う愛を、もう二度と失いたくないと思った。
なのにそれを否定するように、桜くんの日記に書いてあった、「死」という文字が脳裏をよぎる。
桜くんはなにも言わずに寄り添ってくれているのに、突然、彼がそこにいないかなような不安に襲われた。
「――桜くんは、離れないよね」
ぼやけた視界から見えた彼の瞳が、大きく見開かれた。次の瞬間、その視界が大きく揺れ、体全体が熱に包まれる。
抱き締められている、と理解した瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
「大丈夫。僕は絶対離れない。離れたくない」
耳元で聞こえた囁きに、胸がきゅうっと締め付けられるような感覚を得た。私も彼の背中に腕を回す。私も、離れたくない。
すると、桜くんの私を抱き締める力が強くなった。普段優しく包み込むような彼とは思えないくらい、強く。
少し、苦しい。でも、それ以上に、嬉しくて、温かくて。
どうしてだろう。
桜くんと一緒にいると、触れ合うと、くっつくと、こんなにも安心して、こんなにも幸せで、こんなにも――。
そっか、やっぱり、そういうことなんだ。
来実も、こんな気持ちだったのかな。
止められるはずもない、暴れてしまいそうな、切なくて、苦しくて、それでいて甘い、とろけるような気持ち――。
◇
翌朝、目が覚めると、右手が温もりに包まれていてびっくりした。普段なら、朝にこの温もりを感じられることはない。
絡んだ手を外さずに上半身を起こすと、隣の桜くんはまだ寝ていた。いつもは桜くんの方が早く起きているけれど、昨日は遅くなってしまったから、疲れたのだろう。
夜の十一時にはここに帰ってきたけれど、そのあとなかなか寝付けなくて、眠くなるまで話をした。主に、私が話を聞いてもらう、という形だったけれど。
『私ね、夢があって』
『どんな夢?』
昨日桜くんに自分の気持ちを話したことで、みぞれくんはいなくなってしまったけれど、やりたいという気持ちは変わらない、私の夢。
『みんなのことを癒せる配信者になりたい』
みぞれくんを、超えるくらい。
『へぇ、いいね。じゃあ僕が最初のファンになる』
『まだできるかはわかんないよ?』
『できるよ、姫野さんなら。頑張り屋さんだからね』
『うん、頑張るよ。桜くんが疲れたときも、癒やしてあげる』
『ふふ、楽しみ』
『桜くんは、将来の夢、ある?』
『僕?うーん……。頑張ってる人を幸せにすること、かな』
『素敵な夢だね。桜くんらしい……』
自分の夢を人に話すのだって、初めてのことだった。
私が自分のことを話したおかげなのか、より打ち解けて話せたように思う。
昨日のことを思い出すと、顔が火を吹くように熱くなる。
冷静に考えて、夜にあんな場所で私はなにをやっているのだろう。
でも、誰にも見られていなかったし、幸せだから、いいかな。私と桜くんだけの秘密と考えると、ちょっとくすぐったい。
私は本当に、桜くんが疲れたときはいつでも、君を癒やせるようになりたいって、思ってるよ。
桜くんの無防備で可愛らしい寝顔を見ながら、心の中で語りかけた。
気分が高揚していたせいで、私は桜くんの机の上に用意されていた、ニ枚の紙の存在に、気付けなかった――。
時刻はまだ夜の八時。やることがないおかげで、時間がゆっくりと流れている。
「姫野さん」
温かい声が私を呼ぶ。
「ちょっと、外出てみない?」
「えっ、今から?」
「そう。姫野さんと行きたいところがあるんだけど、どう?」
そう言って桜くんは無邪気に笑った。
ずっと部屋にいたから体が外の空気を求めている。それに夜外に出るのも危ないけれど楽しそうだと思った。まだ補導時間までは余裕がある。
「うん、行く!」
明るく返事をして立ち上がると、桜くんが今度はやわらかく笑った。暖かそうな上着を貸してもらい、寝巻きの上に羽織る。桜くんは淡いピンク色のパーカーに腕を通した。
外に出ると、三月下旬、まだ夜の空気は冷たかった。
「姫野さん、こっち」
「うん」
桜くんの半歩後をついて、夜の街を歩く。街灯と家から漏れ出す光が道を照らしていた。
学校や私の家とは逆の方向へ進む。次第に大きな建物は減っていき、暗くなっていく。この辺りは、一度か二度、散歩で来たことがある。
そこからもっと行くと、私には見覚えのない場所になった。閑散としていて、住宅も少ない。
「怖い?」
「ううん、大丈夫」
立ち止まって振り向いた桜くんの問いかけに、首を横に振る。むしろ知らない場所に来て気分がちょっと高揚していた。
「ん、良かった。もうちょっとで着くよ」
さらに足を進めると、ほとんど周りに建物のない道に入った。ひっそりとしてして、二人の足音だけが響く。
「お疲れ様、着いたよ」
「わあ」
足を止めた場所は、桜の木に囲まれた小さな公園だった。中にはベンチが一つだけ設置されている。
「座ろう」
「あっ、うん」
桜に見惚れていた私は、桜くんの声で我に返った。そして二人並んで、やや古びたベンチに座る。
「姫野さん、上、見てみて」
「上?――あ」
言われた通り上を見ると、満月が光り輝き、公園を囲む満開の桜を照らしていた。
「綺麗……」
月が照らし、桜は照らされる。私たちの関係性とは真逆だな、なんてことを思う。
「小さい頃、家族とよく来てたんだ」
上に向けていた目を桜くんの方に移す。幼い頃の思い出を振り返っているのか、懐かしそうに目を細めていた。
桜の木と望月桜くんという人物を同時に視界に入れると、彼も一本の木のように見える。本当に桜のような男の子だ。たくさん咲く桜の中でも、一際目立つ、中心的な存在。
一方で私は、どんなに頑張っても月のように輝けない。太陽から当たってくる光を反射させることもできない。
「――月はずっと回ってて、人間でいう心臓みたいなものだけど」
私のマイナスな思考を止めるように桜くんが口を開く。彼はゆっくりとこちらを向いた。透きとおった瞳と視線が交差する。
「人間の心は、ずっと働き続けることはできないよね」
そうだ。月や心臓は死ぬまで動き続けるけれど、心はそうはいかない。当たり前のことなのに、新しい知識のように思えた。
「姫野さんは、ちょっとは休ませてたかもしれないけど、それじゃ、全然足りなかった」
「……」
桜くんの言う通りだった。三学期、心を休ませられたのは、ほとんど眠っているときだけ。桜くんの家に来るまでは。
「ねえ、姫野さん」
優しく、桜の花びらで包むように、桜くんが私の名前を呼ぶ。
「――頑張ったね」
「……っ」
それだけで、充分だった。ただ、私の努力を認めてくれる、私だけに向けられた、そのたった一言が欲しかった。ずっと、ずっと。
欲しい言葉を欲しい人から貰えるって、こんなにも嬉しくて、泣きそうになることなんだ。
「全部ではないけど、姫野さんが頑張ってること、僕はちゃんと知ってるから。安心してほしい」
堪えきれずに、涙がぽろりと零れてくる。拭おうとする右手を、桜くんの両手が優しく包み込んだ。
「少しずつでいいから、教えてくれる?姫野さんが、どうしてそんなに、自分が壊れちゃうくらい、頑張ってたのか」
「うん……っ」
左手で目元を抑えて、涙をせき止め、私は、自分の奥底の本音を話し始める。誰にも言ったことのなかった、自分でさえ向き合おうとしなかった、本音を。
いつも寄り添ってくれる桜くんだから、言える。
「ずっと、誰かに認めて欲しかったんだ……。私が、頑張ってる、努力してるって。……私には、価値があるって」
両親は過度に厳しいわけではなく、特に不自由のない生活を送ってきた。小学生のときは友達も多くいて、多くの人に囲まれて過ごしたいた。たくさんの人に恵まれて生きてきた私は幸せだったと思う。幸せだと思うべきだ。
物足りなさを感じ始めたのは、中学生になってからすぐの頃だった。いや、それより前からだったのかもしれない。広くてもそれぞれことを深く知っているわけではなく、心から信頼し合うことができない人間関係に、嫌気が差し始めていた。だから中三のときは友達を作ろうとするのをやめ、できた友達は来実だけだった。
中三のときには推しもできた。みぞれくんはたくさん癒しを届けてくれて、つらいことがあってもみぞれくんのおかげで乗り越えることができた。
それでも、私はそんな、自分の人生を変えてくれた来実とみぞれくんにでさえ、物足りなさを感じた。〝もっと〟を求めた。
「友達がいて、推しがいて、満たせれてるはずなのに、心はずっと寂しくて。でも、こうやって自分の本音を言うことが、ずっとできなくて……」
どうしてそんなに〝もっと〟を求めたのか。求めなければ、現状に満足していれば、幸せになれたはずだ。でも、認めてほしい、理解してほしいという承認欲求は収まるところを知らなかった。だって、それだけには留まらなかった、私の本当に求めていたものは。
「私は、ずっと」
言葉にすればたった一文字だけれど、実際はとても曖昧で、深くて、時に重くて、でも幸せなもの。
「……愛が、欲しかったの」
私のことを本当に理解しようとしてくれなかった両親からも、画面越しで観ているみんなに届けるみぞれくんからも、親友だけれど心の深淵まで踏み込んだことはなかった来実からも、欲しいだけのそれを受け取ることはできなかった。
頑張り続ければ、いつか誰かから、特にお母さんから、それを貰えると思った。だから頑張った。でも、いつまで経ってもそれを与えられることはなかった。
そして、貪欲になった結果、親友を手放し、推しを失い、最後には。
「お母さんに、こんな子になるなら産まなきゃ良かったって言われて。それで次の日、帰ろうと思えなかった……」
そんなときに、桜くんが手を差し伸べてくれた。
私が頑張っていた理由と、私が本当に欲しかったもの。ときどき詰まりながらもそれらを伝え切った私の話を、桜くんは一欠片も取りこぼさないように、ずっと私の手を包み、私を見つめて聞いてくれた。
これまでずっと、口にするかとはおろか、心に言葉として表すこともしないでいた、たった一文字。それを初めて放つことができた。
ようやく、本当の意味で、心が解放された気がした。
その解放感のせいで、また涙が川のように流れてきた。
強くなった右手の温もりが、ひとりじゃないよ、大丈夫だよ、と言ってくれているようで、それがまた、私の涙を加速させた。
やっと受け取ることができた、恋愛とはまた違う愛を、もう二度と失いたくないと思った。
なのにそれを否定するように、桜くんの日記に書いてあった、「死」という文字が脳裏をよぎる。
桜くんはなにも言わずに寄り添ってくれているのに、突然、彼がそこにいないかなような不安に襲われた。
「――桜くんは、離れないよね」
ぼやけた視界から見えた彼の瞳が、大きく見開かれた。次の瞬間、その視界が大きく揺れ、体全体が熱に包まれる。
抱き締められている、と理解した瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
「大丈夫。僕は絶対離れない。離れたくない」
耳元で聞こえた囁きに、胸がきゅうっと締め付けられるような感覚を得た。私も彼の背中に腕を回す。私も、離れたくない。
すると、桜くんの私を抱き締める力が強くなった。普段優しく包み込むような彼とは思えないくらい、強く。
少し、苦しい。でも、それ以上に、嬉しくて、温かくて。
どうしてだろう。
桜くんと一緒にいると、触れ合うと、くっつくと、こんなにも安心して、こんなにも幸せで、こんなにも――。
そっか、やっぱり、そういうことなんだ。
来実も、こんな気持ちだったのかな。
止められるはずもない、暴れてしまいそうな、切なくて、苦しくて、それでいて甘い、とろけるような気持ち――。
◇
翌朝、目が覚めると、右手が温もりに包まれていてびっくりした。普段なら、朝にこの温もりを感じられることはない。
絡んだ手を外さずに上半身を起こすと、隣の桜くんはまだ寝ていた。いつもは桜くんの方が早く起きているけれど、昨日は遅くなってしまったから、疲れたのだろう。
夜の十一時にはここに帰ってきたけれど、そのあとなかなか寝付けなくて、眠くなるまで話をした。主に、私が話を聞いてもらう、という形だったけれど。
『私ね、夢があって』
『どんな夢?』
昨日桜くんに自分の気持ちを話したことで、みぞれくんはいなくなってしまったけれど、やりたいという気持ちは変わらない、私の夢。
『みんなのことを癒せる配信者になりたい』
みぞれくんを、超えるくらい。
『へぇ、いいね。じゃあ僕が最初のファンになる』
『まだできるかはわかんないよ?』
『できるよ、姫野さんなら。頑張り屋さんだからね』
『うん、頑張るよ。桜くんが疲れたときも、癒やしてあげる』
『ふふ、楽しみ』
『桜くんは、将来の夢、ある?』
『僕?うーん……。頑張ってる人を幸せにすること、かな』
『素敵な夢だね。桜くんらしい……』
自分の夢を人に話すのだって、初めてのことだった。
私が自分のことを話したおかげなのか、より打ち解けて話せたように思う。
昨日のことを思い出すと、顔が火を吹くように熱くなる。
冷静に考えて、夜にあんな場所で私はなにをやっているのだろう。
でも、誰にも見られていなかったし、幸せだから、いいかな。私と桜くんだけの秘密と考えると、ちょっとくすぐったい。
私は本当に、桜くんが疲れたときはいつでも、君を癒やせるようになりたいって、思ってるよ。
桜くんの無防備で可愛らしい寝顔を見ながら、心の中で語りかけた。
気分が高揚していたせいで、私は桜くんの机の上に用意されていた、ニ枚の紙の存在に、気付けなかった――。



