人気のない桜並木。
温かい風が頬を撫でる。
穏やかな季節に、僕はそんな雰囲気とは程遠い場所の前に立っていた。
桜の木の後ろ、廃墟と化した五階建てのビル。その屋上を睨みつける。青空が広がるだけで、人影はない。
スマホを立ち上げ、メッセージアプリを開く。
【桜並木が綺麗だね】
意外にも、一瞬で既読がついた。だが返信は来ない。待っていられない、とスマホを消そうとした瞬間に、通知音が鳴った。
【そうだね】
ふぅ、と安堵の息を吐く。おそらくここで合っている。
返信はせずにスマホを閉じ、「立入禁止」の黄色いテープを無視して突き進む。既に破られた跡があった。
廃れた階段を、一気に屋上まで駆け上がる。階段と屋上を隔てる重い扉は開いていた。
その先にいるは、長い髪をなびかせ、手すりに肘をかける少女――。
呼吸を整えている暇もなく、そのまま駆けていって彼女の腕を掴んだ。すると彼女が振り向き、目を丸くして僕を見る。
「さくちゃん……」
間に合った――。
息を切らしながら、彼女の曇った瞳を見つめ返す。
「やっぱり、来ちゃったんだ」
僕の手を振り払おうともせず、残念、というような笑みを浮かべる。
「幼馴染のことを、僕が見殺しにするとでも思った?」
「思わないよ。さくちゃんはこういう人だもん」
だからこそ、僕に見られないようにあえて場所を言わなかったのだろう。けれどそれは無駄に終わった。僕がここに来れてしまったから。
「なんで、わかったの?」
「前から、死ぬなら『できるだけ遠いところで』『誰にも迷惑をかけずに』『一瞬で』って言ってたから」
一瞬で、ということは飛び下りが思いつく。迷惑をかけず、は周りに人がいないところ。遠いところは彼女の体力と気力からして難しい。
だから、ここだと思った。
「さすがだね」
皮肉でも嫌味でもなく、本心からそう言っているように聞こえた。
「そろそろ離して?痛いよ」
そう言われても、僕は彼女の腕から手を離さずにその目を見続けた。
「……離さなくても、振りほどくだけだよ」
彼女にそうするだけの力があるとは思えない。
ため息をついて、細く頼りない腕から手を離した。
途端に彼女が手すりに足をかけ、その向こうに下り立つ。それくらいは予想できていた。
僕も続いて手すりを越える。まだニメートルはある。
「心中でもするつもり?」
「しないよ」
死ぬつもりはないし、死なせるつもりもない。だけど、死ぬなとも言わない。
この一年で彼女がこうすることを止められなかった僕に、そんなことを言う権利はない。
「本当に飛ぶんだね?」
「うん。今さら撤回するわけないよ」
死を怖がる様子もなく、いつものように、いや、いつも以上に落ち着いている――ように見える。
「さくちゃん、誕生日おめでとう」
場に似合わない言葉を唐突に放たれ、そういえばそうだったと思い出す。
「……嫌な誕生日だよ」
「ふふっ。でも良かったね、無事に十八歳になれて。私は、なれそうにないや……」
彼女がこの日を「終わり」に指定した真意はわからないままだったが、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
「大人」になった僕を見たい、と。
彼女の場合、なんとなく、という可能性もあるけれど。
「短い人生だったなぁ……」
果てしなく広がる青を見つめ、それに吸収されてしまいそうな声を落とす。その声の微かな震えを、僕は聞き逃さない。
「ね、さくちゃん」
寂しげな瞳が、力のない無言の少年を映していた。
「私、さくちゃんと生きれて、幸せだったよ」
その言葉にきっと嘘はない。彼女は僕に嘘はつかない。
幸せだったと言うのに、彼女は飛び下りようとしている。彼女が負った傷はそれほどまでに深く、大きかった。
「僕はゆいちゃんを幸せにできたとは思ってないよ」
「ゆいちゃん……」
その呼ばれ方を、噛みしめるように反芻する。
「久し振りだね、そう呼んでくれるの」
彼女はいつも「さくちゃん」と呼んでくれていたのに、僕はいつからか呼び捨てをするようになっていた。
「じゃあ、ゆいちゃんからひとつだけお願い」
両手で僕の左手を掴み、自分の胸の前まで持ってくる。
「――幸せになってね。今までありがとう」
それが、合図だった。
彼女は僕の手を離し、勢いよく跳びかけた。
その瞬間、僕は体を伸ばして彼女の腕を掴み、そのまま思い切りこちらへ引き寄せた。
ホッとしたのも束の間、反動で体勢が崩れ、傾いていく。巻き込まないよに彼女から手を離す。
なにもないところへ、体が放り出される。
覚悟はしていた。たけどまさか、本当にこんなことになってしまうなんて。
「さくちゃん――!!」
叫び声が聞こえる。彼女のこんなに大きな声を聞いたのは初めてだ。
ごめんなさい、みんな。
視界が、鮮やかなピンク色に覆われた――。
温かい風が頬を撫でる。
穏やかな季節に、僕はそんな雰囲気とは程遠い場所の前に立っていた。
桜の木の後ろ、廃墟と化した五階建てのビル。その屋上を睨みつける。青空が広がるだけで、人影はない。
スマホを立ち上げ、メッセージアプリを開く。
【桜並木が綺麗だね】
意外にも、一瞬で既読がついた。だが返信は来ない。待っていられない、とスマホを消そうとした瞬間に、通知音が鳴った。
【そうだね】
ふぅ、と安堵の息を吐く。おそらくここで合っている。
返信はせずにスマホを閉じ、「立入禁止」の黄色いテープを無視して突き進む。既に破られた跡があった。
廃れた階段を、一気に屋上まで駆け上がる。階段と屋上を隔てる重い扉は開いていた。
その先にいるは、長い髪をなびかせ、手すりに肘をかける少女――。
呼吸を整えている暇もなく、そのまま駆けていって彼女の腕を掴んだ。すると彼女が振り向き、目を丸くして僕を見る。
「さくちゃん……」
間に合った――。
息を切らしながら、彼女の曇った瞳を見つめ返す。
「やっぱり、来ちゃったんだ」
僕の手を振り払おうともせず、残念、というような笑みを浮かべる。
「幼馴染のことを、僕が見殺しにするとでも思った?」
「思わないよ。さくちゃんはこういう人だもん」
だからこそ、僕に見られないようにあえて場所を言わなかったのだろう。けれどそれは無駄に終わった。僕がここに来れてしまったから。
「なんで、わかったの?」
「前から、死ぬなら『できるだけ遠いところで』『誰にも迷惑をかけずに』『一瞬で』って言ってたから」
一瞬で、ということは飛び下りが思いつく。迷惑をかけず、は周りに人がいないところ。遠いところは彼女の体力と気力からして難しい。
だから、ここだと思った。
「さすがだね」
皮肉でも嫌味でもなく、本心からそう言っているように聞こえた。
「そろそろ離して?痛いよ」
そう言われても、僕は彼女の腕から手を離さずにその目を見続けた。
「……離さなくても、振りほどくだけだよ」
彼女にそうするだけの力があるとは思えない。
ため息をついて、細く頼りない腕から手を離した。
途端に彼女が手すりに足をかけ、その向こうに下り立つ。それくらいは予想できていた。
僕も続いて手すりを越える。まだニメートルはある。
「心中でもするつもり?」
「しないよ」
死ぬつもりはないし、死なせるつもりもない。だけど、死ぬなとも言わない。
この一年で彼女がこうすることを止められなかった僕に、そんなことを言う権利はない。
「本当に飛ぶんだね?」
「うん。今さら撤回するわけないよ」
死を怖がる様子もなく、いつものように、いや、いつも以上に落ち着いている――ように見える。
「さくちゃん、誕生日おめでとう」
場に似合わない言葉を唐突に放たれ、そういえばそうだったと思い出す。
「……嫌な誕生日だよ」
「ふふっ。でも良かったね、無事に十八歳になれて。私は、なれそうにないや……」
彼女がこの日を「終わり」に指定した真意はわからないままだったが、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
「大人」になった僕を見たい、と。
彼女の場合、なんとなく、という可能性もあるけれど。
「短い人生だったなぁ……」
果てしなく広がる青を見つめ、それに吸収されてしまいそうな声を落とす。その声の微かな震えを、僕は聞き逃さない。
「ね、さくちゃん」
寂しげな瞳が、力のない無言の少年を映していた。
「私、さくちゃんと生きれて、幸せだったよ」
その言葉にきっと嘘はない。彼女は僕に嘘はつかない。
幸せだったと言うのに、彼女は飛び下りようとしている。彼女が負った傷はそれほどまでに深く、大きかった。
「僕はゆいちゃんを幸せにできたとは思ってないよ」
「ゆいちゃん……」
その呼ばれ方を、噛みしめるように反芻する。
「久し振りだね、そう呼んでくれるの」
彼女はいつも「さくちゃん」と呼んでくれていたのに、僕はいつからか呼び捨てをするようになっていた。
「じゃあ、ゆいちゃんからひとつだけお願い」
両手で僕の左手を掴み、自分の胸の前まで持ってくる。
「――幸せになってね。今までありがとう」
それが、合図だった。
彼女は僕の手を離し、勢いよく跳びかけた。
その瞬間、僕は体を伸ばして彼女の腕を掴み、そのまま思い切りこちらへ引き寄せた。
ホッとしたのも束の間、反動で体勢が崩れ、傾いていく。巻き込まないよに彼女から手を離す。
なにもないところへ、体が放り出される。
覚悟はしていた。たけどまさか、本当にこんなことになってしまうなんて。
「さくちゃん――!!」
叫び声が聞こえる。彼女のこんなに大きな声を聞いたのは初めてだ。
ごめんなさい、みんな。
視界が、鮮やかなピンク色に覆われた――。



