先生、好きになってもいいですか

「せーんせ。会いにきたよー」

授業を終え、体育倉庫に備品をしまっていると背後からレオの声がした。

「うわあ。レオ!びっくりした」

「へへ。びっくりしたぁー?あ、これも中に入れる?」

レオはバレーボールのネットを抱えていた。

「え?ああ、うん。ありがと。………てか、お前、今日俺の授業ないだろ?」

俺が担当しているレオの授業は昨日だったはずだ。

この時間に体育館に顔を出すということは、何か俺に会いに来る理由があるはずだ。

「ないよ?でも、三隅先生いるかなーて覗きに来た」

「え、わざわざ?」

「うん、そう。嬉しいかなって」

「あ、そう……」

レオのこうした行動に対して、ほんの一瞬でも心が弾むなんて俺は教師失格だ。

「先生って大体いついるの?会いにきていい?」

「い……いけど、学科の友達は大丈夫なのか?」

「大丈夫〜」

レオの即答ぶりに、絶対に大丈夫じゃないだろと思った。

「今日もさ、先生、片付けしてっかなーと思って、前の授業終わった瞬間に教室飛び出てきた」

「あははっ。ばかか、お前は」

俺はレオの言葉を軽く笑って受け流す。

このまま、レオのストレートな言動に流されてしまいそうになる。

だけどそれは絶対にダメだ。

社会人としての立場を意識して、リスクを冒さないように生活して、やっと今があるのだから。

それでも、今という一瞬を生きているようなレオみたいになれたら、何か別のものが見えたりするのだろうかなんて考えが頭にこびりつく。

そんな世界を覗いてみたい興味と踏み込む恐怖心の間を行ったり来たりする。

だからこそ、きっと、このままレオに強引に迫られると本能的に拒否できない。

「せんせ、一緒に帰ろ。オレも今日授業ないし、一緒に帰れるよ」

「帰るわけないだろ」

「なんでよー、ちょっとぐらいいいじゃん」

「だめだって。前にも言ったけど、どうあっても先生である俺がお前にちょっかいかけてるっていう構図になるからな。……もう、頼むから」

距離を詰めてこないでくれ……。

最後までは言い切れなかった。

「むー」

俺の言葉にレオがわざとらしく口を尖らせる。

「わざわざ俺みたいなのに絡みにこないで、同級生たちとわいわい青春してなさい」

「……なあ。オレがだめなのは学生だからっていうだけ?」

さっきまでふざけていたはずのレオの声が変わった。

深く、落ち着きを伴った声色に心臓がドキリと大きく拍動した。

「もしもオレがここの学生じゃなくて、出会ったのが普通に居酒屋とかだったらちがった?」

突かれたくないところをグサリと突かれる。

体育倉庫の中の備品を整理する手を止め、振り返った。

俺の目の前にいるレオの透き通るような金色の髪がさらりとなびいて、レオの両目にをまっすぐ捉えられる。

俺を見るレオの目はいつもの気怠げな雰囲気はなく、レオという名に恥じない獲物を狙う目だった。

「ねえ、どっち?」

先生としての回答をすべきなのか、三隅拓真としての回答をすべきなのか、正解がわからない。

「へえ、迷うんだね。っふふ」

「いや、ちがっ」

狭くて、夏のムワッとした暑さが充満する体育倉庫の中だからか、変な高揚感と緊張感のせいでまともな判断ができなくなりそうだ。

「はい、これ」

思考の整理が追いついていないのに、レオが得点板を中に入れて渡してくる。

「あぁ……ありがとう……」

受け取った得点板を壁側に置こうとレオに背中を向けた瞬間だった。

「ね、せんせってさ。実はどっちもいける人でしょ」

さっきまで倉庫の入り口に立っていたレオが俺の真後ろに立ち、質問を投げかけてきた。

「……っ」

振り返った俺越しにレオがガッと得点板を掴む。

得点版を壁側に運んだせいで、得点板とレオに挟まれた俺は身動きすらできそうにない。

「どっちも……ってなに……」

「わかってんでしょ。男も女もってこと」

当たりだ。

俺はいわゆるバイセクシャルというやつで、彼女がいたことも彼氏がいたこともある。

だからこそ、レオの距離の詰め方が恋愛的な意味を含んでいると本当は早い時点で気がついていた。

レオと今こんな状態になっているのは、ズルズルと拒否せずに受け入れてた罰だと思った。

「……そうだな。わざわざ公表はしてないけどな、はは。まあ、学生相手にどうにかなろうなんて思ってないから心配しなくていいぞ」

レオの真剣な様子を無視して、軽く受け流そうと笑ってみる。

「じゃ、何でそんな顔になってんの」

俺より少し背の高いレオに顎を掴まれ、強制的に顔を上げさせられる。

「……っ、いや……」

怠そうなくせに、獣のような瞳で俺を見下ろしてくるレオの顔を見ると、ドキン、ドキンと胸の鼓動が大きく速くなる。

心臓の音が大きく速まるにつれて、自分の思考と感情がぐちゃぐちゃと混じり合って、冷静にと思えば思うほど呼吸が荒くなってくる。

このままレオへの好奇心と高揚感に流されてしまいたい。

でもそれと同じぐらい、先生としてきちんと線引きをしておきたい気持ちもある。

このアンビバレンスな感情が頭の中でグルグルして、だんだんと泣きたくなってきた。

「誘ってるじゃん。先生、今どんな顔してるか自分でわかってる?」

ふるふると、顎を掴まれたまま首を振る。

「……離せ」

自分でも情けない表情になっていることぐらいわかっている。

少しでもレオを視線から逃れようと、目を少し伏せる。

このままレオと話すと、これまで必死に押さえ込んでいた何かが決壊しそうで怖い。


「ねえ、先生にとって、オレなんか頼んないよね。でもオレ、先生のこと好きなんだよね」

「……やめてくれ」

弱々しい声が出る。

「オレ、タッパはあるけどさー、筋肉はないし、記憶力死んでるし。おまけに体力もない。でもさ、先生に怒られたり、励まされたりして、普通に話してもらえんの嬉しくてさ」

(俺は……そんなんじゃない)

「いっつもさ、だらけてるとか、実は仮病だろとか言われてたし。周りにとって、オレみたいなのって足手纏いじゃん?それにさ、オレこんなだから先生からも腫れ物にさわるみたいな扱いばっかでさ。まともに接してくれて嬉しかったんだよ。だからさ……しつこくしてごめんね?」

レオのまっすぐさに居た堪れなくなった。

「……レオ、もうやめてくれ。頼む」

だめだ。

決壊する。

「俺はお前が思い描いてるような、綺麗で良い奴じゃない……」

「……いいよ?別に良い奴じゃなくても」

レオが俺の耳元で呟く。

「良くないだろ。俺なんて学生に言い寄られていい気になってただけのズルい大人だ」

この状況になってさえ、その完璧な像を崩したくないと思ってしまう。

理想的な教師像を持ってくれているレオの前で泣きたくない。

ぐいっ。

レオが俺の両腕を掴み、得点板越しに壁に押さえつける。

「痛っ。ちょ、レオ」

「うっさい」

この細い腕のどこから、その強い力が出てくるのかわからない。

「んんっ」

レオの柔らかな唇が、強引に俺の唇に触れた。

「ちょっ、ま……」

「だから、うっさいって。黙って」

再びレオがどうにか喋ろうとする俺の唇を塞いだ。

だめだ。

これは一線を超えてる。

柔らかく、温かいレオの唇を受け入れてしまう、自分の自制の弱さに涙が溢れてきた。

涙が止まらないのに、レオの優しく強引なキスをやめて欲しくないとも思ってしまう。

腕を掴まれ動けないまま、口内にまで侵入してくるレオを必死で感じ取ろうとしている自分が情けない。

「……っはぁ……レオ……」

触れていた唇が、たらりと糸を引きながら離れる。

「こんなん不可抗力……でしょ。三隅先生にとって」

「え……」

「とある学生が先生に一方的に好意を抱いて、先生の気持ちなんか無視してキスをしたって話でしょ。これ」

俺の心を見透かしたかと思うような言葉を俺に投げつけるレオの言葉に心臓を刃物で刺されるような痛みがした。

「あ、じゃあこれ、セクハラになるじゃん。やば。オレのこと訴えれるよ」

目の前で、俺の腕を掴んだままのレオは何かを諦めたような目をして笑った。

俺は……レオを傷つけた。

レオの気持ちに気づいていたはずなのに、気が付かないふりをして、距離を縮めさせて。

最後に、レオを悪者させて自分は受け身のままでいるなんて、俺はなんてズルい大人なんだろう。

その辺にある縄跳びを掴んだレオに、勢いよくぐるりと回転させられたかと思うと、レオは俺の手に縄跳びを巻き付けようとしている。

「レオ……なにして……」

「黙ってて」

ぐるぐると手際良く身体の後ろで手首を拘束されてしまった。

手の自由を奪われたまま、またぐるりと回転させられてレオの正面に立つ。

「みすみせんせーは、被害者。加害者は俺ー」

あはは、と楽しそうに笑う声が悲しい。

「待て。レオ!落ち着け!」

「落ち着いてるよ」

レオの低い声に驚いた。

「先生の立場守りつつ、俺の想いは本気だって伝えるにはこれしかないじゃん?遊びじゃないし、本気だって分かってもらう」

レオにはお見通しだった。

再び、胸が苦しくなる。

「……ごめん、レオ。……ちょっとだけ、聞いてくれ」

「なに?」

「俺はただズルい大人だ。レオに嫌われたくないのに、社会的立場も守りたいっていう。傷つけて本当にごめん。お前が俺に対して抱いてる理想を崩して、幻滅させたくない」

感情が決壊して、止められない。

「怖いんだ。お前みたいに後先考えず突っ込んでいけない。感情だけを優先できない。だから…お前が…羨ましい…」

だめだ。

なんて情けないのだろう。

手を背中で拘束されているから、溢れ出る涙を自力で拭くこともできない。

「かわいいね、せんせ。あったかいなーって思うよ」

レオの言ってる意味がわからない。

「なんでだよ……うわっ」

ベロリと涙を舐められて、思わず声が出る。

「しょっぱ……。やっぱオレ、先生のこと好きだ」

レオが俺の顔を大きな両手で包み、改めて好きだと言う。

「もっと、色んな先生を見たい。見せて」

「待て、やめ……」

俺の声が聞こえてないのか、レオがしゃがみ込んで俺の服の中に潜り込んできた。

「っおい……」

俺の腰をグッと強く掴む手とは反対に、優しく何度も腹にキスをする。

ちゅっ、ちゅっ、という音と、レオの唇の感触で頭が沸騰しそうだ。

(もういいや……このまま、レオと……)

良からぬことを期待して、身体がビクンと反応する。

「……いたっ」

さっきまで身体の柔らかく無防備な場所に優しくキスをしていたレオが、横腹辺りを強く噛んだ。

痛みで、我に返った。

レオは噛んだ部分を今度は、ぺろぺろと舐めている。

「……レオ……、レオ……頼む。止まってくれ……」

俺の弱った声を聞いたレオは、俺の服から出てきた。

しゃがんでいるレオと目線を合わせようと、俺もズルズルと壁に背中をつけたまましゃがみ込む。

拘束されていて、動きづらいが、その状態のまま話し始めた。

「レオ。俺は多分……いや、確実にレオのことが好きだ。ただ、学生に対してこんな感情を持ってはいけない。だから、この特別な環境下が起こしてる錯覚かもしれないと思い込みたかった」

レオは黙って、静かに聞いてくれている。

「このまま、レオに流されて身体の関係を持つこともできると思う。だけど……俺は、そんな一方的にレオだけが社会的な負担を背負わしたくないんだ。俺、お前より10年は長く生きてるんだからさ、俺にも責任を背負わせてくれ」

「……え?せんせ、それって……」

何かを諦めて、何も期待せず、己の欲だけをぶつけて悪者になろうとしていたレオの目に精気が戻ったように見えた。

「あと、半年。待って欲しい」

「え、そんなの余裕でしょ」

「それと、俺とお前、先生と学生って立場じゃなくて、1人の人間同士として、わかり合うことから始めないか」

何も捨てれない臆病な俺にとって、これは最大限の譲歩だった。

「特殊な環境で好きになったんじゃないって思いたい。レオと駆け引きなんてせずに、ちゃんと信頼関係を結びたいから、もっとレオのことを教えて欲しい。ダメかな……」

レオの表情が和らぐ。

嬉しそうな顔をするレオは幼く見えた。

「ダメじゃない!俺、めっちゃ嬉しいよ、大好き」

小さな子どもみたいにストレートに感情表現をするレオが愛おしい。

「あー、でも俺、明日になったら忘れちゃってるかな。今、こんな幸せなのに…」

レオの不安を和らげようと、目の前に座るレオの肩に頭をポスンと預ける。

「……メモ取っていいよ」

そのままレオの耳元で一言つぶやいた。

すると、急いでポケットからスマホを取り出した。

レオは手をニコニコと笑い、拘束されたままの俺をギュッと抱きしめ、そのまま俺の肩に顎を乗せてスマホを触っている。

その必死に今の気持ちと決意を忘れないように文字に残すレオを抱きしめてあげたかった。

「書けた!嬉しい!」

「そっか。良かったな」

喜ぶレオを見て再び泣きそうになってきた。

「せんせ!オレ、絶対に先生を守るよ。約束する」

「ありがとな……」

とはいえ、レオの存在は、レオ自身の行動ひとつで俺の人生は天国にも地獄にもなる。

不安が大きいし、後で後悔するかもしれない。

「三隅先生。不安にならなくていいよ。どれだけ先生のことを嫌いになったとしても、絶対に言いふらさない。拷問されても2人だけの秘密だから、この関係のことは言わない」

俺の頭の中を覗いているかのように、先回りしてかけられた言葉に安心する。

「っはは。ありがとうな。レオ」

「もっかい、キスしていい?」

「……1回だけな」

「やった!好きだよ、せんせ。好き」

夏の暑い体育倉庫の中で、優しく、お互いの体温が混ざり合うキスをした。