***
廊下まで聞こえるほど騒がしい教室、重い足をなんとか動かして入り口まで進む。扉に手をかけてゆっくりと開けると、ガラガラと鳴る音が教室に響く。一瞬静まり返った教室で、視線が一斉にこちらに集まる。目元を隠すほど長く伸びた前髪越しでも感じる、異端なものを見るような、蔑むような目だ。
「……おはよう」
どうにか振り絞って出した挨拶に返ってきたのは、くすくすとした笑い声だけだ。自分の席に歩いていけばそんな笑い声もなくなっていき、先ほどまでの騒がしさが戻ってくる。席に辿り着き、座ったころにはすっかり俺は空気だ。もう慣れたはずなのに気を抜けば涙が零れ落ちてしまいそうだ。
泣いたら負けだ。泣いたら……
自分に言い聞かせながら手を強くつねり、今日も一日が終わることを待つしかできなかった。小さな中学校で、自分だけがどこまでも孤独なのだと感じていた。
じわりと背中に流れた汗が気持ち悪くて目が覚める。アラーム音は聞こえていないことを考えると、まだいつも起きる時間ではないのだろう。体を起こしてスマホを手に取ると、暗い室内で光った画面は五時半を教えてくれる。
「シャワー浴びよう」
家はまだ静かで、両親は起きていないのだろう。六時になれば二人とも起きてくる。それまでに汗を流して不快さを取り除いてしまおうと、物音を立てないよう静かに部屋を出た。
シャワーを終えてリビングに行くと、ダイニングテーブルに着いた父さんがニュースを見ていた。キッチンでは母が朝食の準備をしている。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いな」
「うん。目が覚めちゃって」
「そうか」
たったこれだけ話せば父の視線はテレビのほうに戻る。いつも俺が起きるころには出勤している父と朝に話すのは久しぶりだ。
「朝から三人でご飯食べられるなんて嬉しいね」
鮭の塩焼きが乗った皿を持ってきた母が穏やかに言った。父は帰りも遅くなることが多いため、ご飯は二人で食べることが多い。もう少し時間が経ってから朝食を摂ろうと思っていたが、いつも以上に笑顔の母を見るとそう伝えることもできない。
「母さん、何か手伝うよ」
「ありがとうね。じゃあ、キッチンに二人のお弁当あるから持ってきてくれる?」
「うん」
キッチンに行くと二つのランチバッグが並んでいた。それを手にリビングへ戻ると、母は白米と味噌汁をお盆に乗せて運んできた。
「そういえば、明日から文化祭ね」
「あー、そうだね」
久しぶりの三人揃った朝食は、穏やかな時間が流れる。いつもは談話する余裕のない朝の時間だが、不本意な早起きのおかげでこの時間がある。
「その日はお父さんも休みだし、二人で行くからね。ねえ、お父さん」
「そうだな」
「えー。来なくていいよ。つまんないって」
ダイニングテーブルに置かれた卓上カレンダーには文化祭の二日間に丸が付けてある。いつも通りの授業と放課後の準備を繰り返した日々はあっという間に過ぎていき、いよいよ明日に迫っていた。文化祭前日は本格的な準備日になる高校では、今日一日は授業がない。
「父さんだって休みくらい家でゆっくりしたいでしょ」
ただでさえ仕事で忙しくしている父の貴重な休みだ。なによりも父は文化祭のような騒がしい空間をあまり好いていないように感じる。父は母に無理言われて行くことになったのだろうと思いそう言うと、父の代わりに母が答えた。
「何言ってるの。文化祭に行こうって言ったのだってお父さんからなのよ? 誠弥は嫌がるかなって私が悩んでいたら、二人で行こうって」
「え? そうなの?」
思わず目を見開いて父の方を向いてしまう。それに気づいた父は持っていた箸とお茶碗を置いてこちらをまっすぐに見る。
「お前中学のころから学校行事を見に来るの嫌がってただろう?」
やはり気づいていたのだろう。確かに中学のころの自分は学校に親が来ることを嫌がっていた。初めのころは何とも思っていなかった中学で、二年生が終わるころからは学校にいる自分の姿を見てほしくなかった。見せられなかった。
今でもあのころの夢を見ることがある。何がきっかけだったか、はっきりとは覚えていない。多分くだらないことがきっかけで、それでも幼い考えの俺たちには大きな理由になっていたのだと思う。
小さな地域の小さな中学校は在校生も少なく、各学年一クラスしかなかった。仲良くなるのは一瞬で、孤立するのも一瞬だった。ある時を境に、俺はクラスで、学校でいてもいなくとも変わらない人間になっていた。
母は何も言わず静かに頷くだけだ。俺も何も言えずに、ただ続きの言葉を待つ。
「俺も仕事で忙しいのを理由に、あまりお前を見ていなかった。でも母さんから聞いたんだよ。ここ最近の誠弥はすごく楽しそうだって。いつも帰りが早かったのに最近は遅くまで学校に残って、帰ってからも楽しそうにスマホいじってるのを見るようになったって」
「それは……」
「だから、そんな環境にいるお前を一目見たいだけなんだよ。俺も母さんも」
「そっか」
何と返すべきかわからず、言葉が続かない。みんな再び箸を進めて、静かな時間が流れていった。父は急いで朝食を食べ終えると、準備を終えて家を出ていった。俺もゆっくりと朝食を済ませて食器を水につける。
「お父さんはあぁ言ってたけど、私もあのころ何もできなかったこと気にしてたのよ。だからって言うのはおかしな話だけど、今の誠弥を見て安心したの」
「うん」
「誠弥が笑えるようになったきっかけの人が、きっと高校にいるんでしょ? 文化祭で見られるの楽しみにしてるからね」
「うん」
きっかけの人と言われて頭に浮かぶのは高見さんだけだ。彼女に出会って、彼女と話すようになって世界が変わったというのは大袈裟だろうか。
「その人のこと、大切にしなさいよ」
母はどこまで気づいているのかわからない。ただその言葉に「わかってるよ」と返して部屋に荷物を取りに言った。
彼女を大切にしたいだなんて誰目線だよと思いながらも、そう思ってしまうのだから仕方がない。母にそれがばれるのが照れくさくて、いつもより早い時間に家を出た。
普段は朝練に励む部活動生が多い朝、今日はそれも少なくなっている。普段通りなら、まだ電車に乗っている時間に着いた学校は思ったよりも生徒は少ない。教室までの道のりで出会った生徒は片手で数えられる程度だった。
「おはよう、高見さん」
教室に着くと、そこにはまだ一人しか登校しているクラスメイトはいない。席に付いてスマホの画面を見つめている彼女に声をかける。
「おはよう。今日は早いんだね」
スマホの電源を切り、画面を隠すように裏返して机に置くとこちらを見上げる。自分の席にリュックを置いて彼女の横の席に座る。
「早起きしちゃってね。高見さん、いつもこの時間にはいるの?」
「んー、そうだね。いつもこれくらいにはいるかな」
高見さんは黒板上にかけられている時計を見つめる。部活をしているわけではない、朝練などないのに毎日早くに登校していることに疑問を感じる。
「早く来ても暇じゃない? これから俺もこの時間に登校しようかな」
「だめ。和泉くんいつもギリギリに来るじゃん。遅すぎるのもだめだけど、無理しないで」
「無理だなんて」
「それに私、この時間暇とか思ったことないよ。結構好きかも」
彼女はそう言って笑った。けれど、その笑いの隙間から溜息みたいな声が漏れていて、これ以上踏み込むことを拒まれているような気がした。
一日中文化祭準備で授業のない校内は賑やかだ。普段はクラスの半数ほどが舟を漕いでいる午後の教室は、すっかりいつもの姿ではなくなっている。教室の壁は暗い紫の布を貼り付けられており、窓際に用意した布まで降ろすと昼とは思えないほどの暗闇になる。準備中の現在は困る暗さも、文化祭当日になると雰囲気のある空間になることだろう。
「教室中に装飾終わりそうだな」
「はい。結構気合入ってるから間に合うか不安だったけど大丈夫そうです」
先ほどまで姿の見えなかった担任がいつの間にかすぐ隣に来ていた。いつも適当で投げやりな先生だが、こういった行事ではある程度自由にさせ見守ってくれている。
「準備が順調なのはいいけど、今の教室の状況も少しは気にしてくれー」
「あっ……」
苦笑交じりに言う先生は教室を見渡している。そこには床や机で楽しげに話しながら作業するクラスメイト、そして使わない段ボールや画用紙、布が所狭しと散らかっている。準備することにばかり意識して、掃除や片付けを後回しにしてしまっていた。
「俺、ちょっとごみ捨ててきます」
「うん、そうしてくれ」
手が空いてるうちに行ってしまおうとゴミ袋に使わないものを詰めていく。気にしていなければそんなに多くは見えなかったゴミは、まとめてしまえば大きな袋を一杯にするほどだった。
「ごみ捨ててくるねー」
普段は教室で出たゴミは昇降口近くの倉庫まで運ぶことになっている。しかし文化祭期間はゴミが多いことから、少し離れた位置にあるゴミ置き場まで直接持って行かなければならない。一言残してから教室を出たが、いつも以上に騒がしい教室で誰かの耳に届いていたかはわからない。
靴を履き替えてゴミ置き場まで向かっていると、反対側から歩いてくる生徒と何度かすれ違う。他のクラスでも溜まったゴミを捨てに来ているのだろう。ゴミ置き場に着くと、そこには普段は見ないようなゴミの山ができていた。その山を崩さないように慎重にゴミを置き、教室までの帰路につく。
昇降口に戻るとそこにはちょうど靴に履き替える高見さんがいた。彼女は一人で、手にはお金の入ったクリアポーチとメモされた紙のみだ。
「高見さん」
「あ、和泉くん。私少し買い出し行ってくるね」
「買い出し? 何か足りないものあった?」
教室の装飾は既にほとんど完成している。当日の衣装は昨日確認が済み、残っていたのはカフェメニューの最終確認だけだったはずだ。先ほど教室にいなかった高見さんは、調理担当のクラスメイトと調理室で最後の試食を行っていると聞いていた。
「足りないと言うか、二日間で足りなくなりそうだから追加で買っておいたほうがいいと思って。」
「一人?」
「うん。先生には言って出てきたから安心して」
履き替えたローファーのつま先を地面でコンコンとしながら彼女は言う。手元の紙を盗み見ればそこには箇条書きでいくつかのものが書かれている。はっきりと読み取れたものだけでも、2Lのペットボトル飲料が二つある。それ以外にもあるということはそこそこの重量の買い出しだろう。
「一人じゃ大変でしょ? 俺も行くよ」
「全然大丈夫だよ」
彼女は笑って答える。
「教室はうるさくて疲れたし、サボりついでに荷物持ちさせてよ」
「なにそれ。んー、じゃあ手伝ってくれる?」
「もちろん」
そこそこの重量のものを一人歩いて持って帰るのはかなり大変だ。普通ならば二・三名で行ってちょうどいい買い出しであるのに彼女はそれを一人で行こうとする。教室にいるクラスメイトはきっと彼女が買い出しに行っていることに気づいていない。
みんなが気づかないうちに一人で色々とやっていてくれるのが高見葉月という人間なのだ。ここ数週間で彼女のことで分かったことがあった。誰よりもしっかり者の彼女は、きっと誰かに頼ることが苦手だ。だから俺は、そんな彼女の負担を少しでも一緒に抱えたいとそう思った。
「なんでそんなに気にかけてくれるの……」
半歩先を歩き始めた彼女がぽつりと呟く。ギリギリ聞こえた声量の言葉に、これはきっと俺に届けるために発したのではないのだと感じる。
「好きだからだよ」
彼女に届けるためにはっきりと言葉にする。彼女は足を止めることも振り返ることもない。周りには二人以外誰もいない空間で、さらさらと風が木々を揺らす音だけがしていた。
「ねえ、重くない? 私も持つよ」
「大丈夫。左右のバランス取れるからこの方が楽だし」
買い出しは大きめの袋、二袋分のものになった。片手に一袋ずつ持つ俺を見て高見さんはそわそわとしている。
「私ばっかり楽して申し訳ないよ」
「気にしないで。高見さんは他のこと頑張ってくれてるじゃん」
「いや……」
「じゃあさ、一つお願い聞いてくれない?」
あと十メートルも歩けば学校の正門だ。そこで歩く足を止めると、隣の彼女も不思議そうに足を止める。
「私にできることなら」
「文化祭さ、一緒にまわってほしい」
真っ直ぐ見つめて言うと彼女は目を見開き、その後動揺するように視線を左右させた。数秒後答えようと口を開くが何も言わずに唇を嚙みしめる彼女に、いきなり過ぎただろうかと反省する。しかし、今さら反省したところで何にもならない。ずっと誘いたいと思っていたのを、文化祭前日にやっと誘えたというのだから、むしろ遅かったくらいだ。なるようになると言い聞かせて彼女の返事を待つ。
「……いいよ。明日だけなら」
「まじ!? よかった~」
返事を聞いて再び歩き出すとその半歩後ろを彼女も歩き出す。返事を悩んだ彼女の葛藤を気にするよりも、明日一緒に過ごせる喜びが勝っていた。明日こそ想いを伝えられるように、文化祭が終わるまでに想いが届くように、そう願いながら学校まで足を進めた。
学校はすっかり文化祭の雰囲気に染まっていて、教室は完璧なお化け屋敷カフェへと変化する。いよいよ明日からは文化祭だ。みんなどこか浮かれた様子で下校時刻を迎えた。
廊下まで聞こえるほど騒がしい教室、重い足をなんとか動かして入り口まで進む。扉に手をかけてゆっくりと開けると、ガラガラと鳴る音が教室に響く。一瞬静まり返った教室で、視線が一斉にこちらに集まる。目元を隠すほど長く伸びた前髪越しでも感じる、異端なものを見るような、蔑むような目だ。
「……おはよう」
どうにか振り絞って出した挨拶に返ってきたのは、くすくすとした笑い声だけだ。自分の席に歩いていけばそんな笑い声もなくなっていき、先ほどまでの騒がしさが戻ってくる。席に辿り着き、座ったころにはすっかり俺は空気だ。もう慣れたはずなのに気を抜けば涙が零れ落ちてしまいそうだ。
泣いたら負けだ。泣いたら……
自分に言い聞かせながら手を強くつねり、今日も一日が終わることを待つしかできなかった。小さな中学校で、自分だけがどこまでも孤独なのだと感じていた。
じわりと背中に流れた汗が気持ち悪くて目が覚める。アラーム音は聞こえていないことを考えると、まだいつも起きる時間ではないのだろう。体を起こしてスマホを手に取ると、暗い室内で光った画面は五時半を教えてくれる。
「シャワー浴びよう」
家はまだ静かで、両親は起きていないのだろう。六時になれば二人とも起きてくる。それまでに汗を流して不快さを取り除いてしまおうと、物音を立てないよう静かに部屋を出た。
シャワーを終えてリビングに行くと、ダイニングテーブルに着いた父さんがニュースを見ていた。キッチンでは母が朝食の準備をしている。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いな」
「うん。目が覚めちゃって」
「そうか」
たったこれだけ話せば父の視線はテレビのほうに戻る。いつも俺が起きるころには出勤している父と朝に話すのは久しぶりだ。
「朝から三人でご飯食べられるなんて嬉しいね」
鮭の塩焼きが乗った皿を持ってきた母が穏やかに言った。父は帰りも遅くなることが多いため、ご飯は二人で食べることが多い。もう少し時間が経ってから朝食を摂ろうと思っていたが、いつも以上に笑顔の母を見るとそう伝えることもできない。
「母さん、何か手伝うよ」
「ありがとうね。じゃあ、キッチンに二人のお弁当あるから持ってきてくれる?」
「うん」
キッチンに行くと二つのランチバッグが並んでいた。それを手にリビングへ戻ると、母は白米と味噌汁をお盆に乗せて運んできた。
「そういえば、明日から文化祭ね」
「あー、そうだね」
久しぶりの三人揃った朝食は、穏やかな時間が流れる。いつもは談話する余裕のない朝の時間だが、不本意な早起きのおかげでこの時間がある。
「その日はお父さんも休みだし、二人で行くからね。ねえ、お父さん」
「そうだな」
「えー。来なくていいよ。つまんないって」
ダイニングテーブルに置かれた卓上カレンダーには文化祭の二日間に丸が付けてある。いつも通りの授業と放課後の準備を繰り返した日々はあっという間に過ぎていき、いよいよ明日に迫っていた。文化祭前日は本格的な準備日になる高校では、今日一日は授業がない。
「父さんだって休みくらい家でゆっくりしたいでしょ」
ただでさえ仕事で忙しくしている父の貴重な休みだ。なによりも父は文化祭のような騒がしい空間をあまり好いていないように感じる。父は母に無理言われて行くことになったのだろうと思いそう言うと、父の代わりに母が答えた。
「何言ってるの。文化祭に行こうって言ったのだってお父さんからなのよ? 誠弥は嫌がるかなって私が悩んでいたら、二人で行こうって」
「え? そうなの?」
思わず目を見開いて父の方を向いてしまう。それに気づいた父は持っていた箸とお茶碗を置いてこちらをまっすぐに見る。
「お前中学のころから学校行事を見に来るの嫌がってただろう?」
やはり気づいていたのだろう。確かに中学のころの自分は学校に親が来ることを嫌がっていた。初めのころは何とも思っていなかった中学で、二年生が終わるころからは学校にいる自分の姿を見てほしくなかった。見せられなかった。
今でもあのころの夢を見ることがある。何がきっかけだったか、はっきりとは覚えていない。多分くだらないことがきっかけで、それでも幼い考えの俺たちには大きな理由になっていたのだと思う。
小さな地域の小さな中学校は在校生も少なく、各学年一クラスしかなかった。仲良くなるのは一瞬で、孤立するのも一瞬だった。ある時を境に、俺はクラスで、学校でいてもいなくとも変わらない人間になっていた。
母は何も言わず静かに頷くだけだ。俺も何も言えずに、ただ続きの言葉を待つ。
「俺も仕事で忙しいのを理由に、あまりお前を見ていなかった。でも母さんから聞いたんだよ。ここ最近の誠弥はすごく楽しそうだって。いつも帰りが早かったのに最近は遅くまで学校に残って、帰ってからも楽しそうにスマホいじってるのを見るようになったって」
「それは……」
「だから、そんな環境にいるお前を一目見たいだけなんだよ。俺も母さんも」
「そっか」
何と返すべきかわからず、言葉が続かない。みんな再び箸を進めて、静かな時間が流れていった。父は急いで朝食を食べ終えると、準備を終えて家を出ていった。俺もゆっくりと朝食を済ませて食器を水につける。
「お父さんはあぁ言ってたけど、私もあのころ何もできなかったこと気にしてたのよ。だからって言うのはおかしな話だけど、今の誠弥を見て安心したの」
「うん」
「誠弥が笑えるようになったきっかけの人が、きっと高校にいるんでしょ? 文化祭で見られるの楽しみにしてるからね」
「うん」
きっかけの人と言われて頭に浮かぶのは高見さんだけだ。彼女に出会って、彼女と話すようになって世界が変わったというのは大袈裟だろうか。
「その人のこと、大切にしなさいよ」
母はどこまで気づいているのかわからない。ただその言葉に「わかってるよ」と返して部屋に荷物を取りに言った。
彼女を大切にしたいだなんて誰目線だよと思いながらも、そう思ってしまうのだから仕方がない。母にそれがばれるのが照れくさくて、いつもより早い時間に家を出た。
普段は朝練に励む部活動生が多い朝、今日はそれも少なくなっている。普段通りなら、まだ電車に乗っている時間に着いた学校は思ったよりも生徒は少ない。教室までの道のりで出会った生徒は片手で数えられる程度だった。
「おはよう、高見さん」
教室に着くと、そこにはまだ一人しか登校しているクラスメイトはいない。席に付いてスマホの画面を見つめている彼女に声をかける。
「おはよう。今日は早いんだね」
スマホの電源を切り、画面を隠すように裏返して机に置くとこちらを見上げる。自分の席にリュックを置いて彼女の横の席に座る。
「早起きしちゃってね。高見さん、いつもこの時間にはいるの?」
「んー、そうだね。いつもこれくらいにはいるかな」
高見さんは黒板上にかけられている時計を見つめる。部活をしているわけではない、朝練などないのに毎日早くに登校していることに疑問を感じる。
「早く来ても暇じゃない? これから俺もこの時間に登校しようかな」
「だめ。和泉くんいつもギリギリに来るじゃん。遅すぎるのもだめだけど、無理しないで」
「無理だなんて」
「それに私、この時間暇とか思ったことないよ。結構好きかも」
彼女はそう言って笑った。けれど、その笑いの隙間から溜息みたいな声が漏れていて、これ以上踏み込むことを拒まれているような気がした。
一日中文化祭準備で授業のない校内は賑やかだ。普段はクラスの半数ほどが舟を漕いでいる午後の教室は、すっかりいつもの姿ではなくなっている。教室の壁は暗い紫の布を貼り付けられており、窓際に用意した布まで降ろすと昼とは思えないほどの暗闇になる。準備中の現在は困る暗さも、文化祭当日になると雰囲気のある空間になることだろう。
「教室中に装飾終わりそうだな」
「はい。結構気合入ってるから間に合うか不安だったけど大丈夫そうです」
先ほどまで姿の見えなかった担任がいつの間にかすぐ隣に来ていた。いつも適当で投げやりな先生だが、こういった行事ではある程度自由にさせ見守ってくれている。
「準備が順調なのはいいけど、今の教室の状況も少しは気にしてくれー」
「あっ……」
苦笑交じりに言う先生は教室を見渡している。そこには床や机で楽しげに話しながら作業するクラスメイト、そして使わない段ボールや画用紙、布が所狭しと散らかっている。準備することにばかり意識して、掃除や片付けを後回しにしてしまっていた。
「俺、ちょっとごみ捨ててきます」
「うん、そうしてくれ」
手が空いてるうちに行ってしまおうとゴミ袋に使わないものを詰めていく。気にしていなければそんなに多くは見えなかったゴミは、まとめてしまえば大きな袋を一杯にするほどだった。
「ごみ捨ててくるねー」
普段は教室で出たゴミは昇降口近くの倉庫まで運ぶことになっている。しかし文化祭期間はゴミが多いことから、少し離れた位置にあるゴミ置き場まで直接持って行かなければならない。一言残してから教室を出たが、いつも以上に騒がしい教室で誰かの耳に届いていたかはわからない。
靴を履き替えてゴミ置き場まで向かっていると、反対側から歩いてくる生徒と何度かすれ違う。他のクラスでも溜まったゴミを捨てに来ているのだろう。ゴミ置き場に着くと、そこには普段は見ないようなゴミの山ができていた。その山を崩さないように慎重にゴミを置き、教室までの帰路につく。
昇降口に戻るとそこにはちょうど靴に履き替える高見さんがいた。彼女は一人で、手にはお金の入ったクリアポーチとメモされた紙のみだ。
「高見さん」
「あ、和泉くん。私少し買い出し行ってくるね」
「買い出し? 何か足りないものあった?」
教室の装飾は既にほとんど完成している。当日の衣装は昨日確認が済み、残っていたのはカフェメニューの最終確認だけだったはずだ。先ほど教室にいなかった高見さんは、調理担当のクラスメイトと調理室で最後の試食を行っていると聞いていた。
「足りないと言うか、二日間で足りなくなりそうだから追加で買っておいたほうがいいと思って。」
「一人?」
「うん。先生には言って出てきたから安心して」
履き替えたローファーのつま先を地面でコンコンとしながら彼女は言う。手元の紙を盗み見ればそこには箇条書きでいくつかのものが書かれている。はっきりと読み取れたものだけでも、2Lのペットボトル飲料が二つある。それ以外にもあるということはそこそこの重量の買い出しだろう。
「一人じゃ大変でしょ? 俺も行くよ」
「全然大丈夫だよ」
彼女は笑って答える。
「教室はうるさくて疲れたし、サボりついでに荷物持ちさせてよ」
「なにそれ。んー、じゃあ手伝ってくれる?」
「もちろん」
そこそこの重量のものを一人歩いて持って帰るのはかなり大変だ。普通ならば二・三名で行ってちょうどいい買い出しであるのに彼女はそれを一人で行こうとする。教室にいるクラスメイトはきっと彼女が買い出しに行っていることに気づいていない。
みんなが気づかないうちに一人で色々とやっていてくれるのが高見葉月という人間なのだ。ここ数週間で彼女のことで分かったことがあった。誰よりもしっかり者の彼女は、きっと誰かに頼ることが苦手だ。だから俺は、そんな彼女の負担を少しでも一緒に抱えたいとそう思った。
「なんでそんなに気にかけてくれるの……」
半歩先を歩き始めた彼女がぽつりと呟く。ギリギリ聞こえた声量の言葉に、これはきっと俺に届けるために発したのではないのだと感じる。
「好きだからだよ」
彼女に届けるためにはっきりと言葉にする。彼女は足を止めることも振り返ることもない。周りには二人以外誰もいない空間で、さらさらと風が木々を揺らす音だけがしていた。
「ねえ、重くない? 私も持つよ」
「大丈夫。左右のバランス取れるからこの方が楽だし」
買い出しは大きめの袋、二袋分のものになった。片手に一袋ずつ持つ俺を見て高見さんはそわそわとしている。
「私ばっかり楽して申し訳ないよ」
「気にしないで。高見さんは他のこと頑張ってくれてるじゃん」
「いや……」
「じゃあさ、一つお願い聞いてくれない?」
あと十メートルも歩けば学校の正門だ。そこで歩く足を止めると、隣の彼女も不思議そうに足を止める。
「私にできることなら」
「文化祭さ、一緒にまわってほしい」
真っ直ぐ見つめて言うと彼女は目を見開き、その後動揺するように視線を左右させた。数秒後答えようと口を開くが何も言わずに唇を嚙みしめる彼女に、いきなり過ぎただろうかと反省する。しかし、今さら反省したところで何にもならない。ずっと誘いたいと思っていたのを、文化祭前日にやっと誘えたというのだから、むしろ遅かったくらいだ。なるようになると言い聞かせて彼女の返事を待つ。
「……いいよ。明日だけなら」
「まじ!? よかった~」
返事を聞いて再び歩き出すとその半歩後ろを彼女も歩き出す。返事を悩んだ彼女の葛藤を気にするよりも、明日一緒に過ごせる喜びが勝っていた。明日こそ想いを伝えられるように、文化祭が終わるまでに想いが届くように、そう願いながら学校まで足を進めた。
学校はすっかり文化祭の雰囲気に染まっていて、教室は完璧なお化け屋敷カフェへと変化する。いよいよ明日からは文化祭だ。みんなどこか浮かれた様子で下校時刻を迎えた。


