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 文化祭が二週間後に迫った金曜日の放課後、準備をするために多くの生徒が残っている教室はいつも以上に騒がしい。通常はきれいに並べられている机は教室の隅に固められ、広がった空間には段ボールや布、さまざまな画材が散らばっている。籠った空気を入れ替えようと窓を開けると、澄んだ空気がカーテンを揺らした。十月に入ってから続いていた雨はすっかりその気配をなくし、今は太陽がじりじりと地面を照らしている。

「和泉くん、葉月ちゃんどこに行ったか知らない?」
「高見さん? そういえばしばらく見てないな」

 最初はほとんどのクラスメイトが残っていた教室だが、部活や用事で既にいなくなった人も多い。まだ時間に余裕があり強制ではない放課後の準備なのだから、教室にいない人がいてもおかしくはない。帰宅部である高見さんは、予定もないから今日も最後まで残ると言っていたはずだ。

「カフェメニューの詳細、確認してほしいんだけどなー」
「あぁ、俺探してくるよ」

 同じ実行委員であるのだから確認は俺でも良いだろう。しかし料理の苦手な俺よりは高見さんの方が適任だろうと、メニュー関連は彼女、室内の装飾関連は俺と担当を分けている。
 最後に彼女を見たのはいつだろうと記憶を遡る。たしか三十分前に見たときは教室の隅のほうで紙に何かをまとめていた。彼女がいたはずのそこには筆記用具だけが残されており紙はない。きっと職員室にでも提出しに行ったのだと推測し教室を出る。

 職員室へ向かう途中の渡り廊下、中庭の方によそ見をすると探していた姿を視界が捉える。歩く足が止まってしまったのは彼女を見つけたからだけではない。彼女と向かい合わせで立っている男子生徒が見えたから。

……隣のクラスの人だっけ?

二人はこちらに気付くようすはなく何か話している。彼女は困ったように笑った後、向かいの彼に頭を下げて一人こちらに歩き始めた。

「あっ」

 二人の様子から目を逸らすことができなかった俺は彼女と目が合ってしまう。彼女は何もなかったかのようにこちらに駆け寄る。

「ごめん、勝手に教室離れて。職員室行ってた。今から戻るね」
「あぁ、それは気にしないで。そんなことよりさっきの人……」
「やっぱ見てたかー。なんでもないよ」
「告白、された?」

 ただのクラスメイトの俺が踏み込んでいいことではない。頭ではわかっているはずなのに、つい口から出てしまう。彼女に彼氏ができるかもなんて考えるのも嫌だった。いや、今も彼氏がいない確証なんてないのだけれど。一緒に実行委員になって、以前よりも仲良くなって、勘違いしていたのかもしれない。自分は彼女にとって何なのか、彼女は自分にとって……。俺たちはただのクラスメイト以上になることはあるのだろうか。彼女は先ほど見た横顔と同じく、困ったように笑った。

「なんでそんなに気になるの?」
「それは……」

 今度はしっかり頭で考えて言葉を出さなければ、そうしなければきっと築き始めたばかりの関係はあっけなく崩れてしまう。馬鹿な自分でもそれくらいはわかっている。それでも、変に言い訳を重ねるよりは素直に言ってしまおうと彼女の目を真っ直ぐ見つめる。どう思われるか不安がない訳ないが、好きな人に噓を吐きたくない。

「好きだから。高見さんのことが好きだから、気になってしまうんだ」

 言ってしまった。あの日、初めて一緒に帰ったあの日に零れた言葉を。今度は無意識ではない、想いを伝えるために意識してはっきりと。二人の間に流れた沈黙が永遠のように感じる。実際には十秒もしないうちに彼女は口を開いた。

「それは、って……だからなんで?」
「え?」

 彼女はただただ疑問だと伝えるように首を傾げている。

「好きなんだ、高見さんのことが。好きです」

 再び伝えてみても彼女の表情は変わることがない。聞こえていないなんてことはありえないはずだ。以前とは違う人通りの少ない場所で、はっきりと言葉にしているのだから。しかし、彼女がふざけているようにも見えない。

「高見さん」
「何?」
「いや、なんでもない。ごめん、なんでもない! 教室戻ろうか」
「……うん、戻ろう」

 いきなり様子の変わった俺を見て彼女は何か言いたげだが、それに気づかないふりをして歩き始めた。彼女も横に並び歩き始める。
 当たり障りない話題で会話を交わしながら教室へ向かう。文化祭のこと、授業のこと、友達のこと。何かを問えば答えてくれて、その話を広げてくれる。

「好きだよ」

 なぜかはわからない。こんなことがあり得るのかもわからない。ただこれは現実で、自分の目の前で起こっていることだ。
 高見さんには“好意を伝える言葉”だけが聞こえていない。そして、それはきっと俺限定。

***

 風呂に入り体はすっきりしたのに、どうにもすっきりしない心。自室のベッドに寝転がりため息を吐く。どれだけ見つめても変化のないスマホの画面。開かれたトーク画面は、三時間前に送った俺からのメッセージで終わっている。

【好きだよ】

 何度も文字を打ち込んでは消してを繰り返して、やっとの気持ちで送ったその言葉は未読のままだ。普段、この時間帯に送るメッセージには三十分足らずで返信が来る。気づいていないのか、気づいていてスルーしているのか、それとも――

「届いていない、なんてことあるのかな……」

 思い出すのは今日の放課後の出来事。下校時刻になって、当たり前に高見さんと一緒に駅まで帰った。彼女に伝えた好きが届いていないこと以外は至って普通の放課後だった。
 一人で電車に乗って、家に帰り着いても彼女のことが頭から離れない。夢でも見ているのではないかと思っても、つねった手にはしっかりと痛みが残り、自分の額に流れる汗の気持ち悪さが現実なのだと証明している。
 直接好きと伝えても聞こえないのならばメッセージを送ればよいだろうという単純な思いつきも、未読のままでは届いているのかわからない。もうすぐ日付が変わり土曜日になる。

【おやすみ】

 彼女からの返信が欲しくて送ってしまった追いメッセージ。今度はトーク画面を見続けることができなくて電源を落とし充電器に繋げる。

【おやすみなさい】

 二分ほど経ったころに通知で画面が明るくなる。それをタップすれば、ずっと待っていた彼女からの返信だった。ようやく来たメッセージ、その画面にはありえない光景が広がっていた。【おやすみ】のメッセージに付いている既読マーク。しかし、その上にある【好きだよ】には既読が付いていない。
 やはり、なぜかこの好きは彼女には届かないようだ。どうすればよいのかなんてわからない。それでも俺にできるのは好きを伝え続けること。一度伝えても届かないのなら、もう一度、もう何十回だって彼女に想いを伝えよう。
 そう心に決めて、俺は眠りについていった。