「おや、よく眠っているじゃないか。無防備な小娘だねぇ。ふふ、喰ってやろうか」
耳元で、誰かの声がした。やけに(つや)っぽい女性の声だ。
(喰う?)
夢にしてはやたらと臨場感のある響き。けれどその内容は穏やかではなく、ふわふわとした心地の良い微睡みが引き潮のように遠ざかっていく。
「ねぇ、あんたの得意なまじないをかけておくれよ。人間の肉なんか百年ぶりなんだ。腹でも壊したら嫌だからね」
「そっとしておいておやり。だいたいあんた、若い男が専門だっただろう?」
(かたわ)らに複数の気配を感じた。一体、何の話をしているのだろう?
でも今は、(まぶた)を開けることすら億劫(おっくう)だ。会話の内容は気になるものの、瞼の重みがそれを拒否する。
「それにほら、よく見てごらんよ。このこは―――」
耳元でそよぐ、甘ったるい吐息と囁き。
冷たい、冷たい指先が、すっと―――首筋を撫でた。

「うわぁぁっ!!」
氷のような感触に、眠気が吹っ飛んだ。
倉橋美朱(みあか)は悲鳴を上げながら飛び起き、サイドテーブルへ手を伸ばしていた。そこが目覚まし時計の定位置だからだ。
(今、何時?)
あとどれくらい眠れる時間があるんだろう。視界が薄暗いということは夜明け前なはず―――
時計の針は六時を示していた。二度寝しようにも寝たら絶対に七時に起きられない時間帯だ。
「はぁ、、、数学の宿題せな」
部屋の電気を付け、一限目に提出の宿題に取り掛かる。昨日、半分寝ながらしたからか文字が歪んでいた。
「今日は早い起床だね〜、、、」
後ろから年若い青年が声をかけるが、美朱は完全に無視してシャーペンを持った手を動かしている。
少し伸びた灰色の髪をひとつに束ね、白色の狩衣を着用している。狩衣というのは平安時代の貴族の普段着のようなもの。
先に言っておこう、ここは平安時代ではなく現代だ。
青年の名前は南天(なんてん)。訳あって美朱の家に居候中なのだ。奇人変人を具現化したような人で、そして美朱に陰陽術を教えた師匠でもある。