初めは、なんかいいな、くらいだった。私はバレー部で、彼はバドミントン部。体育館を分ける日は、いつのまにか、視界に入るようになっていた。

『あたしね、C組の鵜久森君のことが好きなんだけど……アヤちゃん知ってる?』

 小学生からの親友のマリがそう言ってきた時、「あぁ、やめよう」と自然と思えた。タイミングが悪かった、まぁ仕方がない。気になるくらいで留めておいてよかった、しっかり好きになって変にアピールする前でよかった。

 ──そう、思えたはずだった。


『アヤナさん……だよね。僕、バドの鵜久森っていうんだけど』


 神様は、ひどく意地悪だ。

 夏場は氷のう用の氷を一年生が用意しないといけない。その日は私が担当で、ちょうどケースを持って、冷凍庫へと向かっていたところだった。


「あ……」

 思わず声が洩れる。
 冷凍庫から氷を取り出してはケースに詰めていたのは、他でもなく鵜久森君だった。

 できるだけ目を合わせないようにしよう。それが私にできる、せめてものマリへの配慮だった。
 それなのに、自分の分の氷を詰め終わった鵜久森君は、振り返って切れ長の目を一瞬見開く。それからゆっくりとやわらかい笑みを浮かべて、「それ、」と私のケースを指差した。

「貸して。僕やるよ」
「え、でも」
「氷掬うの割と力いるし、まかせて」

 私の手からするっとケースを奪いとってしまった鵜久森君。ざく、ざくと氷を掬う音が聞こえる。

「アヤナさん……だよね。僕、バドの鵜久森っていうんだけど」

 氷を掬いながら彼が言うから、私は驚いて固まってしまう。まさか、彼の口から私の名前が出てくるなんて思わなかった。

「知ってます」

 つい口をついた言葉に、「え」と鵜久森君がこちらを振り向く。そこでようやく、言葉を間違えたことに気がついた。


「あ……知ってるっていうか、その……フツウに」

 普通ってなんだ、と言いながら思う。しばらく私を見つめていた彼は「そっかぁ、嬉しい」と頬をゆるませて、ざくっ、と氷を掬った。


「僕はアヤナさんのこと、委員会で知ったよ。ほら、1学期図書委員だったでしょ」
「もしかしてよく本借りにきてた?」
「そう。カウンター当番してるアヤナさんのこと知って、それで……ずっと話してみたいって思ってた」

 視線を上げると、まっすぐに目が合った。
 ああ、いけない。最初はそう、いいなって。ただそれだけだった。

 これ以上踏み込んだら、後戻りができなくなる。

 人間は、いついかなる時も優先順位を間違えては、駄目だ。


「今日、帰ったらフォロリク送ってもいいかな」
「……え」
「急にフォロリク来たらびっくりするかなと思ってずっと送れなかったんだよね……ってのは建前で、本当はなかなか勇気が出なかっただけ」


 凛とした瞳に射抜かれて、ぐるぐると頭の中を回っていたマリの顔が、すうっと消えていく。


……言えない。嬉しいだなんて、言えない。
 それなのに、いつの間にか首を縦に振っていた。

 やってしまった、と自分の失態に気がついた時には、にかっと太陽みたいな笑顔を浮かべて、鵜久森君が去っていった後だった。


 どうしよう。マリは私の中でいちばん大切な親友だ。だからマリの恋を応援しようと思っていたし、鵜久森君の世界に私なんて存在していないと思っていた。

……それなのに。

『それで……ずっと話してみたいって思ってた』

 彼の世界の中に、私は、いた。



 氷を運び終えると、体育館でコート整備をしていたマリが「アヤちゃんおつかれさま」とやわらかい笑みを浮かべた。ギュッと心臓が痛んで、キリキリと胃も痛んだ。

 私は、最低な人間だろうか。

 言えない。私も実は鵜久森君のことが好きだったなんて、そんなこと、言えるはずがない。



 部活を終え、帰宅しても、鵜久森君からの通知は何もなかった。そのことにどこかホッとして、それ以上に落胆した。
 構われただけだったのかな。よくよく考えてみれば、鵜久森君なんかが私のことなんて知っているはずないし、イン●タで繋がりたいと思うわけがない。
 全部自分が舞い上がっていただけなのだ。


 スマホを閉じて、ベッドに放り投げる。すると、急にピロン、と通知音がした。


【ゆう】からのフォロー申請がありました。


 ドキリと心臓が跳ねる。

──鵜久森 優。うぐもり、ゆう。
 名は体を表すというけれど、本当にその通りだと思う。

『アヤちゃん』
『アヤナさん……だよね』

 マリと鵜久森君。二人の声がぐるぐるまわっている。
 どうしよう、どうしたらいいんだろう。


【許可、削除】の上を指が何度も行き来する。鵜久森、うぐもり、ゆう。優。


「アヤナいつまで部屋にいるの、ご飯よ」
「うわっ……!!」


 鵜久森君の名前を脳内で呼んでいたら、急にドアを開けて入ってきた母の声に驚いて、スマホをその場に落としそうになってしまった。なんとか落とさずに済んだけれど、心臓に悪い。


「そんなに驚くことないでしょー」
「……驚くよ。もう、今度からはちゃんとノックしてよね」
「はいはい。アヤナも、ご飯だからリビングに降りてね」

 母が部屋を出ていく。ふう、と息をついてスマホの画面を見た時だった。

「……あれ、え……」

 フォロリク許可の青い部分がグレーに変わり、【フォロー中】という文字に変わっている。さっきスマホを落としそうになった時、間違えてタップしてしまったのだ。

「嘘でしょ……」


 感じは悪いけれど、急いでブロ解してしまえばバレないかもしれない。そう思い、フォロー許可を取り消そうとした時だった。


【今日話した鵜久森です。アカウント、合ってる?】


 dmの通知で、もうダメだと悟った。ひとつは、ブロ解できるチャンスがなくなったということ。そしてもうひとつは、彼からdmが来た瞬間、たしかに喜んだ私がいたという事実だ。

 もうあとにはひけない。戻れない。

 言えない。この気持ちは。
 ずるくて汚いこんな思い、マリにも鵜久森君にも、言えない。