「お前、褒めとけばいいと思ってんだろ。あんま舐めんなよ、俺のことも──人のことも」

 正論だ、と思った。そのあとすぐに、なんて鋭い言葉なのだろう、と思った。

 人よりも優れていた。褒められることが多い人生だった。
 容姿もそれなりに整っていて、勉強も人並み以上にできた。人の悪口は「言わない」というより「言えない」性格だったし、攻撃的な言葉を自分が使うのも、使う人も、嫌だった。
 口から出す言葉には責任がともなう。だから最大限に注意を払って、いつも言葉を発していた。


── それなのに、私はまた間違えてしまったらしい。


「なにが高いねだよ。お前のほうが点数高いくせに、馬鹿にしてるわけ?」
「ちがっ……」


 何気ない、テスト返却の時間だった。平均点にみんなが「うわー」「やべ、けったかも」と騒いで、返却された生徒が黒板付近で大きくのけぞって、よくある風景だったはずなのに。


『テスト見せ合わん?』

 後ろの席の田中に肩を叩かれて、「いいよ」と返事をして、テストをいっせいに開く。

 彼が78点で、私が86点。


 彼は「うわ高ぇ」と笑っていて、私の脳内を埋め尽くしたのは「意外と高いんじゃん」ということだった。
 きっとこの見下した気持ちが、彼には見透かされていたのだと思う。

「すごい。高いね」

 褒めたつもりだった。78点だって四捨五入すれば80点になるわけだし、クラス平均に鑑みても、彼の成績は上位のほうだった。「私の勝ちだねよっしゃ」なんて煽る真似はできないから、自分にできる最善が口をついたはずだった。

 それなのに、彼にとってその言葉は侮辱として捉えられてしまったらしい。

 申し訳なさと、焦りと、薄れかかっていたはずの過去が一気に押し寄せてくる。


『サキちゃんにだけは言われたくない。どうせ自分のほうが可愛いと思ってるんでしょ?』


 中学生のころ、『かわいいね』と褒めた女子にそう言われたことがある。素朴な顔立ちの彼女がその日はリップを塗ってきていて、薄ピンク色のリップがよく似合っていた。だから率直に『かわいいね』と褒めた。

 その瞬間、その女子と、周囲にいた女の子たちが一気に顔を歪めたのを覚えている。

「嫌味?」「感じ悪いね」「サキちゃんが言うことじゃないよね」

 言葉の矢が降ってくる、という表現がしっくりくる出来事だった。
 たとえ状況が変わっても、言われることは一貫していた。
 私は、人を褒めるのに向いていないらしい。





 それなのに、口をつくのが空っぽの賞賛ばかりなのは、褒めることでしか、コミュニケーションのとり方がわからないからだ。

──褒めることしか、人との繋がり方を知らないからだ。


 傷つけるよりは褒められるほうがいいに決まっている。マイナスなことを言われるよりは、プラスなことを言われたほうがいいに決まっている。そう思うから、私は褒めることしかできないというのに、私はそれすらも上手くできない。


「お前さぁ、思ってもないくせにすごいとか言うなよ」


 田中が眉を寄せて、言葉を投げる。

 違うよ、ほんとうに、思っている。すごいと思っている。のに、どうして伝わらないのだろう。

 田中もすごい。私もすごい。
 それでは駄目なのだろうか。

 こういうとき、どういう反応をすればいいのか分からない。


 田中はクラスの人気者で、いつもヘラヘラ笑っているから、まさかこんなふうに言葉で突き刺してくるなんて知らなかった。

 こわい、と思う。柔そうにみえて棘がある。けれどその棘を出させてしまったのは、紛れもなく私だ。


「……ご、ごめんなさい」
「別に謝ってほしいわけじゃなくて。ただ俺は、そんな思ってもない賞賛されるよりも、勝ったよっしゃ購買のパン奢れ、くらい思ってるサキも見てみたいなってだけ」

 ハッ、と視線を上げる。
 少しだけ眉を下げた田中は、言葉を続ける。


「言い方きつくて、俺もごめん。俺最近けっこう頑張ってっから、高得点でびっくりしただろ」

 彼はふにゃ、と笑みを浮かべる。ゆっくりと目が細まって、線になった。


「……た、なか」
「言葉強くてびっくりしたなら、ほんとごめん。俺のこと嫌いになったなら、もっとごめん」


 怒っていたわけではないんだ、と安堵で泣きそうになる。私の失言で、嫌われてしまったかと思った。けれどそうではなかったらしい。

 私をまっすぐに見つめた田中は、その瞳の中に少しだけ、やわらかい光を宿した。

「サキ。無理して褒めなくたって、コミュニケーションはとれるよ。意味なく煽てんなよ。そんなことしなくても、大丈夫だから」
「……ありがとう、田中」
「でもテスト負けたのはシンプルに悔しいな。次は勝つから、宣戦布告しとく」
「……田中、購買のパンよりも自販機のメロンソーダがいい」
「あーね? 買ってきますとも」


 にやりと笑う田中に、あはは、と笑い返す。
 クラスメイトの心に初めて触れられた気がした。今まではずっと、肌をなぞっているような、うわべだけを撫でているようなそんな感覚だった。


『あんな舐めんなよ』

 無意識下にあった私の傲慢さを、田中は見破ったのだ。メロンソーダを買うために教室を出ていこうとする田中の後ろ姿をじっと見つめる。

 じわりと、心に初めての思いが広がる。


 もっと話してみたい。考え方を聞いてみたい。価値観を知ってみたい。



──私、キミの、心に触れてみたい。



 優れているレッテルを剥がしてくれたのは、紛れもなく、田中だった。