「――髪の長い子、かな」
 いつからだっただろう。雑談の中で友人から好きな女の子のタイプを訊かれるたび、俺はそんな答えを返すようになっていた。
 周りがしだいに色めき立ち、クラスの誰々がかわいいだとか、このアイドルが好きだとか、そんな話題で盛り上がりはじめた、小学六年生のころだった。
 たいていその答えは、なんの抵抗もなく受け入れられた。「あーわかる」だとか「俺も短いより長いほうが好き」だとか、共感の声もよく返ってきた。
 そういう反応に、「だよなー」なんて適当に相槌を打ちながら、彼らの「わかる」も「俺も好き」も、自分の「好き」とはまったく性質が異なることに、いつからか気づいていた。
 そもそも「髪の長い子が好き」という答え方も、厳密には正しくなかった。
 どちらかというと俺は、「長い髪が好き」、だった。

 最初に違和感を覚えたのは、小学六年生の秋。紗子の家に遊びにいったときだった。
 紗子が台所へ飲み物を取りにいってくれたので、紗子の部屋でひとり座って待っていたとき。床に敷かれたカーペットの上に、長い髪の毛が落ちているのを見つけた。ここは紗子の部屋だし、長さ的にも色的にも、紗子の髪であることは間違いなかった。
 もともと、紗子の髪をきれいだなとは思っていた。
 背中まである長い髪はなんの癖もなく、いつもサラサラで艶があって、さらにトリートメントの良い匂いがした。紗子は顔も文句なしの美人だったけれど、それ以上に圧倒的に俺が魅力を感じていたのは、そのきれいな髪だった。
 べつになにも、おかしなことだとは思っていなかった。「好きなタイプは髪の長い子」と答えて引かれるようなことはなかったし、反対に「俺はショートヘアの子が好き」と言っている友人もいたし、そんなふうに異性の髪型に対して特別な思い入れがあるのは、一般的なことだと思っていた。

 だけどそのとき、カーペットに落ちている紗子の髪の毛へ、無意識に手を伸ばしていた自分に。はじめて、心底ぎょっとした。
 ほとんど衝動的だった。胸の奥から突き上げた強烈な扇情に押されるまま、俺はその髪の毛を拾っていた。
 指先でつまんで、顔の前に持ってくる。長く細い一本の髪の毛が、目の前で頼りなく揺れる。
 その様に、今まで感じたことのないほど、激しく感情を揺さぶられた。
 鼓動が速まり、身体の奥のほうで熱が広がる。唾を飲み込む音が、やけに大きく耳元で響く。
 そのとき、ドアの外から階段を上ってくる足音が聞こえた。はっとして、俺はとっさに拾った髪の毛をポケットに入れていた。直後にドアが開き、「おまたせー」と笑顔の紗子が顔を見せる。
 俺はなんだか、その顔を見られなかった。背中に汗がにじむのを感じながら、ズボンのポケットを上から押さえていた。

 紗子のことが、好きなのだと思っていた。
 彼女の強さも優しさもまっすぐなところも、ぜんぶ本当に眩しかったし、尊敬していた。友人から好きなタイプを訊かれたときも、いつだって真っ先に頭に浮かんでいたのは紗子だった。彼女の長くきれいな髪を思いながら、「髪の長い子」と答えていた。
 風になびく紗子の髪や、彼女が指先で髪を梳く仕草にドキドキするのも。紗子のことが好きなのだから、当たり前だと思っていた。みんなそうなのだと思っていた。他の人は髪ではなく手だったり唇だったり、他の部位なのかもしれないけれど。とにかくみんなそんなふうに、好きな人の身体のある一部に、特別に興奮するものなのだと。
 信じていた。なにも疑わなかった。
 その髪の毛〝自体〟に身体を熱くしている、自分に気づくまで。

「もし、さ」
 なんの流れだったか、サッカー部の部室で雑談をしていた中、ひとりが「女の子の髪は長いほうがダントツ好き」という意見を口にしたときに。できるだけ何気ない口調を装って、訊いてみたことがある。
「おまえの好きな子がさ、今、髪が長くて」
「え、うん」
「ある日突然、ばっさり髪切ってショートになってたらさ、どう思う?」
「へ? どうって」
 訊ねられた彼は、きょとんとした表情でまばたきをして、
「とくになんとも? どうせ顔がかわいいから、ショートも似合うんだろうし」
「それで好きじゃなくなったりしない?」
「は? なるわけねーじゃん」
 彼は本当に、ありえない、という調子で笑い飛ばした。なに言ってんだこいつ、と言いたげな目で俺を見ながら。
「そりゃ長いほうが好きは好きだけど、ぶっちゃけ髪なんてどっちでもいいよ。その子の好きなようにしてもらえれば。長かろうと短かろうと、それで気持ちが変わるとかないって。髪とかただの飾りみたいなもんじゃん」
 周りの友人たちも、みんな彼の意見に同意していた。そりゃそうだろ、と笑っていた。
 それが〝ふつう〟なのだと、すぐに悟った。だから俺もあわてて、「そうだよな」と合わせておいた。動揺を悟られないよう、必死に笑顔を作って。

 ――俺はきっと、〝ふつう〟じゃないのだろう。
 瓶に入れた髪の毛をたびたび引き出しの奥から引っ張りだして眺めるたび、そう突きつけられている気がした。
 だってふつうは、こんなことしない。こんな髪の毛一本に、執着したりしない。
 最初はそれが紗子の髪だから、こんなにも入れ込んでいるのだと思った。そう信じたかった。だけどしだいに、俺は自信が持てなくなってきた。
 だって俺は紗子に対して、手をつなぎたいだとかキスをしたいだとか、そんな欲求を抱いたことがなかった。思ったことがあるのはただ、彼女の髪が風になびく様をいつまでも眺めていたいだとか、彼女の髪に触れてみたいだとか、それだけ。本当にそれだけ、だった。ずっと。
 ――だから、もしも。
 紗子が、髪を切ったら。
 背中まである長い髪をばっさりと切り落とし、ショートヘアにしたら。
 俺は変わらず、紗子を好きでいられるのだろうか。
 きっと大丈夫だとは、思う。思える。だって俺は、紗子の髪を好きになったわけではない。彼女の優しさやひたむきさに、心底惹かれた。彼女の内面を、好きになった。それは間違いない、はずなのに。
 ふつうなら抱くはずのないそんな不安が、ほんの一瞬でも頭の片隅をよぎってしまうこと自体に、絶望的な気持ちになった。

「なあ、紗子はさ」
「んー?」
「髪、短くする予定とかある?」
 中学に入学して少し経ったころ。学校からの帰り道を、紗子とふたりで歩いていたとき。とてつもなくドキドキしながら、だけどできるだけ軽い口調になるよう努めて、紗子に訊ねてみたことがある。
「髪?」と不思議そうにこちらを向いた紗子に、
「うん。今度ショートにしようかな、とか」
 んー、と紗子は少しだけ考え込んだあとで、
「今のところないかなあ。長いの気に入ってるし」
「……そっか」
 あっけらかんと返ってきた答えに、俺は心の底からほっとして、その安堵は相槌にもついにじんでしまったらしい。「なあに、侑ちゃん」と紗子はいたずらっぽく目を細めて、
「侑ちゃんは、なにか私にしてほしい髪型でもあるのかな?」
「あ、い、いや、そういうわけじゃ」
「まあ、たとえそうだとしても、侑ちゃんの好みには合わせられないけどね。残念ながら」
 紗子は笑いながら、髪の毛先を指で梳く。細い髪がするりと、彼女の指のあいだをすべっていく。その動きを、俺が思わず目で追っていると、
「私は私のしたい髪型にしかしないから。今はロングの気分だから誰になに言われても切らないけど、ショートにしたくなったらするだろうし。自分の髪型も、私はぜったい、自分で決めたいもん」
 紗子の答えは、とても紗子らしかった。
 たしかに彼女はそうするのだろう。他人の評価なんて気にしない。自分がそうしたいと思ったように、生きていく。それが紗子だった。俺の好きになった、彼女だった。
 その性格も生き方も、ずっと本当に眩しくて、大好きで。それを痛烈に自覚すると同時に、だからこそやっぱり、もう無理なのだと思った。
 軽く空を仰いだ彼女は、眩しそうに目をすがめている。黄金色の光が、彼女の髪を撫でるように照らしている。
 こんなときでも俺は、その様から目を離せずにいた。呼吸も忘れそうになるほどきれいで、扇情的だと思った。彼女の長い髪、そのものが。
 そしてそんなことを思う自分が正しくないことも、同時に、どうしようもなく自覚していた。

 紗子のことが好きだった。人間として、本当に。心の底から好きだった。
 だからこそ俺は、彼女といっしょにいてはいけないと思った。
〝ふつう〟じゃない俺は、きっと〝ふつう〟の恋愛なんてできないから。俺の両親がうまくいかなかったように、どうせ不幸な結末にしかならないから。
 両親の仲がこじれたあとの家庭は地獄だった。けっきょく修復は不可能で、最悪な状態のまましばらくしてふたりは離婚した。父が家を出ていき、俺とふたりで暮らしはじめて、母は最近ようやく落ち着いてきたところだけれど、もう二度とあんな思いだけはしたくなかった。
 だったらもう、最初からやめておこう、と。
 これ以上、紗子を好きにならないように。傷が浅く済むように。〝ふつう〟じゃない俺は、これから紗子とは適度に距離を置こうと。中学に上がって少し経ったころに、そう決めたのだ。

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