花束の中で、死んでいく

 家を出ると、外はこれまでとなにも変わらない、底冷えするような寒さに満ちていた。
 街路樹の枝にはあいかわらず数枚の葉がしぶとく残り、冷たい風に揺られている。道の先は、朝もやに包まれて少しかすんで見えた。

 小学生のころは、ほぼ毎日、紗子といっしょにこの道を歩いていた。
 中学校に上がり、俺が紗子とふたりで会うのを避けるようになってからは、週に二回ほどのペースになった。
 そして、紗子が瀬名小春と出会ってからは、いっしょに歩くことはほとんどなくなった。
 聞けば、まるっきり方向の違う瀬名の家まで、毎朝紗子がわざわざ迎えにいっていたらしい。瀬名が毎日ちゃんと学校に通えるよう、ただそれだけのために。
 さすがに高校に上がるころにはそこまで世話を焼いてやる必要はなくなったようだが、いつの間にかすっかり習慣づいたふたりでの登下校は、高校でも変わらず続いていた。紗子が死ぬ、その前日まで。

 教室には、すでに半数ほどのクラスメイトが登校していた。三日前にひとりのクラスメイトが死んだことなんてもう忘れたように、以前と変わらぬ呑気な喧騒が響いている。
 それが耐えがたくて、俺は自分の席に鞄を置くと、またすぐに教室を出た。
 向かったのは、三つ隣にある一年四組の教室。入り口のところから中を覗けば、瀬名の姿はすぐに見つかった。窓際の席に、なにをするでもなく、ひとりぽつんと座っている。

「瀬名」
 窓の外へぼんやりとした視線を飛ばしていた彼女は、俺が近づいて声をかけると、驚いたようにこちらを振り向いた。え、と声をこぼす。
「羽島くん」
 丸い瞳が俺を見上げ、何度か瞬く。昨日散々泣いていた名残か、まぶたが少し腫れぼったい。
「なあ、今いい?」
「え」
「ちょっと来て」
「えっ? あ、あの」
 訊いておきながら瀬名の返事は待たず、俺はそれだけ告げて踵を返す。そのまま早足に歩きだせば、後ろであわてたように立ち上がる音が聞こえた。

 喧騒を避けるように廊下を進んだ俺は、突き当たりにある鉄の扉を開けた。
 途端、冷たい風が勢いよく顔に吹きつけてくる。足を進めると、金属床の高い足音が響いた。
「昨日さ、葬式のとき」
 扉の先は非常階段だった。重たい扉が閉まれば、あちこちの教室から響いていた明るい喧噪が遠ざかり、辺りはしんとする。
「紗子の両親が、ありがとうって」
 そこでようやく足を止めて後ろを振り向くと、瀬名は困惑した様子でこちらを見ていた。いつものように、俺とは少し距離を保った位置で。
 肩の上で、彼女の短い髪が風に揺れる。
「お世話になりましたとか、今までよくしてくれてありがとうとか。葬式に来てた人たちに、なんかそういうこと言ってて」
 久しぶりに真正面から眺めた瀬名は、思いのほか小さかった。
 元から華奢だった身体はこの数日でいっそう痩せてしまったように感じられて、強い北風に飛ばされそうなほど薄っぺらい。小さな顔は青白いと形容したほうが適切なほど、不健康に白い色をしていた。
「なんかさ、あの人たちのそういう様子見てたら、まるで紗子が」
 そこで俺は軽く言葉を切ると、一度唇を噛んだ。
 次の言葉を口に出す手前で、ぎしりと胸が軋む。
「自殺した、みたいな」
「……え」
「本気でそんな、ありえないことを信じてるように見えてきて。俺、すげえ気持ち悪くなってきて」
 しゃべり続ける俺の顔を、瀬名は戸惑ったように見ていた。俺がなんの話をしだしたのかわからない、というような顔つきで。
「そんなわけ、ないのにさ」
 かまわず俺は続ける。吹きつけた風の冷たさに、頬が鈍く痛む。
「なんでそんなん信じてんだろうって思わねえ? みんな、警察が調べたからって、なんで疑いもせずに受け入れてんだろうって。紗子が自殺したとか、そんなバカみたいな話」

 なあ、瀬名。
 俺は身体ごと彼女のほうを向き直ると、まっすぐに彼女の目を見た。身体の横でぐっと拳を握りしめる。
「紗子は」
 投げた言葉は、意図せず縋るような語尾になった。
「自殺なんて、してないよな」
 瀬名が目を見開く。その目をじっと見据えたまま、「なあ」と俺は重ねる。
「紗子が自殺なんてするわけないよな。瀬名も知ってるだろ。あいつほど自殺って言葉が結びつかないやつ、そうそういないよ。あんなに自分を持ってて自信があって、毎日好きなことやって、楽しそうに生きてたじゃん。絵だって、最高傑作が描けそうなんだって最近ますます本気になってたのに。そんなやつがなんで自殺なんてするんだよ。警察がなにを調べてなにを根拠に判断したのか知らないけど、ぜったい、どっかでなんかが間違ってんだよ」

 瀬名はなにも言わず、まくし立てる俺の顔を見つめていた。
 風が吹き、彼女の前髪が目元にかかる。その髪が黒ではなく少し茶色がかっていることに、俺はそこではじめて気づいた。
 思えば彼女とこれほど近い位置で向かい合ったことなんて、今までなかった。いつだって俺たちのあいだには、紗子がいたから。
 陽を透かしたそのやわらかな色に、つかの間目を奪われかけたとき、
「……羽島、くん」
 小さな声がして、俺はまた彼女の顔へ視線を戻した。
 瀬名もあいかわらず、まっすぐに俺の顔を見つめている。
「わたしは――」
 俺は瀬名から、同意の言葉が返ってくるのを期待していた。わたしもそう思う、と彼女が力を込めて頷いてくれることを待っていた。紗子ちゃんが自殺なんてするはずがないよね、と同志を見つけたような顔で。
 けれどその期待が裏切られることは、彼女が口を開いた瞬間にもう察した。
「……そうは、思わない」
 かすかに震える、けれど迷いのない声だった。
 え、と目を見開いた俺の顔から目を逸らすことなく、「わたしは」と瀬名は言葉を継ぐ。あいかわらず迷いのない、静かな声で。
「紗子ちゃんは自殺だったと、思ってる」

 瞬間。
 ひどくはっきりとした違和感が胸を貫いた。
 彼女の口調は、奇妙なほどに断定的だった。いつもおどおどしていた瀬名らしくないだとか、そういうことではなく。
 瀬名の言葉は、自分の意見を述べているように聞こえなかった。自分の〝知っている〟事実を、なにも知らない俺に告げるかのような。そんな言い方に、聞こえた。

 どくん、と心音が耳元で響く。背中を冷たさが走る。
 俺は黙って瀬名の顔を見つめ返した。
 俺がどんな顔をしていたのかはわからない。だけどきっと胸に湧いた疑念がそのまま、そこに表れていたのだろう。俺の顔を見た瀬名の表情が、ふっと強張るのがわかった。まるで自分の失言に気づいたかのような、その反応を見たときだった。

「……おまえ、なんか知ってんの」
 低い声が、気づけば喉からあふれていた。
 え、と瀬名が声をこぼす。その表情がたしかに引きつるのを見た瞬間、ふくらんだ疑念が確信に変わるのを感じた。
「知ってんだろ」
 彼女から言葉が返ってくるのを待たず、俺は重ねる。
 一度口を開いたら、言葉は堰を切ったようにあふれてきた。
「あの日紗子を最初に見つけたの、おまえだったんだよな。深夜の二時頃に紗子のアパートに行って、紗子にもらっていた合鍵で鍵を開けて紗子の部屋に入って、そこで浴槽にいる紗子を見つけた。そうだろ」

 璃子さんから聞いていた、あの日の状況。
 俺に教えてもらえたのはそれだけだった。それ以外のことはなにも知らなかった。
 なぜ瀬名が深夜の二時に紗子のアパートを訪ねたのかも。
 なぜ紗子が単なる友人である瀬名に部屋の合鍵を渡していたのかも。
 ――なぜ紗子が、死んだのかも。

「なあ、なんであんな夜中に紗子の部屋に行った? しかも電車がもうなかったから、自転車で一時間ぐらいかけて行ったんだろ、おまえ。二駅も先の紗子のアパートまで。深夜の二時に」
 説明を受けたときにも、かすかに頭をよぎった疑問だった。あのときは深く考えている余裕も璃子さんに訊き返すような気力もなくて、のみ込んだまま置いてきてしまったけれど。
 瀬名と向かい合った途端、それがまた濁流のように押し寄せてきて、
「連絡がとれなくて心配になったからって、ふつう二時に家まで行こうと思うか? 昼間ならわかるけど深夜なんだし、寝てるだけだって考えるもんじゃねえの? それで鍵が閉まってたら合鍵を使ってまで中に入って。友だちの家に、そうまでして入るか?」
 訊ねながら、俺は瀬名の答えなんて待たなかった。「ああ、でも」ただ自分の疑念を確かめるように、思いつくまま言葉を吐き出していく。
「そうまでしたから、瀬名はあの日紗子を見つけられたんだよな。第一発見者に、なれたんだよな」
 そうだ。瀬名が朝まで待つことなく、深夜に紗子のアパートへ向かったから。合鍵を使ってまで中に入ったから。紗子の家族やアパートの管理人ではなく、瀬名が紗子を見つけた。瀬名ひとりが。
 第一発見者に、なれた。
「瀬名はそれに、なりたかったんじゃねえの」
 自分の口にした言葉が、すとんと胸に落ちる。しっくりとそこに収まる。ああそうだ、と思う。だから。
「だからあの日、瀬名は紗子の部屋に行ったんじゃねえの。第一発見者にならなきゃ困るような理由があったから。だからわざわざ――」

「なんで」
 それまで黙って俺の言葉を聞いていた瀬名がふいに口を開いたのは、そのときだった。
 絞り出すような小さな声だった。はずなのに、鼓膜に突き刺さるような強さで、その声は俺に届いた。
「なんで羽島くんが、そんなこと言うの」
「……は」
 思わず言葉を切った俺のほうを、瀬名は睨むような目で見据えて、
「今さら、紗子ちゃんの友だちみたいな顔しないでよ」

 一瞬、俺はなにを言われたのかわからなかった。
 瀬名はぎゅっと眉根を寄せ、そんな俺を憎々しげに睨む。
 その目には、はっきりとした怒りと、蔑みの色があった。
「ずっと避けてたくせに。紗子ちゃんのこと」
 俺がなにか言うより先に、瀬名が重ねる。額を押さえるように上がった彼女の右手が、ぐしゃりと自分の前髪を握りしめた。
「知ってるよ。中学に上がったころから、羽島くんが一方的に紗子ちゃんと距離を置くようになったんでしょ。昔はすごく仲良かったけど、今はそうでもないって紗子ちゃん言ってたよ。紗子ちゃん寂しがってた。なのに今さら、紗子ちゃんのいちばんの友だちみたいな、正義ヅラして出てこないで。羽島くんなんか、紗子ちゃんのこと好きでもなんでもなかったくせに」

 つかの間、俺は呆けたように瀬名の顔を見つめた。
「……は?」
 一拍遅れて、掠れた声が漏れる。
 正義ヅラ。投げつけられた瀬名の言葉が、頭蓋の裏で反響する。
 避けてたくせに。
 好きでもなんでもなかったくせに。
「違う」
 口を開くと、なぜか呼吸が荒くなっていることに、そこで気づいた。
 息苦しい喉から、それでも声を押し出す。だって、違う。なにを言っているのだろう。心の底から思った。意味がわからない。
 だって、俺は。

「俺は紗子が、好きだった」
 小学三年生のときに出会ってから、ずっと。
 紗子は、俺の初恋だった。
 俺が人生でいちばんどん底にいたとき、紗子が救ってくれた。彼女の強さや優しさが眩しかった。心の底から大好きで、尊敬していて、大事なひとだった。
 それだけはなんの迷いもなく断言できる事実で、その気持ちを瀬名に否定される筋合いなんてない。はずなのに。

「違う」
 撥ねつける瀬名の声が、身体の底に沈む。
「羽島くんが好きだったのは、紗子ちゃんじゃない」
 その重みに息が詰まって、声が出せない。
「羽島くんが好きだったのは」
 挑むような視線を俺の顔に留めたまま、瀬名が言葉を継ぐ。
 その唇がゆっくりと動くのを、俺はただ、眺めていた。
「――紗子ちゃんの、髪の毛でしょ」