花束の中で、死んでいく

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 死にたいと思ったことがあった。一度だけ。
 小学三年生のころだったし、本気で死のうと思い詰めていたわけではなくて、ただなんとなく、もう消えてしまえたらいいのに、なんて考えがふとよぎったぐらいのものだったけれど。
 それでも思い出せる限り、その日が、俺の記憶にある人生最悪の日だった。深い深い真っ暗な穴の底に落ちてしまったみたいで、なんだかもう二度と這い上がれないような気がしていた。

「あれっ、侑ちゃんだ。なにしてるのー?」
 だから、あの日。
 ふいに聞こえてきた紗子の声は、まるで救世主みたいだった。
 日の落ちかけた薄暗い公園で。家に帰りたくなくて、だからといってどこにも行ける場所なんてなくて。途方に暮れながら、ひとりブランコに揺られていたときに。
 笑顔で俺の前に現れた紗子の姿を、俺は今でも覚えている。
 見慣れたその笑顔が、途方もなく温かくて眩しくて。張り詰めていた気持ちがふっとゆるんだ瞬間、堰を切ったように涙があふれて止まらなくなってしまったのも。

「わっ、どうしたの!? どっか痛いの? 転んだの?」
 突然泣きだした俺にあわてたように、紗子はおろおろと俺の背中を撫でてくれた。たぶん慰めようとしてくれたのだろうけれど、俺のほうはその手の温かさによけいに涙があふれてきて、
「ちが、う」
「じゃあなんか悲しいこと? あっ、誰かに意地悪された?」
「ちがく、て……ただ」
 クラスメイトの前で泣くなんてはじめてだったけれど、恥ずかしいと思う余裕もなかった。初手で号泣してしまった時点で、そのあたりの感情はもう吹っ飛んでしまっていたのかもしれない。今さらごまかしたり取り繕う気にもならなくて、俺はただ小さな子どもみたいにしゃくりあげながら、
「家に、帰りたく、ないだけ」
「え、なんで」
「お母さんと、お父さんが、喧嘩してる、から」
「喧嘩?」

 いちばん仲の良い友だちにも決して話さなかったことを、そのとき、なぜだか紗子にはつらつらと話していた。
 いつからか父の帰りが遅くなるとともに、母の父への態度がきつくなり両親の喧嘩が増えたこと。家の中の空気がピリピリしだすと、よけいに父は家に寄りつかなくなったこと。
 最初のころは、夜遅くとか、俺が寝たあとにだけ言い争っていたふたりも、ここ最近はそんな気遣いをする余裕もないのか、俺の前だろうと平気で言い合うようになった。家族で外出なんて、もうここ三ヵ月ほどは一度もなかった。
 しだいに母は塞ぎこんだりイライラしたりしていることが多くなって、俺にもよく当たるようになった。話しかけたら「うるさい」と怒鳴られたり、リビングでテレビを観ていたら聞えよがしに舌打ちをされたり。家の中の空気は常に険悪で、いるだけで息が詰まった。
 そしてさっき、俺が昨日渡し忘れていた授業参観のお知らせを、今日になって母に渡したものだから。「なんですぐ渡さないの」と烈火のごとく怒りだした母に鞄を投げつけられ、それが腕にぶつかった途端、なんだかぷつんと糸が切れるみたいに限界がきた。もう一秒でもこの家にいたくなくて、気づけば逃げるように外へ飛び出していた。

「だからって、どこも行くところはないんだけど。ただ帰りたくない。どうしても。なんか、どっか遠くに行きたい」
「どっかって?」
「わかんない。もういっそ、死んじゃってもいいかも。そしたら帰らなくていいし、一生」
 どうせ、どこにも行けないんだし。
 どうしようもなく絶望的な気分になって、俺がそう投げやりに呟いたときだった。
 俺の横に立って背中を撫でていた紗子が、ふと正面に回り込んできた。そうしてその場にしゃがみ、うつむいていた俺と目線を合わせると、
「だめだよ!」
「へ」
「死ぬなんて、ぜったいだめ!」
 あまりに真剣に返されて、一瞬息が止まった。
 そう言った紗子の顔も声も、どこまでもまっすぐで迷いがなくて。
 とっさに反応できず固まってしまった俺の手を、紗子はおもむろにぎゅっと握りながら、
「嫌なことあってもさ、ぜったい、そればっかりじゃないから」
「え」
「探そうよ。なんか楽しいこと。私といっしょに探そ? それで私といっしょに、楽しく生きようよ。ね?」

 俺は呼吸も忘れて、目の前にある紗子の顔を見つめていた。
 その笑顔は本当に、あのときの俺には救世主みたいに見えた。
 いや、みたいじゃなくて、救世主だったのだ。まぎれもなく。
 今にも音を立てて崩れそうだった世界が、その笑顔だけで色を変えた。どん底まで沈みきっていた心が、ふわっと浮き上がってくるのを感じた。

 彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろうと思えた。不思議なほど無頓着に、そのとき、そう信じられた。
「私といっしょに生きたら、ぜったい楽しいよ!」
 満面の笑みとともに向けられた、その台詞の説得力がものすごくて。俺の手を握る彼女の手のひらが、途方もなく温かくて。気づけば、俺は息を漏らすように笑っていた。

 彼女といっしょに生きていきたいと、そのとき、心の底から思った。
 生きていこうと思った。
 生きていけると、思っていた。
 真っ暗闇に差したひと筋の光みたいな彼女の笑顔を見つめながら、そのときはなんの疑いもなく、そんなことを信じていた。

***