花束の中で、死んでいく

「羽島、おまえ寒くないの?」
 葬儀が終わり、佐橋とふたりで外に出たところで、佐橋がふと眉を寄せて訊いてきた。
 見れば、佐橋はいつの間にか暖かそうなマウンテンパーカーに紺色のマフラーを巻いている。
「平気」
 俺のほうはなんの防寒具も持っていなかったので、短く返して両手を制服のポケットに突っ込む。
 外は快晴だった。日差しが燦々と降り注いで、アスファルトに反射している。しかし頬を撫でる風はまだ完全に冬のもので、突き刺さるように冷たかった。

「佐橋さ」
「なに」
「なんで泣いてたん、さっき」
 肩をすぼめて歩きだした俺を気の毒に思ったのか、佐橋は手袋を貸してくれた。それを両手にはめながら俺が訊ねると、「へ?」とすっとんきょうな声が返ってくる。
「さっき?」
「葬式で。泣いてただろ、おまえ。べつに紗子とは仲良くもなかったのに」
 式のあいだ中、隣でぐすぐすと洟をすする音を聞きながら、なんで泣いてんだろうと頭の隅で思っていた。
 中学からの付き合いである佐橋は、紗子とも同じ中学だったし、三人で同じクラスになったこともある。だけど紗子と佐橋のあいだにこれといった関わりはなかったはずだし、高校に上がってからも接点なんてなかったはずなのに。

「なんかさあ、思い出したんだよ」
 俺の棘のある訊き方にも、佐橋はしんみりした様子で目を細めると、
「中二のときだったかな。家庭科で調理実習があって、俺、花井と同じ班だったんだよな。で、たしか親子丼?かなんか作ったんだけど、俺が味つけ失敗してさ。すげえ味薄くなっちゃって。そんでみんな、食べながらまずいまずいっつってたんだけど」
 花井がさあ、と佐橋は噛みしめるような声で続ける。
「私はこの味好き、おいしいよ、って……花井だけがそう言ってくれて、しかも花井だけがぜんぶ食べてくれて。なんかさ、急にそれ思い出して。そしたらもう、ぶわーっときちゃったというか」
 中二の、調理実習。軽く記憶を探ってみたけれど、俺には見つけられなかった。たぶん、俺は紗子たちとは違う班だったのだろう。
「……それさ、たぶん」
 だけど佐橋にそう声をかける紗子の姿なら、妙にはっきりと想像できた。まるで、目の前で見ていたみたいな鮮やかさで。
「紗子は本気で、佐橋が味つけしたその味が好きだったんだと思う」
「え」
「佐橋がみんなに責められてたから、かわいそうに思ったとかじゃなくて」
 紗子は昔から、そういうやつだった。
 そこで周りに同調して『まずい』なんて、紗子ならぜったいに言わない。たとえ自分ひとりが違う意見だったとしても、臆せずそれを口にする。それでもし周りに責められたとしても、ぜったいに曲げたりしない。
 だからあのとき、瀬名の味方になることにだって迷わなかったのだろう。

「……そっか」
「うん」
 ふっと空を仰いだ佐橋が、眩しそうに目をすがめる。
「いいやつだったよな、花井って」
「うん」
 なのに。空を見上げながら続けた佐橋の声は、少しこもっていた。
「なんで、自殺なんてしたんだろうな」
 佐橋のその言葉に、俺は足を止めた。冷たい風が吹きつけ、剥きだしの耳がじんと痺れる。一台のトラックが、横の道路を走り抜けていった。
 佐橋も数歩進んだところで立ち止まると、こちらを見た。

「羽島?」
「――違う」
「え」
「自殺じゃない」
 佐橋の目に困惑が浮かぶのを見て、俺は彼の顔から視線を逸らした。前方に伸びる街路樹を眺める。
「だって、紗子は」
 枝にわずかに残る木の葉が、風に揺れていた。この道を、紗子とふたりで歩いたときのことを思い出した。
「いっしょに生きようって、俺に言ったんだよ」
 小学生のころ。腕の痣が痛くて、家に帰りたくなくて。泣いていた俺の手を紗子が引いて歩いてくれた、そのときに。
 紗子が、俺に言った。
「自分の人生なんだから、自分の好きなことだけやって、好きに生きたらいいんだって」
 まっすぐに俺の目を見て、ぎゅっと俺の手を握って。
 底抜けに、明るい笑顔で。
「そう言ってたし、実際、ずっと紗子はそんなふうに生きてた。ずっと自分の大好きな絵に全力で打ち込んで、周りの評価なんて気にせずに好きな絵だけ描いて、ただ毎日楽しそうで」
「羽島」
「あの日も、紗子は今から絵を描きにいくんだって言ってた。最高傑作がもうすぐ完成しそうなんだ、ってうれしそうに。そんなやつが自殺なんてするかよ。紗子は自殺じゃない。紗子は」
 きっと今、佐橋になにを言っても伝わらない。紗子のことを知らない佐橋に、どれだけ言葉を尽くしたところで。
 わかっているのに、胸の奥から突き上げる言葉は止まらなかった。
「紗子は自殺じゃなくて、殺されたんだ。誰かに」
「誰かって、誰にだよ」
 鋭く返ってきた佐橋の声には、少しあきれたような怒りが交じっていた。
「花井の部屋には鍵がかかってたんだろ。その中で花井は死んでた。そういう状況を警察がちゃんと調べて、それで自殺だって判断されたわけで」
「紗子の部屋の合鍵持ってたやつなんて何人もいる。璃子さんとか紗子の家族は持ってただろうし、ああそうだ、瀬名だってたしか持ってたはず。最初に紗子を見つけたの、合鍵で部屋に入った瀬名だったらしいし――」
「羽島」
 気がつけば、目の前に佐橋の顔があった。前へ進めようとした足が、その場に引き留められる。
 佐橋の手が、俺の肩をつかんでいた。だけど俺には、その重さがよくわからなかった。
「おまえ、自分がなに言ってるかわかってんの」
 佐橋は激昂した目で、まっすぐに俺を睨んだ。そこからは、今日一日彼が俺に向けていた、弱った動物でも眺めるような哀れみの色は抜け落ちていた。ぎゅっと眉根を寄せた、なにか理解できない生き物を見るような目で、
「いくらおまえがつらいからって、言っちゃだめなことぐらいわかれよ。おまえ、自分だけが悲しんでるとか思ってる? 花井と親しかったのも、花井のことが好きだったのも、べつにおまえだけじゃない。瀬名なんて、葬式であんな泣きじゃくってたじゃん。花井の家族も瀬名も、今同じように苦しんでんのに」

 ――伝わらない。
 そのとき、あらためてはっきりと突きつけられた気がして、つかの間、目の前が暗くなる。
 伝わらない。なにも。
 だってこいつはなにも知らない。中二の調理実習でちょっとしゃべったぐらいのことが、紗子との唯一の思い出のくせに。
 そうだ、警察だって。死んでいる紗子をいくら調べたところで、見つけられたわけがない。あの日の紗子の笑顔も声も、今さら、見つけようがないのだから。あの日の紗子は、俺しか知らないのだから。
 絶望感といっしょに込み上げた強烈な疲労感に、目眩がする。
 ただ黙って視線を下へ逸らせば、佐橋もそれ以上はなにも言わなかった。肩から彼の手が離れる。

 冷たい風が、落ち葉を巻き上げながら足下を通りすぎていった。
 俺は何気なく後ろを振り返ってみた。空を見上げる。
 火葬場がどこにあるのか、何時から紗子は焼かれるのか、俺はなにも知らなかった。それでも視線は、ほとんど無意識のうちに空を彷徨っていた。

 そこには、抜けるような青色があるだけだった。彼女を焼いたであろう煙を見つけることなど、当然、できるはずもなかった。