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「外、行かないの?」
紗子との出会いは、小学三年生の春だった。
昼休みに入るなりクラスメイトたちが中庭や運動場へ駆け出していって、瞬く間にがらんとなった教室で。
俺がひとり席に座ったままでいたら、ふいに紗子が近づいてきて、そう話しかけてきた。
「行かない」
はじめてのことにちょっと驚きながら、俺は素っ気なく返す。
去年まで違うクラスだった彼女としゃべったのは、それがはじめてだった。
俺の愛想のなさに、「ふーん」とか言ってさっさと離れていくかと思った彼女は、
「圭くんも博人くんも行ったよ?」
思いがけず、さらにそんな質問を続けた。
「……知ってる」
彼女が挙げたのは、俺と仲の良いクラスメイトの名前だった。いつもいっしょに遊んでいる彼らが行ったのに行かなくていいのか、ということだったのだろう。
「ふたりといっしょに遊ばないの?」
「今日は遊ばない」
「なんで? 喧嘩したの?」
「してない。ただなんか、気分じゃないだけ」
なんで、と訊かれればそうとしか答えようがなかった。
今は彼らと遊びたくなかった。そういう気分だった。
昨日家族みんなで焼肉を食べにいったとか、今度の日曜日にお父さんと野球観戦に行くことになったとか。
朝、ふたりが楽しそうに話しているのを聞いてから、どうにも気持ちがささくれてしまって。今はどうしても、彼らの顔を見たくなかった。
「なんで? なんかあったの?」
「……べつに、なんも」
なんかあった、わけではない。だって彼らはなにも悪いことなんてしていない。ただ俺が勝手に、ひとりでふて腐れているだけ。
だから心配そうに訊ねられてもなんとも答えようがなくて、俺が口ごもっていると、
「ねね、じゃあさ」
ふと思いついたように、彼女は自分の席のほうへ歩いていった。そして机の引き出しから一冊のノートを取り出すと、それを手にまた戻ってきた。
「私といっしょに絵描こ?」
机に置かれた彼女のノートの表紙には、『自由帳』の文字があった。
「絵?」
思いがけない提案に、俺は思わずぎょっとして、
「いやだ。描かないよ」
お絵描きなんて遊びはもうとっくに卒業していた。最後にしたのなんて、たぶん幼稚園のころだ。そもそも絵は下手だし、絵を描いている姿なんてクラスの男子に見られたら間違いなくからかわれるのがわかって、いそいで首を横に振る俺に、
「そっかあ。じゃあさ」
紗子はあまり気にした様子もなく呟くと、空いていた前の席にこちらを向いて座った。そしてにこりと笑うと、
「私が描くから、そこで見ててよ」
「え?」
「あ、ていうかモデルになって。座ってるだけでいいから」
「へ、モデル?」
戸惑う俺にかまわず、紗子はさっさとノートを捲り、ページを開く。そうして鉛筆を持つと、視線を上げて俺の顔をまっすぐに見た。
瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。
彼女の肩を撫でるようにすべり落ちていった長い髪が、はっとするほどきれいで。
はじめて近くで見た紗子の顔が思いのほかかわいいことにもそこで気づいたけれど、そのときの俺は、なぜか彼女の髪の毛のほうに釘付けになっていた。
――思えばそのときから、俺はおかしかったのかもしれない。
急に緊張が襲ってきて、俺はあわてて視線を落とす。
耳が熱い。膝の上で握りしめた手のひらには、うっすらと汗がにじんでいた。
けっきょくそれから三十分ほど、俺はじっと椅子に座ったまま、彼女の絵のモデルになっていた。
「――できた!」
紗子がそう言って手を止めたのは、昼休みの終わる十分前になった頃だった。
女子に見つめられているという状況に緊張して、俺はひたすら自分の膝を睨んでいたのだけれど、
「見て見て、できた。どうかな?」
彼女に訊ねられ、おずおずと目線を上げた俺は、そこで目を見開いた。えっ、と声があふれる。
「うっま!」
そこに描かれていたのは、間違いなく俺だった。
きっとなにも知らない状態でこの絵を見たとしても、それはわかったと思う。それぐらい、その絵はしっかりと特徴を捉えていた。少し癖のある外ハネ気味の髪だとか、切れ長の目だとか。
「え、めっちゃうま! すげえ!」
正直、予想の数十倍うまかった。
俺は思わず手を伸ばし、彼女の手にあるノートをつかんでいた。顔の前に引き寄せ、まじまじと眺める。すげえすげえと、興奮気味に繰り返しながら。
「なにこれ、ガチでうまい。天才じゃん、すごすぎ」
「そんなに?」
「マジでうまいもん。マジですげえ」
語彙力がなくて同じ褒め言葉を繰り返すことしかできなかったけれど、紗子は「よかった」とうれしそうに笑ってくれた。「よかったらその絵、あげるよ」とも言ってくれた。照れたように、頬をかすかに赤く染めて。
そしてその日から、紗子はちょくちょく俺に話しかけてくるようになった。
「昨日はこんなの描いた」と絵を見せてきたり、俺がひとりでいたら、また「絵のモデルになって」と頼んできたり。
正直、モデルになるのはくすぐったいし緊張するしでたいへん疲れるのだけれど、紗子からそう頼まれること自体はうれしくて、ときどき友だちからのサッカーの誘いを断り、ひとり教室で彼女からの声かけを待ったりもした。そういう俺を見つけると、紗子はいつもスルーすることなく、うれしそうに近づいてきてくれた。
そのうち他愛のない会話も交わすようになって、ひょんなことからお互いの家が近いことがわかったあとは、ますます距離が縮まった。
自惚れでなく、いちばんの友だち、だったと思う。
男女の壁だとか、そんなのはみじんも気にならなかった。ただいっしょにいると楽しくて、休み時間も放課後も、飽きることなくいっしょにいた。二学期になっても、学年が上がっても、それは変わらなかった。俺の短い人生の中で、いちばんどん底にいたあのときも、彼女は傍にいてくれた。
ずっと、そうしていられると思っていた。
中学に上がって、俺が紗子に近づけなくなるまでは。
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