瀬名小春の泣き声が聞こえた。
泣き声ならあちこちから聞こえてくるし、すぐ隣では同じクラスの佐橋も泣いているのに、その声だけが不思議なほど、くっきりと耳に響いた。
「……うるさ」
ひどく耳障りだった。耳を塞ぎたくなったけれどさすがにそんなことはできなくて、無意識のうちに上げていた手は、曖昧に髪を撫でつけてからまた下ろす。
振り払うように顔を上げた。前に並んでいた参列者が、白い花を手に棺のもとへ歩いていく。順に花を捧げ、そこで眠る彼女へ最後の別れを告げる。涙に濡れた、いかにも沈痛な面持ちで。
どこか演技じみたそんな姿を眺めているあいだも、瀬名の泣き声は聞こえていた。まるで俺の耳元で泣いているみたいだった。他のどんな音も押しのけ、その声だけがべたりと耳の奥に貼りつく。
思わず手が動いた。貼りついたその声を剥がそうとするように伸びた俺の手は、しかし耳に届く直前に誰かにつかまれる。
横を向くと、佐橋と目が合った。
「行くぞ、羽島」
怪訝そうに俺を見つめた佐橋が、俺の手を引きながら短く告げる。
いつの間にか、俺たちの前には誰もいなくなっていた。
棺の中、白い花に囲まれて眠る紗子は、息が止まるほどきれいだった。
ほどこされた薄い化粧と暖かな色合いの照明のおかげか、頬や唇には自然な赤みがさしている。脱脂綿を噛まされた口元はゆるく弧を描き、穏やかな笑みの形を作っていた。
周りを囲む真っ白な花とあわせて、それは、寸分の狂いもなく作られた美しさだった。
「よかった、きれいな顔で」
近くで、誰かが小さく呟くのが聞こえた。
俺は黙って、手にしていた花を彼女の顔の横にそっと置く。
目の前で眠っているのが紗子なのだと思うと、なんだか混乱しそうになった。
小学生のころからずっといっしょに過ごしてきた、俺の幼なじみ。明るくて優しくて、いつだって笑っていた彼女が、今は棺の中で作り物みたいに眠っている。
――そしてあと数時間後には、その身体も焼かれて灰になる。彼女の背中まであった長い髪も、ぜんぶ。
考えていると息が詰まって、視線を逃がすように顔を上げる。するといきなり紗子の満面の笑みが目の前に現れて、一瞬わけがわからなくなった。吸い込み損ねた息が、喉で音を立てる。
その紗子も、真っ白な花に囲まれていた。四角い縁の中、なんの憂いも見えない、明るい笑顔を浮かべていた。
それは、俺のよく知る紗子だった。最後に会ったときも、彼女はこんなふうに笑っていた。
一昨日の放課後、いつものように美術室へ絵を描きにいくという紗子と、教室で別れたとき。「じゃあね、侑ちゃん」と片手を上げて、彼女は笑っていた。なにも変わらなかった。いつもと同じ、彼女の笑顔と仕草だった。
――その日の夜に、紗子は死んだ、らしい。
彼女がひとり暮らしをしていたアパートの自室の、浴室で。真っ赤に染まった水の中に、浮いていたのだとか。
わけがわからない。
けっきょく俺は紗子になんの別れの言葉も言えないまま、棺から離れた。
「侑くん、ありがとうね」
ふいに声をかけられて横を見ると、璃子さんが立っていた。紗子の姉である彼女は、赤い目をして、それでも気丈に笑顔を作っていた。
「ありがとうございます」
棺の傍には紗子の両親も立っていた。参列者が通るたび、神妙な面持ちで頭を下げて礼を言っている。握ったハンカチで、時折目元を拭いながら。
そんな姿を、遠目に眺めていたときだった。
ふいに、得も言われぬ焦りのようなものが背中を走った。
彼らが、もっと取り乱して泣きはらしてくれたらいいと思った。彼らはそうしてもいいはずだった。もっと、ぶつけようのない怒りを表に出してもいいはずだった。
だけど紗子の両親は、ずっと力なく微笑むばかりだった。順番にお悔みの言葉を述べる参列者に対し、生前は本当にお世話になって、と丁寧に感謝の言葉を繰り返していた。紗子の死を真正面から受け止め、そして静かに受け入れることができた、という顔をしていた。少なくとも俺には、そう見えた。
俺はそれが、どうしようもなく嫌だった。
これは、そんなふうに受け入れるべき死ではないはずだから。
腹の底に響くような釘打ちの音と重なり、また、瀬名の泣き声が聞こえた。
横を見ると、少し離れた位置に彼女の姿を見つけた。
顔を伏せ、ハンカチで口元を覆っている。肩もハンカチを握る手も絶えず大きく震えていて、隣の母親らしき女性に支えられ、なんとか立っているという様子だった。
葬式が始まる前にちらりと捉えた彼女も、あんな様子だった。約一時間、ずっとああして泣きっぱなしだったのだろうか。これ以上泣いたら身体中の水分が枯れきってしまうのではないか、なんてバカげた考えすら浮かんだけれど、瀬名はまだ当分泣きやむ気配はなかった。
釘打ちが終わると、紗子の父親が参列者に礼を述べた。
途中涙声になりながらも、彼は最後まで落ち着きを失うことはなかった。紗子の遺影を手に、しっかりとした目をして、気丈に挨拶をした。
出棺のときが迫っていた。
火葬場まで着いていくのは親族だけで、俺を含めた参列者のほとんどはここで出棺を見送ることになっていたから、ここが俺と紗子の最後の別れの場だった。頭ではちゃんと理解しているのに、感情がまったく追いついてこなかった。
あいかわらず、瀬名の泣き声だけがいやに耳につく。なにもかもが薄皮一枚向こうにあるような意識の中で、俺が鮮明に感じ取ることができるのは、それだけだった。俺の大嫌いな、その声だけだった。
けっきょく、俺は別れを告げるどころか泣くことすらできないまま、出棺のときを迎えた。
親族の人々が棺桶を担ぎ、霊柩車へ運ぶ。そうして棺がゆっくりと霊柩車に搬入されていくのを、俺はただ見つめていた。唯一クリアに聞き取れる瀬名の泣き声を聞きながら、視界から消えるまで、ひたすらにその棺を見つめていた。
それは俺の、世界でいちばん好きだった人を入れた、棺だった。
泣き声ならあちこちから聞こえてくるし、すぐ隣では同じクラスの佐橋も泣いているのに、その声だけが不思議なほど、くっきりと耳に響いた。
「……うるさ」
ひどく耳障りだった。耳を塞ぎたくなったけれどさすがにそんなことはできなくて、無意識のうちに上げていた手は、曖昧に髪を撫でつけてからまた下ろす。
振り払うように顔を上げた。前に並んでいた参列者が、白い花を手に棺のもとへ歩いていく。順に花を捧げ、そこで眠る彼女へ最後の別れを告げる。涙に濡れた、いかにも沈痛な面持ちで。
どこか演技じみたそんな姿を眺めているあいだも、瀬名の泣き声は聞こえていた。まるで俺の耳元で泣いているみたいだった。他のどんな音も押しのけ、その声だけがべたりと耳の奥に貼りつく。
思わず手が動いた。貼りついたその声を剥がそうとするように伸びた俺の手は、しかし耳に届く直前に誰かにつかまれる。
横を向くと、佐橋と目が合った。
「行くぞ、羽島」
怪訝そうに俺を見つめた佐橋が、俺の手を引きながら短く告げる。
いつの間にか、俺たちの前には誰もいなくなっていた。
棺の中、白い花に囲まれて眠る紗子は、息が止まるほどきれいだった。
ほどこされた薄い化粧と暖かな色合いの照明のおかげか、頬や唇には自然な赤みがさしている。脱脂綿を噛まされた口元はゆるく弧を描き、穏やかな笑みの形を作っていた。
周りを囲む真っ白な花とあわせて、それは、寸分の狂いもなく作られた美しさだった。
「よかった、きれいな顔で」
近くで、誰かが小さく呟くのが聞こえた。
俺は黙って、手にしていた花を彼女の顔の横にそっと置く。
目の前で眠っているのが紗子なのだと思うと、なんだか混乱しそうになった。
小学生のころからずっといっしょに過ごしてきた、俺の幼なじみ。明るくて優しくて、いつだって笑っていた彼女が、今は棺の中で作り物みたいに眠っている。
――そしてあと数時間後には、その身体も焼かれて灰になる。彼女の背中まであった長い髪も、ぜんぶ。
考えていると息が詰まって、視線を逃がすように顔を上げる。するといきなり紗子の満面の笑みが目の前に現れて、一瞬わけがわからなくなった。吸い込み損ねた息が、喉で音を立てる。
その紗子も、真っ白な花に囲まれていた。四角い縁の中、なんの憂いも見えない、明るい笑顔を浮かべていた。
それは、俺のよく知る紗子だった。最後に会ったときも、彼女はこんなふうに笑っていた。
一昨日の放課後、いつものように美術室へ絵を描きにいくという紗子と、教室で別れたとき。「じゃあね、侑ちゃん」と片手を上げて、彼女は笑っていた。なにも変わらなかった。いつもと同じ、彼女の笑顔と仕草だった。
――その日の夜に、紗子は死んだ、らしい。
彼女がひとり暮らしをしていたアパートの自室の、浴室で。真っ赤に染まった水の中に、浮いていたのだとか。
わけがわからない。
けっきょく俺は紗子になんの別れの言葉も言えないまま、棺から離れた。
「侑くん、ありがとうね」
ふいに声をかけられて横を見ると、璃子さんが立っていた。紗子の姉である彼女は、赤い目をして、それでも気丈に笑顔を作っていた。
「ありがとうございます」
棺の傍には紗子の両親も立っていた。参列者が通るたび、神妙な面持ちで頭を下げて礼を言っている。握ったハンカチで、時折目元を拭いながら。
そんな姿を、遠目に眺めていたときだった。
ふいに、得も言われぬ焦りのようなものが背中を走った。
彼らが、もっと取り乱して泣きはらしてくれたらいいと思った。彼らはそうしてもいいはずだった。もっと、ぶつけようのない怒りを表に出してもいいはずだった。
だけど紗子の両親は、ずっと力なく微笑むばかりだった。順番にお悔みの言葉を述べる参列者に対し、生前は本当にお世話になって、と丁寧に感謝の言葉を繰り返していた。紗子の死を真正面から受け止め、そして静かに受け入れることができた、という顔をしていた。少なくとも俺には、そう見えた。
俺はそれが、どうしようもなく嫌だった。
これは、そんなふうに受け入れるべき死ではないはずだから。
腹の底に響くような釘打ちの音と重なり、また、瀬名の泣き声が聞こえた。
横を見ると、少し離れた位置に彼女の姿を見つけた。
顔を伏せ、ハンカチで口元を覆っている。肩もハンカチを握る手も絶えず大きく震えていて、隣の母親らしき女性に支えられ、なんとか立っているという様子だった。
葬式が始まる前にちらりと捉えた彼女も、あんな様子だった。約一時間、ずっとああして泣きっぱなしだったのだろうか。これ以上泣いたら身体中の水分が枯れきってしまうのではないか、なんてバカげた考えすら浮かんだけれど、瀬名はまだ当分泣きやむ気配はなかった。
釘打ちが終わると、紗子の父親が参列者に礼を述べた。
途中涙声になりながらも、彼は最後まで落ち着きを失うことはなかった。紗子の遺影を手に、しっかりとした目をして、気丈に挨拶をした。
出棺のときが迫っていた。
火葬場まで着いていくのは親族だけで、俺を含めた参列者のほとんどはここで出棺を見送ることになっていたから、ここが俺と紗子の最後の別れの場だった。頭ではちゃんと理解しているのに、感情がまったく追いついてこなかった。
あいかわらず、瀬名の泣き声だけがいやに耳につく。なにもかもが薄皮一枚向こうにあるような意識の中で、俺が鮮明に感じ取ることができるのは、それだけだった。俺の大嫌いな、その声だけだった。
けっきょく、俺は別れを告げるどころか泣くことすらできないまま、出棺のときを迎えた。
親族の人々が棺桶を担ぎ、霊柩車へ運ぶ。そうして棺がゆっくりと霊柩車に搬入されていくのを、俺はただ見つめていた。唯一クリアに聞き取れる瀬名の泣き声を聞きながら、視界から消えるまで、ひたすらにその棺を見つめていた。
それは俺の、世界でいちばん好きだった人を入れた、棺だった。



