***
紗子ちゃんは、わたしの神様だった。
紗子ちゃんに出会ったあの日のことは、きっと一生忘れられない。
中学一年生の春だった。
目が合った瞬間、世界から音が消えた。色も消えた。一瞬で周りのすべてが色褪せた無音の世界の中、紗子ちゃんだけが鮮やかに、そこに浮かび上がって見えた。
息が止まった。目を逸らせなくなった。
ガラス玉のような大きな瞳も、すっと通った鼻筋も、透き通るように白い肌も。
すべてが美しく、完璧だった。ひとじゃなくて地上に舞い降りた天使なんじゃないかと、バカみたいなことを本気で思ったぐらいに。
「……絵、描くんですか?」
出会ったとき、紗子ちゃんはキャンバスと鉛筆を持って、中庭のベンチに座っていた。彼女の隣にはもうひとり男子生徒も座っていたけれど、そのときのわたしの目には紗子ちゃんしか映っていなかった。
本当に、紗子ちゃんしか。
「うん、そう」
恍惚としながら訊ねたわたしに、彼女は朗らかな笑顔で頷いて。
「美術部なんだ、私」
彼女のその言葉を聞いた瞬間、わたしは美術部への入部を決めた。
それまで絵なんて美術の授業以外で描いたこともなかったのに。わたしはその日のうちに入部希望を書いて、翌日には提出した。一秒だって迷うことなく。
紗子ちゃんと友だちになりたいだとか、そんなおこがましいことを考えたわけではなかった。なれるわけがないということも、出会った瞬間に察していたから。
地味で平凡でなんの取り柄もなくて、おまけにクラスでは嫌われ者。
そんなわたしが、美しい彼女の隣に立っていいはずがない。
わかっていた。だからただ、放課後だけでも彼女と同じ空間で過ごしたかった。美術室のすみっこから、キャンバスに向かう紗子ちゃんの横顔を遠目に眺めたかった。わたしが美術部に入った動機なんてただそれだけで、それだけで、よかったのに。
「小春、そんな端っこで描いてないでこっちおいでよ。ね、いっしょにおしゃべりしながら描こ?」
わたしが美術部の活動に参加した初日。キャンバスの前に座った紗子ちゃんは、そう言ってわたしを手招きした。まるで友だちに向けるみたいな、明るい笑顔で。
「一年生、私と小春しかいないんだから。隣で描こうよ。ね?」
思いがけない誘いに面食らいながらも、呼ばれたわたしの身体は勝手に動いていた。花に群がる蝶みたいに、ふらふらと彼女のほうへ。
「私ね、小春が美術部に入ってくれてほんとにうれしいんだ」
そうして言われるがまま彼女の隣に座れば、紗子ちゃんはわたしのほうへ顔を向けて、
「今まで同級生いなくて寂しかったから。これからはふたりだけの一年生部員として、仲良くしてね。小春」
そう言ってやわらかく笑う彼女に、わたしは、どこまで美しいひとなんだろう、と半ば呆然としていた。
ひと目惚れだったから、正直、わたしは紗子ちゃんの内面なんてどうでもよかった。
もし彼女がおそろしく冷酷非道だったり、あるいはひとの心がないサイコパスだったりしても。わたしの彼女に対する気持ちは、きっとなにひとつ変わらなかったと思う。むしろ彼女なら、そんな凶悪な性格も、美しさを引き立てる魅力のひとつになったような気すらする。
「ねえ、小春になにしてるの? やめなよ」
なのに紗子ちゃんは、内面まで完璧だった。
わたしなんかと友だちになってくれただけではなく、わたしがクラスメイトにいじめられているのを見つけたら、飛んできて助けてもくれた。水をかけられたわたしの髪をハンカチで拭きながら、「小春いつもあんなことされてたの? ごめんね、今まで気づかなくて」と泣きそうな顔で謝ってくれた。
紗子ちゃんが謝るようなことなんて、なにひとつないのに。
「これからなにか困ったことがあったら、私に言ってね。約束だよ、小春」
そう言ってわたしの手をぎゅっと握った紗子ちゃんは、それから部活中だけでなく、学校にいるあいだずっと、わたしといっしょにいてくれるようになった。
家が近いというわけではなかったのに、毎朝わたしの家へ迎えにきてまで、いっしょに登下校もしてくれるようになった。
紗子ちゃんがわたしの味方についたからといって、わたしへの嫌がらせが止むことはなかった。それどころか、しばらくするといじめっ子たちは紗子ちゃんにまで攻撃対象を広げた。無視をするだとか持ち物を隠すだとか。わたしにしてきたのと同じような嫌がらせを、紗子ちゃんにも始めた。
「私が小春といっしょにいたいから、いっしょにいるだけだよ」
それでもわたしの傍にいてくれる彼女に、申し訳なくなってわたしが謝るたび、紗子ちゃんはあっけらかんとした笑顔で言ってくれた。
「それに私、こういうのぜんぜん平気だし。なんにも気にすることないよ、小春」
ぜんぶ、彼女の優しさなのはわかっていた。
それでも言葉どおり、紗子ちゃんはなにをされてもけろっとしていた。ただやられるだけではなく、きっちり反撃の手を考えてもいた。
嫌がらせを受けるたび、彼女はスマホでその証拠を記録していた。そして後日、それを持って学校にいじめの報告をした。証拠がそろっていたためか、学校側の対応は早かった。加害者は処罰を受け、嫌がらせはぱたりと止んだ。加害者が同じだったので、ついでにわたしへの嫌がらせも。
「私のお父さん、花井殖産の社長なんだよね」
そのスピード感にわたしが驚いていたら、紗子ちゃんはなんだか誇らしげな表情で教えてくれた。花井殖産というのは、この町の住民なら誰もが知っているような大きな食品会社で、
「市議とも校長先生とも仲良しだし、いろんなコネもあるし。それでお父さんがいろいろ頑張ってくれたのかもね。かわいい娘のために」
紗子ちゃんがかなりのお嬢さまだということを、わたしはそのときはじめて知った。娘のためにそうして即動いてくれるような、素敵なお父さんがいることも。
どこまで完璧なんだろう。
仰ぎ見るように彼女の笑顔を見つめながら、何度そう思わされたかわからない。
容姿だけでなく、内面もなにもかも。彼女といっしょに過ごす中で知っていく、彼女のひとつひとつが。すべて鮮烈で美しく、完璧だった。
好きだとか尊敬だとか、そんな簡単な言葉では表せなかった。わたしにとって紗子ちゃんは、神様だった。絶対的な正しさだった。
紗子ちゃんが死ねと言うなら死んでもいいと、本気で思うぐらいに。
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紗子ちゃんは、わたしの神様だった。
紗子ちゃんに出会ったあの日のことは、きっと一生忘れられない。
中学一年生の春だった。
目が合った瞬間、世界から音が消えた。色も消えた。一瞬で周りのすべてが色褪せた無音の世界の中、紗子ちゃんだけが鮮やかに、そこに浮かび上がって見えた。
息が止まった。目を逸らせなくなった。
ガラス玉のような大きな瞳も、すっと通った鼻筋も、透き通るように白い肌も。
すべてが美しく、完璧だった。ひとじゃなくて地上に舞い降りた天使なんじゃないかと、バカみたいなことを本気で思ったぐらいに。
「……絵、描くんですか?」
出会ったとき、紗子ちゃんはキャンバスと鉛筆を持って、中庭のベンチに座っていた。彼女の隣にはもうひとり男子生徒も座っていたけれど、そのときのわたしの目には紗子ちゃんしか映っていなかった。
本当に、紗子ちゃんしか。
「うん、そう」
恍惚としながら訊ねたわたしに、彼女は朗らかな笑顔で頷いて。
「美術部なんだ、私」
彼女のその言葉を聞いた瞬間、わたしは美術部への入部を決めた。
それまで絵なんて美術の授業以外で描いたこともなかったのに。わたしはその日のうちに入部希望を書いて、翌日には提出した。一秒だって迷うことなく。
紗子ちゃんと友だちになりたいだとか、そんなおこがましいことを考えたわけではなかった。なれるわけがないということも、出会った瞬間に察していたから。
地味で平凡でなんの取り柄もなくて、おまけにクラスでは嫌われ者。
そんなわたしが、美しい彼女の隣に立っていいはずがない。
わかっていた。だからただ、放課後だけでも彼女と同じ空間で過ごしたかった。美術室のすみっこから、キャンバスに向かう紗子ちゃんの横顔を遠目に眺めたかった。わたしが美術部に入った動機なんてただそれだけで、それだけで、よかったのに。
「小春、そんな端っこで描いてないでこっちおいでよ。ね、いっしょにおしゃべりしながら描こ?」
わたしが美術部の活動に参加した初日。キャンバスの前に座った紗子ちゃんは、そう言ってわたしを手招きした。まるで友だちに向けるみたいな、明るい笑顔で。
「一年生、私と小春しかいないんだから。隣で描こうよ。ね?」
思いがけない誘いに面食らいながらも、呼ばれたわたしの身体は勝手に動いていた。花に群がる蝶みたいに、ふらふらと彼女のほうへ。
「私ね、小春が美術部に入ってくれてほんとにうれしいんだ」
そうして言われるがまま彼女の隣に座れば、紗子ちゃんはわたしのほうへ顔を向けて、
「今まで同級生いなくて寂しかったから。これからはふたりだけの一年生部員として、仲良くしてね。小春」
そう言ってやわらかく笑う彼女に、わたしは、どこまで美しいひとなんだろう、と半ば呆然としていた。
ひと目惚れだったから、正直、わたしは紗子ちゃんの内面なんてどうでもよかった。
もし彼女がおそろしく冷酷非道だったり、あるいはひとの心がないサイコパスだったりしても。わたしの彼女に対する気持ちは、きっとなにひとつ変わらなかったと思う。むしろ彼女なら、そんな凶悪な性格も、美しさを引き立てる魅力のひとつになったような気すらする。
「ねえ、小春になにしてるの? やめなよ」
なのに紗子ちゃんは、内面まで完璧だった。
わたしなんかと友だちになってくれただけではなく、わたしがクラスメイトにいじめられているのを見つけたら、飛んできて助けてもくれた。水をかけられたわたしの髪をハンカチで拭きながら、「小春いつもあんなことされてたの? ごめんね、今まで気づかなくて」と泣きそうな顔で謝ってくれた。
紗子ちゃんが謝るようなことなんて、なにひとつないのに。
「これからなにか困ったことがあったら、私に言ってね。約束だよ、小春」
そう言ってわたしの手をぎゅっと握った紗子ちゃんは、それから部活中だけでなく、学校にいるあいだずっと、わたしといっしょにいてくれるようになった。
家が近いというわけではなかったのに、毎朝わたしの家へ迎えにきてまで、いっしょに登下校もしてくれるようになった。
紗子ちゃんがわたしの味方についたからといって、わたしへの嫌がらせが止むことはなかった。それどころか、しばらくするといじめっ子たちは紗子ちゃんにまで攻撃対象を広げた。無視をするだとか持ち物を隠すだとか。わたしにしてきたのと同じような嫌がらせを、紗子ちゃんにも始めた。
「私が小春といっしょにいたいから、いっしょにいるだけだよ」
それでもわたしの傍にいてくれる彼女に、申し訳なくなってわたしが謝るたび、紗子ちゃんはあっけらかんとした笑顔で言ってくれた。
「それに私、こういうのぜんぜん平気だし。なんにも気にすることないよ、小春」
ぜんぶ、彼女の優しさなのはわかっていた。
それでも言葉どおり、紗子ちゃんはなにをされてもけろっとしていた。ただやられるだけではなく、きっちり反撃の手を考えてもいた。
嫌がらせを受けるたび、彼女はスマホでその証拠を記録していた。そして後日、それを持って学校にいじめの報告をした。証拠がそろっていたためか、学校側の対応は早かった。加害者は処罰を受け、嫌がらせはぱたりと止んだ。加害者が同じだったので、ついでにわたしへの嫌がらせも。
「私のお父さん、花井殖産の社長なんだよね」
そのスピード感にわたしが驚いていたら、紗子ちゃんはなんだか誇らしげな表情で教えてくれた。花井殖産というのは、この町の住民なら誰もが知っているような大きな食品会社で、
「市議とも校長先生とも仲良しだし、いろんなコネもあるし。それでお父さんがいろいろ頑張ってくれたのかもね。かわいい娘のために」
紗子ちゃんがかなりのお嬢さまだということを、わたしはそのときはじめて知った。娘のためにそうして即動いてくれるような、素敵なお父さんがいることも。
どこまで完璧なんだろう。
仰ぎ見るように彼女の笑顔を見つめながら、何度そう思わされたかわからない。
容姿だけでなく、内面もなにもかも。彼女といっしょに過ごす中で知っていく、彼女のひとつひとつが。すべて鮮烈で美しく、完璧だった。
好きだとか尊敬だとか、そんな簡単な言葉では表せなかった。わたしにとって紗子ちゃんは、神様だった。絶対的な正しさだった。
紗子ちゃんが死ねと言うなら死んでもいいと、本気で思うぐらいに。
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